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平敷屋朝敏、平敷屋タキノー、碑文、歌碑(うるま市勝連平敷屋)

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 うるま市勝連平敷屋に「平敷屋タキノー」と呼ばれる丘があります。組踊「手水の縁」の作者で、和文学者でもあった平敷屋朝敏が、脇地頭在任中、水不足になやむ農民のためにため池をほり、ほり出した土を盛り上げ築いた丘だと伝えられています。勝連半島から太平洋を見渡せる景勝地として知られている所です。「平敷屋小学校」「米軍施設ホワイトビーチ」「陸上自衛隊勝連分屯地」「海上自衛隊沖縄基地隊」などが近くにあります。当日は、雨でしたが、眼下の「ホワイトビーチ」に艦船が見えました。

「平敷屋朝敏(へしきや・ちょうびん)朝日日本歴史人物事典の解説…生年: 尚貞32.11.23 (1701.1.1) 没年: 尚敬22.6.26 (1734.7.26) 近世琉球の和文物語作者。有力な家に生まれたが、父親は朝敏が6歳のとき29歳で死に、母方の祖父和文学者の屋良宣易のもとで薫陶を受ける。作品には短い和文の物語『苔の下』『若草物語』『万歳』『貧家記』と若干の和歌がある。前3作が恋物語で、これらから朝敏には好色と美男のイメージが付きまとい、「琉球の業平」ともいわれている。尚敬22(1734)年、友寄安乗 らと計って首里王府を誹謗する落書を薩摩在番役人の宿舎に投げ入れるなどして捕らえられ、一党ことごとく処刑、男子は流罪、妻は百姓に落とされた(平敷屋・友寄事件)。しかし事件の全貌は今もって謎である。悲劇的な死ということもあって伝説的な面影も加わり、組踊では珍しい恋愛物「手水の縁」はこの人の作に擬せられている。 (池宮正治)」

引用(平敷屋朝敏 とは - コトバンク http://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E6%95%B7%E5%B1%8B%E6%9C%9D%E6%95%8F

01-0518 平敷屋タキノー

02-0518 平敷屋タキノー

03-0518 平敷屋タキノー

04-0518 平敷屋タキノー

「平敷屋タキノー 勝連町指定文化財第1号…この地域は平敷屋タキノーとよばれ、標高(ひょうこう)70m余りの小さな丘です。1727年脇地頭(わきじとう)としてこの地を配(はい)された平敷屋朝敏は、水不足になやむ農民(のうみん)のために、ため池をほりました。その時ほり出した土を盛り上げ築いたのがこの丘だと伝えられています。 近年住宅化が進み、タキノーや池も整備・改修がなされ昔と趣(おもむき)を異(こと)にしたが、勝連半島を取り巻く太平洋のみはらせるすばらしい景勝地(けいしょうち)です。1896年には、和文学者でもあった朝敏の琉歌の記念碑(ひ)も建立(こんりゅう)されました。 また、近くには御嶽(うたき)やヒータムイ(のろし台)や平敷屋古島遺跡(ふるじまいせき)もあり、昔の集落を研究するにも重要な史跡(しせき)です。 文化財保護条例により、勝連町指定文化財に指定する。 平成2年3月26日 勝連町教育委員会」

05-0518 平敷屋タキノー

06-0518 遊具

07-0518 遊具

08-0518 歌碑

「哀そのはた打ちかへす せなかより ながるあせや 瀧つしらなみ 平敷屋朝敏歌碑建立期成会 昭和六十一年三月三十一日竣工」

09-0518 歌碑(裏)

10-0518 碑文

11-0518 碑文

12-0518 碑文

「碑文…平敷屋朝敏は一七〇〇年首里金城村に生を受け、一七三四年三十四歳の若さで安謝港に於いて『八付』にされた。世にいう『平敷屋・友寄事件』によってである。朝敏は、薩摩藩支配下における苦難の次代に、士族という自らの身分におごることなく、農民を始とした弱い立場の人たちに暖かい眼差しを向けることの出来た、沖縄近世随一の和学者でありました。思えば、朝敏の憂き目は、当時の封建支配の原理道徳に背を向けようとする、人間としての優しさゆえの到達点でもあったと言い得ることである。 このタキノーは、朝敏が脇地頭在任中当地平敷屋に滞在した折、農民の水不足を解消するために用水池を掘り、その土を盛りつけて構築したと伝えられている。更に彼の和文学の作品『貧家記』には、碑に掲げられた和歌を始め、当時の勝連の風物や貧しかった領地領民の生活環境が四十首の和歌とともに描写されている。『貧家記』のなかの一首 入り日さすまつばら近くみつしほを あすなが崎のあすもきてみん は、夕暮れの半島のはずれ『あしな』浜を詠んだものである。 琉球和文学の粋を極め、組踊『手水の縁』の作者でもある朝敏はまた、物ごとの本質を見つめ続けようとしたすぐれた批判精神の持ち主でもあった。次の琉歌はその一端をとろしてあまりある。 四海波たてて硯みずなちも 思事やあまた書きもならぬ 平敷屋朝敏没後二百五十年の節目(一九八四年)に、私たちは多くの人と人との出会いを機縁にして朝敏歌碑建立のための期成会を発足させた。そして今、朝敏がこよなく愛したと伝承されるこの地平敷屋タキノーに歌碑を建立し、永く平敷屋朝敏とその志を讃えるものである。 一九八六年三月三十一日 平敷屋朝敏歌碑建立期成会」

13-0518 東屋

14-0518 シーサー

15-0518 シーサー

16-0518 小鳥

17-0518 ホワイトビーチ

18-0518 ホワイトビーチ

19-0520 与勝第二中学校

参照(うるま市立与勝第二中学校_jp- http://yokatsu2-chu.edu.city.uruma.okinawa.jp/

参照(平敷屋小学校_jp-  http://heshikiya-sho.edu.city.uruma.okinawa.jp/


平成の名水百選−「荻道大城湧水群」−1(北中城村)

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 「環境省は、平成20年6月5日、水環境保全の一層の推進を図ることを目的に、地域の生活に溶け込んでいる清澄な水の水環境のなかで、特に、地域住民等による主体的かつ持続的な水環境の保全活動が行われているものを、『平成の名水百選』として選定しました。現在の『名水百選』(昭和の名水百選)と併せて200選となっています。」

参照(環境省選定 平成の名水百選/インフォメーション https://www2.env.go.jp/water-pub/mizu-site/newmeisui/info/index.html) 

 「平成の名水百選」には、沖縄県から、「荻道大城湧水群」(北中城村)が選出されています。「荻道大城湧水群」は、「?ヒージャーガー?アガリヌカー?チブガー?イリヌカー(大城)?イーヌカー?メーヌカー?タチガー?イリヌカー(荻堂)?アガリカー?アカタガー」の10箇所からなっています。

参照(環境省選定 平成の名水百選/詳細ページ/荻道大城湧水群 https://www2.env.go.jp/water-pub/mizu-site/newmeisui/data/index.asp?info=100

 「名水百選」(昭和60)には、沖縄県から、「垣花樋川」(南城市玉城字垣花)が選出されています。

参照(環境省選定 名水百選/詳細ページ/垣花樋川 https://www2.env.go.jp/water-pub/mizu-site/meisui/data/index.asp?info=100

 「水環境総合情報サイト」には、「全国の水環境状況」「全国水生生物調査」「名水百選」「平成の名水百選」「快水浴場百選」などが掲載されています。

参照(水環境総合情報サイト https://www2.env.go.jp/water-pub/mizu-site/index.asp

 「荻道大城湧水群」の中から、今回は、「?チブガー?イリヌカー(大城)?ヒージャーガー?イーヌカー」を紹介します。?アガリヌカーは下記を参照,願います。

参照(悠久の歴史を刻む「アガリヌカー」…大城・荻堂、歴史の散歩道 http://blog.goo.ne.jp/nrai5029knai/e/6c4b2b28e3cc6ed30eba4fe7b2e187a2

 北中城村大城、県道146号線沿い右手に、東屋を備えた「チブガー庭園」があり、庭園右側に、「?チブガー(大城)」があります。

 

00-0525 チブガー庭園

01-0525 ?チブガー

 

02-0525 ?チブガー

 

03-0525 ?チブガー

「チブガー(チブ井泉)大城…大城集落で最も古い共同井泉と言い伝えられているが、築造年代は詳らかでない。 このカー(井泉)は大城のウブガー(産井泉)で新生児のウブミジ(産水)として利用された。また、死者がでた場合身体清めの水もこのカーから汲んできた。 水量が豊富で、区民の洗濯、野菜洗い、水浴び等生活用水として貴重なカーだった。また、多くの人たちが集まりふれ合いの場としても大きな役割を果たしてきた。 戦前は旧正月2日、現在は1月3日に区の役員有志が水の恵みに感謝してハチウビー(初御水)の祈願をしている。 北中城村」

 

04-0525 ?チブガー

 

05-0525 ?チブガー

 「チブガー庭園」のすぐ近く、県道146号線沿い右手に、「?イリヌカー(大城)」があります。

 

06-0510 ?イリヌカー(大城)

 

07-0510 ?イリヌカー(大城)

 

08-0510 ?イリヌカー(大城)

 

09-0510 ?イリヌカー(大城)

 

10-0510 ?イリヌカー(大城)

 

11-0510 ?イリヌカー(大城)

「イリヌカー(西井泉)大城…イリヌカーの築造年代は詳らかでない。このカー(井泉)は大城集落の主に西側の住民が飲料水として利用していた。大正11年(1922)にカーの上にコンクリートでゴミ除け用の屋根が取りつけられた。 このカーは水量が豊富だったので、昭和10年(1935)ごろこのカーを水源として集落内に簡易水道が布設されたが水の流れはあまりよくなかった。 戦前は旧元旦の早朝主に集落西側の子どもたちがワカミジ(若水)として汲んできて、それをヒヌカン(火の神)や仏壇等に供えて新しい年の家運繁昌と家族の健康を祈願した。 戦前は旧正月2日、現在は正月3日に字の役員・有志が水の恵みに感謝してハチウビー(初御水)の祈願をしている。 北中城村」

 

12-0510 ?イリヌカー(大城)

 「?イリヌカー(大城)」から、県道146号線を西に行くと、左手に松の木が見え、道路より一段低い広場へ通じる階段を下りた所に、「?ヒージャーガー(荻道)」があります。

 

13-0524 ?ヒージャーガー

 

14-0524 ?ヒージャーガー

 

15-0524 ?ヒージャーガー

 

