うるま市勝連、世界遺産「勝連城跡」では「発掘調査、復元、整備」工事が進められています。勝連城跡は、世界遺産勝連城跡休憩所に「ヘンザガー」、「世界遺産勝連城跡」案内板近くに「門口のカー」、「四の曲輪」内に「仲間ヌウカー」「ウタミシガー」「夫婦ガー」など、城跡内外に、多くの「カー」や拝所があります。城内からは中国、元代の陶磁器が出土し、『おもろさうし』の記載からも、当時の様子を伺うことができます。
01-0628 勝連城復元鳥瞰図
02-0628 勝連城復元鳥瞰図
「勝連城復元鳥瞰図…画は、東方から見た勝連城復元鳥瞰図。遠方の海は中城湾(なかぐすくわん)、左上方が中城城(なかぐすくじょう)です。口碑伝承では、初代城主は英祖王(えいそおう)系・大成王の五男であったといわれています。その後勝連按司は4代続き、6代目に世継ぎができないことから養子縁組みにより伊波グスクの伊波按司(いはあんじ)の六男が迎えられています。続く7、8番目は交代の理由は判りませんが浜川(はまかわ)按司になっています。そして9番目は茂知附(もちづき)按司となります。しかしこの按司は圧政を敷き酒に溺れたことから、人々の信頼の厚い阿麻和利(あまわり)によって倒されます。彼が10番目の城主になってからは勝連はますます栄えることとなったとあります。阿麻和利は琉球国王の尚泰久(しょうたいきゅう)の娘を妻にするほどの力をもち、中城城の護佐丸(ごさまる)を撃ち天下の統一を夢見たが1458年王府軍に攻められて落城してしまいます。」
04-0628 勝連城跡模型
05-0628 『おもろそうし』と勝連と阿麻和利
「『おもろそうし』と勝連と阿麻和利…勝連(かつれん)や阿麻和利(あまわり)について、沖縄最古(おきなわさいこ)の歌謡集(かようしゅう)である『おもろそうし』に数多く詠(よ)まれていて、勝連は『きむたか(肝高)』と表現され日本本土の京都(きょうと)や鎌倉(かまくら)にたとえられるほど繁栄(はんえい)していたとあります。
一 かつれんわ なおにきや たとえる やまとの かまくらに たとえる
又 きむたかわ なおにきや
勝連は、なんにたとえようか、京都や鎌倉にたとえようか(勝連の城が大いに栄えたことがうたわれています。)
一 かつれんの あまわり とひやくさ ちよわれ
又 きむたかの あまわり 又 かつれんと にせて 又 きもたかと にせて
勝連の阿麻和利、千年も万年も勝連をおさめよ、気高き阿麻和利、勝連にふさわしく、肝高の名にさわしく
一 かつれんの あまわり たま みしやく あり よな きや かまくら
これと いちへ とよま 又 きむたかの あまわり 又 しまちりの みそての あんし 又 くにしりの みそての あんし 又 しより おわる てたこす たま みしやく ありよわれ
勝連の阿麻和利は、神通力のある玉御柄杓を持っておられるよ。そのことを京や鎌倉にまで知られるし、誇ろう。 又 肝高の阿麻和利… 又 島を治める立派な按時のお生まれである。 又 国を支配する按司の誕生である。
又 首里におわす国王こそが玉御柄杓を持っておられるのに、わが阿麻和利按司もそれを持っておられるよ。と与勝の民は喜び誇った。 訳 島袋善吉 氏」
06-0628 世界遺産勝連城跡休憩所
07-0628 世界遺産 勝連城跡
09-0628 ヘンザガー?
10-0628 史跡 勝連城跡
1.史跡 勝連城跡
2.指定年月日 1961年4月11日
3.指定理由 勝連城は14世紀初期から始まり15世紀中期で終わる勝連按司系、浜川按司系、茂知附按司系、阿麻和利按司などの興亡をひめた連郭式の平山城である。
4.説明事項 文化財保護委員会は1964年から1966年までの3次にわたる城内外の発掘調査を実施した。1970年には日本政府の援助によって城全域の遺構調査を実施し2の丸の舎殿跡などの各所に新しい遺構が発掘された。 面積 総面積 2027m2 本丸 633m2 2の丸 1207m2 3の丸 1922m2 4の丸 6948m2 東の郭 1259m2
5.保存上注意すべき事項
みだりに現状を変更しないこと。
城内からは石を持ち出さないこと。
11-0628 国指定史跡、勝連城跡
「国指定史跡 勝連城跡 昭和四十七年五月十五日指定…勝連城は、阿麻和利(あまわり)の居城として知られ、その前の城主は茂知附按司(もちづきあじ)であったと伝えられている。一四五八年、中城城主の護佐丸を滅ぼした阿麻和利は、その勢いで首里城を攻めたが大敗し、その後、城は廃城になったといわれている。 城跡は、一首の梯郭式山城で、一の郭・二の郭・三の郭・四の郭・東郭からなり、四方に琉球石灰岩の切石の石垣をめぐらしている。発掘調査の結果、一の郭に規模不明な瓦葺建物跡、二の郭に礎石を有する殿舎跡が確認されている。また、城内からは多量の輸入陶磁器をはじめ式器や武具、古銭などが出土し、なかでもすぐれた元様式の青磁器などから当時の繁栄ぶりをしのぶことができる。 勝連町教育委員会」
13-0628 勝連城跡
14-0628 城壁復元
15-0628 史跡 勝連城跡
16-0628 勝連城跡
