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薩摩藩在番奉行所跡、島尻郡役所跡、若狭町村学校所跡、若狭町大通り跡…旧那覇市の史跡・旧跡

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 旧那覇市の史跡・旧跡、「薩摩藩在番奉行所跡」「島尻郡役所跡」「若狭町村学校所跡」「若狭町大通り跡」「仲毛芝居跡」を訪ねました。

 那覇港フェリーターミナル近く、那覇那覇市西1丁目「琉球光和ビル」前右手に、「薩摩藩在番奉行所跡」があります。

01-0510 薩摩藩在番奉行所跡

02-0510 薩摩藩在番奉行所跡

03-0510 薩摩藩在番奉行所跡

「薩摩藩在番奉行所(さつまはんざいはんぶぎょうしょ)跡…在藩仮屋(ざいはんかいや)、大仮屋(ウフカイヤ)ともいう。1609年の島津侵入の後、薩摩藩が出先機関として1628年に設置した。以来1872年までの250年間、琉球支配の拠点となっていた。在藩奉行や附約(つけやく)など約250人が常勤し、薩琉間の公務の処理や貿易の管理にあたった。1872年の琉球藩設置後、外務省、ついで内務省出張所となり、1879年沖縄県設置(廃藩置県)で仮県庁、1881年から県庁となって1920年に泉崎(現在地)へ移転するまで県政の中心となっていた。 奉行所の前は「道(みち)ぬ美(チュ)らさや仮屋(カイヤ)ぬ前(メー)」と唄われ、那覇四町の(なはよまち)の大綱引もこの通りで行われた。掲げた「那覇綱引図」の中央が奉行所で、見物する役人が描かれている。 設置 1996年3月 那覇市文化局歴史資料室」

 那覇市松山、「沖縄銀行若松支店」前に、「島尻郡役所跡」があります。

04-0510 島尻郡役所跡

05-0510 島尻郡役所跡

06-0510 島尻郡役所跡

07-0510 島尻郡役所跡

「島尻郡役所跡(シマジリグンヤクショアト)…1896年(明治29)に設置された島尻郡の行政を管轄した役所跡。1879年(明治12)の沖縄県設置の翌年、島尻地方15間切(まぎり)の行政事務を監督・指導するため東風平(こちんだ)間切番所内に島尻役所が置かれた。 島尻役所は1886年(明治19)に那覇(なは)区東町(ひがしまち)の那覇区役所内に併設されて後、1896年(明治29)に施行された2区5郡制(那覇・首里区、島尻・中頭・国頭・宮古・八重山郡)により島尻郡役所と改称し、15間切の他に久米島(くめじま)、伊平屋(いへや)諸島など本島周辺離島わもその管轄とした。 1912年(明治45)に郡役所を若狭町(わかさまち、現那覇市若狭)に新築・移転。行政事務や郡道工事等の他に、島尻郡内で徴兵された青年達の合同結婚式を行うなど、那覇での拠点となった。 1926年(大正15)6月郡制廃止に伴い、島尻郡役所は廃され、庁舎も解体・撤去さ島尻・中頭・国頭・宮古・八重山郡れた。 1934年(昭和9)島尻郡役所跡に開洋会館(かいようかいかん)が建てられ、海外移民の渡航相談や宿泊所となっていたが、1944年(昭和19)の10・10空襲で消失した。 設置 2002年4月」

08-0510 島尻郡役所跡

 那覇市松山、「まつやま保育園」前に、「若狭町村学校所跡」があります。

09-0510 若狭町村学校所跡

10-0510 若狭町村学校所跡

11-0510 若狭町村学校所跡

「若狭町村学校所跡(ワカサマチムラガッコウジョアト) 那覇市松山1-30-14…首里王府時代の若狭町村の学校所および役所跡。創建年は不明だが、1830〜40年頃とされる。 村学校所は、士族子弟の初〜中級の教育機関で、首里・那覇等の各村ごとに建てられた。総数は首里14、那覇6、泊1の計21校となっていた。士族の子弟は7〜8才で入学し、14〜15才の間、勉強した。教科は、三字経(さんじきょう)の読み書きから、二十四孝(にじゅうしこう)、小学(しょうがく)、四書(ししょ)へと進んだ。廃藩時の同校には教師(講談師匠、こうだんししょう)1人、生徒82名がいた。各村学校は役所も兼ねており、中取(なかどり)1人、筆者(ひっしゃ)2人がいた。 王府末期、異国船渡来に際しては、異国人に対し、泊村や若狭町村の学校所が、泊公館、那覇公館として対応窓口となった。特に那覇公館(若狭町村学校所)は、ペリー等と王府高官との諸交渉が行われた現場で、琉米条約(りゅうべいじょうやく)の他、琉仏(りゅうふつ)・琉蘭(りゅうらん)条約が締結された。 なお、現在同地に祀られている夷堂(えびすどう)は、戦後の区画整理で近くから移したものである。 設置 1997年5月」

