那覇市楚辺「城岳公園」を訪ねました。5月4日、伊波普猷の別荘「曝書山房跡」を探していたとき以来です。園内には、「城嶽」「古波蔵嶽」「二中健児の塔」等があります。今回訪ねると、「城嶽」の説明板が新たに設置されており、この一帯の歴史的変遷が記されていました。戦後、回転飛行塔・メリーゴーランド・電気豆汽車や小動物園、映画演芸場、食堂・売店なども置かれた本格的な遊園地「新世界」を開園し、那覇の一大名所として賑わったといわれます。
説明を読み、写真撮影をしていると、上原さんに声をかけられました。上原さんは、遊園地「新世界」関連の資料を集め、「城岳同窓会館」で写真展を開催したことがあるそうです。
参照(城岳同窓会:沖縄県立二中と那覇高校出身者の同窓会 http://www.jogaku.or.jp/)
参照(覚えてますか?城岳遊園地 懐かしの「新世界」写真展 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-152476-storytopic-5.html)
01-0607 城岳公園
02-0607 城岳
03-0607 城岳
04-0607 城岳公園
05-0504 古波蔵嶽
06-0607 城嶽
07-0607 城嶽
08-0607 城嶽
「城嶽(グスクダケ)那覇市楚辺1-4、城岳公園内…那覇市楚辺にある小丘陵『城岳(じょうがく)』とも表記する。楚辺台地から北西に延びる丘陵の一部で、南側を除き、急斜面となっている。標高は約32m。 かつて、この一帯は、真和志間切古波蔵村(まわしまぎりこはくらむら)の管内で、城嶽には、古波蔵村の拝所があり、3月・6月・9月の祭祀のほか、旱魃(かんばつ)時には雨乞いの祈願が行われた。また、松や樹木が生い茂る景勝の地として知られた。1756年に中国から来琉した冊封副使周煌(さっぽうふくししゅうこう)が著した『琉球国志略(りゅうきゅうこくしりゃく)』の『球陽八景図(きゅうようはっけいず)』に、『城嶽霊泉(じょうがくれいせん)』と題する絵があり、城嶽と東側にある『旺泉(おうせん)』(現:汪樋川、オーヒージャー)が描かれている。 丘の中腹には、取り囲むように多くの墓が造られていたが、西側の麓(ふもと)一帯は、『沖縄学の父』といわれる伊波普猷(いはふゆう)の畑地約2,500坪余があり、1914年(大正3)に、12坪程の瓦葺(かわらぶ)き平屋の別荘『曝書山房(ばくしょさんぼう)』を建て、晴耕雨読の日々を送ったという。 大正期には、城嶽周辺に、沖縄県立第二中学校(現那覇高校)、沖縄県庁、沖縄刑務所等が相次いで移設され、住宅が立ち並ぶようになり、かつての城嶽の鬱蒼とした林は、昭和初期には、住宅や畑地になっていたという。大将末から昭和初期にかけて発掘調査が行われ、中国の燕国(えんこく、BC409〜36年)の貨幣であった『明刀銭』や、沖縄では産出しない『黒曜石(こくようせき)』が出土した。 1945年(昭和20)の沖縄戦中は、山部隊(やまぶたい)の那覇守備部隊陣地壕として使われ、5月には、城嶽周辺で激しい戦闘も繰り広げられた。 終戦後、城嶽の山頂部は削り取られ、1951年(昭和26)9月、約2,000坪余の敷地に、沖縄文化興業株式会社が遊園地『新世界(しんせかい)』を開園した。回転飛行塔・メリーゴーランド・電気豆汽車や小動物園、映画演芸場、食堂・売店なども置かれた本格的な遊園地で、那覇の一大名所として賑わったという。1961年(昭和36)に、経営難のため、敷地は那覇市に売却され、閉園となった。 那覇市では、1971年(昭和46)から、『城岳公園(じょうがくこうえん)』として整備を行い、平成に入ってからは、周辺の墓の移転作業も進み、丘の麓は、園路整備も行われた。 なお、公園内には、1962年(昭和37)に再興された城嶽御宮(ぐすくだけおみや)や、1990年(平成2)に奥武山公園(おうのやまこうえん、護国神社裏山)から移設された『二中健児の塔(にちゅぅけんじのとう)』が建っている。また、公園の麓には古波蔵村の『火の神(ヒヌカン)』や地域の村ガー(むらガー、共同井戸)が残されている。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」
09-0607 城嶽
10-0607 城嶽
11-0607 城岳公園
12-0607 城岳公園
13-0607 城岳公園
14-0607 城岳公園
15-0607 二中健児之塔
16-0607 二中健児之塔
17-0607 移設に際して
18-0607 建立の詞
19-0607 合祀者名簿
20-0504 曝書山房跡
21-0504 曝書山房跡