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具志川間切番所跡(うるま市具志川)、田場ガー(うるま市田場)、太田坂(うるま市大田)

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 うるま市具志川に、「具志川間切番所跡」の説明板が設置されています。琉球王府時代、具志川間切に設置されていた(現在の市役所に相当する)施設跡です。

01-0510 具志川間切番所跡

02-0510 具志川間切番所跡

03-0510 具志川間切番所跡

04-0510 具志川間切番所跡

05-0510 具志川間切番所跡

06-0510 具志川間切番所跡

07-0510 具志川間切番所跡

「具志川間切番所跡(グシチャーマジリバンジュあと)…間切番所(まぎりばんじょ)とは、琉球王府時代(りゅうきゅうおうふじだい)、各間切(かくまぎり、現在の市町村にあたる)に設置(せっち)されていた施設(しせつ)で、現在(げんざい)の市役所(しやくしょ)に相当(そうとう)します。地頭代(ジトゥデー、現在の市長)、総耕作当(コウサクアタイ)、夫地頭(ブジトゥ)、首里大屋子(シュイウフヤク)などの間切役人(まぎりやくにん)が仕事(しごと)をしていました。また、間切(まぎり)が疲弊(ひへい)したとき、その立(た)て直(なお)しのため、王府(おうふ)より臨時(りんじ)に派遣(はけん)される検者(けんじゃ)や下知役(げちやく)の詰所(つめしょ)も番所敷地内(ばんじょしきちない)に設置(せっち)されていたようです。番所(ばんじょ)の中(なか)では、税金(ぜいきん)を徴収(ちょうしゅう)したり、王府(おうふ)からの伝達(でんたつ)を住民(じゅうみん)に伝(つた)えること等(など)の他(ほか)、間切(まぎり)と間切(まぎり)の宿次(しゅくつぎ、文書などの伝達)も行(おこな)っていました。 具志川間切番所(ぐしかわまぎりばんじょ)の規模(きぼ)や建物(たてもの)の配置(はいち)などははっきりしません。また、琉球王府時代(りゅうきゅうおうふじだい)のいつ頃(ごろ)から設置(はいち)されていたのかもよく判(わか)っていません。しかし、明治(めいじ)14(1881)年(ねん)、当時(とうじ)の県令(けんれい、現在の知事)であった上杉茂憲(うえすぎ)が巡回(じゅんかい)したときの日誌(にっし)には、番所(ばんじょ)の門(もん)は東北(とうほく)に向(む)き、(番所の屋敷囲いは)フクギと松(まつ)が交互(こうご)に植(う)えられ、果(は)てしなく広(ひろ)がる青海原(あおうなばら)に面(めん)して(建物が建ち)、正面(しょぅめん)には平安座島(へんざじま)、宮城島(みやぎじま)、伊計島(いけいじま)の三島(さんとう)が見(み)える、と当時(とうじ)の様子(ようす)が書(か)かれています。 翌明治(よくめいじ)15(1882)年(ねん)3月1日(にち)、番所内(ばんじょない)に具志川小学校(ぐしかわしょうがっこう)が設立(せつりつ)されました。同校(どうこう)は具志川間切一円(ぐしかわまぎりいちえん)を校区(こうく)とし、教員(きょういん)1名(めい)、生徒(せいと)25名(めい)で始(はじ)まったと言(い)われています。後(のち)に下知役(げちやく)・検者詰所(けんじゃつめしょ)の改修(かいしゅう)を行(おこな)い教室(きょうしつ)とし、学校(がっこう)は番所(ばんじょ)から移(うつ)ったようです。翌年(よくとし)には、安慶名(あげな、安慶名より分離し、現在は平良川。兼原小学校所在地)に校舎(こうしゃ)が建築(けんちく)され、小学校(しょうがっこう)は再移転(さいいてん)します。 明治(めいじ)41(1908)年(ねん)特別町村制(とくべつちょうそんせい)が施行(しこう)され、具志川間切(ぐしかわまぎり)は具志川村(ぐしかわそん)となり、番所(ばんじょ)は具志川村役所(ぐしかわそんやくしょ)と名称替(めいしょうが)えされます。そして2年後(ねんご)の明治(めいじ)43(1910)年(ねん)、村役場(そんやくば、番所、ばんじよ)も、現在(げんざい)の市立図書館(しりつとしょかん)の地(ち)、平良川(たいらがわ)に移転(いてん)しました。 平成16年3月 具志川市教育委員会 ※文化財を大切にしましょう。」

