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米軍ジェット機墜落事故から59年…うるま市石川宮森小学校で慰霊祭

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 米軍ジェット機墜落事故から59年を迎えた6月30日、うるま市石川宮森小学校で、慰霊祭が行われました。

「傷はいまだに癒えない」 米軍機墜落、18人犠牲の悲劇から59年 沖縄・宮森小で慰霊祭(http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/275569
 1959年に米軍戦闘機が旧石川市の住宅地に墜落し、近隣の宮森小学校に激突した事故から59年を迎えた30日午前、同校で追悼慰霊祭(主催=NPO石川・宮森630会、遺族会)が開かれた。遺族らが参列し、犠牲となった児童と住民18人の冥福と平和を祈った。
 29日には児童会主催の慰霊祭があり、犠牲者の名前が刻まれた「仲よし地蔵」に全校児童が折った千羽鶴と花が供えられた。
 墜落の惨劇を語り継ぐ活動に取り組む石川・宮森630会の会長で、めいの徳子さん(当時2年)を亡くした久高政治さん(70)は「ことしで59年という長い年月がたったが、遺族や事故で負傷したがたがたの傷はいまだに癒えない。二度と起きないようにしないといけない」と決意した。

奪われた幼い命 ―宮森小 米軍ジェット機墜落事故― - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース(https://ryukyushimpo.jp/special/miyamori630.html
 1959年6月30日、うるま市(旧石川市)の宮森小学校に米軍ジェット機が墜落した。児童12人を含む18人が死亡、210人が重軽傷を負った。沖縄の戦後最大の米軍機事故だ。

今も変わらない沖縄の空 沖縄・戦後最大の米軍機事故 宮森小ジェット機墜落事故
 沖縄県宜野湾市の普天間第二小学校。学校上空付近を米軍機が通過するたびに校庭にいる児童らが避難する―という生活が続いている。その回数は2018年2月から6月8日までで合計527回に上っている。
 隣接する普天間飛行場所属の米軍ヘリCH53が重さ7キロの窓枠を校庭に落下させたのが2017年12月13日。その日以来、校庭は子どもたちが自由に遊んだり、学んだりできる場所ではなくなった。
 沖縄では小学校に戦闘機が墜落し、子どもたちを含む18人が犠牲になるという痛ましい事故が過去に起きている。戦後の沖縄で最大の米軍機事故と言われる「宮森小米軍ジェット機墜落事故」だ。
 1959年6月30日午前10時40分ごろ、石川市(当時)上空を飛行中だった米軍嘉手納基地所属のF100D戦闘機が突然火を噴いて操縦不能となり、同市の宮森小学校近くの住宅地に墜落した。衝撃によって跳ね上がった機体は宮森小学校に突っ込み、6年生のコンクリート校舎に激突した。学校に突っ込む機体から漏れ出した大量の燃料に火が付き、住宅と2年生のトタン屋根校舎の3教室などを焼いた。
  当時はミルク給食の時間帯でほとんどの児童が校内におり、18人が死亡(児童12人=うち1人は後遺症で死亡、付近住民ら6人)、210人が重軽傷を負う大惨事となった。
 戦闘機のパイロットは空中で脱出。パラシュートを用いて着地し、けがはなかった。事故直後、米軍は原因について「故障による不可抗力」としていたが、事故報告書によると整備上の人為ミスが複合的に重なっていたことが判明した。
 事故は生き延びた児童にも影を落とした。けがをした児童の中には両手がちぎれる夢を見て夜中にうなされたり、他の子からいじめられたりした子もいた。また不眠や不登校、大きな音を怖がるなどの症状が出た児童もいた。
 ・教室の中が真っ赤になった(金城清正さん)
 ・ブランコごと吹き飛ばされた弟(上間義盛さん)
 ・全身にやけどをした少女(伊波則雄さん)

 宮森小学校米軍機墜落事故 - Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%A3%AE%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E6%A9%9F%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85
 事故の概要
 1959年6月30日午前10時40分頃に、アメリカ空軍のノースアメリカンF100Dジェット戦闘機が操縦不能となり、パイロットのジョンシュミット大尉は空中で脱出、機体は民家35棟をなぎ倒した後、石川市にある宮森小学校(現うるま市立宮森小学校)のトタン屋根校舎に衝突、さらに隣のコンクリート校舎を直撃し、炎上した。
 事故直後から軍警消の各部隊が事故現場に急行し救助活動に当たった。被害者の治療のために沖縄本島中部在住医師のほとんどが駆けつけた。
 事故による火災は1時間後に鎮火したが、死者17人(小学生11人、一般住民6人)、重軽傷者210人、校舎3棟を始め民家27棟、公民館1棟が全焼、校舎2棟と民家8棟が半焼する大惨事となった。また、やけどによる後遺症で事故の17年後に1人が23歳で亡くなっており、死者の合計は18人となる(慰霊碑には2010年になって名前が追加された)。
 事故当時、学校には児童・教職員ら約1000人がいた。当時は2時間目終了後のミルク給食の時間で、ほぼ全児童が校舎内にいた。特に直撃を受けた2年生の教室の被害が最も大きく、火だるまになった子供たちは水飲み場まで走り、そのまま次々と息絶えたと伝えられている。


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