綾門大道周辺の旧跡(2)は、「安国寺」「旧中城御殿跡」「大美御殿跡」「玉陵」「旧天界寺の井戸」「御細工所跡」「守礼門」です。
安国寺
首里城周辺の建造物は、ほとんどが沖縄戦で焼失しました。「安国寺」も焼失しましたが、戦後再建されました。
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「安国寺(アンコクジ)…臨済宗の寺。山号は太平山。尚泰久(しょうたいきゅう)王が景泰(けいたい)年間(1450〜1456年)に、歴代国王の冥福(めいふく)と国王の健康祈願のため創建。開祖は、中国浙江省(せっこうしょう)出身の熙山周雍禅師(きざんしゅうようぜんじ)。のち天界寺の末寺となる。一説には、室町時代の日本全国に建てられた安国寺(一国一寺の制)に準じたものという。1674年現在地に移転。沖縄戦で消失したが、戦後再建された。」
ただいま発掘調査中…旧中城御殿跡、首里高校
「旧中城御殿跡」「大美御殿跡」は「沖縄県立首里高等学校」の校地となっています。同校グラウンドでは、校舎建て替え工事を前に、「発掘調査」がなされ、大量の遺物が確認されています。
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「ただいま発掘調査中…首里高校では古くなった校舎の建て替え工事が計画されています。校舎の基礎工事のためにグラウンドを掘ったところ、高さ1.5〜2mの石積みや大量の茶碗や壺、瓦など遺物が確認されました。琉球王朝時代の書物や地図などには琉球王国の世継(よつ)ぎ(中山王子)が住んでいた『中城御殿(なかぐすくうどぅん)』がこの場所に建っていたことが示されています。このことから、『首里高校内中城御殿跡(しゅりこうこうないなかぐすくうどぅんあと)』と名付け、平成25(2013)年から沖縄県立埋蔵文化センターが本格的な発掘調査を行っています。」
「首里高校内中城御殿…琉球王国の世子(せいし)(王位継承者)が住む屋敷を中城御殿(なかぐすくうどぅん)と言います。名前の由来は、世子(せいし)が中城間切(今の中城村、北中城村、うるま市)を領地として与えられ、中城王子(なかぐすくおうじ)と呼ばれていたためです。『中城御殿(なかぐすくうどぅん)』は尚豊王の時代(1621年〜1640年)に、世継(よつ)ぎである佐敷王子尚文のために、現首里高校の敷地内に創建されたといわれています。明治3(1870年)年『中城御殿(なかぐすくうどぅん)』は龍潭の向かい(旧県立博物館があった場所)新しく造営されることになりました。」
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「旧中城御殿跡(キュウナカグスクウドゥンアト)…琉球国王世子の旧殿宅跡。尚豊王代(1621〜40年)に創建され、二百数十年、世子殿の役割を担った。1875年に世子殿が龍潭の北側(現県立博物館敷地跡)に移転すると、敷地は「下の薬園」となった。1879年の廃藩置県後、1891年に沖縄尋常中学校(後の県立第一中学校)が置かれ、沖縄戦後、首里高校の校地となった。」
大美御殿跡
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「大美御殿跡(ウフミウドゥンアト)…もとは尚清(しょうせい)王の世子時代の別邸。1547年に増築し、首里城内の女性の休養・産所、また冠婚葬祭(かんこんそうさい)の礼式を行う場所となった。綾門大道に接した望楼では、大道で催される綱引きや馬勝負などの見物、また、元旦には、路上の士族から楼上の世子・王子衆へ名刺が進上された。1854年来琉のアメリカのペリー提督一行が首里城を訪問した際、同殿で接待が行われた。廃藩置県後、建物の一部に首里役所が置かれたが(後に移転)、明治後期に敷地・建物ともに払い下げられ、1925年に沖縄県立第一中学校の運動場となった。沖縄戦後は、首里高校の校地として引き継がれている。」
玉陵
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「玉陵…第二尚王家歴代の陵墓であるこの玉陵は、首里城への要路綾門大道に臨み東は天界寺に隣接するなど重要な位置にあります。陵墓内は、琉球石灰岩の高い石垣によって囲まれ全ての庭には珊瑚砂利が敷きつめられています。東室、中室、西室の三基に分かれた墓堂は、自然の岸壁をうがち外部を切石積みの家型とした沖縄特有の形式をもつ陵墓といえます。中室は、洗骨までの間霊柩を安置するのに使用し(シルヒラシ)、東室には洗骨後の王及び王妃、西室にはそれ以外の家族の遺骨を安置したと伝えられています。また、前庭左側に西面して建つ「たまおどんのひのもん(尚真王25、大明弘治14年1501)には、陵墓にまつわる当時の事情が伝えられています。その他、墓頂にある雄雌の石獅子や墓室前の高欄などからも琉球文化の粋をしのぶことができます。 文化庁 沖縄県教委委員会」
旧天界寺の井戸
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「旧天界寺の井戸(きゅうてんかいじのいど)…那覇市指定文化財、史跡。天界寺は、尚泰久王の時代(1454〜60年)に建立された寺院です。このあたりの地盤は、琉球石灰岩の分厚い層が広がっているため、なかなか地下水を掘り当てることはできませんでした。『球陽』によれば、1697年に天界寺の僧侶であった了道が蔡応瑞(さいおうずい)(久米村の学者)に頼んで、場所を選び、井戸を掘ったところ、ようやく願いがかなって地下水を掘り当てることができたそうです。この井戸水は、水質も良く、日照りにもかれることがなかったため、寺院だけでなく、付近の住民にも利用されました。井戸の内部はほぼフラスコ状になっており、岩盤を垂直に掘り下げながら、下へ向かって幅を広げ、水面の付近ではほぼ球形になっています。井戸口に接して、滑車を下げるための柱の跡があり、左右の石垣の上には、屋根をかけるための角柱形の石が残されています。 那覇市教育委員会」
御細工所跡
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「御細工所跡(ウセークジョアト)…御細工所については、設置年も含め詳細は不明。御細工所跡の発掘調査から、1733年に設置され、国王の衣装・冠をはじめ、畳・かさ・提灯などの道具類、また駕籠・靴などを作る「小細工奉行所(こざいくぶぎょうしょ)」の前身と推測される。跡地は、廃藩置県の前にすでに「上の薬園(ウィーヌヤクエン)」となっていた。1900年首里尋常高等小学校女子部(後の首里第二尋常高等小学校)が移転。現在は市立城西小学校になっている。」
守礼門
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「守礼門(シュレイモン)…守礼門は王都第二の坊門で、綾門大道の東端に位置する。別名『上の綾門(ウィーヌアイジョー)』『上の鳥居(ウィーントゥイ)』。創建年は明らかでないが、尚清(しょうせい)王代(1527〜1555年)、すでに建立されていた中山門と同型同大の牌楼を造営したとされる。初め『待賢(たいけん)』『首里』の扁額がかけられ、『待賢門』『首里門』といわれたが、1663年以降、『守礼之邦(しゅれいのくに)』の扁額が常用されるようになり『守礼門』と称されるようになった。1933年国宝に指定されたが、沖縄戦により消失。琉球王国時代の象徴として、1959年にいち早く復元された。」