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玉城朝薫作・組踊「執心鐘入」の主人公のモチーフ…「中城若松」の墓跡

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 北中城村字安谷屋の「若松公園」を訪ねました。北中城村荻堂方面から、県道146号線を西方向に行くと、県道81号線にぶつかります。その手前、右手丘の上に、「若松公園」があります。階段を上っていくと、途中に、「邊土大主之墓」がありました。公園の左手に方面は、土砂崩れなのか、「通行禁止」になっていました(5月23日)。園内は広く、「若松の墓」がどこにあるのか見当がつかないので、公園管理室に行き、場所を尋ねると、警備の男性が、「遊具にそって右方向にどんどん行くと階段がある。その階段を上った所に若松の墓がある。道が滑りやすいので、気を付けてください」と、話してくれました。雨あがりの芝生道を、滑らないようにしながら歩き、ゆっくり階段を上ると、「若松の墓」にたどり着きました。小雨がぱらついてきたので、今回は、「若松の墓」の訪問だけにしました。

01-0523 邊土大主之墓

02-0523 拝所

03-0523 若松公園

04-0523 若松公園

05-0523 遊具

06-0523 遊具

07-0523 遊具

08-0523 中城若松の墓へ

09-0523 中城若松の墓

10-0523 中城若松の墓

11-0523 中城若松の墓

12-0523 中城若松の墓

13-0523 中城若松の墓

14-0523 中城若松の墓

15-0523 中城若松の墓

16-0523 中城若松の墓

17-0523 中城若松の墓

「中城若松の墓…若松は、中城若松とも安谷屋の若松とも称され、『おもろさうし』にもあっぱれな少年として謡われている。玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)作・組踊『執心鐘入(しゅうしんかねいり)』(1719年)でも主人公のモチーフとなった人物とされている。若松は、尚円王(金丸)と安谷屋ノロとの間に生まれたとの伝承もあり、長じて安谷屋城主になり、のち首里に上り、上間村(現在の那覇市上間)の地頭職に就き、『章氏』の始祖となったといわれる。死後、安谷屋のこの地(通称ユナハン岳)に葬られたと伝えられる。 若松に関する歴史的伝承だけでなく墓所の周辺には、安谷屋発祥の地とされる安里原(通称)に若松の屋敷跡や火の神(移設)があり、その隣には安谷屋のグスク、墓の裏には若松の妻と母親の墓もあって、この地は、若松の実在を示す由緒ある場所となっている。岩上に塔型(上に宝珠)のセメント製の祠が設置され、現在、それが墓として拝されている(香炉の後ろを墓とする見方もある)。 1982年(昭和57)年3月18日指定 北中城村教育委員会」

18-0523 中城若松の墓

19-0523 執心鐘入の想像図

20-0523 若松の墓周辺地図


勝連城のお膝元、「南風原」の文化財?…井泉、文化財

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 うるま市勝連南風原集落は、かつて、勝連城南側傾斜地の元島原に発祥し、浜掟という役職にあった前浜三良の努力により、現在の肥沃な地に移動したといわれています。南風原の人々は、村づくりの大恩人として感謝し、報恩社を建てて、「カッチンバーマー」を祀っています。

「勝連南風原は、勝連地区の南西部、具志川地区と境を接した肥沃な地に位置します。昔は勝連村と讃えられ、勝連間切という名称もこれによったもので、いわゆる勝連同村です。社緑台帳に南風原のノロクモイは勝連ノロクモイとあり、南風原の地頭を勝連殿内と称えられていたことなどから考えても、勝連が南風原の古い名称であったことは聞違いないと思われます。阿麻和利の時代に南風原と改称されたと伝えられます。 南風原集落は、勝連城南側傾斜地の元島原に発祥したと伝えられ、一七二六年(尚敬王一四年)に、前浜三良(カッチンバーマー)の努力によって、現在の肥沃な地に移動しました。現在でも、村づくりの大恩人として、南風原の人々は感謝して、報恩社を建てて、祀っています。」

引用(うるま市文化財シリーズ?「南風原」/沖縄県うるま市教育委員会 http://www.city.uruma.lg.jp/DAT/LIB/WEB/1/haebaru.pdf

01-0617 アガリガー

02-0617 アガリガー

03-0617 アガリガー

04-0617 アガリガー拝所

05-0617 アガリガー拝所

06-0606 マンナカガー

07-0329 マンナカガー

08-0329 マンナカガー

09-0329 マンナカガー

10-0329 マンナカガーの近くにある商店

11-0606 イリーガー

12-0606 イリーガー

13-0606 イリーガー

14-0606 慰霊碑(南風原公園内)

15-0606 慰霊碑(南風原公園内)

16-0606 慰霊碑(南風原公園内)

17-0606 アシビナーのカー

18-0606 アシビナーのカー

19-0606 アシビナーのカー

20-0606 アシビナーのカー

21-0606 ナナカンジャラー石

22-0606 ナナカンジャラー石

23-0329 南風原の村獅子

24-0329 南風原の村獅子

25-0329 南風原の村獅子

26-0329 南風原の村獅子

27-0329 南風原の村獅子

「南風原の村獅子(むらじし)勝連町文化財指定第2号…さんご石灰岩を加工して作ったそぼくな獅子像(ししぞう)です。 村のフーチゲーシ(邪気払い、じゃきはらい)として、南風原村(むら)が勝連城南側の元島原(むとうじまばる)より移動したとき(1726年)、村(むら)の境界として東西南北の4角(すみ)に置かれたと伝えられています。 いまではここ北側と西側が残っているだけですが、集落の研究や民俗資料として貴重(きちょう)なものです。 文化財保護条例により、勝連町指定文化財にしていします。 平成2年3月26日 勝連町教育委員会」

28-0606 南風原公民館

29-0606 南原書道教室

30-0606 地頭火の神

31-0606 地頭火の神

32-0606 地頭火の神

33-0606 地頭火の神

34-0606 地頭火の神

中城若松、宿の女、若松のおもろ、グラウンドゴルフ、ティーボール、根所の火の神…若松公園

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 「若松公園」には、「ちびっこ広場」「砂場」「テニス場」「ゲートボール場」「中央広場」「多目的広場」「展望台」などがあり、小高い丘の上に、「若松の墓」があります。県道81号線方面から入ると「駐車場」があります。県道146号線方面には、入口の前、道路側に、3体の彫像がありました。今回の訪問には、「根所の火の神、若松の母・妻の墓」などを調べるねらいがあります。草刈りをしている男性に尋ねると、「火の神は3箇所あるが、安谷屋の人がよく行くのは、ゲートボール場の向こう側にある火の神だ。若松の母と夫人の墓は、若松の墓の側を回った箇所にあるが、危険防止のため、立ち入りが制限されている。」ということでした。

01-0618 県道146号線側

02-0618 県道146号線側の彫像

03-0618 県道146号線側の彫像

04-0618 県道146号線側の彫像

05-0618 若松公園

06-0618 中城若松

07-0618 中城若松

08-0618 宿の女

09-0618 宿の女

10-0618 若松公園

11-0618 若松公園

「中城若松(一名、安谷屋の若松)は、この地に生育し、長じて首里に召され、真和志間切上間村の地頭職に就き、章氏の始祖となり、没後この地に移葬されたと伝えられる。 この若松公園内には、若松の墓、若松の母と夫人の墓があり、生誕屋敷にあったヒーヌカン(火の神)が残存する。若松は、『おもろさうし』にも謡われ、幼少時におもろ歌唱の名人、あかのこと出会い、心根のやさしい少年として称えられている。 玉城朝薫の組踊り『執心鐘入』は、中城若松にかかわる故事を踏まえて創作されたといわれる。中城若松ゆかりの地に、若松公園の開設を記念し、組踊の容姿端麗な中城若松と艶麗な宿の女の像を建立する。 一九九一年 三月吉日」

12-0618 若松公園案内図

13-0618 若松公園案内図

14-0618 若松のおもろ

15-0618 若松のおもろ

16-0618 若松のおもろ

17-0618 バナナ

18-0618 若松公園

19-0618 若松公園

 「地頭火の神」のお参りをしていると、「多目的広場」方面から歓声が聞こえました。

 多目的広場方面を見ると、担当の説明の後、「グラウンドゴルフ」と「ソフトボールに似たスポーツ」を始めました。打者の近くに棒が固定され、その上にボールを乗せ、バットでボールを打ち、ベースにかけ込んでいました。動かないボールをたたくのですから、男女・年齢にかかわりなく、誰でも楽しめそうです。……これは、野球やソフトボールの入門スポーツとして注目を浴びている、「ティーボール」と呼ばれスポーツで、文部科学省の「新・学習指導要領」の実施に伴い、全国の小学校で、体育の授業で行われているものだそうです。ティーボールは、幼児からお年寄りまで、プレーする人全員が楽しむことができるスポーツです。

20-0618 グラウンドゴルフ

21-0618 グラウンドゴルフ

22-0618 グラウンドゴルフ、順番待ち

23-0618 ティーボール

24-0618 ティーボール

25-0618 ティーボール

26-0618 ティーボール

「ティーボールとは?…野球やソフトボールに極めて類似したボールゲームです。 大きく異なるところは、本塁プレートの後方に置いたバッティングティーにボールを載せ、その止まったボールを打つことからゲームが始まります。したがってピッチャーはいません。  野球やソフトボールの入門スポーツとして、今注目を浴びています。 現在は、文部科学省の「新・学習指導要領」の実施に伴い、全国の小学校でも体育の授業で行われています。 ティーボールは、技術の巧拙なくプレーする人全員が楽しむことができるスポーツなので、現在は幼児からお年寄りまで幅広くプレーされています。」

引用(ティーボールとは? http://www.teeball.com/disciple/index.html) 

27-0618 若松公園管理室

28-0618 拝所

29-0618 根所の火の神

30-0618 根所の火の神

31-0618 根所の火の神

32-0618 根所の火の神

33-0618 根所の火の神

34-0618 イーヌカー

35-0618 イーヌカー

36-0618 イーヌカー

 

37-0618 イーヌカー

 

38-0618 イーヌカー

親田家刻紋石柱、報恩社、カッチンバーマー頌徳碑、南風原ノロ殿内…「南風原」の文化財?

