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「宜野湾宿道」と「近隣の間切、中城宿道」を結ぶ要衝の地…「野嵩石畳道」

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 県道29号を北中城村新垣、登又方面から北上すると、左手に「のぼり金物センター」が見える交差点の右側に、「野嵩石畳道」の標識があり、前から気になっていました。標識に沿ってしばらく行くと、安谷屋交差点手前、左手に日石販売研修センター、右手に平和アパート?が見える場所のアパートの側に、「野嵩石畳道」の標識があるのに気付きました。アパートには、「野嵩三丁目34」の表示があります。そこから、「沖縄自動車道」側に下り、やっと、「野嵩の石畳道」にたどり着きました。

 野嵩の石畳道は、「宜野湾宿道とそれから分岐する勝連・具志川間切や中城間切の宿道を結ぶ要衝の地」で、『袖離れ坂』と呼ばれ、「中城一帯の田園風景が一望に見渡せる格好の名勝ともなっている」と、説明板に記されていました。

 その先の道路には「普天間川」に架かる「我謝橋」があり、そこから、「沖縄自動車道」の下をくぐり、信号を左折して坂を上がると、北中城村荻道の「沖縄三育小学校」方面に接続します。

 「沖縄自動車道」方面から「我謝橋」を渡り、「野嵩石畳道」を上り、「県道29号」に戻ると、近隣の集落を一望することができました。

01-1218 日石販売研修センター

02-1218 平和アパート?

03-1218 野嵩石畳道の標識

04-1218 野嵩石畳道、下る

05-1218 野嵩石畳道、下る

06-1218 野嵩石畳道

07-1218 野嵩石畳道

08-1218 野嵩石畳道

「野嵩石畳道、宜野湾市指定史跡、平成元年三月三十一日指定…野嵩石畳道は、近世琉球王府時代に整備された首里と間切(現在の市町村に相当)を結ぶ公道、いわゆる『宿道』に築造されたものである。それはまた、当時の主要街道である『中頭方東海道』のひとつである宜野湾宿道とそれから分岐する勝連・具志川間切や中城間切の宿道を結ぶ要衝の地でもある。石畳築造の年代は不明であるが、少なくとも宿道としての整備は『薩摩藩調整図』などの古地図から考えると、18世紀後半の頃であろう。 もともと、この石畳道は、野嵩区の東はずれから普天間川に架かる我謝橋に至る比高一二〇メートル余の長さであった。 古老によると、この石畳道は今から五百年程前間護佐丸の時代に築かれたとも伝える。かつて、『護佐丸・阿麻和利の乱(西暦一四九八年)の際に、阿麻和利の軍勢により敗れた護佐丸の妻子が、その石畳道を登って逃げ切ろうとするとき、追っ手に射かけられた弓矢により彼女の袖が引き離されたことをもじって、『袖離れ坂(スディバナビラ)』と呼ばれている。また、『挽物細工』の語りにも、この急坂に立ち周辺を見下ろす歌詞があり、中城一帯の田園風景が一望に見渡せる格好の名勝ともなっている。 平成元年三月 宜野湾市教育委員会」

09-1218 沖縄自動車道

10-1218 我謝橋

11-1218 普天間川

12-1218 野嵩石畳道

13-1218 野嵩石畳道、上る

14-1218 野嵩石畳道、上る

15-1218 野嵩石畳道

16-1218 野嵩石畳道、上る

17-1218 野嵩石畳道、見下ろす

18-1218 野嵩石畳道、見下ろす

19-1218 野嵩石畳道、見下ろす


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