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真和志間切番所跡、ハンタガー、メーミチー、クシミチー、識名馬場跡

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 那覇市上間、「那覇上間郵便局」の駐車場入口左手に、「真和志間切番所跡」の説明板があります。ここに、琉球王国時代、12ヵ村を管轄する間切番所があり、村々の耕作状況や年貢収納などの監督・指導を行っていました。

01-0507 真和志間切番所跡

02-0507 真和志間切番所跡

03-0507 真和志間切番所跡

04-0507 那覇上間郵便局駐車場

05-0507 真和志間切番所跡

06-0507 真和志間切番所跡

07-0507 真和志間切番所跡

08-0507 真和志間切番所跡

09-0507 真和志間切番所跡

「真和志間切番所跡(マワシマギリバンジョアト)那覇市上間1ー7…琉球王国時代から1907年(明治40)にかけての行政単位である真和志間切の行政を管轄した番所(役場)跡。南風原(はえばる)・西原(にしはら)間切とともに首里王府の直轄領であった真和志間切は、当所那覇なども含む広大な間切であったが、那覇・久米村(くめむら)の独立、小禄(おろく)間切の分離設置などにより、王国時代は天久・識名・国場など12ヵ村(むら)をもって構成された。 間切番所は、上間(うえま)村に置かれ、地頭代(ジトゥデー)以下の間切役人が、村々の耕作状況や年貢収納などの監督・指導を行った。 1879年(明治12)の沖縄県設置後、1899年(明治32)の沖縄県間切吏員規定により番所は役場、間切役人は間切長・書記などと改称され、さらに1908年(明治41)の沖縄県及び島嶼町村制(おきなわけんおよびとうしょちょうそんせい)により、間切は町村となり、真和志間切は真和志村となった。 真和志間切番所は、その後も間切役場・村役場庁舎として使用されていたが、1926年(大正15)国場へ移転(現真和志支所敷地)、1957年(昭和32)那覇市との合併で那覇市真和志支所庁舎となった。 設置 2002年3月 那覇市市民文化部歴史資料室」

10-0507 那覇上間郵便局

11-0507 那覇上間郵便局

 繁多川地区は、琉球王国時代、金城橋から識名へ向かう道(真玉道)の途中でした。

参照(真珠道を歩く(2)…金城橋から識名へ! - 結〜つなぐ、ひらく、つむぐ〜 http://blog.goo.ne.jp/nrai5029knai/e/1e87c546af27a78b3e2e0f8357f51a89

12-0507 ハンタガー

13-0507 ハンタガー

14-0507 ハンタガー

「繁多川字指定文化財 ハンタガー(繁多川)…ハンタガーとは元々、ハンタ(端)にある井泉(せいせん)を意味したとされ、この呼び名に「繁多川」の字が当てられ地域の名称になったともいわれる。ハンタガーは、シチナンダヌカー(識名平の井泉)とも呼ばれ、地域の人々の飲料水や生活用水に利用されてきた。昔は旧暦の6月26日になると、メーミチー・素意の3つの井泉(せいせん)とも「カーヒラシー」(井泉浚い)が行われた。中の水を汲みだすと、エビや魚が取れ、子どもたちの楽しみの一つだったという。…平成20年3月31日 繁多川自治会」

15-0507 ハンタガー

16-0507 メーミチー

17-0507 メーミチー

18-0507 メーミチー

「繁多川字指定文化財 メーミチー(前道)…メーミチーは、尚真王(1477〜1526年在位)代に築かれた真珠道(まだまみち、石畳道)の一部であった。北はシチナンダビラ(識名坂)を経て首里へと続いている。主要な井泉(せいせん)がこの道沿いに多いこともあって、昔から繁多川の地域住民の生活に密着した道であるとともに、他地域の人々の往来も多い道であった。全長250m、道幅平均約3.3m 平成20年3月31日 繁多川自治会」

19-0507 クシミチー

20-0507 クシミチー

「繁多川字指定文化財 クシミチー(後道)…クシミチー(後道)は、メーミチー(前道)とともに、昔から繁多川の中心的な道であった。北はシチナンダビラ(識名坂)を登り切ったところでメーミチと分岐し、南は識名園方面へと到る。途中、ウマイーヌチビ(馬場の尾)と呼ばれる地点で、昔は尚家の馬場であったという道が分岐している。全長400m、道幅平均約4m 平成21年11月17日 繁多川自治会」

21-0507 さわやか通り

22-0507 識名馬場跡

23-0507 識名馬場跡

「繁多川字指定文化財 識名馬場跡(シチナウマイーあと)…王府時代(第二尚氏)、直轄(ちょっかつ)の三大馬場(ばば)の一つで最大の馬場であった。全長300メートルほどで幅は約30メートルあって、南北の両脇(りょうわき)は低い土手が積まれ、樹齢300年ほどの老松が、その土手に植えられていた。この尚家の馬場は、真喜屋親雲上(マージャペーチン)だけは許可なく使用することが出来た。昭和15年ごろまで、ウマヌイマージュ(馬乗真喜屋)の子孫(しそん)が近くに住んでいた。沖縄戦前の食糧増産奨励どきにこの馬場は開墾(かいこん)され、今や見る影もない。道幅平均約4m 平成21年11月17日 繁多川自治会」


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