17-0628 世界遺産
「世界遺産…2000年12月2日、勝連城跡は『琉球王国のグスク及び関連遺産群』の一つとして、ユネスコの『世界遺産条約』に基づく世界遺産リストに登録されました。 全世界の人々のために保護すべき遺産として、特に優れて普遍的な価値のあるものが、このリストに登録されます。」
18-0628 勝連城跡
「勝連城跡…勝連城は、五つの曲輪(くるわ)からなり、最も高い一の曲輪に上ると、北は遙(はる)か金武湾(きんわん)を囲む山原(やんばる)の山々や太平洋の島々が望まれ、南は知念(ちねん)半島や中城湾、それを隔てて護佐丸(ごさまる)の城である中城城(なかぐすくじょう)が一望(いちぼう)できる景勝地(けいしょうち)になっています。 城は、琉球王国の王権が安定していく過程で、国王に最期まで抵抗した有力按司(あじ)、阿麻和利(あまわり)が住んだ城です。伝承によると城主は勝連按司から最期の城主阿麻和利まで10代と伝えられています。勝連城や城主(按司)について、沖縄最古の歌謡集である『おもろさうし』に数多く詠まれていて、勝連は『きむたか(肝高)』と表現され、日本本土の京都や鎌倉にたとえられるほど繁栄していたとあり、阿麻和利も『千年もこの勝連をおさめよ、勝連の名高き王』と讃えられています。 阿麻和利は、国王の重臣(じゅうしん)で中城に居城した護佐丸を1458年に滅ぼし、さらに王権の奪取をめざして国王の居城である首里城を攻めましたが、大敗して滅びました。阿麻和利が滅ぼされたことによって、首里城を中心とする中山の王権はいちだんと安定しました。」
19-0628 Katsuren-jo site
21-0628 1四の曲輪
22-0628 門口のカー
24-0628 門口のカー
25-0625 仲間ヌウカー
27-0625 仲間ヌウカー
28-0628 四の曲輪
32-0628 ウタミシガー
34-0628 ウタミシガー
36-0628 夫婦ガー
38-0628 階段
40-0628 階段
41-0628 三の曲輪
42-0628 三の曲輪
43-0628 三の曲輪
45-0628 三の曲輪
46-0628 三の曲輪
「三の曲輪(くるわ)…三の曲輪ではこれまでの調査の結果、時代の移り変わりの様子がわかりました。古い時代は掘立柱(ほったてばしら)の建物が建ちならび、表面に粘土を貼ったすり鉢状の遺構(いこう)も中央部で見つかっています。これは水を貯める施設ではないかと考えられています。 新しい時代になるとこの三の曲輪全体が二の曲輪に建っていた殿舎(でんしゃ)建物と一対をなし、儀式などを執り行う広場に変わっていきました。 その後、城が滅んでからは祭祀(さいし)の場として使用され、中央西側に『肝高の御嶽(キムタカヌウタキ)』。その近くに神人(カミンチュ)たちが祭祀の際に休憩する『トゥヌムトゥ』と呼ばれる石列などが遺(のこ)されています。」
47-0628 三の曲輪
48-0628 埋葬人骨
「埋葬人骨…城門脇の城壁に接したところからグスク時代に属する幼児の人骨が折り曲がった状態で発掘されています。なぜ城壁に接して葬られたのか、なぜ半分に折り曲げられて葬られたのか、グスク時代の社会状況を考える上でも貴重な資料です。 また、グスク時代の人々のルーツを解明する上でもたいへん重要です。」
49-0628 勝連の按司の系譜
「勝連の按司の系譜…伝承ではこのグスクの城主は英祖王系2代目『大成王』の五男勝連按司だったと伝えています。この応答は五代まで続きましたが世継ぎがなかったことから、養子縁組により伊波グスク『伊波按司』の六男を迎えたと伝えられています。その後、交代の理由ははっきりしませんが7・8代目が『浜川按司』、9代目は『茂知附(もちづき)按司』といいます。茂知附按司は圧政を敷いたことから人々の信望を失い、やがて『阿麻和利』にとって代わられたといわれています。 参考までに伝承の上での系譜を記しておきます。」
51-0628 神人の腰掛け(トゥヌムトゥ)
「神人の腰掛け(かみんちゅのこしかけ)…ここに並(なら)べられている石(いし)はトゥヌムトゥと呼(よ)ばれ、旧暦(きゅうれき)の2月(がつ)と5月(がつ)に行(おこな)われる祭祀(ウマチー)の時に神人(かみんちゅ)たちが腰掛(こしか)けたりするものです。いつの頃から置かれたかはわかりませんが、整備にあたっては、動かさずにそのままの状態で置いてあります。」
53-0628 すり鉢状遺構No.1
「すり鉢状遺構 No1…この表示(ひょうじ)は、ここに埋(う)もれている遺構(いこう)を表現(ひょうげん)しています。遺構(いこう)の表面(ひょうめん)には粘土(ねんど)を張(は)りつけていることから、水(みず)を溜(た)める施設(しせつ)と考(かんが)えられます。」
55-0628 すり鉢状遺構No.2
「すり鉢状遺構 No2…この表示(ひょうじ)は、ここに埋(う)もれている遺構(いこう)を表現(ひょうげん)しています。遺構(いこう)の表面(ひょうめん)には粘土(ねんど)と、こぶし大(だい)の石(いし)を張(は)りつけてあります。」
56-0628 肝高の御嶽