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 うるま市勝連南風原地区は、勝連地区の南西部、具志川地区と境を接し、勝連城のお膝元にあたります。南風原集落は、勝連城南側傾斜地の元島原にあったのですが、前浜三良(カッチンバーマー)の努力によって、現在の肥沃な地に移動したといわれています。

01-0606 勝連城跡

02-0606 親田家

 「親田家」の庭の隣家境に、梵字や漢字、絵文字で文字が刻まれた「刻紋石柱」が立てられています。訪問意図を説明し、話を伺った後、許可を得て撮影しました。帰り際に見た、石垣にはめ込まれた「石敢當」に惹かれました。

参照(石敢當 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%95%A2%E7%95%B6

03-0606 親田家刻紋石柱

04-0606 親田家石垣

05-0606 親田家石垣の「石敢當」

 南風原の人々は、「報恩社」を建てて、「カッチンバーマー」を祀っています。

06-0606 報恩社

07-0606 報恩社

08-0606 報恩社

09-0606 カッチンバーマー頌徳碑

10-0606 カッチンバーマー頌徳碑

「全島に広く名をなした、非凡な才物カッチンバーマーの本名は前濱三良といい、平安名村 前濱家の二男として、一七〇四年に生まれた。文子、南風原掟、浜夫地頭、親雲上となり、勝連間切地頭代として活躍し、数々の逸話も語りつがれている。 一七二六年南風原村が元島から現在地へ移動したとき、内間村との先陣争いがあり、公事や三司官に百万陳情し、後手ながらも南風原村の移動が実現した。 綿密な移動計画により、村の四角に守護神の村獅子を据え、碁盤目型の道路網、中央には村屋、東西に共同井戸と公共の広場(カーヌモー)、前方(メーベー)には防火・雑用水の池(クムイ)を掘り、村づくりの基盤を整えた。 カッチンバーマーの偉業を称え、遺徳を偲び、一九三五年旧居の地に報恩社を創建した。この度改築すると共に頌徳碑を建立し、末永くその功績を顕彰する。 二〇〇二年十二月吉日 勝連町字南風原」

11-0617 ジーブ大屋

12-0606 拝所

13-0606

14-0606

 集落の中ほどにある「マンナカガー」の近くに、「南風原ノロ殿内」がありました。屋敷主に話を伺った後、許可を得て撮影しました。「中に入って、見てもいいですよ」とのことでした。屋敷内には、井戸もありました。

15-0617 南風原ノロ殿内

16-0617 南風原ノロ殿内

17-0617 南風原ノロ殿内

18-0617 南風原ノロ殿内

19-0617 南風原ノロ殿内

20-0617 南風原ノロ殿内

21-0617 南風原ノロ殿内

22-0617 南風原ノロ殿内

23-0617 南風原ノロ殿内井戸

  いかにも勝連らしい名の「きむたか保育所」がありました。

24-0617 きむたか保育所

25-0617 きむたか保育所

26-0617 きむたか保育所

27-0617 きむたか保育所

 南風原地区から「勝連城跡」に向かう道の両端には、「希の会」と書かれた「プランター」や「花壇」があり、きれいな花を咲かせていました。

28-0606 希の会ボランティア作業所

29-0617 希の会プランター

30-0617 希の会花壇

31-0617 希の会プランター

32-0617 希の会プランター

33-0617 南風原地区畑地

浜崎の寺、クトジ御嶽、浜川ガー…「南風原」の文化財?

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「浜崎の寺」は、健康、子宝に恵まれることの祈願所で、女シー、男シーがあり、南風原ノロ殿内とのつなぎがあるといわれています。

01-0608 浜崎の寺

02-0608 浜崎の寺

「浜崎の寺(ハマサチヌテラ)…この寺は、区民の健康、子宝に恵まれることの祈願所です。また、普天間権現とのつなぎがあって、ここから普天間権現へのお通しもできます。 内部には、石を置きビジュルにしており、向かって右側女シー(イナグシー)、左側は男シー(イキガシー)で、南風原ノロ殿内とのつなぎがあるといわれています。なお、拝むときは、お香に火をつけず右側女シーを先に拝むといわれています。 うるま市教育委員会」

「ビジュル信仰 (びじゅるしんこう)…おもに沖縄本島でみられる霊石信仰で、豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされる。16羅漢の一つの賓頭盧(びんずる)がなまった言い方で、多くは人の形をした自然石がティラと呼ばれる洞穴などで祀られている。例祭は旧暦9月9日。」

引用(ビジュル信仰 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-42751-storytopic-121.html

03-0608 浜崎の寺

04-0608 浜崎の寺

05-0608 浜崎の寺

06-0608 浜崎の寺

07-0608 浜崎の寺

 「クトジ御嶽」は、琉球国由来記に記されている、旅果報、航海安全を願う拝所です。

08-0608 クトジ御嶽

09-0608 クトジ御嶽

「クトジ御嶽(ウタキ)…この御嶽は、琉球国由来記に勝連間切の拝所として、『コト瀬嶽神名マネヅカサノ嶽イベ』と記録されています。旅果報、航海安全を願う拝所です。 昔話では、中国から来た女性が、この御嶽の洞穴で子供を出産したと伝えられています。 また、中国から品物を運んできた時は、まずはこの御嶽に置いてからグスクに運んだとも伝えられています。 うるま市教育委員会」

10-0608 クトジ御嶽へ

11-0608 クトジ御嶽

12-0608 クトジ御嶽

13-0608 クトジ御嶽

14-0608 くとじ御嶽

15-0608 クトジ御嶽

 「浜川ガー」は、絶世の美女真鍋樽の頭髪を、洗髪したことで知られています。彼女の黒髪は身長の1.5倍もあり、竿にかけて洗ったそうです。

16-0608 浜川ガー

17-0608 浜川ガー

18-0608 浜川ガー

19-0608 浜川ガー

20-0608 浜川ガー

「浜川ガー…このカーは、絶世の美女真鍋樽(マナンダルー)の頭髪を、洗髪したことで有名です。真鍋樽は、勝連グスク7代目の城主浜川按司の娘で、彼女の黒髪は身長の1.5倍もあり、竿にかけて洗ったという伝説があります。 南風原村が、元島原にあった頃のウブガーでした。現在でも、毎年旧正月元旦に南風原及び近隣集落の門中によって『カーウビー拝み』が行われています。 うるま市教育委員会」

21-0608 浜川ガーへ

22-0608 浜川ガー

23-0608 浜川ガー

24-0608 浜川ガー

25-0608 浜川ガー

26-0608 浜川ガー周辺畑地

27-0608 アダン

28-0608 アダン

「壺屋うふシーサー」と「さいおん・うふシーサー」…兄弟の巨大シーサー

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 「壺屋うふシーサー」と「さいおん・うふシーサー」は、壺屋焼で作られた「兄弟のうふシーサー」です。今回は、那覇市壺屋、「壺屋うふシーサー」前から、「ゆいレール牧志駅」近く、「さいおんスクェア」の「さいおん・うふシーサー」までのコースを、散策しました。

 「さいおんスクェア」では、「フリーマーケット」が開かれていました、「さいおん・うふシーサー」の説明板に、「楽シーサー★さいおん物語」「今日、あなたにお会いできて、本当に、嬉シーサー」と書いてありました。

02-0621 壺屋うふシーサー

03-0621 壺屋うふシーサー

04-0621 壺屋うふシーサー

05-0621 お散歩マップ

06-0621 新垣家住宅・東ヌ窯、他

09-0621 市街地案内図

11-0621 市街地案内図

13-0621 牧志駅

14-0621 さいおん・うふシーサー

15-0621 さいおん・うふシーサー

16-0621 さいおん・うふシーサー

17-0621 再生水の利用について

19-0621 さいおん・うふシーサー

20-0621 楽シーサー★さいおん物語

21-0621 楽シーサー★さいおん物語

「楽(たの)シーサー★さいおん物語…シーサーはライオンをモデルとする架空の動物で、その発祥は、古代オリエントやインドだと言われています。長い歳月をかけ、シルクロードを旅し、ここ沖縄には、十五世紀ごろ、琉球王朝の大交易時代に、中国から伝わったと言われています。今では、赤瓦の屋根や門柱などにその勇姿を見ることができ、福を招き、邪を払う、家々の護り神として、広く沖縄県民に親しまれています。とても個性的で、どこかユーモラスなその表情は、見るたびに、人々の心をなごませてくれます。 ここ「さいおんスクェア」にも、熟練の陶工により魂を吹き込まれた新たなシーサーが誕生しました。三百年以上の歴史を誇る伝統の壺屋焼で作り上げられた、このまちの新しいシンボルです。 その高さは3.4メートル。焼物(ヤチムン)としては、最大のジャンボ・シーサーとなりました。 「さいおんスクェア」にたたずむジャンボ・シーサーは、このまちの護り神として、那覇のまちと、住む人、訪れる人、行き交う人々を温かく見守っています。いつまでもいつまでも、夢と希望に満ちた明るい未来と人々の幸せ、そして、笑顔の絶えない楽しい暮らしを願いながら……。きっと、ジャンボ・シーサーは、あなたに語りかけているはずです。 『今日、あなたにお会いできて、本当に、嬉(うれ)シーサー』」