16-0524 ?ヒージャーガー

 

17-0524 ?ヒージャーガー

 

18-0524 ?ヒージャーガー

 

19-0524 ?ヒージャーガー

「ヒージガー(樋川井泉)荻道…このカー(井泉)の築造年代は詳らかでない。 1965年(昭和40)12月に水道が通水されるまで、大半の過程が、ここの湧水を飲料水として利用していた。 1924年(大正13)改修後は、メーヌカー(前の井泉)に代わってウブガー(産井泉)として新生児のウブミジ(産水)にも利用されたと伝えられている。 旧元日の早朝子どもたちが、カーの水をワカミジ(若水)として汲んできた。 この水をヒヌカン(火神)等に供えたりお茶を沸かして仏壇にさしあげて新しい年の家運繁昌と健康を祈った。 戦前は旧正月2日、現在は元日に区の役員有志が水の恵みに感謝してハチウビー(初御水)の祈願をしている。 北中城村」

 

20-0524 ?ヒージャーガー

 

21-0524 ?ヒージャーガー

 

22-0524 ?ヒージャーガー

 「?ヒージャーガー(荻道)」から、県道146号線を西に行くと、左手階段を下りた所に、「?イーヌカー(荻道)」があります。

 

23-0525 ?イーヌカー

 

24-0525 ?イーヌカー

 

25-0525 ?イーヌカー

 

26-0525 ?イーヌカー

 

27-0525 ?イーヌカー

 

28-0525 ?イーヌカー

 

29-0525 ?イーヌカー

「イーヌカー(上の井泉)荻道…イーヌカーは荻道集落の共同井泉の一つでいつ頃築造されたかは詳らかでない。 1965年(昭和40)12月に水道が布設されるまで屋敷内にチンガー(井戸)のない家庭にとって、洗濯、野菜洗い、水浴び等生活用水として、貴重な井泉であった。 また住民の情報交換、老幼男女の触れあい、憩いの場としても大きな役割を果たしてきた。 戦前は旧正月2日、現在は元日に区の役員有志が水の恵みに感謝してハチウビー(初御水)の祈願をしている。 北中城村」

 

30-0525 ?イーヌカー

平成の名水百選−「荻道大城湧水群」−2(北中城村)

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 「荻道大城湧水群?ヒージャーガー?アガリヌカー?チブガー?イリヌカー(大城)?イーヌカー?メーヌカー?タチガー?イリヌカー(荻堂)?アガリカー?安里ガー(アカタガー)」のうち、今回は、平成の名水百選−「荻道大城湧水群」−2として、「?アガリカー?安里ガー(アカタガー)?メーヌカー?イリヌカー(荻堂)?タチガー」を紹介します。

 県道146号線を荻堂から大城方面、南東に向かうと、「中村家住宅」の標識より前方左側に、「遊食屋さーふーふー」の案内があります。表示に沿って、左の小道を進むと、「さーふーふー」の近く、左側に、「アガリガー」が見えます。

01-0524 ?アガリガー

02-0524 ?アガリガー

03-0524 ?アガリガー

04-0524 ?アガリガー

05-0524 ?アガリガー

06-0524 ?アガリガー

「アガリヌカー(東井泉)大城…アガリヌカーの築造年代は明らかでない。このカー(井泉)は大城集落の大半の住民が飲料水として戦後上水道が敷設されるまで利用してきた。 大正14年(1925)カーの上にコンクリートでごみ除けの屋根が取り付けられたが、1959年と2001年に改築された。 戦前は、旧元旦の早朝に子供達がカーの水をワカミジ(若水)として汲んできた。 この水をヒヌカン(火の神)や仏壇などに供えて新しい年の家運隆盛と家族の健康を祈った。 戦前は旧正月2日、現在は正月3日に字の役員有志が水の恵みに感謝してハチウビー(初御水)の祈願をしている。 北中城村」 

 「大城コミュニティ広場」の西方、左手に墓地を見ながら進むと、右手に 「安里ガー(アカタガー)」の標識が見えます。道路から、一段低い場所にあり、訪ねた際は、男性が、収穫した「島らっきょう」を、カーの水で洗っているところで、「この辺一帯は、中村家の畑だよ」と話してくれました。

07-0524 ?安里ガー

08-0524 ?安里ガー

09-0524 ?安里ガー

10-0524 ?安里ガー

11-0524 ?安里ガー

12-0524 ?安里ガー

 「?ヒージャーガー(荻道)」から、県道146号線を西に行き、左手階段を下りた所に、「?イーヌカー(荻道)」がありました。その小道を南に向かうと、右手の畑に、バナナが群生している一角があり、「メーヌカー」の標識があります。説明板等はありません。

13-0525 ?メーヌカー

14-0525 バナナ

15-0525 ?メーヌカー

16-0525 ?メーヌカー

 県道146号線を荻堂から西に進むと、左手に赤い消火栓が見えます。その小道を左に進むと、右手に、「イリヌカー(荻道)」の標識が見えます。

17-0528 ?消火栓

18-0528 ?イリヌカー(荻道)

19-0528 ?イリヌカー(荻道)

20-0528 ?イリヌカー(荻道)

21-0528 ?イリヌカー(荻道)

22-0528 ?イリヌカー(荻道)

23-0528 ?イリヌカー(荻道)

「イリヌカー(西のイリヌカー)荻道…イリヌカーは荻道集落の共同井泉の一つでいつ頃築造されたかは詳らかでない。1965年(昭和40)12月に水道が布設されるまで屋敷内にチンガー(井戸)のない家庭にとって洗濯、野菜洗い、水浴び等生活用水として貴重な井泉であった。また、住民の情報交換、老幼男女の触れあい、憩いの場としても重要な役割を果たしてきた。戦前は旧正月2日、現在は元日に区の役員有志が水の恵みに感謝してハチウビー(初御水)の祈願をしている。 北中城村」

24-0528 ?イリヌカー(荻道)

 県道146号線を荻堂から西に進むと、左手に「非核宣言の村」と書かれた看板、その先に信号があります。信号を右折し、しばらく行くと、道沿い左手に、「タチガー」の表示があります。そこから、坂を下りていくと、右手に、「タチガー」の標識があります。岩間から湧き出す水は、下方の「タンク」に貯めているようです。タンクの側には、溢れ出た水を汲み出す溜まりがあり、その側に、「タチガーのお地蔵さま」が祀られていました。

25-0524 タチガー標識

26-0524 坂を下る

27-0524 ?タチガータンク

28-0524 ?タチガー

29-0524 ?タチガー

30-0524 ?タチガー

31-0524 ?タチガー

32-0524 タチガータンク

33-0524 ?タチガーのお地蔵さま

34-0524 ?タチガーのお地蔵さま

35-0524 ?タチガーのお地蔵さま

「タチガーのお地蔵(じぞう)さま…平成の名水百選のひとつ、タチガーの清らかな湧き水が未来永劫(みらいえいごう)に残ることを願って祠地蔵尊(ほこらじぞうそん)を建立(こんりゅう)しました。 すべての命の根元である水に感謝し、節度・分別をもって、大切に使いましょう。 平成二十六年睦月吉日 おきなわ環境塾」

36-0522 取水口

37-0522 取水口

38-0522 取水口

勝連小学校、内間ホーヤー木、馬場跡、ガーラ矼、与勝第二中学校(うるま市勝連内間、饒辺)

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 「うるま市の文化財」をもとに、「ガーラ矼」を探したのですが、なかなか見つけることができませんでした。そこで、「勝連図書館」で尋ねたところ、職員のYさんが、地図を見せながら説明してくれました。「今は、この場所にいます。ここから右折して進むと大きな道路に出ます。そこを右折して進むと信号があるので、信号を左折して、『勝連小学校』沿いに進んでいくと、公民館があります。その道を進むと、あしびなーが見えます。そのまましばらく行くと、ガーラ矼に着きます。」とのことでした。地図を見ながら、説明された通りに行くと、勝連小学校、内間公民館、内間ホーヤー木、馬場跡、内間あしびなーがあり、無事、ガーラ矼にたどり着くことができました。「勝連図書館」のYさん、ありがとうございました(5月20日)。今日(5月30日)、再度尋ねました。

参照(文化課トップ http://www.city.uruma.lg.jp/1/289.html

参照(うるま市立図書館-勝連図書館 http://www.library.city.uruma.lg.jp/2/1989.html

01-0530 勝連小学校

02-0520 勝連小学校

03-0520 勝連小学校

04-0520 勝連小学校

05-0520 勝連小学校

06-0520 勝連小学校

07-0520 勝連小学校

08-0520 勝連小学校

09-0520 勝連小学校

10-0520 勝連小学校

11-0520 勝連小学校

参照(うるま市立勝連小学校_jp- http://katsuren-sho.edu.city.uruma.okinawa.jp/

12-0530 内間公民館

13-0530 内間ホーヤー木

14-0520 内間ホーヤー木

 歴史的な「内間ホーヤー木」は台風で倒れ、現在の木は、二代目です。

15-0520 内間ホーヤー木

16-0520 内間ホーヤー木

「内間ホーヤー木 勝連町文化財第3号…このガジュマルの木は、内間村(むら)の歴史を語る貴重(きちょう)な古木(こぼく)です。18世紀の終わりごろ、内間村(むら)が与那城三叉路の山手側にある古島原から、現在地に移動した時に植えられたとのいい伝えがあります。 村(むら)のウスデークの歌にも登場する木です。 内間這(ほ)うや木(きー)ぬ 枝むちぬ美(ちゅ)らさ 内間みやらびぬ 身持ち(みむち)美(ちゅ)らさ 文化財保護条例により、勝連町指定文化財に指定します。 平成2年3月26日 勝連町教育委員会」

17-0520 馬場跡

18-0520 馬場跡

19-0520 馬場跡

「馬場跡(うまばあと)…この馬場は、現在の与那城小学校にあった『北馬場』に対して、『南馬場』と呼ばれていました。 民話によると、この馬場で豊年を祈願するアブシバレーのとき、馬ハラセー(競馬)を開催し、他地域からいい馬が集まったといわれています。 設置 うめま市教育委員会」