 うるま市田場で、「田場ガー」の場所がわからず困っていると、「田場公民館」前を中学生が通りかかったので、「田場ガーの場所を知っていたら教えてもらいたいのだけど…」というと、「知っていますよ。この道を左に行き、大通りに出たら右方向にしばらく行き、ファミリーマートの前の道を左折すると、左手に見えます」と教えてくれました。具志川東中学校の男生徒でした。「ありがとう」と礼をいい、教えてもらった通りに進むと、「田場ガー」の説明板が見つかりました。カーへの降り口は2箇所あり、小雨のせいか、カーから近くの排水溝へ、勢いよく水があふれ出していました。カーの近くに、復元工事の経緯を記した石碑と歌碑が建てられていました。

参照(うるま市の文化財・市指定文化財 http://www.city.uruma.lg.jp/1/277.html

参照(うるま市立具志川小学校_jp- http://gushikawa-sho.edu.city.uruma.okinawa.jp/

参照(具志川東中学校_jp- http://guhigashi-chu.edu.city.uruma.okinawa.jp/

08-0518 田場公民館

09-0518 田場ガー

10-0518 田場ガー

11-0518 田場ガー

12-0518 田場ガー

「田場ガー うるま市指定文化財第33号「史跡」 指定月日:2005年(平成17年)2月16日…田場ガーは字田場の東側にあり、別名『ウブガー』とも呼ばれ、古くから地域で正月の若水、子供が生まれた時のカーウリー・産水、生活・農業用水等に利用されてきました。 造りとしては湧き口を囲んだ二つの池と水神を祭(まつ)った祠(ほこら)、池の水貯めをするマグサ、歩き道の石敷、二箇所の降り口、洗濯場等からなっております。石積みの技法は正面を相方積(あいかたづ)みでその上部を野面積(のづらづ)み、その左右を切石積(きりいしづ)みで造られています。平成11年に正面上部が一部崩壊しましたが、区民はじめ関係者の努力により平成16年に修復されました。現在も字行事として旧暦正月にカー拝みが行われております。」

13-0518 田場ガー

14-0518 田場ガー

15-0518 田場ガー

16-0518 田場ガー

17-0518 田場ガー

18-0518 田場ガー

19-0518 田場ガー

20-0518 田場ガー歌碑

21-0518 田場ガー歌碑

22-0518 田場泉井

「田場泉井(ガー)…『産ガー』とも呼ばれる。区民が、かつて、飲み水、生活用水として使用していた湧泉である。信仰面では、スディ水として、正月の若水、子供が生まれた時の産水、ウマチーや水ナディーの折に『カー拝』があった。現在でも行事の一部は実施している。 『カー』は、湧き口を囲んだ二つの池と水神の『ホコラ』、『マグサ』、『洗濯場(石)』、歩き道の『石敷』、『シッティ』からな、石積様式は、あいかた積、布積、土留めの上部には小石の野面積みも見られる。市内では最も優れた石造技術で施された『カー』の一つである。 平成十一年、田場泉井(ガー)の正面石積の崩壊にともない、この度、区民はじめ、内外関係者のご協力により『田場泉井(ガー)』の復元工事が完了した。生活用水が水道に変わった現在ではあるが区民の『命の泉』に対する思いを込めて、記念に歌碑を建立する。 平成十五年八月十七日 田場泉井(ガー)復元実行委員長 池宮弘 復元委員長 金城勝美 自治会長 屋比久美代子 揮壱 新垣義夫 歌碑寄贈 (有)中部大理石 『田場泉井ぬ水ぬ 水ゆいがやゆら 田場ぬみやらびぬ 生まり美らさ』」

 うるま市大田、「大田公民館」の近くに、「太田坂」があります。かつて、首里王府から各間切の伝達に利用された、歴史の道です。現在は、敷き詰めた小石の一部が残っており、石畳のイメージはありませんでした。

23-0522 太田坂

24-0522 太田坂

25-0522 太田坂

26-0522 太田坂

27-0522 太田坂

「太田坂(ウフタビラ)…字大田と字川田を通る坂道は、今から約200年ほど前にあかばんた掟(うっち)と玉城親雲上(たまぐすくペーチン)と上門小(いーじょうぐゎー)ビニーの三人の企画と設計で施工され、地元や近隣の住民や資材の協力を得て完成したと伝えられています。 幅員2〜3mで、全長約300mにおよび、琉球石灰岩(りゅうきゅうせっかいがん)を敷き詰めた石畳(いしだたみ)の道で、坂を登ると眺めの良い大田バンタがあります。また、字具志川に番所があった頃首里王府から各間切の伝達に利用された道で宿道として整備された歴史の道であります。」

28-0522 太田坂

29-0522 太田坂

30-0522 太田坂

31-0522 太田坂

32-0522 大田公民館

33-0522 慰霊碑

34-0522 慰霊碑


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