26-0621 フリマ会場

27-0621 フリマ会場

28-0621 フリマ会場

29-0621 さいおんスクェア

30-0621 さいおんスクェア

31-0621 安里川

32-0621 安里川

33-0621 さいおん橋

35-0621 さいおん・うふシーサー

37-0621 国際通り

38-0621 竜宮通り社交街

39-0621 てんぶす那覇

41-0621 原爆と戦争展

44-0621 平和通り

45-0621 平和通り

46-0621 平和通り

47-0621 壺屋陶芸センター

平和の礎、沖縄県平和祈念資料館、一中健児之塔、二中健児の塔…「慰霊の日」に向けて

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 沖縄県では、6月23日は「慰霊の日」(県の休日条例で定めた休日)で、糸満市摩文仁の平和祈念公園で、「沖縄全戦没者追悼式」が行なわれます。私は、この日、家族で、「魂魄の塔」をお参りすることにしています。

 「慰霊の日」の前日、「平和祈念公園」を訪ね、「沖縄平和祈念館」で開催されている、企画展「沖縄戦への道」を見ました。その後、「平和の礎」などを回りました。この日は、ガイドさんに誘導されている修学旅行の生徒が多く見られました。礎の前では、お年寄りが、刻銘の文字を撫でながら語りかけている様子が見られました。私の父方、母方の家族の名もあります。戦争は、多くの命を奪っただけでなく、生き残った者の身や心に大きな傷跡を残しました。

 地球上では、今も、多くの国や地域で紛争が続き、容易におさまる様子は見られません。「慰霊の日」に、現在そしてこれからの国の在り方、社会と自分の関わり方を、改めて問い直したいと思います。

 6月23日は、「一中健児之塔、二中健児の塔」など、県内の多くの場所で、「慰霊祭」が行われます。

参照(慰霊の日 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E9%9C%8A%E3%81%AE%E6%97%A5

01-0622 平和の光の柱

03-0622 平和祈念公園案内図

04-0622 平和祈念公園案内図

09-0622 沖縄全戦没者追悼式会場

12-0622 沖縄全戦没者追悼式会場

14-0622 沖縄平和祈念堂

16-0622 平和祈念資料館

20-0622 沖縄戦への道

23-0622 千羽鶴コーナー

24-0622 命どぅ宝

28-0622 「平和の礎」案内図

30-0622 平和の火

31-0622 平和の火

32-0622 摩文仁海岸

34-0622 平和祈念資料館

35-0622 平和の礎

37-0622 平和の礎

41-0622 平和の礎

43-0622 平和の礎

50-0622 平和の礎

51-0622 キャンドル

53-0622 花壇

54-0622 一中健児之塔

57-0622 養秀会館

58-0620 一中学徒隊資料展示室

59-0622-1614-1慰霊祭準備

60-0622-1616-1慰霊祭準備

62-0620 着生植物コーナー

63-0620 着生植物コーナー

64-0620 着生植物コーナー

66-0620 着生植物コーナー

67-0620 着生植物コーナー

69-0620 着生植物コーナー

70-0612 二中健児の塔慰霊祭

「キクの花」「花のくすだま」を供え、祈りを捧げる…「魂魄之塔」

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 6月23日は「慰霊の日」で、沖縄県内各地の「慰霊塔」で慰霊祭や追悼式が行われます。私は、家族で、「魂魄之塔」を訪ねました。8時頃首里を出発。この時間帯だと、渋滞もなく、スムーズに行くことができます。

 道順は次の通りです。県道82号線→「上間」交差点、那覇東バイパス→「仲井間」交差点で左折、国道507号線→「津嘉山(南)」交差点で右折、県道82号線→「賀数(北)」交差点で左折、県道7号線→(このあたりから、交差点ごとに警察官の姿が見られました)→「照屋(東)」→「新垣」→「米須」で右折、国道331号線→「米須(西)」で左折、県道223号線→「魂魄之塔」。

 「魂魄之塔」で、持参の「キクの花」「花のくすだま」を供え、祈りを捧げました。帰り道も、交差点ごとに、警察官が立っています。車中のラジオは、「6月23日、慰霊の日に、摩文仁の『平和祈念公園』で開催される『沖縄全戦没者追悼式』に安部総理が出席する」と伝えています。

 そのような事とはかかわりなく、街路樹の「ホウオウボク」がきれいな花をつけていました。

01-0623 花のくすだま

「花のくすだま…花のパーツ−わにして−かさねて−しばって−くすだまに」(くすだまブーケのおくりもの『花のくすだま No.2』久保満里子:著、ブティック社)

02-0623 花のくすだま

03-0623 花のくすだま

04-0623 花のくすだま

05-0623 花のくすだま

06-0623 キク

07-0623 魂魄之塔

08-0623 魂魄之塔

09-0623 魂魄之塔

10-0623 魂魄之塔

11-0623 花のくすだま

12-0623 花のくすだま

13-0623 花のくすだま

14-0623 花のくすだま

15-0623 花のくすだま

16-0623 折り鶴

17-0623 魂魄之塔

18-0623 魂魄之塔

19-0623 魂魄之塔周辺

20-0623 魂魄之塔周辺

21-0623 魂魄之塔周辺

22-0623 魂魄之塔周辺

23-0623 ホウオウボク

24-0623 ホウオウボク

25-0623 ホウオウボク

26-0623 ホウオウボク


ミニライブ、とうろう流し、喜屋武青年団エイサー、平和の光の柱…平和祈念公園

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 「慰霊の日」に、「魂魄之塔」を訪ねた後、夕方7時頃、「平和祈念公園」を訪ねました。目当ては、「平和の光の柱」「とうろう流し」などです。開始時刻の8時まで時間があったので、園内を散策していると、「平和祈念公園案内所」左手で、「ミニライブ」をしてるのを見かけ、しばらく鑑賞しました。何かしら心に響く、メッセージ性のある、いい歌でした。

 次に、「エントランス広場」に行き、「平和の光の柱、趣旨」を読み、きれいに手入れされた「花壇」の花を見ました。その後、「平和の礎」に向かい、父方の刻銘板前で手を合わせ、近くに、「花のくすだま」をつるしました。

 そこから、「修景池」付近で行われている、「とうろう流し」のコーナーに行きました。受付で氏名などを記入して「とうろう」キットを受け取りました。両面テープを張った紙片を四角柱にし、ロウの小片が固定された紙台に貼り付け、「とうろう」を作り、ロウに火をつけ、流し台から池に流すのです。ロウに着火用の芯がなく、火がつくまで時間がかかりました。

 池に流された「とうろう」は、それぞれの思いを乗せて、ゆっくり流れていきました。しばらく眺めていると、「平和の火」のコーナーあたりから、にぎやかな音が聞こえました。「喜屋武青年団のエイサー」が始まったのです。場所を移し、「エイサー」を堪能しました。静と動のメリハリの効いた動きが見事です。  

 エイサー終了後、「エントランス広場」に戻り、「光の柱」を近くで鑑賞しました。その後、「平和祈念公園案内所」の展示コーナーに向かいました。……朝の「魂魄之塔」、夕方からの「平和祈念公園」と、忙しい一日でした。

01-0623 花のくすだま

02-0623 花のくすだま

03-0623 花のくすだま

05-0623 平和祈念公園案内所

06-0623

08-0623 ミニライブ

09-0623 沖縄平和祈念堂

10-0623、趣旨

11-0623 平和の光の柱、趣旨

12-0623 平和の光の柱

14-0623 花壇

16-0623 花壇

18-0623 花壇

19-0623花壇

22-0623 花壇

24-0623 花壇

26-0623 花壇

28-0623 沖縄県平和祈念資料館

30-0623 沖縄県平和祈念資料館

31-0623 平和の礎

32-0623 平和の礎

34-0623 花のくすだま

36-0623 花のくすだま

38-0623 とうろう流し

39-0623 とうろう流し

41-0623 とうろう流し

43-0623 とうろう流し

45-0623 エイサー

46-0623 エイサー

47-0623 エイサー

48-0623 喜屋武青年団

49-0623 平和の光の柱

50-0623 平和の光の柱

51-0623 平和の光の柱

52-0623 平和の光の柱

53-0623 平和の光の柱

54-0623 平和祈念公園案内所

55-0623 とうろう流し、受付

57-0623 沖縄全戦没者追悼式

58-0623 遺骨収集状況

59-0623 遺骨と共に出土した遺留品

61-0623 2013年

63-0623 平和の光の柱による平和のトライアングル

64-0623 平和祈念資料館のイベント、平和記念堂のイベント

65-0623 平和祈念財団のイベント

66-0623

67-0623 カメハメハシーサー

68-0623 カメハメハシーサー

69-0623 平和祈念公園において花を咲かせる樹木

70-0623 世界の凧

71-0623 世界の凧

72-0623 世界の凧

73-0623 世界の凧

陶芸センター、やちむん通り、南窯、すーじ小、ビンジュルグヮー、新垣家住宅、東ヌカー…壺屋やちむんの里

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 「壺屋大通り」から「壺屋陶芸センター」前を通り、「壺屋やちむん通り」を散策しました。「南壺屋焼物博物館」を過ぎると、左手丘の上に、「南窯(フェーヌカマ)」が見えます。小さな路地裏に入ると、「ようこそ壺屋の路地裏へ」「壺屋すーじ小」などの表示があり、いくつかの製陶所がありました。