20-0530 内間あしびなー

21-0530 内間あしびなー

22-0530 内間あしびなー

23-0530 ガーラ矼へ

24-0520 ガーラ矼

25-0520 ガーラ矼

26-0530 饒辺矼

27-0530 饒辺矼

28-0520 饒辺矼

29-0520 ガーラ矼

30-0520 ガーラ矼

31-0520 ガーラ矼

32-0520 ガーラ矼

33-0520 ガーラ矼

「ガーラ矼(ばし)うるま市指定文化財『建造物』…ガーラ矼(ばし)は、1928年(昭和3年)に木材から石材の矼へ改修されました。 木材の橋は、饒辺集落の学童が小学校へ通うために造られましたが、大雨が降るとその橋は流されてしまう危険があり、高さ5m、幅2m、横断延長5mのアーチ型の矼になりました。その構造は通行人等が通り、重力がかかることで堅古(けんこ)な矼になるように造られ、建築家より高く評価されています。 昔の石造りのガーラ矼は、現在の橋の下に復元されています。 設置 2011年3月 うるま市教育委員会」

34-0520 ガーラ矼

35-0520 ガーラ矼

36-0520 与勝第二中学校方面

37-0530 与勝第二中学校

38-0530 与勝第二中学校

39-0530 与勝第二中学校

40-0530 与勝第二中学校

41-0530 与勝第二中学校

参照(うるま市立与勝第二中学校_jp- http://yokatsu2-chu.edu.city.uruma.okinawa.jp/

壺屋区役所跡、てんぷら坂、那覇劇場跡…那覇市壺屋

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 那覇市壺屋、「壺屋やきもの通り」前から、「壺屋大通り」を下っていくと、道沿い左手に「壺屋区役所跡」(那覇市壺屋1-16)があります。戦後、最初に設置された、那覇市の行政庁舎跡です。

01-0531 壺屋区役所跡

02-0531 壺屋区役所跡

03-0531 壺屋区役所跡

04-0531 壺屋区役所跡

05-0531 壺屋区役所跡

「壺屋区役所跡(ツボヤクヤクショアト)那覇市壺屋1-16…沖縄戦の後、最初に設置された那覇市の行政庁舎跡。 沖縄戦以前、上之蔵(うえのくら、現那覇市東町)にあった那覇市役所は、1944年(昭和19)の10・10空襲により焼失した。 1945年(昭和20)11月10日、沖縄戦で住民の立ち入り禁止となっていた旧那覇市の一角の壺屋に、陶器・瓦製造のため陶工を中心とした復興先遣部隊103名が初めて入り、那覇の復興が始まった。 翌1946年(昭和21)1月3日、人口増加にともない糸満(いとまん)管内壺屋区として区役所が設置され、焼け残った民家を庁舎として行政事務を開始。同年4月4日壺屋区は糸満管内から分離し那覇市となった。 那覇市役所庁舎は、その後牧志(まきし)、開南(かいなん)、牧志、天妃(てんぴ)へと移り、1965年(昭和40)9月には泉崎(いずみざき)へ移転。この間、1950年(昭和25)特別行政区みなとみなと村、1953年(昭和28)首里(しゅり)市・小禄(おろく)村、1957年(昭和32)真和志(まわし)市と合併、埋立も行い、那覇市は現在の地域となった。 設置 2002年3月那覇市市民文化部歴史資料室」

06-0531 壺屋区役所跡

07-0531 壺屋区役所跡

08-0531 壺屋区役所跡

 「壺屋大通り」沿い、「壺屋やきもの通り」の前方左手に「てんぷら坂」(那覇市壺屋1-9-1)があります。戦後、この坂に沿って、壕を利用した天ぷら屋が建ち並んでいたそうです。

09-0531 てんぷら坂

10-0531 てんぷら坂

「てんぷら坂(テンプラザカ)那覇市壺屋1-9-1…壺屋(つぼや)から牧志(まきし)に至る坂の通称。この坂に天ぷら屋が建ち並び、その名が付いた。 かつてこの一帯は、「一ツ松尾(ティーチマーチュー)」・「二ツ松尾(ターチマーチュー)」と呼ばれる丘陵で、丘には墓が点在し、丘の前の坂道は「ガマヌ下(シチャ)」と呼ばれた。 1944年(昭和19)9月、壺屋町内会が丘に防空壕を掘り、10月9日に完成、翌日、米軍の空襲(10・10空襲)があり、1,000人余が避難し助かったという。 1945年(昭和20)11月に壺屋・牧志一帯が解放されて以降、那覇(なは)の人口が増加するとともに、坂に沿って、壕を利用した天ぷら屋が建ち、人々に食を供し、いつしか通りの通称となった。 戦後直後は、天ぷら油は米軍からの「戦果(せんか)」(盗品)のモービルオイル(機械用潤滑油)が使われたという。黒煙が立ち上り、独特なにおいで、お腹を下す人もいたというが、食糧不足の時代、天ぷらはご馳走として喜ばれたという。 1994年(平成6)に着手された牧志・壺屋西線の道路工事に伴い、丘も坂も多くが削られた。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

11-0531 てんぷら坂

12-0531 てんぷら坂

13-0531 てんぷら坂

14-0531 てんぷら坂

 「壺屋やきもの通り」前から、「壺屋大通り」を下りていくと、右手に「壺屋うふシーサー」が見えます。その後方の道を進むと、右手に、「照屋パーキング」の表示あります(那覇市壺屋1-1地先)。かつての「那覇劇場跡」は、駐車場となっています。

15-0531 壺屋うふシーサー 

16-0531 那覇劇場跡

17-0531 那覇劇場跡

18-0531 那覇劇場跡

19-0531 那覇劇場跡

20-0531 那覇劇場跡 

「那覇劇場跡(ナハゲキジョウアト)那覇市壺屋1-1地先…旧真和志村(まわしそん)字樋川神里原(ひがわかんざとばる、現那覇市壺屋、なはしつぼや)に建立された芝居専門の演芸場跡。 1945年(昭和20)の沖縄戦により、沖縄の住民は各地区の収容所生活を余儀なくされた。このような中、住民を代表する「沖縄諮詢会(おきなわしじゅんかい)」(後の沖縄民政府)が組織され、その下に文化部が置かれた。文化部では収容された琉球芸能の役者・音楽家など約200人を集め、松(まつ)・竹(たけ)・梅(うめ)の3劇団を組織し、各収容所の慰問(いもん)公演を行った。 1945年11月10日の先遣隊(せんけんたい)派遣を皮切りに那覇市の部分的解放が行われ、壺屋(つぼや)・牧志(まきし)を中心に住民の居住が広がった。那覇では人口増加とともに市場ができ、さらに中央劇場、アーニーパイル国際劇場、那覇劇場の順に劇場が造られた。 那覇劇場は、1949年(昭和24)9月、仲本清智(なかもとせいち)、宮里孝助(みやざとこうすけ)・孝盛(こうせい)兄弟等を中心に演劇専門館として造られた。当初は露天(ろてん)の劇場であったが、こけら落としは、松劇団(団長島袋光裕、しまぶくろこうゆう)により華々しく行われたという。那覇劇場は他館が映画専門館として興行する中、戦後旗揚げされた多くの劇団が公演を行い、芝居のメッカとして人気を博した。また、学芸会やボクシング試合など各種催(もよお)し物会場にも使われた。 その後、映画・テレビ人気、さらに沖映(おきえい)本館が1965年(昭和40)から芝居専門館として興行したため、那覇劇場は経営難に陥った。経営者の仲本清智は、姪の仲田幸子(なかださちこ)率いる「でいご座」の常打ち館として再生を図ったが、1969年(昭和44)閉館した。劇場跡地は売却され、市場利用者の駐車場として経営された。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」

21-0531 那覇劇場跡

参照(地域 旧那覇  那覇市歴史博物館 http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/site_tax02/former-naha-city

陶芸センター、焼物博物館、うふシーサー、道路タイル画…壷屋散策-1

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 那覇市壺屋、「壺屋やきもの通り」前から、「壺屋陶芸センター」「壺屋焼物博物館」周辺を時計回りに周り、「壺屋うふシーサー」の所まで、散策しました。途中、道路にはめ込まれた、無数の「タイル画」などを見て、「ここは、壷屋だ」と実感しました。

01-0531 壺屋やちむん通りへ

07-0531 壺屋やちむん通り

08-0531 壺屋陶芸センター

09-0531 上焼

「上焼(じょうやち)…『上焼』は、釉薬(ゆうやく)をかけて、直接焼くのが大きな特徴で、食器・酒器・花器・茶器など日用雑器類の比較的小さいものが多く、絵付けの技法も変化に富んでいます。原料は、沖縄本島中北部の恩納村や石川市から採れる粘土などを使用し、連房式の登り窯で焼かれ、焼成温度は約1200℃です。 アガリヌガマ(東の窯)は壷屋に残る唯一の上焼窯ですが、現在は使用されていません。」

10-0531 荒焼

「荒焼(あらやち)…『荒焼』は南蛮焼とも呼ばれ、無釉又はマンガンを掛けた焼き締め陶器で、水甕・酒甕・味噌甕・厨子甕などの大きな物からカラカラ・花瓶など小物にいたるまで作られています。 原料は、クチャ・島尻マージ・ジャーガルなどの粘土を使用し、傾斜地を利用して作られたトンネル状の登り窯で焼き、焼成温度は約1000℃です。」

11-0531 シーサー

12-0531 シーサー

14-0531 壷屋町民会自治会掲示板

16-0531

17-0531

19-0531 壺屋焼物博物館

20-0531 龍柱

参照(那覇市立壺屋焼物博物館 http://www.edu.city.naha.okinawa.jp/tsuboya/

22-0531 壺屋陶芸センター

23-0531 壺屋陶芸センター

26-0531 沖縄初オートセンサーシステム

30-0531 壺屋うふシーサー

 

31-0531 壺屋うふシーサー

32-0531 壺屋のうふシーサー

33-0531 壺屋のうふシーサー

「壺屋うふシーサー…シーサーはライオンをモデルとする架空の動物で、その発祥は、古代オリエントやインドだと言われています。長い歳月をかけシルクロードを旅し、ここ沖縄には十五世紀頃、琉球王朝の大交易次代に中国から伝わったと言われています。今では、赤瓦の屋根や門柱などにその勇姿を見ることができ、福を招き、邪を払う、家々の護り神として、広く沖縄県民に親しまれています。 壺屋の新しいシンボルである『壺屋うふシーサー』は、三百年以上の歴史を誇る伝統の壺屋焼で作り上げられ、さいおんスクエアにたたずむ『さいおんうふシーサー』と兄弟のシーサーとして熟練の陶工の手により魂を吹き込まれ誕生しました。 『壺屋うふシーサー』は、那覇のまちの護り神として、住む人、訪れる人、行き交う人々を温かく見守っています。いつまでもいつまでも、夢と希望に満ちた明るい未来と人々の幸せ、そして、笑顔の絶えない楽しい暮らしを願いながら…。 ※『うふ』は、沖縄方言で『大』や『大きな』を意味しており、他にも『大木』は『うふぎ』、『大人』は『うふっちゅ』と言います。」

