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城壁は語る…世界遺産「北山城跡」(2)!

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旧道

 「平郎門」から続く石階段の右手に、「旧道」があります。岩盤を利用した道幅を狭くし、大勢の敵兵が一気に入れないよう工夫された石敷きの小道です。

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「旧道(きゅうどう)…平郎門(へいろうもん)から直線的に伸びる石階段は、1960年代に整備された階段です。本来の登城道は、平郎門から場内へ向かって石階段の右手側にあります。1980年の発掘調査によって石敷(いしじ)きの小道が発見されています。旧道は、大きな岩盤の谷間を利用して、道幅(みちはば)を狭(せま)く造り、敵兵(てきへい)が攻め入っても大勢(おおぜい)の兵隊(へいたい)が上の郭まで一気に入れないように工夫(くふう)されたつくりになっています。」

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大庭

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「大庭(うーみやー)…政治・宗教儀式が行われたと考えられる場所で、首里城の御庭(うなー)と同様の機能を有していた郭と考えられています。七五三の階段を登ってきて大庭を取り囲むように、正面には正殿(主郭)、右側が南殿、北側の一段高いところに北殿跡があったと考えられます。北殿跡には、建物跡とみられる礎石が今も残っています。写真は旧歴八月のグスクウイミと呼ばれる年中祭祀で、今帰仁グスクの祭祀を司る今帰仁ノロによって、村の安全・子孫繁栄・世果報(ゆがふ)を祈願します。」

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「志慶真乙樽(しげまうとぅだる)の歌碑…今帰仁の城 しもなりの九年母(くにぶ) 志慶真乙 樽が ぬきゃいはきゃい 大意:今帰仁グスクの南にある志慶真ムラという集落に『乙樽』という美女がいました。黒髪が美しい乙女の噂は国中に広がり『今帰仁御神』と呼ばれ時の山北王も側室として仕えさせました。なに不自由なく暮らす幸福な毎日を過ごしましたが、高齢の王には長い間後継ぎが無く、王妃も乙樽も世継ぎが授かることばかりを祈っていました。やがて王妃が子を授かり、そのことを季節はずれの蜜柑(みかん)が実ったことに例え、子供のはしゃぐ声に満ちた平和な様子を謡っています。」

御内原

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「御内原(うーちばる)…北殿跡の北側にある一段高いところを御内原と呼んでいます。この場所は伝説では女官(にょかん)部屋があったと伝えられており、城内で最も重要な御嶽(うたき、イベ)があります。特に御内原の北端からの眺望は、城内で最も開けていて今帰仁(なきじん)城跡のほぼ全てを望むことが出来ます。また、国頭(くにがみ)の山並(やまな)みや離島の伊平屋(いへや)・伊是名(いぜな)島を眺めることも出来ます。特に晴れた日には、沖縄本島北端の辺戸岬(へどみさき)の先22km洋上(ようじょう)にある与論(よろん)島(鹿児島県大島郡)を見ることが出来ます。」

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ソイツギ

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「ソイツギ(城内下之御嶽)…今帰仁城跡には御嶽のイベ(最も聖なる場所)が2つあります。大庭(うーみゃ)の北西にあるソイツギは、『琉球国由来記』(1713年)に『城内下之嶽』、神名「ソイツギノイシズ御イベ」と記され、旧暦八月のグスクウイミという祭祀の時、今帰仁ノロが五穀豊穣等を祈願します。御内原にあるテンチジアマチジ(『城内上之御嶽』)や神アサギ跡と共に祭祀場として拝まれます。」

 