 掲示板には、「原爆と戦争展、拝みのお知らせ」などの掲示がありました。「壺屋町民会自治会」の入口は施錠されていましたが、手前に、「ビンジュルグヮー」がありました。

 「新垣家住宅」は、存修理工事中で、立ち入ることができません。「壺屋やちむん通り」から「ひめゆり」通りに出る手前に、「東ヌカー」がありました。「壺屋やちむんの里」の案内もあり、「壺屋やちむんの里」には、数多くの工房(製陶所)があることがわかります。

01-0621 壺屋大通り

05-0621 壺屋陶芸センター

08-0621 壺屋やちむん通り

10-0621 壺屋やちむん通り

11-0621 南窯

12-0621 南窯

13-0621 南窯

14-0621 壺屋区役所跡

17-0621 壺屋やちむん通り

19-0621 ようこそ壺屋の路地裏へ

21-0621 育陶園

22-0621 壺屋すーじ小

23-0621 壺屋すーじ小

24-0621 原爆と戦争展、拝みのお知らせ

26-0621 壺屋町民会自治会

27-0621 ビンジュルグヮー

28-0621 ビンジュルグヮー

「ビンジュルグヮー…ビンジュルグヮーは、ビンジュルとも呼ばれ、壺屋の土地や集落を守るタチクチ(村建て)の神様をまつっているところです。 毎年旧暦1月、3月、6月、8月、9月、12月の壺屋の拝みのときには、婦人会が中心となって、豊年や、交通安全、壺屋の発展などを祈ります。 壺屋の全ての行事がここにはじまり、ここに終わると言われ、壺屋の人々にとって大切な場所です。 1998年 那覇市立 壺屋焼物博物館」

29-0621 ビンジュルグヮー

30-0621 壺屋やちむん通り

32-0621 新垣勲窯

33-0621 新垣家住宅保存修理工事について

34-0621 新垣家住宅保存修理工事

35-0621 新垣家住宅保存修理工事

37-0621 壺屋陶器会館

39-0621 仁王窯-小橋川製陶所

42-0621 東ヌカー

45-0621 東ヌカー

46-0621 東ヌカー

「東(アガリ)ヌカー…東(アガリ)ヌカーは村(むら)ガー(共同井戸)の一つです。「アガリ」は東のことを指す方言で、この井戸は壺屋の東側にあることから、アガリヌカーと呼ばれています。300年ほど前、村ができて最初に掘られたのがこの井戸だといわれています。 この井戸水は、貴重な飲料水として使われていました。戦後、水道が普及するにつれて、井戸を使うことも少なくなりましたが、壺屋の大切な拝所であることは今も変わりません。 1998年 那覇市立 壺屋焼物博物館」

47-0621 東ヌカー

48-0621 東ヌカー

49-0621 壺屋やちむんの里

50-0621 壺屋やちむんの里

51-0621 壺屋やちむんの里

52-0621 壺屋焼

「壺屋焼…1682年に当時の琉球王府が窯業振興(ようぎょうしんこう)のため美里村(現沖縄市)の知花焼・首里の宝口窯(たからぐちがま)・那覇の湧田窯(わくたがま)の三ヶ所にあった窯場(かまば)を現在の地に統合したのが壺屋の発祥(はっしょう)とされています。以来、壺屋では人々の生活と密着したあらゆる種類の陶器が生産されました。 300年余の歴史と伝統の火を燃やし続けている壷屋焼は大別すると「荒焼(あらやち)」と「上焼(じょうやち)」の二種類に分けられ、その優れた技法は昭和51年6月通商産業大臣より、伝統的工芸品の指定を受け、全国的に高く評価されています。」

53-0621 上焼

54-0621 上焼、荒焼

「上焼(じょうやち)…『上焼』は、釉薬(ゆうやく)をかけて、直接焼くのが大きな特徴で、食器・酒器・花器・茶器など日用雑器類の比較的小さいものが多く、絵付けの技法も変化に富んでいます。原料は、沖縄本島中北部から採れる粘土(ねんど)などを使用し、焼成温度(しょうせいおんど)は約1200℃です。 このシーサー(獅子)は上焼です。

荒焼(あらやち)…『荒焼』は南蛮焼(なんばんやき)とも呼ばれ、無釉(むゆう)又はマンガンを掛けた焼締め陶器で、水甕(みずがめ)・酒甕(さけがめ)・厨子甕(ずしがめ)などの大型のものが多く、原料は、クチャ・島尻マージ・ジャーガルなどの粘土(ねんど)を使用し、焼成温度(しょうせいおんど)は約1000℃です。」

58-0621 新垣家住宅

59-0621 新垣家製陶所

壺屋大通りの「タイル画」:「魚、花」が大部分、「宝船、陶器、その他」も…

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 「壺屋大通り」から「壺屋陶芸センター」前あたりの、道路「タイル画」を撮り、集計してみると、「魚(27)」「花(27)」「宝船(4)」「陶器(2)」「その他(4)」となり、「圧倒的に、魚や花をデザインしたものが多い」ことがわかりました。同じデザインを用いたと思われる作品で、微妙に異なっているものがあり、制作過程に想いを馳せると、興味深いものがあります。風景を描いた素敵な作品もありました。

01-0621 魚

03-0621 魚

04-0621 魚

07-0621 魚

08-0621 魚

10-0621 魚

13-0621 魚

16-0621 魚

17-0621 魚

18-0621 魚

24-0621 魚

25-0621 魚

28-0621 花

30-0621 花

31-0621 花

32-0621 花

34-0621 花

35-0621 花

36-0621 花

41-0621 花

43-0621 花

44-0621 花

51-0621 花

53-0621 花

55-0621 宝船

56-0621 宝船

57-0621 宝船

58-0621 陶器

59-0621 陶器

62-0621 その他

旭ヶ丘公園(小桜の塔、海鳴りの像、戦没新聞人の碑……)、対馬丸記念館、波上

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 那覇市若狭の「旭ヶ丘公園」一帯は、古くから信仰の場として崇められ、景勝地としても親しまれており、「波上宮」「護国寺」「波上ビーチ」などがあります。ここにも沖縄戦の爪痕が残され、「小桜の塔」「海鳴りの像」「戦没新聞人の碑」「殉職警察職員慰霊之碑」などがあります。

 「対馬丸記念館」には、沈没した学童疎開船「対馬丸」関連資料が展示されています。今年は、撃沈後70年の節目の年にあたります。26日、天皇、皇后両陛下が来県され、27日、「小桜の塔」と対馬丸記念館を訪れました。

01-0412 波上宮

03-0412 護国寺

04-0430 旭ヶ丘公園

05-0412 小桜の塔

06-0412 小桜の塔

対馬丸犠牲者の慰霊碑 小桜の塔… 沖縄(おきなわ)で地上戦(ちじょうせん)が始(はじ)まる前年(ぜんねん)、1944年8月21日疎開船対馬丸(そかいせんつしままる)は学童(がくどう)834名(めい)を含(ふく)む疎開者(そかいしゃ)1661名を乗(の)せ、2隻(せき)の僚船(りょうせん)とともに護衛鑑(ごえいかん)2隻(せき)に守(まも)られて、長崎(ながさき)に向(む)けて那覇港(なはこう)を出航(しゅっこう)しました。当時(とうじ)の沖縄(おきなわ)・九州(きゅうしゅう)の間(あいだ)は、敵潜水艦(てきせんすいかん)が出没(しゅつぼつ)する危険(きけん)な海域(かいいき)でした。 翌(よく)8月22日午後(ごご)10時過(じす)ぎ、那覇(なは)の沖合(おきあい)からこの船団(せんだん)を追(お)いかけてきた米潜水艦(べいせんすいかん)ボーフィン号の魚雷攻撃(ぎょらいこうげき)を受(う)け、船団(せんだん)の中(なか)で唯一(ゆいつ)対馬丸(つしままる)だけが撃沈(げきちん)されました。 犠牲者(ぎせいしゃ)は学童(がくどう)780名を含(ふく)む、訓導(くんどう)・世話人(せわにん)、一般疎開者(いっぱんそかいしゃ)、船員(せんいん)、砲兵隊員(ほうへいたいいん)など1500余名(よめい)にのぼりましたが、厳重(げんじゅう)な箝口令(かんこうれい)が敷(し)かれ、戦後数年(せんごすうねん)経(た)つまで詳細(しょうさい)は分(わ)かりませんでした。 小桜の塔(こざくらのとう)は、この対馬丸(つしままる)の犠牲者(ぎせいしゃ)を祀(まつ)った慰霊碑(いれいひ)です。1954年、愛知県(あいちけん)のすずしろ子供会(こどもかい)(会長、かいちょう 河合桂、かわいけい・当時、とうじ)が、沖縄(おきなわ)に子(こ)どものための慰霊碑(いれいひ)を建(た)てようと一円募金(いちえんぼきん)を募(つの)り、愛知県知事(あいちけんちじ)をはじめ同県(どうけん)の大(おお)きな協力(きょうりょく)によって沖縄(おきなわ)に贈(おく)られました。 塔(とう)は船首(せんしゅ)を那覇港(なはこう)に向(む)けたレリーフが正面(しょうめん)にデザインされ、両脇(りょうわき)には犠牲者名(ぎせいしゃめい)が記(しる)された刻銘碑(こくめいひ)が建(た)っています。(慰霊碑、いれいひ・ブロンズの鳩像、はとぞう/デザイン:玉那覇 正吉、たまなは せいきち) ●慰霊碑の立つ丘の向こう側に、「対馬丸記念館」があり、事件の詳細は同館で展示しています。」