 

34-0531 お散歩マップ

 

35-0531 お散歩マップ

 

36-0531 道路装飾

 

37-0531 道路装飾

 

40-0531 道路装飾

 

48-0531 道路装飾

 

49-0531 道路装飾

 

51-0531 道路装飾

 

59-0531道路装飾

 

61-0531 道路装飾

 

64-0531 道路装飾

 

65-0531 道路装飾

平敷屋公園、ホワイトビーチ、ヒッチャマー、製糖工場跡、ノロガー、平敷屋小学校…うるま市勝連平敷屋

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 うるま市勝連平敷屋、「平敷屋タキノー」周辺の史跡を探すため、県道8号線「平敷屋」の信号を過ぎた後、右折して丘方面へ上って行くと、「平敷屋公園」に出ました。「平敷屋タキノー」や歌碑、碑文、シーサーなどは、公園の一角にあったのです。高台の東屋から、米軍基地、自衛隊駐屯地、「ホワイトビーチ」などがよく見えます。公園から坂を下り、途中にある、「製糖工場跡」「ノロガー」を観察しました。その後、県道8号線道路の反対側にある、「平敷屋小学校」「平敷屋港」方面を回りました。

01-0530 平敷屋タキノー標識

02-0530 平敷屋公園

03-0530 平敷屋公園

04-0530

05-0530 ホワイトビーチ

06-0530 ホワイトビーチ

07-0530 ホワイトビーチ

08-0530 ホワイトビーチ

09-0530 シーサー

10-0530 碑文

11-0530 ヒッチャマー

12-0530 ヒッチャマー

「ヒッチャマー…ヒッチャマーは、平敷屋の氏神で、昔の村屋敷跡にあります。ほとんどの村行事をはじめ、平敷屋エイサーやウスデークもここで奉納してから始められています。また、戦前は毎年、旧6月14・24日に『タコ綱』挽きもここで行われていました。 うるま市文化財シリーズ『平敷屋』うるま市教育委員会」

参照(うるま市の文化財/8.平敷屋 http://www.city.uruma.lg.jp/DAT/LIB/WEB/1/heshikiya.pdf

13-0530 製糖工場跡

14-0530 製糖工場跡

「製糖工場跡、ノロガー…この製糖工場は、1940(昭和15)年十一組の旧サーターヤー組が合併して新設されたものです。ところが、わずか4ヶ年操業しただけで、さる大戦により破壊されました。現在は、レンガ造りの煙突だけが残っており、当時を物語る弾痕も残っています。 この製糖工場の東側にノロガーがあります。このカーは、粘土質の崖の中腹、大きな赤木の根本にある小さな湧水です。村の発展を祈願する拝所です。 うるま市教育委員会」

15-0530 製糖工場跡

16-0530 製糖工場跡

17-0530 製糖工場跡

18-0530 製糖工場跡

19-0530 製糖工場跡

20-0530 ノロガー

21-0530 ノロガー

22-0530 ノロガー

23-0530 ノロガー

24-0530 平敷屋小学校

25-0530 平敷屋小学校

26-0530 平敷屋小学校

27-0530 平敷屋小学校

28-0530 平敷屋小学校

29-0530 平敷屋小学校

30-0530 平敷屋小学校

31-0530 平敷屋小学校

32-0530 平敷屋小学校

33-0530 平敷屋小学校

34-0530 平敷屋小学校

参照(平敷屋小学校_jp- http://heshikiya-sho.edu.city.uruma.okinawa.jp/

35-0530 浦ヶ浜公園

安里会館、金満宮、坂を上る、花壇の花オランダ屋敷跡、安里二区自治会

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 那覇市安里、「安里会館」に隣接して、「金満宮」があります。安里会館には、「沖縄空手道小林流、小林館協会、安里道場」があり、駐車場の一角には、「安里二区自治会」の看板を掲げた部屋がありました。会館脇の階段を上り、「金満宮」をお参りしました。「金満宮」の由来などを記した説明板があるといいのですが……。

 この辺りは一方通行なので、車で自由に行き来することができず、歩いて、「オランダ屋敷跡」を探すことになりました。一旦、県道251線(県立博物館前から安里一丁目に接続している)に下り、目星をつけて、階段を上りました。そこは、「安里二区自治会」の男女数人が、花壇に花を植えているところでした。周辺をしばらく歩き回ったのですが、見つけることができず、休憩している男性に、「オランダ屋敷跡を探しているのですが……」と尋ねると、「すぐそこの坂を上りきった所にありますよ」と、教えてくれました。

 坂の途中の花壇や道端の花がきれいです。坂を上った所に、「オランダ屋敷跡」の説明板がありました。帰り際、先ほどの人にお礼を言うと、側にいた自治会長の玉井さんが、「かつて、この辺一帯は傾斜地で、あの場所は丘の上の高い場所でしたよ」と話してくれました。

01-0603 安里会館

02-0603 安里会館

03-0525 安里二区自治会

04-0525 金満宮

05-0525 金満宮

06-0525 金満宮

07-0525 金満宮

08-0525 金満宮

09-0525 金満宮

10-0525 奉納

11-0525 県道251線

12-0525 県道251線

13-0525 那覇公証センター

14-0525

15-0525

16-0603 段々畑

17-0603

18-0603

19-0603 安里二区自治会花壇

20-0603 坂を上る

21-0603 坂を上る

22-0603 坂を上る

23-0603 高層ビル

24-0531 オランダ屋敷跡

25-0531 オランダ屋敷跡

26-0531 オランダ屋敷跡

27-0531 オランダ屋敷跡

28-0531 オランダ屋敷跡

29-0531 オランダ屋敷跡

「オランダ屋敷跡(ウランダーヤシキアト)…日本メソジスト教会の外国人宣教師の屋敷跡。かつて沖縄では欧米人のことを「ウランダー」(オランダ人)と呼んだことから、その名が付いた。 沖縄におけるメソジスト教会の本格的な布教は、1892年(明治25)、久米(くめ)に礼拝堂が開かれたことに始まる。1906年(明治39)、アメリカ人ヘンリー・B・シュワルツ博士(1862〜1945年)一家が派遣され、布教・伝道を行った。翌年シュワルツは安里(あさと)の高台に居を設け、那覇(なは)・首里(しゅり)の教会で活動するとともに、沖縄県立中学校(後の県立第一中学校、現首里高校)で英語を教えた。シュワルツの屋敷では英語聖書研究会も開かれ、師範学校や中学校の生徒が出入りしたという。 1911年(明治44)、シュワルツ一家の離沖に伴い、後任にアメリカ人アール・R・ブール宣教師(1876〜1974年)夫妻が着任した。1913年(大正2)までのわずかな滞在であったが、離任後も沖縄との関係を持ち、泊外人墓地の修復や、護国寺(ごこくじ)にあるベッテルハイム記念碑建立に尽力した。また、シュワルツやブールは、伊波普猷(いはふゆう)ら沖縄の知識人とも交流があった。 オランダ屋敷は、その後メソジスト教会信者で小沢書店店主小沢朝蔵(おざわちょうぞう)、医師大久保孝三郎(おおくぼこうさぶろう)の管理に置かれたが、後に開南(かいなん)中学校の寄宿舎・農園として使用された。沖縄戦後、一帯は住宅地となった。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

30-0531 オランダ屋敷跡

31-0531 花壇の花

32-0531 花壇の花

33-0531 花壇の花

34-0531 花壇の花

35-0531 花壇の花

36-0531 路傍の花

37-0531 ホウオウボク(県道251線)

38-0531 ホウオウボク(県道251線)


平和資料展「與衆偕楽−志喜屋孝信という男−」…うるま市「石川歴史民族資料館」

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 うるま市「石川歴史民族資料館」で、平和資料展「與衆偕楽(よしゅうかいらく)−志喜屋孝信という男−」を開催しています。6月1日・3日、資料展を見て、志喜屋孝信の足跡に関心を持ちました。その後、「うるま市役所(志喜屋孝信先生之像、石碑)」「那覇高校同窓会館(志喜屋は県立二中の第四代校長)」「ユインチホテル南城(沖縄民政府跡)」を訪ねました。

「平和資料展『與衆偕楽(よしゅうかいらく)−志喜屋孝信という男−』開催について…戦前戦後の激動期に沖縄の教育、戦後復興に手腕を発揮したうるま市出身の偉大な人物『志喜屋孝信』氏。生誕130年を記念し、志喜屋氏の生涯をたどりながら、平和な世の中に大切なものはなにか、この節目に考えていきたいと思います。とき:5月16日(金)〜6月29日(日)《休館日:月曜日・6月24日/6月23日は開館》 午前9時〜午後5時まで(入館は午後4時30分まで) ところ:うるま市立石川歴史民俗資料館(石川図書館2階) 主催:うるま市教育委員会、うるま市立石川歴史民俗資料館 協力:具志川正進会、志喜屋孝信赤道顕彰会、赤道自治会、うるま市立赤道小学校など 入場料:無料」

引用(平和資料展 http://www.city.uruma.lg.jp/6/5141.html

参照(志喜屋孝信 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E5%96%9C%E5%B1%8B%E5%AD%9D%E4%BF%A1

01-0601 石川歴史民族資料館

02-0601 平和資料展

03-0601 石川歴史民族資料館

04-0601 平和資料展

05-0603 うるま市役所

06-0603 うるま市役所

07-0603 うるま市役所

08-0603 うるま市役所

09-0603 志喜屋孝信先生之像

10-0603 志喜屋孝信先生之像

11-0603 志喜屋孝信先生之像

12-0603 志喜屋孝信先生之像

13-0603 志喜屋孝信先生之像

14-0603 石碑

15-0603 石碑

「偉大なるかな 大教育者 志喜屋孝信先生 永遠の師として 敬慕し 遺徳の光 世人の心を 照らさん」

16-0604 那覇高校

17-0604 那覇高校

18-0604 那覇高校

19-0604 那覇高校

20-0604 城岳同窓会館

21-0604 城岳同窓会館

22-0604 城岳同窓会館

参照(那覇高校ホームページ http://www.naha-h.open.ed.jp/

参照(城岳同窓会:沖縄県立二中と那覇高校出身者の同窓会 http://www.jogaku.or.jp/

23-0604 ユインチホテル南城

24-0604 ユインチホテル南城

25-0604 ユインチホテル南城

26-0604 ユインチホテル南城

27-0604 ユインチホテル南城

28-0604 インフォメーション

 「沖縄民政府跡」は、敷地の端、「テニスコート」付近の小道から、行けそうだと、見当をつけました。

29-0604 テニスコートへ

30-0604 テニスコート

 テニスコートの左手奥から左方向に小道があり、「沖縄民政府跡」に接続しています。

 