12-0510 若狭町村学校所跡夷堂

13-0510 顕彰

「顕彰…この敷地はかつて琉球王国時代、学校と役所があり若狭町村(まちむら)繁栄の場となった地であります。 昭和42年7月27日、旧若狭町民の皆様のご芳志により、保育所建設のため本市に寄贈されました。」

14-0510 まつやま保育園

15-0510 まつやま保育園

16-0510 まつやま保育園

17-0510 若狭町大通り跡

18-0510 若狭町大通り跡

「若狭町大通り跡(ワカサマチオオドオリアト)…この石垣は、沖縄戦(1944-45年)までこの地にあった那覇地方裁判所の石垣と同じ位置にあり、この前面に戦前の若狭町大通りがありました。 戦後、区画整理により大通りの位置は変わりましたが、その後も石垣の位置は変わらず、裁判所跡地の久米郵便局でも利用されていたため、松山公園の整備にあたり、沖縄戦により壊滅した那覇市の旧地形をしのぶ貴重な資料として、現地に一部を復元しました。 平成23年2月 那覇市」

 那覇市東町、「西武門病院前」に、「仲毛芝居跡」があります。「泉崎」交差点より歩いて1分ほどの、国道58号線に面した所です。

19-0510 仲毛芝居跡

20-0510 仲毛芝居跡

21-0510 仲毛芝居跡

22-0510 仲毛芝居跡

「仲毛芝居跡(ナカモーシバイアト)…沖縄で最初の常設芝居小屋跡。仲毛演芸場(ナカモーエンジバ)ともいう。 「仲毛」とは、この一帯に広がっていた久茂地川(くもじがわ)の中州のこと。1884年(明治17)頃、第百五十二国立銀行副頭取の松田通信(まつだみちのぶ)氏によって埋め立てられ、埋立地の地名ともなった。 沖縄の古典芸能を代表する「組踊(くみおどり)」(冠船踊、かんせんおどり)は、かつては首里(しゅり)士族の子弟によって踊られ、中国からの冊封使節(さっぽうしせつ)歓待の宴に供された。1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)により、職を失った冠船踊経験者の一部は、那覇(なは)に出て、思案橋(しあんばし)のたもとや久米孔子廟(くめこうしびょう)前といった空地に、叺(なます、藁筵、わらむしろ)で囲っただけの小屋で踊りを見せ(カマジー芝居)、木戸賃を取って生活の糧にしたという。仲毛芝居も当初は、カマジー小屋で、三間四方の板敷き舞台があったという。 最後の冠船踊奉行を務めた小禄按司朝睦(おろくあじちょうぼく)の子朝亮(ちょうりょう)は、カマジー小屋や冠船踊出演者の現状を憂い、1891年(明治24)頃、県の認可を取り、仲毛芝居小屋を瓦葺(ぶ)きの本建築に改め、仲毛演芸場とした。敷地は200坪余りで、落成式には組踊が披露され、喝采(かっさい)を博したという。また、踊りだけではなく、狂言(チョウギン)や歌劇なども創作され、一般民衆の人気を得た。 仲毛芝居が本建築になった頃、辻遊郭(つじゆうかく)の端道(はたみち)に本演芸場(ふんえんじば、後の『下の芝居(シチャヌシバイ)』、沖縄座、おきなわざ)、新演芸場(シンエンジバ、壬申座、ジンシンザ、後の『上の芝居(ウィーヌシバイ)』、球陽座、きゅうようざ)、さらに中座(なかざ)ができ、芝居興行は辻一帯が中心となった。仲毛演芸場は空きが続き、明治30年代には廃止されたという。 仲毛一帯はその後、久茂地川の水運を利用した材木店が建ち並んだが、沖縄戦後の区画整理により、道路・商業地となった。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

23-0510 仲毛芝居跡


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