08-0430 小桜の塔

11-0430

12-0430

15-0430

「小桜の塔建立について…愛知県丹陽村の『すずしろ子供会』会長河合桂氏は戦争の犠牲となった子供達の慰霊塔が沖縄にないことを憂え、昭和二十八年護国寺の名幸芳章住職を通じて対馬丸遭難者遺族会に建立の意志を申し出た。河合氏を始め関係者は愛知県の児童に広く一円募金を呼びかけて二十余万円の浄財及び資材を集めるに至り、同年五月五日小桜の塔が建立された。」

16-0430 悪石島の霊石

18-0412 対馬丸記念館

19-0430 旭ヶ丘公園ご案内

20-0430 旭ヶ丘公園MAP

21-0430 対馬丸記念館

22-0430 対馬丸記念館

23-0430 小桜の塔ご案内

24-0430 小桜の塔

25-0430 海鳴りの像

26-0430 海鳴りの像

27-0430 海鳴りの像

28-0430 戦没新聞人の碑

30-0430 殉職警察職員慰霊之碑

31-0430 ふんばるガジュマル

32-0430 ふんばるガジュマル

33-0430 波上

34-0430 波上

35-0430 波上

「波上(ナンミン)指定年月日:平成18年10月10日…波上は、人々から信仰の場として崇められ、景勝地としても親しまれてきました。 海に突き出した琉球石灰岩の崖には、沖縄貝塚後記から歴史時代初期の墓所である『波上洞穴遺跡』が存在し、波上宮社殿造営工事の際には、沖縄貝塚時代後記並びに14〜16世紀の遺跡が確認されています。 『おもろさうし』(1531年〜1623年)にも謡われ、波上宮が立地する以前から信仰の場であったことをうかがわせる陽石や石垣の存在が認められています。 『琉球神道記』(17世紀)、『琉球国由来記』(1713年)などに波上宮(祭神は、伊弉冉尊、いざなみのみこと・速玉男尊、はやたまおのみこと・事解男尊、ことさかのおのみこと)の縁起が記載されており、護国寺(本尊は、阿弥陀如来・薬師如来・千手観世音菩薩)とともに人々の尊崇を集め、王府の行事にも位置づけられるほどに重要な場所でした。 また、景勝地としての波上は、1663年(崇禎6)年に尚清王の冊封正使として来琉した杜三策(とさんさく)の従客だった胡靖(こせい)が著した『杜天使冊封琉球真奇観(とてんしさっぽうりゅうきゅうしんきかん)』をはじめ、たびたび冊封使録に登場しています。 18世紀の中葉、当地を訪れた冊封正使周煌が著した『琉球国志略』(1757年)に掲載されている『球陽八景』の一つとして、『筍崖夕照(じゅんがいせきしょう)』と題して描かれ、名高い景勝地であったことがわかります。 また、琉歌には、「でかよう思童波之上のぼて 月見し遊ば十五夜だいもの」「昔波之上に無蔵とながめたる 面影や今も月に見ゆさ」などと詠われ、そこが月見の景勝地であるとともに、逢瀬の場所であったこともわかります。 第2次世界大戦により、波上は戦災を受け、わずかに鳥居を残すのみになってしまいましたが、周囲の海岸線の埋立が急速に進められる中、往時の姿が偲ばれます。 設置 2008年3月 那覇市教育委員会」

36-0430 現在の波上宮(西側より撮影)

37-0430 昭和初期の波上宮(西側より撮影)

39-0430 波の上ビーチ

40-0412 波の上ビーチ

41-0412 波の上ビーチ

42-0412 波の上ビーチ

潮切りを設けた、六連の美しい曲線を持つアーチ橋…真玉橋

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 「真玉橋」は、琉球王府時代に、首里と島尻地方を結ぶ交通の要として築かれ、元は木橋の五連橋で、中央を真玉橋といいました。その後、六連橋となり、大きく美しい曲線を持つアーチを連ね、潮切りを設けた、沖縄独特の石造文化を代表する橋でしたが、沖縄戦で破壊されました。

01-0627 真玉橋

02-0627 真玉橋

03-0627 真玉橋

04-0627 真玉橋

05-0627 真玉橋

「真玉橋(まだんばし)…真玉橋は1522年(嘉靖元)に首里と島尻地方を結ぶ交通の要として築かれました。その橋は木橋の五連橋で、中央を真玉橋といい、南側が世持橋、北側が世寄橋、両端は名前のない橋でした。1707年(康煕46)に石橋への改築工事が開始され、翌年完成しました。その後、1837年(道光17)に世寄橋を改築し、その北側へ新たに世済橋を築き六連の石橋になりました。 真玉橋は、大きく美しい曲線を持つアーチを連ね、水流から橋を守るため脚部にはスーチリー(潮切り)を設けるなど、構造的にも景観的にも沖縄独特の石造文化を代表する橋でしたがむ、1945年(昭和20)の沖縄戦で破壊されました。 1996年(平成8)には、戦後つくられた橋の改修工事に伴う発掘調査によって、戦前の真玉橋が豊見城市側と那覇市側の双方でみつかりました。戦後、半世紀を経て再び風格ある姿を表した『真玉橋』を後世のために保存活用を図るように住民運動が展開され、その結果、豊見城市側で道路下に一部埋め戻し保存を行い比較的保存状態の良いアーチ部分を移築保存しています。 豊見城市教育委員会 2005年(平成17)1月設置 」

06-0627 真玉橋

07-0627 真玉橋

08-0627

09-0627

10-0627 真玉橋

11-0627 真玉橋

12-0627 真玉橋

「米軍ジェット機墜落事故」を忘れない!…うるま市宮森小学校

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 1959年6月30日、嘉手納空軍所属のジェット戦闘機が、テスト飛行中にエンジントラブルを起こし、石川市立(現うるま市立)宮森小学校に墜落しました。事故当時、私は、隣の城前小学校6年生でした。犠牲者の中には、小学校3年生の級友I君もいました。宮森小学校には、「仲よし地蔵」が設けられ、毎年6月30日に、慰霊集会が行われています。今年は55年目を迎えます。

「宮森小学校米軍ジェット機墜落事故…1959(昭和34)年6月30日、午前10時40分頃、米軍嘉手納基地所属のF100Dジェット戦闘機がテスト飛行中にエンジントラブルを起こしパイロットはパラシュートで脱出、無人になった機体は沖縄本島中部の石川市立(現うるま市立)宮森小学校に墜落し炎上、この事故で児童11人を含む17人が亡くなり、210人(児童156人、一般54人)が負傷しました。 当時、同小学校の教室ではミルク給食の時間でした。 突然の墜落事故で周辺は火の海となり、火だるまになった子供たちが水のみ場まで走り、そのまま息絶えたと伝えられています。 宮森小学校校内には、亡くなった子供達を慰霊するために「仲よし地蔵」が設けられ、毎年6月30日には慰霊集会が行われています。 この事故のことを風化させないために50年目の今年、関係者の方々が「宮森630館」設置準備委員会を設立しました。 2009年6月30日、宮森小学校内に事故を伝える資料室がオープンします。  公文書館通信 - 沖縄県公文書館」

引用(公文書館通信 - 沖縄県公文書館 http://www.archives.pref.okinawa.jp/publication/2009/06/post-218.html

01-0310 宮森小学校

02-0310 仲よし地蔵

03-0310 仲よし地蔵

04-0310 仲よし地蔵

05-0310 概況

「概況…1959年(昭和34年)6月30日午前10時40分、嘉手納空軍所属のF100ジェット戦闘機が2時限目終了後の楽しいミルク給食時間に、ここ宮森小学校に墜落、死者は小学生11名、一般の人6名、合計17名、重傷者220名余、住宅27棟、公民館1棟、3教室を全焼、住宅8棟、2教室を半焼させた。 10時36分に整備終了後のテスト飛行で嘉手納を飛び立った飛行機は、一旦東シナ海に向かうが真栄田岬上空でエンジン異常が発生、パイロットは嘉手納に引き返そうとするが、太平洋に向かえとの指示に従い、具志川上空でパラシュートで脱出救助、無人の飛行機はくしくも石川へ向かうことになる。わずか4分間の飛行であった。沖縄においては、第2次大戦後の基地災害では最も大きい事故で、世界の航空史上、まれな大惨事として国内外に大きく報道された。1999年(平成11年)6月30日」

06-0310 平和の鐘の塔

07-0310 平和の鐘の塔

08-0310 平和の鐘の塔

参照(宮森小学校「仲よし地蔵」「平和の鐘の塔」…うるま市石川 - 結〜つなぐ、ひらく、つむぐ〜 http://blog.goo.ne.jp/nrai5029knai/e/bf7dc28716acb5ae81723b57160bd340

 「うるま市石川会館」の右手に、「石川・宮森小ジェット機事故を語り継ぐ『写真展』主催:石川630会」の展示コーナーがあり、事故当時の「新聞」「写真」「手記」や「慰霊祭」の様子などが展示されています。

9-0417 みほそのまち

10-0417 うるま市石川会館

11-0417 うるま市石川会館

12-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

13-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

14-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

15-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

16-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

17-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

18-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

19-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

 