31-0604 沖縄民政府跡

32-0604 沖縄民政府跡

33-0604 沖縄民政府跡

34-0604 沖縄民政府跡

35-0604 沖縄民政府跡

 説明板は、色あせて、文字の判読が困難でしたが、なぞった跡があったので、それを参考にしました。

「沖縄民政府跡…沖縄民政府は1946年4月米国海軍政府の指令によって設立された。1946年9月には石川市東恩納からこの地に移転し、1947年7月に那覇市に移転する間、戦後沖縄の政治経済の中心をなした。」

36-0604 沖縄民政府跡

37-0604 沖縄民政府跡

38-0604 ゲットウ

39-0604 ユインチホテル南城

 左側にプールなどがあります。

40-0604 ユインチホテル南城

41-0604 ユインチホテル南城

42-0604 ユインチホテル南城

43-0604 ユインチホテル南城

 「うるま市立赤道小学校」の嘉陽哲子先生が、妹の暁美さんに依頼した台本をもとに、学芸会で「志喜屋孝信物語」を上演するまでの取り組みもすばらしいと思いました。当日の劇の様子は、ビデオコーナーで鑑賞できます。

「志喜屋氏の人生 熱演 赤道小4年生(2013年2月5日)…【うるま】うるま市立赤道小学校の学芸会が1月27日、同校体育館で開かれ、4年生の児童122人が赤道出身で沖縄の教育や戦後復興に尽力した志喜屋孝信氏の人生を描いた劇『志喜屋孝信物語〜ライオン先生と呼ばれて』を披露した。 4年の社会科で地元の偉人について学ぶ単元に関連し、同学年担任の嘉陽哲子(のりこ)教諭が志喜屋氏を題材にした劇を思いついた。嘉陽教諭の妹暁美さんが脚本を書いた。 嘉陽教諭によると、劇の練習を重ねるうち、児童は『地元にこんな偉い人がいたなんて誇らしい』と話したり、志喜屋氏の生家の見学に出かけたりするようになったという。 児童は、学校嫌いだった幼少時や、教育者になった志喜屋氏がいつも生徒を信じていたこと、沖縄発展のために尽くしたことなどを歌やせりふを通して、観客に伝えた。 最終盤で志喜屋氏を演じた仲眞華子(かこ)さん(10)は『いつも周りの人のことを考える優しい人。その優しさや迫力が伝わるよう演技した。緊張したけど楽しかった』と充実感をにじませた。」

引用(志喜屋氏の人生 熱演 赤道小4年生 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-202229-storytopic-7.html

参照(うるま市立 赤道小学校_jp- http://akamichi-sho.edu.city.uruma.okinawa.jp/

赤道小学校、赤道公民館、志喜屋孝信生誕之地、志喜屋孝信之墓…うるま市赤道

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 「志喜屋孝信」ゆかりの地、「うるま市赤道」を訪ねました。「赤道小学校(うるま市字赤道921番地)」は、「具志川職業能力開発校(うるま市兼箇段1945)」近くにありました。

 「赤道公民館(うるま市字赤道345)」を訪ね、自治会長の宮里賢昭さんから、志喜屋孝信について、いろいろと話を聞くことができました。志喜屋孝信生誕130年を記念し、「志喜屋孝信物語」の劇に取り組み、で発表する予定だそうです。「吾、ライオン先生と呼ばれて 志喜屋孝信先生」をいただきました。「喜屋孝信」ゆかりの場所を尋ねると、「志喜屋孝信生誕之地」「志喜屋孝信之墓」の略地図を書いてくれました。地図のおかげで、スムーズに探すことができました。宮里会長、ありがとうございました。そして、丁寧に対応していただいた、「志喜屋孝則様、志喜屋孝将様」ありがとうございました。

参照(うるま市立 赤道小学校_jp- http://akamichi-sho.edu.city.uruma.okinawa.jp/

参照(うるま市立 具志川中学校_jp- http://gushikawa-chu.edu.city.uruma.okinawa.jp/

参照(商工労働部 具志川職業能力開発校/沖縄県 http://www.pref.okinawa.lg.jp/site/shoko/shokuno-gskw/index.html

01-0605 赤道小学校

02-0605 赤道小学校

03-0605 赤道小学校

04-0605 赤道小学校

05-0605 赤道小学校

06-0605 赤道小学校

07-0605 赤道小学校

08-0605 赤道小学校

09-0605 具志川職業能力開発校

10-0605 具志川職業能力開発校

11-0605 具志川職業能力開発校

12-0605 具志川中学校

13-0605 具志川中学校

14-0605 具志川中学校

15-0605 具志川中学校

16-0605 具志川中学校

17-0605 具志川中学校

18-0604 平和資料展

19-0604 志喜屋孝信先生

20-0605 志喜屋孝信先生生誕之地

21-0605 志喜屋孝信先生生誕之地

22-0605 志喜屋孝信先生生誕之地

23-0605 志喜屋孝信先生生誕之地

24-0605 ドクターオブヒューマニティーズ

25-0605 ツネド園芸

26-0605 ツネド園芸

27-0605 ツネド園芸

28-0605花壇の花

29-0605花壇の花

30-0605 花壇の花

31-0605 花壇の花

32-0605 花壇の花

33-0605 花壇の花

34-0605 志喜屋孝信先生紹介板

35-0605 志喜屋孝信先生紹介板

36-0605 志喜屋孝信先生之墓へ

37-0605 志喜屋孝信先生之墓へ

38-0605 志喜屋孝信之墓

39-0605 志喜屋孝信之墓

40-0605 志喜屋孝信之墓

歩道石柱装飾、中城みなみ幼稚園、中城南小学校、南上原糸蒲公園…中城村南上原

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 琉球大学東口近く、中城村南上原地区には、「サンエーなかぐすく店」「中城南小学校」「南上原糸蒲公園」などがあります。「サンエーなかぐすく店」を訪ねたところ、駐車場近くの信号周辺歩道に、児童の絵で装飾された石柱がありました。各作品とも個性的で、見ていて楽しくなります。どこの児童の作品なのでしょうか?

 「中城村立中城南小学校」は、平成25年4月1日に開校したばかりの学校で、真新しい校舎が目に付きます。学校に隣接して、「みなみ幼稚園」「中城みなみ保育園」「南上原糸蒲公園」があります。学校帰りの児童が、公園で遊んでいる様子や、迎えに来た親がしばらく一緒に遊んでいる様子が見られました。学習、自然環境ともに恵まれた学校だと思いました。

01-0606 サンエーなかぐすく店

02-0606 サンエーなかぐすく店

03-0606 歩道石柱装飾

04-0606 歩道石柱装飾

05-0606 歩道石柱装飾

06-0606 歩道石柱装飾

07-0606 歩道石柱装飾

08-0606 歩道石柱装飾

09-0606 歩道石柱装飾

10-0606 歩道石柱装飾

11-0606 歩道石柱装飾

12-0606 歩道石柱装飾

13-0606 歩道石柱装飾

14-0606 歩道石柱装飾

15-0606 歩道石柱装飾

16-0606 歩道石柱装飾

17-0606 歩道石柱装飾

18-0606 歩道石柱装飾

19-0606 歩道石柱装飾

20-0606 歩道石柱装飾

21-0606 みなみ幼稚園

22-0606 みなみ幼稚園

23-0606 みなみ幼稚園

24-0606 みなみ幼稚園

25-0606 中城南小学校

26-0606 中城南小学校

27-0606 中城南小学校

28-0606 中城南小学校

29-0606 中城南小学校

30-0606 中城南小学校

31-0606 中城南小学校

32-0606 中城南小学校

33-0606 中城南小学校

参照(中城村立 中城南小学校 ホームページ http://academic4.plala.or.jp/n-minami/

34-0606 南上原糸蒲公園

35-0606 南上原糸蒲公園

36-0606 南上原糸蒲公園

37-0606 南上原糸蒲公園

38-0606 南上原糸蒲公園

39-0606 南上原糸蒲公園

ナナユヒービラ、安謝小学校、鉢植えの花、野球…那覇市安謝

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 国道58号線、那覇市安謝から天久に至る一帯(現在、高架橋)には、かつて、「ナナユヒービラ」と呼ばれる坂がありました。その由来を記した説明板が設置されました。

 高架の部分をくぐると、「安謝小学校入口」の表示があります。安謝小学校は、学校創立103年目を迎える歴史と伝統のある学校です。訪ねたのは土曜の午後でしたが、校舎の一角から器楽演奏の音が聞こえ、グラウンドでは、野球の練習をしているところでした。「ピッチングマシーン」を使った打撃練習のようです。

 生徒用玄関までの通路には、「鉢植えの花」がきれいな花を咲かせていました。「あいさつ日本一の安謝小学校・幼稚園」の幟が立っています。

参照(安謝小学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/aja-es/

01-0607 ナナユヒービラ

02-0607 ナナユヒービラ

03-0607 ナナユヒービラ

04-0607 ナナユヒービラ

05-0607 ナナユヒービラ

06-0607 ナナユヒービラ

「ナナユヒービラ(那覇市字安謝234 )…安謝から天久に至る坂の名称。名前は、近接する「七与平利田」と称する田んぼに由来する。 かつて、広い田畑を有する者が天久村に居り、身売りした7人の主人として、彼らにその田畑を耕作させていた。ある時、主人は、安謝村にある私有の田んぼを7人に与えた。彼らは、これまでにも増して主人の仕事に精を出し、また、時間を作っては自らの田んぼを耕し、収益を上げ、ついには、借金を返済したという。近隣の人々は、大いに感心し、7人に与えられた田んぼを、「七与平利田」と称したという(『遺老説伝』)。 ナナユヒービラは、沖縄戦以前は、中・北部と那覇を結ぶ主要道の一部で、製糖期には、砂糖樽を積んだ馬車が、那覇の港に向かって列をなしていたという。
  1945年(昭和20)の沖縄戦の後、米軍により道幅が広げられ、軍道1号線となり、1972年(昭和47)の本土復帰後は、国道58号となった。1991年(平成3)に、坂の途中から浦添市勢理客にかけて、高架橋が開通した。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