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テンチジアマチジ

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「テンチジアマチジ(城内上の御嶽)…御嶽とは、琉球固有の祭祀施設、琉球の信仰における聖域の総称で、神が存在、あるいは来訪する場所です。テンチジアマチジは御内原(うーちばる)の南東側、低い石垣で囲まれる御嶽です。沖縄の古謡『おもろさうし』では『今帰仁のカナヒヤブ』と謡われ、今帰仁グスクの守護神として崇められる最も神聖な場所です。俗にテンチジアマチジと呼ばれ、昔は御内原とこの地域は男子禁制で、城内の女官によって子孫繁栄、国家安泰、五穀豊穣を祈願したと伝えられています。旧暦七月のウブウイミ、八月のグスクウイミでは、今帰仁ノロによって祭祀が執り行われます。」

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版築

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「版築(はんちく)…土を敷いて突き固(かた)め、その上にまた土を敷き固める。それを何回も繰り返して、堅固な基盤を造成する土木技術のことを版築とよびます。版築は、古代中国の殷代(いんだい)(BC14〜12世紀)の頃に確立され、日本へは紀元4世紀頃に古墳(こふん)づくりの技術に伴って伝来し、のちに主として宗教建築の基礎工事や土塁(どるい)などに用いられるようになります。沖縄県では、ここ今帰仁城本丸の発掘調査で初めて発見されました。今帰仁城の本丸敷地は、もとは古生代石灰岩(こせいだいせっかいがん)でできた岩山の頂上部で、東西に傾斜した地形になっており、そのままでは建物が建つような平坦な面ではありませんでした。そこで、まず山頂部をある程度削って平らにし、つぎに東西の斜面部に土留めの石を積み上げ、最後に内側に版築をして、平場を造成しています。本丸の発掘調査で9枚の層が確認され、第8層(13世紀末頃)で丁寧な版築造成が見られます。第8層の厚さは20cm〜120cmあり、この層は1〜5cmの黄褐色や赤褐色の土層からなり、縞模様(しまもよう)になっています。縞模様の層を数えると、土を約30回も敷きならし突き固めていることがわかります。第8層のほか、第3層と第4層では、土と石を交互に敷きつめた平場造成がなされています。」

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山北今帰仁城監守来歴碑記

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「山北今帰仁城監守来歴碑記(さんほくなきじんじょうかんしゅらいれきひき)…今帰仁按司(あじ)十世宣謨(せんも)が1749年に首里王府から今帰仁城の永代管理と典礼を司ることを許されたことを記念し、故地を顕彰すべく建立しました。今帰仁監守は尚巴志(しょうはし)が1416年に山北王を滅ぼした5年後に第二子尚忠(しょうちゅう)を派遣に始まり、その後、尚真(しょうしん)王代に第三子尚韶威(しょうしょうい)を派遣し、以後、同家が代々世襲で現地の監守を勤めました。碑文の内容は、三山時代の業績から説き起こし、今帰仁按司が今帰仁城を立派に治めたことを記し、後世の子孫に伝えるための顕彰碑となっています。同碑文は保存状態も良く琉球王国時代の地方監守の歴史を知る上で貴重な資料です。」

志慶真門郭

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「志慶真門郭(シジマジョウ)…ここは俗に志慶真門と呼ばれている所で、城内で最も東に位置する郭です。志慶真門郭の発掘調査が昭和55年〜57年度に実施されました。発掘の結果、志慶真門郭と大庭(ウミャー)との通路石郭が確認されています。郭内の当初の地形はゆるやかな傾斜地で、宅地の造成工事により段差を設け、建物の建立がなされています。建物は約6m×6m或いは4m×5m程度の規模で中に炉跡があります。瓦が出土しないことから板葺きの掘立柱建物であったと考えられます。また、建物間を結ぶ石敷道や石段なども検出されました。それらの遺構は修景整備がなされています。出土品には、武具類・陶磁器・装飾品・子供用遊具などがあり、これらの出土遺物より「家族単位」の生活が営まれていたことが考えられます。石垣は地山を削り、自然の岩を利用して積み上げる工法がなされています。なお、郭の南側には志慶真門跡が明らかになっています。 昭和59年3月19日 今帰仁村教育委員会」

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