20-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

21-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

22-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

23-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

24-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

25-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

26-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

27-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

28-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

29-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

30-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

31-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

32-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

33-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

34-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

35-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

36-0619 宮森小ジェット機事故、写真展

(初めての方へ  NPO法人 石川・宮森630会 http://ishikawamiyamori630kai.cloud-line.com/kaityou/

ウランダー墓、ペルリ提督上陸之地、沖縄の歴史と人類愛を印す場所…泊外人墓地

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 那覇市泊、「沖縄県立泊高等学校」(那覇市泊3丁目19番地の2)の近くに、「泊外人墓地」があります。古くから、中国人、アメリカ人、イギリス人、フランス人、スウェーデン人などの外国人の墓があった所です。墓以外に、「ペルリ提督の記念碑」などもあります。墓地は現在も利用され、主に米国人が葬られています。墓地の一角には、「ゲットウ」が植栽されていました。

01-0504 泊外人墓地

02-0504 泊外人墓地

「泊外人墓地 那覇市指定文化財 指定:1987年(昭和62)年8月10日…ここには古くから22基の外国人の墓があったので、『ウランダー墓』などと呼ばれていた。その内訳は、中国人(清人)6人、アメリカ人10人、イキリス人2人、フランス・スウェーデン人各1人、不明2人となっている。このうち最も古いのは、中国人(漂流民)のもので墓碑から1718年(康煕57年)〜1785年(乾隆50年)の年号が読みとれる。 その後、欧米船の来航があいつぎ、1853年〜1854年にかけて5度したペリー提督の従者や、1908年当時沖縄県立中学校の英語教師ヘンリー・モアなど、この地で亡くなった外国人が葬られている。なかでも英国の水兵ウィリアム・ヘアーズの葬儀には、泊住民が惜しみなく協力した。それ故この地は、18世紀以降の沖縄の歴史とその人類愛を地上に印す記念すべき場所である。 なお、この墓地は現在も利用されており、主に米国人が葬られている。その数300余にのぼる。 那覇市教育委員会 平成12年3月 設置」

03-0504 TOMARI FOREIGN CEMETERY

04-0504 泊外人墓地

05-0504 泊外人墓地

06-0504 泊外人墓地

07-0504 泊外人墓地

08-0504 泊外人墓地

09-0504 泊外人墓地

10-0504 泊外人墓地

11-0504 泊外人墓地

12-0504 泊外人墓地

13-0504 泊外人墓地

14-0504 泊外人墓地

15-0504 1853年六月六日ペルリ提督上陸之地

16-0504 1853年六月六日ペルリ提督上陸之地

17-0504 ペルリ提督挨拶

「琉球人の繁栄を祈り且つ琉球人とアメリカ人とが常に友人たらんことを望む 一八五三年六月六日 大美御殿における招宴席上のペルリ提督挨拶」

18-0504 ペルリ提督記念碑

19-0504 ペルリ提督記念碑

20-0504 ゲットウ

21-0504 ゲットウ

22-0504 泊高等学校

参照(沖縄県立泊高等学校トップページ http://www.tomari-h.open.ed.jp/


ジェット機墜落事故、55年目の慰霊祭、なかよし地蔵、平和の鐘の塔、ミニバスケット…宮森小学校

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 6月30日12時頃、うるま市石川の「宮森小学校」を訪ねました。今回は南門から入りました。小雨の中、校庭には、鎮魂の曲が流れていますが、航空機の騒音で、かき消されることがありました。こんな日に……と、沖縄の現実を思い知らされた感じがしました。

 慰霊祭は終わっていたようです。「なかよし地蔵」を囲むようにテントが設営され、祭壇には、多くの花が供えられていました。その脇に、持参した花を供え、手を合わせました。

 体育館の壁には、「宮森小学校女子ミニバスケットボール 祝 第8回佐世保東ロータリー杯(長崎県)出場 大会期間:平成26年8月30日〜31日 第3回うるま市長杯優勝 第33回中頭春期大会優勝」と書かれた横幕が掲げられていました。

01-0630 宮森小学校校門

02-0630 女子ミニバスケットボール

03-0630 女子ミニバスケットボール

04-0630 南門

05-0630 南門側校舎

 菜園には「ヘチマ」や「オクラ」などが栽培されていました。

06-0630 ヘチマ栽培

07-0630 掲示板

08-0630 生徒用玄関

09-0630 校舎壁面

10-0630 校舎壁面の校章

11-0630 生徒用玄関

12-0630 渡り廊下

13-0630 折り鶴

14-0630 なかよし地蔵・祭壇

15-0630 なかよし地蔵・祭壇

16-0630 なかよし地蔵・祭壇

17-0630 なかよし地蔵・祭壇

18-0630 なかよし地蔵

19-0630 なかよし地蔵・祭壇

20-0630 平和の鐘の塔

21-0630 平和の鐘の塔

22-0630 平和の鐘の塔

23-0630 平和の鐘の塔

 「平和の鐘の塔」の後方、体育館の壁に(樹木に遮られてよく見えないのですが)、「壁画」が描かれていました。

24-0630 壁画

25-0630壁画

26-0630壁画

 「平和の鐘の塔」の側に、「ハマサキユイアギの御嶽 跡地」の石碑がありました。

27-0630 ハマサキ ユイアギの御嶽 跡地

勝連城跡、南風原地区、南原小学校前バス停、壁画

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 うるま市勝連南風原集落は、かつて、勝連城の南、海岸側にありました。集落から勝連城に至る門は「南風原御門」と呼ばれ、城の北側には「西原御門」がありました。「カッチンバーマー頌徳碑」によると、「南風原村が元島から現在地へ移動したとき、内間村との先陣争いがあり、公事や三司官に百万陳情し、後手ながらも南風原村の移動が実現した。 綿密な移動計画により、村の四角に守護神の村獅子を据え、碁盤目型の道路網、中央には村屋、東西に共同井戸と公共の広場、前方には防火・雑用水の池(クムイ)を掘り、村づくりの基盤を整えた。」と記されています。

01-0628 勝連城復元鳥瞰図

02-0628 南風原地区畑地

03-0628 南風原地区畑地

04-0628 勝連城方面

 勝連城跡一の郭から眺めると、南の海岸側から、北側の現在地に移住した理由がわかります。

05-0628 勝連城跡一の郭から見た南風原地区

06-0628 勝連城跡一の郭から見た南風原地区

07-0628 勝連城跡一の郭から見た南風原地区

08-0628 勝連城跡一の郭から見た南風原地区

09-0628 勝連城方面

 南原小学校前バス停側には、「アンパンマンシリーズのキャスト」「南原小エイサー」「好奇心、未来」「第○○期卒業生」などと描かれた「壁画」がありました。

参照(うるま市立南原小学校_jp- http://minamihara-sho.edu.city.uruma.okinawa.jp/

10-0628 南原小学校前バス停

11-0628 バス停側壁画

12-0628 バス停側壁画

13-0628 バス停側壁画

14-0628 バス停側壁画

15-0628 バス停側壁画

16-0628 バス停側壁画

17-0628 バス停側壁画

18-0628 バス停側壁画

19-0628 バス停側壁画

20-0628 バス停側壁画

21-0628 バス停側壁画

22-0628 バス停側壁画

23-0628 バス停側壁画

24-0628 バス停側壁画

 壁画の側には、「祝 第36回稲尾杯少年野球大会出場 南原ドラゴンズ 福岡県派遣8/14(木)8/17(日)」などと書かれた横幕があります。「ちっちゃな手まっすぐあげてみぎひだり 南原小学校」と書かれた、「交通安全標語」もありました。

25-0628 祝優勝南原ドラゴンズ

「発掘調査、復元、整備」進む「世界遺産・勝連城跡」2014-(1)

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 うるま市勝連、世界遺産「勝連城跡」では「発掘調査、復元、整備」工事が進められています。勝連城跡は、世界遺産勝連城跡休憩所に「ヘンザガー」、「世界遺産勝連城跡」案内板近くに「門口のカー」、「四の曲輪」内に「仲間ヌウカー」「ウタミシガー」「夫婦ガー」など、城跡内外に、多くの「カー」や拝所があります。城内からは中国、元代の陶磁器が出土し、『おもろさうし』の記載からも、当時の様子を伺うことができます。

01-0628 勝連城復元鳥瞰図

02-0628 勝連城復元鳥瞰図

「勝連城復元鳥瞰図…画は、東方から見た勝連城復元鳥瞰図。遠方の海は中城湾(なかぐすくわん)、左上方が中城城(なかぐすくじょう)です。口碑伝承では、初代城主は英祖王(えいそおう)系・大成王の五男であったといわれています。その後勝連按司は4代続き、6代目に世継ぎができないことから養子縁組みにより伊波グスクの伊波按司(いはあんじ)の六男が迎えられています。続く7、8番目は交代の理由は判りませんが浜川(はまかわ)按司になっています。そして9番目は茂知附(もちづき)按司となります。しかしこの按司は圧政を敷き酒に溺れたことから、人々の信頼の厚い阿麻和利(あまわり)によって倒されます。彼が10番目の城主になってからは勝連はますます栄えることとなったとあります。阿麻和利は琉球国王の尚泰久(しょうたいきゅう)の娘を妻にするほどの力をもち、中城城の護佐丸(ごさまる)を撃ち天下の統一を夢見たが1458年王府軍に攻められて落城してしまいます。」

 