参照(地域 旧真和志  那覇市歴史博物館 http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/site_tax02/former-mawashi

07-0607 高架橋

08-0607 安謝小入口

09-0607 安謝小学校

10-0607 道路標示

11-0607 安謝小学校

12-0607 安謝小学校

13-0607 安謝小学校

14-0607 鉢植えの花

15-0607 鉢植えの花

16-0607 鉢植えの花

17-0607 鉢植えの花

18-0607 鉢植えの花

19-0607 安謝小学校

20-0607 安謝小学校

21-0607 安謝小学校

22-0607 安謝小学校

23-0607 安謝小学校

24-0607 安謝小学校

25-0607 安謝小学校

26-0607 野球

27-0607 野球

28-0607 野球

29-0607 野球

30-0607 野球

31-0607 安謝小学校

那覇市跡(ナーファヌマチアト)那覇市場遺跡、那覇役所跡(ナハヤクショアト)那覇公所遺跡

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 モノレール旭橋駅から南西へ徒歩約3分の場所(国道390号線、サンシャイン通り、那覇市東町11)に、那覇市跡(ナーファヌマチアト)の説明板が設置されています。沖縄県下最大の公設市場跡です。現在は、牧志に、肉・魚を中心とした牧志第一公設市場、及び雑貨部、衣料部が置かれています。

参照(第一牧志公設市場 公式サイト http://kousetsu-ichiba.com/

01-0607 那覇市跡

02-0607 那覇市跡

03-0607 那覇市跡

04-0607 那覇市跡

05-0607 那覇市跡

06-0607 那覇市跡

「那覇市跡(ナーファヌマチアト)那覇市東町11-18地先…この地にあった公設民営の市場跡。『東市場(ひがしマチ)』、また、沖縄県下最大の市場であったため『大市(ウフマチ)』とも呼ばれた。 市場の創設については不明だが、15世紀以降、唐(とう、中国)や南蛮(なんばん、東南アジア諸国)、大和(やまと、日本)と交易を行っていた時代、『市は江辺(こうへん)にあり。南蛮・日本国・中原(中国)の商船来り互市(ごいち)す』〔『李朝実録(りちょうじつろく)』世祖八年条(1463年)〕とあり、港町那覇(なは)の市場のことが記されている。 中国の冊封使(さっぽうし)の記録には、『午後になると、大勢の婦人が頭に物を載せて集まって来て、地面に筵(むしろ)を敷いて列(なら)んで座って商売する。その商品は、油・野菜などで、豆腐と芋が最も多い。』(汪楫、おうしゅう、『使琉球雑録(しりゅうきゅうざつろく)』1683年)とあり、冊封使一行の宿泊所である『天使館(てんしかん)』前の空き地一帯で、野菜・芋・雑貨などの市が開かれていたことが分かる。1782年、東村(ひがしむら、現那覇市東町)の海岸沿いに新たに道路が造られ、『東下(ひがしさが)い』と称し、そこに魚市場ができたという。 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後は、東村・西村(にしむら、現那覇市西)には、他府県からの移入品や米穀・金物・呉服などを専門に扱う本土からの寄留商人(きりゅうしょうにん)の店が軒を連ねたが、野菜などの日常品は、旧天使館(後の那覇市役所)前の市場で売買された。野菜市(ヤーセーマチ)・布市(ヌヌマチ)、雑貨を販売する据笥市(イシゲーマチ)があり、売り手は大きな傘を広げ、その下に品物を並べて販売した。旧天使館の北側には、壺屋市(チブヤマチ)・肉市(シシマチ)があった。 1913年(大正2)2月11日の東町の大火による焼跡整理後、那覇区(1921年に市に昇格)は、1918年(大正7)に魚市があった東下いに、新たに敷地を確保し、布市を除く各市場を移設し、小間ごとに使用料を徴収した。市場は、魚・肉・米・乾物等を販売する区域と、野菜・芋・雑貨を販売する区域に分かれていた。 市場は、午前8時頃から準備と仕入れが行われ、一般の人々の買い物は、午後4時頃が一番賑わったといい、夕方には、松明(たいまつ)が焚(た)かれ、午後8時頃に店仕舞いとなった。生鮮品以外は、売り台として使った箱に収め、市場近くの屋敷にお金を払って預けた。売れ残った生鮮品は、持ち帰り水炊きして、近所に安くで売られたという。 1944年(昭和19)10月10日の空襲や、その後の地上戦により、市場は開かれなくなった。終戦後、市場があった東町や那覇の中心地は、米軍により立ち入り禁止区域となっていた。1945年(昭和20)11月10日、那覇復興のための先発隊は、那覇の街外れにあたる壺屋に入り、日用雑器の生産を始めた。これ以降、壺屋・牧志(まきし)一帯を中心に戦後那覇の復興が始まった。1947年(昭和22)、開南(かいなん)から牧志にいたる坂道に、米軍の横流し物資を中心としたヤミ市が発生し、那覇市はこれを取り締まるため、市役所庁舎があったガーブ川沿いに市場を開設した。戦後の那覇の公設市場の誕生であった。 現在、肉・魚を中心とした牧志第一公設市場及び雑貨部、衣料部が置かれている。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

07-0607 那覇市跡

08-0607 那覇市跡

09-0607 那覇市跡

10-0607 那覇市跡

11-0607 那覇市跡

12-0607 那覇市跡

13-0607 那覇市跡

14-0607 那覇市跡

15-0607 那覇市跡

16-0607 那覇市跡

17-0607 那覇市跡

18-0607 那覇市跡

19-0607 那覇市跡

 国道58号線「泉崎」交差点、泉崎橋近く(那覇市久茂地1丁目)に、「那覇役所跡」の説明板が設置されています。旧那覇の行政を担った役所跡です。

20-0413 「泉崎」交差点

21-0413 「泉崎」交差点

22-0607 那覇役所跡

23-0607 那覇役所跡

24-0607 那覇役所跡

25-0607 那覇役所跡

「那覇役所跡(ナハヤクショアト)那覇市久茂地1丁目泉崎橋付近…旧那覇の行政を担った役所跡。 琉球王国時代、港町として発展した那覇は、『那覇四町(ナハユマチ)』とも呼ばれ、東村(ひがしむら)・西村(にしむら)・若狭町村(わかさまちむら)・泉崎村(いずみざきむら)の4つの村からなっていた。各村に役場が置かれたが、那覇全体を統括する役所として親見世(おやみせ)があった。 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)により、旧那覇里主所(なはさとぬししょ、現東町郵便局近辺)に親見世役所が設置され、那覇四町の他に、久米村(くめむら、久茂地村含む)・泊村(とまりむら)の行政も併せて管轄した。翌年、親見世役所は那覇役所に改称された。那覇役所及び7ヵ村の役場は、『里主所前御余地(さとぬしじょメーヌグユチ)』と呼ばれる、久茂地川沿いの材木等の荷物置き場(敷場、しきば)に建てられた長屋に置かれ、西・東・泉崎・若狭町・久茂地・久米・泊村の順に、一室ずつ割り当てられた。当時の役人は、机・椅子に、欹髻(カタカシラ)・大帯(ウフウービ)の琉装姿で、事務を行っていたという。 1893年(明治26)頃、那覇役所は、東村の旧天使館(てんしかん)跡(現那覇市東町、那覇医師会館一帯)に移転し、1944年(昭和19)10月10日の空襲に至るまで、同地にあった。 この間、1896年(明治19)に首里(しゅり)とともに区制がしかれ、1921年(大正10)5月20日には、首里区とともに、市制が施行された。1917年(大正6)には、京都帝国大学教授武田五一(たけだごいち)の設計のもと、物見塔と庁舎が建設された。 那覇役所が移転した後の長屋は、沖縄で初めて発行された新聞『琉球新報』(1893年9月15日創刊)の印刷工場として、1903年(明治36)から1937年(昭和12)まで使用された。 終戦後、同地一帯は米軍により敷きならされ、軍道1号線(現国道58号線)として整備された。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

26-0607 泉崎交差点周辺

27-0607 西消防署通り

28-0607 久米大通り

29-0607 国道58号線北向け

30-0607 国道58号線南向け

31-0607 現在の那覇市役所方面

 

32-0417 現在の那覇市役所

 

33-0417 現在の那覇市役所

 

34-0417 現在の那覇市役所

 

35-0417 現在の那覇市役所

参照(那覇市  いい暮らしより 楽しい暮らしを  那覇市 Naha City http://www.city.naha.okinawa.jp/

 

遊園地「新世界」が開園し賑わった「城岳公園」…那覇市楚辺

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 那覇市楚辺「城岳公園」を訪ねました。5月4日、伊波普猷の別荘「曝書山房跡」を探していたとき以来です。園内には、「城嶽」「古波蔵嶽」「二中健児の塔」等があります。今回訪ねると、「城嶽」の説明板が新たに設置されており、この一帯の歴史的変遷が記されていました。戦後、回転飛行塔・メリーゴーランド・電気豆汽車や小動物園、映画演芸場、食堂・売店なども置かれた本格的な遊園地「新世界」を開園し、那覇の一大名所として賑わったといわれます。

 説明を読み、写真撮影をしていると、上原さんに声をかけられました。上原さんは、遊園地「新世界」関連の資料を集め、「城岳同窓会館」で写真展を開催したことがあるそうです。

参照(城岳同窓会:沖縄県立二中と那覇高校出身者の同窓会 http://www.jogaku.or.jp/

参照(覚えてますか?城岳遊園地 懐かしの「新世界」写真展 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-152476-storytopic-5.html