04-0628 勝連城跡模型

05-0628 『おもろそうし』と勝連と阿麻和利

「『おもろそうし』と勝連と阿麻和利…勝連(かつれん)や阿麻和利(あまわり)について、沖縄最古(おきなわさいこ)の歌謡集(かようしゅう)である『おもろそうし』に数多く詠(よ)まれていて、勝連は『きむたか(肝高)』と表現され日本本土の京都(きょうと)や鎌倉(かまくら)にたとえられるほど繁栄(はんえい)していたとあります。

一 かつれんわ なおにきや たとえる やまとの かまくらに たとえる

又 きむたかわ なおにきや

勝連は、なんにたとえようか、京都や鎌倉にたとえようか(勝連の城が大いに栄えたことがうたわれています。)

一 かつれんの あまわり とひやくさ ちよわれ

又 きむたかの あまわり 又 かつれんと にせて 又 きもたかと にせて

勝連の阿麻和利、千年も万年も勝連をおさめよ、気高き阿麻和利、勝連にふさわしく、肝高の名にさわしく

一 かつれんの あまわり たま みしやく あり よな きや かまくら

これと いちへ とよま 又 きむたかの あまわり 又 しまちりの みそての あんし 又 くにしりの みそての あんし 又 しより おわる てたこす たま みしやく ありよわれ

勝連の阿麻和利は、神通力のある玉御柄杓を持っておられるよ。そのことを京や鎌倉にまで知られるし、誇ろう。 又 肝高の阿麻和利… 又 島を治める立派な按時のお生まれである。 又 国を支配する按司の誕生である。

又 首里におわす国王こそが玉御柄杓を持っておられるのに、わが阿麻和利按司もそれを持っておられるよ。と与勝の民は喜び誇った。 訳 島袋善吉 氏」

06-0628 世界遺産勝連城跡休憩所

07-0628 世界遺産 勝連城跡

09-0628 ヘンザガー?

10-0628 史跡 勝連城跡

1.史跡 勝連城跡

2.指定年月日 1961年4月11日

3.指定理由 勝連城は14世紀初期から始まり15世紀中期で終わる勝連按司系、浜川按司系、茂知附按司系、阿麻和利按司などの興亡をひめた連郭式の平山城である。 

4.説明事項 文化財保護委員会は1964年から1966年までの3次にわたる城内外の発掘調査を実施した。1970年には日本政府の援助によって城全域の遺構調査を実施し2の丸の舎殿跡などの各所に新しい遺構が発掘された。 面積 総面積 2027m2 本丸 633m2 2の丸 1207m2 3の丸 1922m2 4の丸 6948m2 東の郭 1259m2

5.保存上注意すべき事項

 みだりに現状を変更しないこと。

 城内からは石を持ち出さないこと。

11-0628 国指定史跡、勝連城跡

「国指定史跡 勝連城跡 昭和四十七年五月十五日指定…勝連城は、阿麻和利(あまわり)の居城として知られ、その前の城主は茂知附按司(もちづきあじ)であったと伝えられている。一四五八年、中城城主の護佐丸を滅ぼした阿麻和利は、その勢いで首里城を攻めたが大敗し、その後、城は廃城になったといわれている。 城跡は、一首の梯郭式山城で、一の郭・二の郭・三の郭・四の郭・東郭からなり、四方に琉球石灰岩の切石の石垣をめぐらしている。発掘調査の結果、一の郭に規模不明な瓦葺建物跡、二の郭に礎石を有する殿舎跡が確認されている。また、城内からは多量の輸入陶磁器をはじめ式器や武具、古銭などが出土し、なかでもすぐれた元様式の青磁器などから当時の繁栄ぶりをしのぶことができる。 勝連町教育委員会」

13-0628 勝連城跡

14-0628 城壁復元

15-0628 史跡 勝連城跡

16-0628 勝連城跡

17-0628 世界遺産

「世界遺産…2000年12月2日、勝連城跡は『琉球王国のグスク及び関連遺産群』の一つとして、ユネスコの『世界遺産条約』に基づく世界遺産リストに登録されました。 全世界の人々のために保護すべき遺産として、特に優れて普遍的な価値のあるものが、このリストに登録されます。」

18-0628 勝連城跡

「勝連城跡…勝連城は、五つの曲輪(くるわ)からなり、最も高い一の曲輪に上ると、北は遙(はる)か金武湾(きんわん)を囲む山原(やんばる)の山々や太平洋の島々が望まれ、南は知念(ちねん)半島や中城湾、それを隔てて護佐丸(ごさまる)の城である中城城(なかぐすくじょう)が一望(いちぼう)できる景勝地(けいしょうち)になっています。 城は、琉球王国の王権が安定していく過程で、国王に最期まで抵抗した有力按司(あじ)、阿麻和利(あまわり)が住んだ城です。伝承によると城主は勝連按司から最期の城主阿麻和利まで10代と伝えられています。勝連城や城主(按司)について、沖縄最古の歌謡集である『おもろさうし』に数多く詠まれていて、勝連は『きむたか(肝高)』と表現され、日本本土の京都や鎌倉にたとえられるほど繁栄していたとあり、阿麻和利も『千年もこの勝連をおさめよ、勝連の名高き王』と讃えられています。 阿麻和利は、国王の重臣(じゅうしん)で中城に居城した護佐丸を1458年に滅ぼし、さらに王権の奪取をめざして国王の居城である首里城を攻めましたが、大敗して滅びました。阿麻和利が滅ぼされたことによって、首里城を中心とする中山の王権はいちだんと安定しました。」

19-0628 Katsuren-jo site

21-0628 1四の曲輪

22-0628 門口のカー

24-0628 門口のカー

25-0625 仲間ヌウカー

27-0625 仲間ヌウカー

28-0628 四の曲輪

32-0628 ウタミシガー

34-0628 ウタミシガー

36-0628 夫婦ガー

38-0628 階段

40-0628 階段

41-0628 三の曲輪

42-0628 三の曲輪

43-0628 三の曲輪

45-0628 三の曲輪

46-0628 三の曲輪

「三の曲輪(くるわ)…三の曲輪ではこれまでの調査の結果、時代の移り変わりの様子がわかりました。古い時代は掘立柱(ほったてばしら)の建物が建ちならび、表面に粘土を貼ったすり鉢状の遺構(いこう)も中央部で見つかっています。これは水を貯める施設ではないかと考えられています。 新しい時代になるとこの三の曲輪全体が二の曲輪に建っていた殿舎(でんしゃ)建物と一対をなし、儀式などを執り行う広場に変わっていきました。 その後、城が滅んでからは祭祀(さいし)の場として使用され、中央西側に『肝高の御嶽(キムタカヌウタキ)』。その近くに神人(カミンチュ)たちが祭祀の際に休憩する『トゥヌムトゥ』と呼ばれる石列などが遺(のこ)されています。」

47-0628 三の曲輪

48-0628 埋葬人骨

「埋葬人骨…城門脇の城壁に接したところからグスク時代に属する幼児の人骨が折り曲がった状態で発掘されています。なぜ城壁に接して葬られたのか、なぜ半分に折り曲げられて葬られたのか、グスク時代の社会状況を考える上でも貴重な資料です。 また、グスク時代の人々のルーツを解明する上でもたいへん重要です。」

49-0628 勝連の按司の系譜

「勝連の按司の系譜…伝承ではこのグスクの城主は英祖王系2代目『大成王』の五男勝連按司だったと伝えています。この応答は五代まで続きましたが世継ぎがなかったことから、養子縁組により伊波グスク『伊波按司』の六男を迎えたと伝えられています。その後、交代の理由ははっきりしませんが7・8代目が『浜川按司』、9代目は『茂知附(もちづき)按司』といいます。茂知附按司は圧政を敷いたことから人々の信望を失い、やがて『阿麻和利』にとって代わられたといわれています。 参考までに伝承の上での系譜を記しておきます。」

51-0628 神人の腰掛け(トゥヌムトゥ)

「神人の腰掛け(かみんちゅのこしかけ)…ここに並(なら)べられている石(いし)はトゥヌムトゥと呼(よ)ばれ、旧暦(きゅうれき)の2月(がつ)と5月(がつ)に行(おこな)われる祭祀(ウマチー)の時に神人(かみんちゅ)たちが腰掛(こしか)けたりするものです。いつの頃から置かれたかはわかりませんが、整備にあたっては、動かさずにそのままの状態で置いてあります。」

53-0628 すり鉢状遺構No.1

「すり鉢状遺構 No1…この表示(ひょうじ)は、ここに埋(う)もれている遺構(いこう)を表現(ひょうげん)しています。遺構(いこう)の表面(ひょうめん)には粘土(ねんど)を張(は)りつけていることから、水(みず)を溜(た)める施設(しせつ)と考(かんが)えられます。」

55-0628 すり鉢状遺構No.2

「すり鉢状遺構 No2…この表示(ひょうじ)は、ここに埋(う)もれている遺構(いこう)を表現(ひょうげん)しています。遺構(いこう)の表面(ひょうめん)には粘土(ねんど)と、こぶし大(だい)の石(いし)を張(は)りつけてあります。」

56-0628 肝高の御嶽

 

礎石のある殿舎跡「二の曲輪」、瓦ぶきの建物「一の曲輪」…「世界遺産・勝連城跡」2014-(2)

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 勝連城跡二の曲輪 には、城の中でもっとも重要な建物であったと考えられる、礎石のある大きな殿舎跡が発見されています。「ウミチムン火の神」「ウシヌジガマ」などもあります。「ウシヌジガマ」は、身を隠すだけの場所で、秘密の抜け道などに通じてはいなかったのでしょうか。このような場所では、すぐ捕らえられ、身を凌ぐことは難しいように思いました。

 最後の城主・阿麻和利は、対外貿易を活発に行い、勝連を繁栄させたといわれ、「おもろさうし」で、「勝連の阿麻和利、千年もこの国を治めよ……」と謡われています。

01-0628 二の曲輪

02-0628 二の曲輪

03-0628 二の曲輪

「二の曲輪(くるわ)…二の曲輪では、正面約17m、奥行き約14.5mの大きな殿舎跡(でんしゃあと)が発見されました。この建物は城の中でもっとも重要な建物であったと考えられています。 礎石(そせき)のあるしっかりした建物で、屋根は板または草葺(くさぶ)きであったと考えられていますが、周辺からは大和系(やまとけい)瓦も発見されることから一部瓦葺きだった可能性もあります。 また、建物の四隅には長方形の石灰岩による石積みが発見されています。この石積みは、建物と同時にあったと考えられていますが、機能についてはわかっていません。 また、二の曲輪の西側には地元で『火の神(ひぬかん)』と呼ばれている場所があります。」

04-0628 ウシヌジガマ

「ウシヌジガマ…二の曲輪の北西側の洞穴は『ウシヌジガマ』と呼ばれています。『ウシヌジ』とは、伝説では敵に攻められ、危険なときに身を凌ぐ場所という意味があります。」

05-0628 二の曲輪

06-0628 二の曲輪

07-0628 二の曲輪

08-0628 (ウミチムン火の神)

09-0628 ウシヌジガマ

10-0628 ウシヌジガマ

11-0628 ウシヌジガマ

12-0628 ウシヌジガマ

13-0628 階段

14-0628 城壁

15-0628 一の曲輪

16-0628 一の曲輪

17-0628 一の曲輪

18-0628 金属製品、瓦

19-0628 一の曲輪の概要

「一の曲輪(くるわ)の概要…一の曲輪は、1965(昭和40)年から数回にわたって発掘調査が行われ、いろいろなことがわかりました。 岩盤(がんばん)をけずって平坦(へいたん)にするなど大がかりな土木工事を行い、瓦ぶきの建物があったことがわかっています。多くのグスクの中で瓦ぶきの建物があったのは、現在のところ勝連城のほかには首里城、浦添城だけです。 出入口の門付近から唐草様(からくさよう)の浮き彫りのついたアーチ石の一部が発見されており、装飾(そうしょく)を施(ほどこ)した豪壮(ごうそう)なアーチ門であった可能性があります。」

20-0628 最期の城主 阿麻和利

「最後の城主 阿麻和利(あまわり)…北谷間切屋良(ちゃたんまぎりやら、嘉手納町)で生まれた阿麻和利は、すぐれた才能の持ち主で、勝連按司(あじ)に仕えました。領民の信頼を得た阿麻和利は、9代城主・茂知附(もちづき)にかわって城主となると、本土をはじめとする対外貿易を活発に行い、この勝連を大いに繁栄(はんえい)させたと伝承(でんしょう)されています。 その様子を沖縄の古謡(こよう)『おもろさうし』に、次のように謡われています。

一 かつれんわ なおにきや たとえる やまとの かまくらに たとえる 又 きむたかは なおにきや (勝連は、なんにたとえようか、京都や鎌倉にたとえる 又 気高き勝連は、なんにたとえよう)

一 かつれんの あまわり とひやくさ ちよわれ 又 きむたかの あまわり 又 かつれんと にせて 又 きむたかと にせて (勝連の阿麻和利、千年もこの国を治めよ、又 気高き按司阿麻和利よ 又 勝連にふさわしく 又 きむたかの名にふさわしく) 若くして勝連の按司となった阿麻和利は、1458年、宿敵護佐丸(ごさまる)を討ち、天下の統一を夢見たが王府軍に攻められて落城し、廃城になったといわれています。(護佐丸・阿麻和利の乱)」

21-0628 一の曲輪

22-0628 一の曲輪

23-0628 一の曲輪

24-0628 玉ノミウヂ御嶽

25-0628 玉ノミウヂ御嶽

26-0628 玉ノミウヂ御嶽

27-0628 三角点

28-0628 二の曲輪

29-0628 一の曲輪からの眺望

30-0628 海中道路

31-0628 海中道路

32-0628 浜比嘉島

33-0628 一の曲輪からの眺望

34-0628 一の曲輪からの眺望

35-0628 一の曲輪からの眺望

36-0628 南風原地区

37-0628 南風原地区

38-0628 南風原地区

39-0628 南風原地区

40-0628 城壁

41-0628 城壁

42-0628 勝連城跡

43-0628 南風原古島遺跡、浜川ガー、クトジ御嶽

44-0628 南風原古島遺跡、浜川ガー、クトジ御嶽

「南風原古島遺跡(はえばるふるじまいせき)…南風原御門(ハエバルウジョウ)から南東側に下る石畳道(イシダタミミチ)の南側に大きく展開するグスク時代の集落跡です。 1986年に大規模な宅地造成が計画された際にむ、発見されました。調査の結果、集落の石累遺構(せきるいいこう)が発掘され注目されました。また陶磁器類(とうじきるい)も多数出土しています。 同集落は、廃城後も18世紀前半まで存在しましたが、1726年に前浜親雲上(マエハマペーチン、カッチンバーマー)の活躍により、現在の場所に移動しました。」

「浜川ガー(ハンガーガー)…絶世の美女真鍋樽(マナンダルー)が頭髪を洗髪したことで有名な井戸(カー)です。真鍋樽は、勝連城7代目の城主浜川按司(はまかわあじ)の娘で、彼女の黒髪は身長の1.5倍もあり、竿(さお)にかけて洗ったという言い伝えがあります。」

45-0628 クトジ御嶽

「クトジ御嶽(うたき)…クトジ御嶽は、『琉球国由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)』に勝連間切(かつれんまぎり)の拝所(はいしょ)として『コト瀬嶽神名(せたきしんみょう)マネヅカサノ御(お)イベ』と記録されています。旅果報(たびがほう)、航海安全(こうかいあんぜん)を願う拝所です。 中国から来た女性が、この御嶽の洞穴(どうけつ)で子供を出産したという言い伝えが残されています。 また、中国から品物を運んできた時は、まずはこの御嶽に置いてから城に運んだと伝えられています。」

46-0628 勝連城跡

47-0628 勝連城跡の立地

「勝連城跡の立地…城は、勝連半島(かつれんはんとう)のつけねに立地する標高60〜100mの丘陵上(きゅうりょうじょう)に築かれています。 崖地形(がけちけい)が巧(たく)みに利用され、曲輪(くるわ)の配置は、北西側の一の曲輪から各平場(かくひらば)が階段状に低くなり、南東側の東の曲輪で再び高くなります。最も高い一の曲輪に上ると、北方向は金武湾(きんわん)を囲む北部の山々や太平洋の島々が望まれ、南方向は知念半島(ちねんはんとう)や中城湾(なかぐすくわん)、それを隔てて護佐丸(ごさまる)の居城である中城城が一望できる景勝地(けいしょうち)になっています。 城の南側はかつて南風原(はえばる)集落(南風原古島遺跡、はえばるふるじまいせき)が展開して、海岸には海外貿易の拠点となった港がありました。一方、城の北側は、かつては湿地帯(しっちたい)であり、城の財政をささえる水田などの農地が広がっていました。」

48-0628 Location of Katsuren-jo Site

49-0628 勝連城跡模型

稲刈り、稲穂、ガードレールに稲干し!…金武町伊芸地区

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 金武町伊芸地区では、水田の2期作が行われています。「年間の流れ:3月…1期作の田植え、6月…1期作の収穫。8月…2期作の田植え、11月…2期作の収穫。11月…コスモスの種まき、2月…コスモスの開花(コスモス畑)。すき込み緑肥にする。」

 1期作収穫時期の7月4日、金武町伊芸地区を訪ねました。金武町伊芸地区集会所前の水田は大部分、刈り取られていました。金武町伊芸地区公民館前では、刈り取りの場面を見ることができました。機械で刈り取られた稲穂は束ねら、機械の側面から、ポイポイ投げ出されます。それを拾い集め、車に乗せ、干場まで運びます。

 この時期、道端のガードレールは、格好の干場となります。稲束をまばらに掛け、場所取りの目印としている様子が見られます。今年は、田植えから稲刈りまで、一連の流れを見ることができました。伊芸地区で生産している品種はほとんどが「ちゅらひかり」で、他に「ひとめぼれ」などがあります。刈り取り後の稲穂は、天日干しのため、道路沿いのガードレールなどにかけられ、収穫時期の風物詩となっています。

代掻き、田植え(3月14日) 

01-0314 代掻き

03-0314 田植え

05-0314 田植え

稲穂をつけている水田(6月10日)

06-0610 水田

07-0610 水田

10-0610 水田

11-0610 水田

刈り取り、稲穂、稲干し(7月4日)

12-0704 刈り取られた水田

15-0704 稲刈り

18-0704 稲刈り

20-0704 稲刈り

21-0704 稲刈り

23-0704 稲穂

24-0704 稲穂

270704 稲穂

29-0704 稲穂

30-0704 稲穂

31-0704 稲穂

32-0704 稲干し

35-0704 稲干し

36-0704 稲干し

39-0704 稲干し

42-0704 稲干し

43-0704 稲干し

44-0704 稲干し

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