01-0607 城岳公園

02-0607 城岳

03-0607 城岳

04-0607 城岳公園

05-0504 古波蔵嶽

06-0607 城嶽

07-0607 城嶽

08-0607 城嶽

「城嶽(グスクダケ)那覇市楚辺1-4、城岳公園内…那覇市楚辺にある小丘陵『城岳(じょうがく)』とも表記する。楚辺台地から北西に延びる丘陵の一部で、南側を除き、急斜面となっている。標高は約32m。 かつて、この一帯は、真和志間切古波蔵村(まわしまぎりこはくらむら)の管内で、城嶽には、古波蔵村の拝所があり、3月・6月・9月の祭祀のほか、旱魃(かんばつ)時には雨乞いの祈願が行われた。また、松や樹木が生い茂る景勝の地として知られた。1756年に中国から来琉した冊封副使周煌(さっぽうふくししゅうこう)が著した『琉球国志略(りゅうきゅうこくしりゃく)』の『球陽八景図(きゅうようはっけいず)』に、『城嶽霊泉(じょうがくれいせん)』と題する絵があり、城嶽と東側にある『旺泉(おうせん)』(現:汪樋川、オーヒージャー)が描かれている。 丘の中腹には、取り囲むように多くの墓が造られていたが、西側の麓(ふもと)一帯は、『沖縄学の父』といわれる伊波普猷(いはふゆう)の畑地約2,500坪余があり、1914年(大正3)に、12坪程の瓦葺(かわらぶ)き平屋の別荘『曝書山房(ばくしょさんぼう)』を建て、晴耕雨読の日々を送ったという。 大正期には、城嶽周辺に、沖縄県立第二中学校(現那覇高校)、沖縄県庁、沖縄刑務所等が相次いで移設され、住宅が立ち並ぶようになり、かつての城嶽の鬱蒼とした林は、昭和初期には、住宅や畑地になっていたという。大将末から昭和初期にかけて発掘調査が行われ、中国の燕国(えんこく、BC409〜36年)の貨幣であった『明刀銭』や、沖縄では産出しない『黒曜石(こくようせき)』が出土した。 1945年(昭和20)の沖縄戦中は、山部隊(やまぶたい)の那覇守備部隊陣地壕として使われ、5月には、城嶽周辺で激しい戦闘も繰り広げられた。 終戦後、城嶽の山頂部は削り取られ、1951年(昭和26)9月、約2,000坪余の敷地に、沖縄文化興業株式会社が遊園地『新世界(しんせかい)』を開園した。回転飛行塔・メリーゴーランド・電気豆汽車や小動物園、映画演芸場、食堂・売店なども置かれた本格的な遊園地で、那覇の一大名所として賑わったという。1961年(昭和36)に、経営難のため、敷地は那覇市に売却され、閉園となった。 那覇市では、1971年(昭和46)から、『城岳公園(じょうがくこうえん)』として整備を行い、平成に入ってからは、周辺の墓の移転作業も進み、丘の麓は、園路整備も行われた。 なお、公園内には、1962年(昭和37)に再興された城嶽御宮(ぐすくだけおみや)や、1990年(平成2)に奥武山公園(おうのやまこうえん、護国神社裏山)から移設された『二中健児の塔(にちゅぅけんじのとう)』が建っている。また、公園の麓には古波蔵村の『火の神(ヒヌカン)』や地域の村ガー(むらガー、共同井戸)が残されている。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

09-0607 城嶽

10-0607 城嶽

11-0607 城岳公園

12-0607 城岳公園

13-0607 城岳公園

14-0607 城岳公園

15-0607 二中健児之塔

16-0607 二中健児之塔

17-0607 移設に際して

18-0607 建立の詞

19-0607 合祀者名簿

20-0504 曝書山房跡

21-0504 曝書山房跡

人気の「ブランコ」は順番待ち…うるま市「伊波公園」

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 うるま市石川伊波の「伊波児童体育館」(うるま市字伊波29番地)に隣接して、広い芝生を敷き詰めた「伊波公園」があります。体育館側には、子ども向けの、新しい遊具がたくさんあります。近くにいた男の子に、「どれが一番楽しい?」と聞くと、「ブランコ」と答えました。人気の「ブランコ」は、順番待ちをしています。体を編み目のバスケットに包むようにして固定し、前後に揺らして、遊んでいました。これだと、小さい子でも、ブランコを楽しむことができそうです。

 小さな丘の芝生一帯には、大人向けの「健康増進遊具」があり、子どもから大人(お年寄り)まで、楽しむことができます。疲れたら、東屋の椅子で休むこともできます。小学生男子の一団は、広場で、ボール遊びをしていました。「ドッジボールかな?」と思って見ていたのですが、「ハンドボール」のシュートに見立てた遊びのようでした。

 遊具で遊んでいる子どもたちの近くには、子どもたちを見守りながら、芝生や椅子でくつろいでいる、親や祖父母の姿がありました。

01-0522 伊波区児童体育館

04-0522 伊波公園

06-0522 伊波公園

10-0522 伊波公園

13-0522 伊波公園

17-0522 伊波公園

20-0522 伊波公園

22-0522 伊波公園

23-0522 伊波公園

25-0522 伊波公園

26-0522 伊波公園

28-0522 伊波公園

31-0522 伊波公園

33-0608 ボール遊び

34-0608 ボール遊び

35-0608 ブランコ 順番待ちをしています

36-0608 ブランコ

37-0608 ブランコ

38-0608 すべり台

39-0608 すべり台

40-0608 すべり台

41-0608 あそぶ

42-0608 あそぶ

43-0608 あそぶ

44-0608 あそぶ

45-0608 あそぶ

46-0608 あそぶ

47-0608 あそぶ

48-0608 あそぶ

49-0608 やすむ

 


校門入口の「壁画」「南原教育発祥の碑・夢」「南原小学校卒業生数」塀の「壁画」…うるま市立南原小学校

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 うるま市勝連南風原地区の史跡巡りの途中、「うるま市立南原小学校」(うるま市勝連南風原279)を訪ねました。校門を入ると、丸屋根の入口があり、壁面に、地域や学校生活関連の絵が、描かれています。校内には、南原教育発祥の碑「夢」や「南原小学校卒業生数」を記したものがありました。小学校に隣接して、「みなみはらようちえん」があります。校外の、バス停近くの塀にも、児童の壁画がありました。地域と学校の絆の強さを感じさせる小学校です。

01-0608 南原小学校

02-0608 南原小学校

03-0608 南原小学校

04-0608 入口壁画

05-0608 入口壁画

06-0608 入口壁画

07-0608 入口壁画

08-0608 入口壁画

09-0608 入口壁画

10-0608 入口壁画

11-0608 入口壁画

12-0608 入口壁画

13-0608 南原教育発祥の碑「夢」

14-0608 南原教育発祥の碑「夢」

15-0608 南原教育発祥の碑「夢」

16-0608 南原小学校校歌

参照(うるま市立南原小学校_jp- http://minamihara-sho.edu.city.uruma.okinawa.jp/

17-0608 南原小学校卒業生数

18-0608 南原小学校卒業生数

19-0608 南原小学校卒業生数

20-0608 南原小学校卒業生数

21-0608 体育館

22-0608 体育館

23-0608 みなみはらようちえん

24-0608 南原小学校

25-0608 南原小学校

26-0608 南原小学校

27-0606 バス停側塀壁画

28-0606 バス停側塀壁画

29-0606 バス停側塀壁画

30-0606 バス停側塀壁画

「松尾山(マチューヤマ)」の西端「福木山」に建っていた洋風の建物跡…「知事官舎跡」

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 那覇市久米2-29福州園に、「知事官舎跡」があります。1879年の「琉球処分」後、初代県令に就任した「鍋島直彬」以降、1945年の沖縄戦に至るまで、27名の県令・県知事が政府から派遣されました。久米の「知事官舎跡」は、1916年、第9代鈴木邦義知事の時に、松尾山の西端に新築され、1944年10・10空襲で焼失するまで、歴代知事の官舎として使用された、建物跡です。

 「知事官舎跡」は、「福州園」の一角にあり、近くには、「沖縄県立那覇商業高校」や高校に隣接した「松山公園」があります。

 那覇商業高校から「知事官舎跡」に向かう途中に、「堂小、東壽寺跡」がありました。

参照(沖縄県知事一覧 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7

01-0514 那覇商業高校

02-0514 福州園

03-0514 福州園

04-0514 福州園

05-0514 福州園

06-0607 知事官舎跡

07-0607 知事官舎跡

08-0607 知事官舎跡

09-0607 知事官舎跡

10-0607 知事官舎跡

「知事官舎跡(チジカンシャアト)那覇市久米2-29 福州園内…大正から戦前期まで、この地にあった沖縄県の知事官舎跡。 1879年(明治12)3月、明治政府は琉球王国(当時琉球藩)を廃し、沖縄県を設置した(琉球処分)。県庁は、西村(にしむら、現那覇市西)にあった旧薩摩藩在番奉行所(さつまはんざいばんぶぎょうしょ)があてられ、初代県令(けんれい、1886年から県知事)には鍋島直彬(なべしまなおよし)元備前鹿島藩主(びぜんかしまはんしゅ、現佐賀県)が就任した。1945年(明治20)の沖縄戦に至るまで、27名の県令(5代)・県知事(23代)が政府から派遣された。 当初の知事官舎の場所は不明だが、1892年(明治25)7月に就任した第4代奈良原繁(ならはらしげる)知事は、那覇区久茂地(くもじ)の官舎(現沖縄県庁周辺)を住居とし、1908年(明治41)4月に就任した第5代目日比重明(ひびしげあき)から第8代小田切磐太郎(おだぎりいわたろう)知事までは、通堂(つうどう)官舎(現那覇市通堂町)が使用された。 1916年(大正5)11月、第9代鈴木邦義(すずきくによし)知事の時に、松尾山(マチューヤマ、現松山公園一帯)の西端、通称『福木山(ふくぎやま)』と呼ばれる地に、知事官舎が新築された。敷地は約540坪、赤瓦葺きの平屋建てで、格子窓の洋風の建物であった。以後、1944年(昭和19)10月10日の10・10空襲で焼失するまで、歴代知事の官舎として使用された。 終戦後、跡地は米人向けの外人住宅地となっていたが、後に開放され、1992年(平成4)に開園した中国式庭園『福州園(ふくしゅうえん)』の敷地の一部となった。 なお、知事官舎一帯は、1844年以来、泊村(とまりむら、現那覇市泊)の聖現寺(せいげんじ)に逗留し、布教を進めていたフランス人宣教師が、新たな拠点として1856年に家屋を建てて住み着いた地といわれる。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」

11-0607 知事官舎跡

12-0607 久米勝景

13-0607 福州園

14-0607 福州園

15-0607 福州園

16-0607 福州園

17-0514 堂小、東壽寺跡

18-0514 堂小、東壽寺跡

19-0514 上之井、中之井、下之井

20-0514 松山公園

21-0514 松尾山跡

22-0514 松尾山跡

23-0514 松尾山跡

24-0514 松尾山跡

地域の歴史や文化が刻み込まれている「歴史散歩の道」「識名馬場跡」

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 那覇市繁多川から「識名霊園」方面に向かう途中、「繁多川公民館」近く、「繁樹園グリーンセンター」わきの「ホウオウボク」がきれいな花を咲かせているのが目に入ったので、車を停め、しばらく観察しました。そこから「識名霊園」方面に進み、右手に「那覇市納骨堂」の標識がある箇所まで来ると、左側に、「識名馬場跡」「歴史散歩の道『しんかぬちゃーまーい』」の標識がありました。そこを左折して、細い道を進んでいくと、「識名馬場跡」の説明板が設置されている場所に来ました。説明板は、街灯の石柱に固定されています。その場所は何度も通ったのですが、今回、やっと、説明板を見つけることができました。

01-0605 繁樹園グリーンセンター

02-0605 繁樹園グリーンセンター

03-0605 ホウオウボク

04-0605 ホウオウボク

05-0605 ホウオウボク

06-0605 ホウオウボク

07-0605 那覇市納骨堂

08-0605 識名馬場跡標識

09-0605 識名馬場跡標識

10-0605 しんかぬちゃーまーい

11-0605 しんかぬちゃーまーい

「歴史散歩の道『しんかぬちゃーまーい』…『しんかぬちゃーまーい』は、琉球王朝時代(りゅうきゅうおうちょうじだい)の古(ふる)い道筋(みちすじ)をたどりながら、地域(ちいき)の歴史(れきし)や文化遺産(ぶんかいさん)に接(せっ)し、楽(たの)しく散策(さんさく)できるように整備(せいび)された散歩道(さんぽみち)です。 この散歩道(さんぽみち)は、首里城継世門(シュリジョウケイセイモン)から識名園(しきなえん)に至(いた)る、およそ1.9kmの道筋(みちすじ)にある崎山馬場跡(さきやまばばあと)、雨乞嶽(あまごいタキ)、御茶屋御殿跡(ウチャヤウドゥンアト、王家の別邸)、ヒジ川ビラ(石畳道、いしだたみみち)識名馬場跡(しきなばばあと)などの史跡(しせき)をたどるように整備(せいび)されています。 道(みち)しるべをたどっていくと、地域(ちいき)の歴史(れきし)や文化(ぶんか)が身近(みぢか)なところに刻(きざ)み込(こ)まれている様子(ようす)を見(み)ることができます。 那覇市教育委員会 平成19年(2007年)3月設置」

12-0605 識名馬場跡へ

13-0605 識名馬場跡

14-0605 識名馬場跡

15-0605 識名馬場跡

16-0605 識名馬場跡

17-0605 識名馬場跡

18-0605 識名馬場跡

「識名馬場跡(シキナババアト)那覇市繁多川4丁目地内…馬の調教所跡。俗に識名(シチナ)マージという。識名馬場は約300mにも及ぶ直線道路で、周囲は松並木であったという。王府の『年中礼式』には正月下旬に那覇(なは)の潟原(かたばる)と識名馬場に於いて諸人の馬乗りが行われると記されている。 昭和初期、周囲は畑地となり、1944年(昭和19)には松木は切り倒され、首里地下に造られた沖縄守備隊司令部陣地の資材に使われた。現在では周囲に家が建ち並んでいるが、直線道路が残り、馬場の雰囲気を残している。 設置 2007年(平成19)2月 平成18年度世界遺産周辺整備事業」

19-0605 識名馬場跡

20-0515 識名馬場跡

 「繁多川字指定文化財、識名馬場跡」の説明板は、「ハンタガー」「メーミチー」「クシミチ」と続いた道の先にありました。

21-0515 識名馬場跡

22-0515 識名馬場跡

「繁多川字指定文化財 識名馬場跡(シチナウマイーあと)…王府時代(第二尚氏)、直轄(ちょっかつ)の三大馬場(ばば)の一つで最大の馬場であった。全長300メートルほどで幅は約30メートルあって、南北の両脇(りょうわき)は低い土手が積まれ、樹齢300年ほどの老松が、その土手に植えられていた。この尚家の馬場は、真喜屋親雲上(マージャペーチン)だけは許可なく使用することが出来た。昭和15年ごろまで、ウマヌイマージュ(馬乗真喜屋)の子孫(しそん)が近くに住んでいた。沖縄戦前の食糧増産奨励どきにこの馬場は開墾(かいこん)され、今や見る影もない。道幅平均約4m 平成21年11月17日 繁多川自治会」

「あ・い・さ・つ」「あいさつは心のあくしゅ」…宜野座村立松田小学校

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 宜野座村は、沖縄本島の辺戸岬と喜屋武岬のほぼ中間に位置する村で、1946年、金武村(現在の金武町)から分離しました。村は、松田区、宜野座区、惣慶区、福山区、漢那区、城原区の6つの行政区から成っており、阪神タイガース一軍のキャンプ地としても知られています。

参照(宜野座村  水と緑と太陽の里 http://www.vill.ginoza.okinawa.jp/

 宜野座村松田区にある「松田小学校」の校門に至る道は、「松田の馬場跡及び松並木」と呼ばれています。校門を入ると、体育館の左手前に、「松田の馬場跡及び松並木」の説明板があり、由来を記しています。

01-0610 松田の馬場跡及び松並木

03-0610 松田保育園

04-0610-1431 松田小学校、松田幼稚園

参照(宜野座村立松田小学校ウェブサイト http://www.matsuda-e.ed.jp/

05-0610 松田の馬場跡及び松並木

06-0610 松田の馬場跡及び松並木

「松田の馬場及び松並木、村指定文化財(史跡)…松田の馬場は、一八七八年頃に、汀良タンメーと称する人によって農村娯楽施設の一つとして造成されたと伝わる。規模は、東西約二五〇米・横約二五米で、周囲に盛土を築きその上に松を植林して競馬の見物場が造られていた。明治の末期頃まで、旧四月の『畦払い』の日に、馬を飼っている人が、裸馬にまたがって集まり、にわか競馬が行われていた。 村内には、惣慶部落にも馬場があったが、現在、沖縄本島で当時の面影を伝えているのは、今帰仁村『中原馬場』と『松田馬場』である。 村の大切な文化財を皆で大切にしましょう。 宜野座村教育委員会」

「アブシバレー…旧暦4月の中旬ごろに行われる。アブシとは田や畑の畦(あぜ)のことで、バレーは払う意。畦の雑草を刈り取り、農作物につく害虫(バッタやネズミ)を捕らえてきて、海や川に流し、豊作祈願をする。」
引用(アブシバレー - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-40105-storytopic-121.html

07-0610 校門付近の松並木

09-0610 育館側の松

10-0610 校内遊具

13-0610 運動場側の松並木

15-0610 校内

16-0610 校内

17-0610 校庭の花

18-0610 校庭の花

19-0610 校庭の花

20-0610 校内

23-0610 校庭の花

24-0610 校庭の花

25-0610 校庭の花

 校内庭園には、「きよく・あかるく・たくましく」「翔」「友愛」などの石碑や、「2020年の扉」と書かれた「タイムカプセル」がありました。「あかるく・いつでも・さきに・つたえよう」「あいさつは心のあくしゅ」などの表示もあります。

 体育館の壁には、「壁画」や松田小の「モザイク画」があり、駐車場近くには、「薫風や/むち音ゆかし/馬場の跡」と書かれた石碑がありました。

26-0610 きよく・あかるく・たくましく、2020年の扉

27-0610 翔

28-0610 友愛

29-0610 あかるく・いつでも・さきに・つたえよう

30-0610 あいさつは心のあくしゅ

32-0610 校内

36-0610 体育館

37-0610 体育館壁画

38-0610 体育館モザイク画

41-0610 駐車場側の松並木

42-0610 薫風や/むち音ゆかし/馬場の跡

44-0610 校門付近の松並木

「板敷川」上の「板敷橋」を一日で修繕した…「一日橋」の由来

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 那覇市上間、国道329号線「上間」交差点近く、「HondaCars沖縄」前に、「旧一日橋跡」の説明板が設置されています。国場川に架けられた橋跡で、かつて、「板敷川」に架けられていた「板敷橋」と呼ばれ、、南風原間切や東風平間切と首里を結ぶ重要な橋でした。一日橋の名は、損壊した橋を一日で修繕したという伝承に由来するとされていますが、板敷橋からの音韻転訛との説もあるようです。

01-0612 上間交差点

02-0514 上間交差点

03-0612 上間交差点

04-0612 上間交差点

05-0612 上間交差点

06-0612 旧一日橋跡

07-0612 旧一日橋跡

08-0612 旧一日橋跡

09-0612 旧一日橋跡

「旧一日橋跡(キュウイチニチバシアト) 那覇市上間 一日橋交差点…国場川(こくばがわ)に架けられた橋跡。琉球王国時代は、この一帯の川は板敷川(イチャジチガー)と呼ばれていたため、橋も板敷橋(イチャジチバシ)と呼ばれた。 橋は、南風原間切(はえばるまぎり、現南風原町)や東風平間切(こちんだまぎり、現八重瀬町、やえせちょう)と首里(しゅり)を結ぶ重要な橋で、古くから木橋が架けられていた(架橋年不明)。成化(せいか)年間(1465〜87年)、東風平村(現八重瀬町字東風平)の国吉(くによし)という者が、洪水のたびに橋が損壊するのを見て、土台に石組の防水基(ぼうすいき、潮切、しおきり)を築き、堅固な橋としたので、時の国王尚真(しょうしん)より褒賞(ほうしょう)されたという(『球陽、きゅうよう』尚真王附条)。 しかし、依然として橋は木製であったため、1689年、石橋に改修された。石橋の完成を記念して、橋を見下ろす識名(しきな)台地に、『板敷橋記(いたしきばしき)』碑が建立された。 一日橋の名は、1511年、尚真王の養父花城親方守知(はなぐすくウェーカタしゅち)の葬送に際し、損壊した橋を一夜二昼の一日で修繕したという伝承(『球陽』尚真王35年条)に由来するとされるが、板敷橋からの音韻(おんいん)転訛との説もある。 1945年(昭和20)の沖縄戦当時、一日橋一帯は、首里から南部へ避難する要衝(ようしょう)にあたっていたため、多くの犠牲者を出し、橋も破壊された。終戦直後、米軍により鉄橋が架けられたが、その後、橋より50mほど上流に架けられていた沖縄県営鉄道(軽便鉄道)与那原(よなばる)線の鉄橋跡を利用して、那覇と与那原を結ぶ道路(現国道329号)が開通し、一日橋として架け替えられた。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

10-0612 戦後の一日橋

11-0612 板敷橋記碑

12-0612 国場川

13-0612 国場川

参照(国場川 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%A0%B4%E5%B7%9D

14-0612 一日橋

15-0612 一日橋

16-0612 一日橋

17-0612 一日橋

18-0612 一日橋

19-0612 一日橋

20-0612-329号線

21-0612 旧一日橋周辺

22-0612 旧一日橋周辺

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