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白浜・海の色、絶景が広がる…古宇利オーシャンタワー!

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 今帰仁村古宇利の「古宇利オーシャンタワー」に行きました。昔、古宇利島は恋島(クイジマ)と呼ばれ、その後、クイ島→古宇利島へと変わっていったという説があります。入場券を購入し、「自動カートエリア」から、自動カートで、庭園をゆっくり上って行きました。

 最初に、「1Fシェルミュージアム」に向かいます。ここには、世界の貝が1万点以上展示されています。貝殻やグッズのショップもあります。撮影していいか尋ねると、「どうぞ」といわれました。

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 貝や「古宇利島」の自然・歴史・文化などに関する展示を見た後、エレベーターで、タワー最上階に行きました。エレベーターのドアが開くと、パッと視界が広がりました。そこから、古宇利大橋、島を取り囲む白浜や海の色などを楽しむことができます。運天港方面から、フェリーがやって来るのが見えました。


「寒緋桜」開花!…世界遺産「北山城跡」(1)

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 「今帰仁城跡(なきじんじょうあと)」を訪ねました。県道72号線を仲宗根交差点で左折し、国道505号線「本部循環線」を西方向に進んで行きました。途中に、今帰仁小学校、北山高校、兼次小学校があります。今帰仁城跡は、今帰仁村字今泊にあり、2000年12月2日、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』の一つとして、ユネスコの『世界遺産条約』に基づく世界遺産リストに登録されました。

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今帰仁城跡

「今帰仁城跡とは、沖縄本島の北部、本部半島にある歴史的なグスクです。世界遺産にも登録されたグスクは、沖縄県の県庁所在地である那覇市から車で約1時間30分の距離にあります。今帰仁城跡の歴史は古く、13世紀までさかのぼるとされています。堅牢な城壁に囲まれたその城は、標高約100メートルに位置し、やんばるの地を守る要の城でした。攀安知(はんあんち)時代に、中山軍(ちゅうざんぐん)に滅ぼされてからは、監守(かんしゅ)が派遣されるようになり、1665年に最後の監守が引き上げてからは、祭りを執り行う場所として残されました。」(引用:今帰仁城跡 世界遺産 公式サイト

http://nakijinjo.jp/index.html

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「今帰仁城跡…今帰仁城はグスク時代と呼ばれる14世紀〜17世紀初頭頃までで、城や役所としての機能を果たしていました。この模型は最も隆盛を極めた第?期(14世紀中頃〜15世紀初頭)の今帰仁城の姿を1/100の大きさで再現したものです。主郭(本丸):Shukaku 第?期に築いた石垣の天端まで土と石で埋め、礎石建物を建て始めたのが第?期です。 大庭・御内原:uumyaa・uutibaru 南側の大庭(ウーミャー)は広場として北側の御内原(ウーチバル)は居住空間として利用されたと推定されます。 志慶真門郭:Shijima-jokaku 家臣たちが生活した場所と考えられており、掘建柱建物跡や階段・石畳道などが確認されています。 大隅:Uushimi 城兵達の武闘訓練の場であったと推定されます。」

ハンタ道

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「ハンタ道…現今泊(いまどまり)集落から今帰仁城への里道は「ハンタ道」と呼ばれています。この道は今帰仁城が城として機能していた頃の登城道(とじょうみち)として利用された歴史の道で、明治36年に作成された「国頭郡(くにがみぐん)今帰仁間切(まぎり)今泊全図」の地積図(ちせきず)でもこれを確認することができます。明治に今帰仁城跡を訪れた探検家笹森儀助(ささもりぎすけ)は、『城跡に登る山道は、鏡石のような青色の大理石で、滑りやすい。靴では行くことができないので、草履(ぞうり)を履(は)いて行くのが良い』と、また当時の新聞記事などには、松並木道であったと記録されています。この道は生活道であるとともに、祭祀(さいし)の時に利用する神道(かみみち)として利用された道で、沿道には拝所(はいしょ)がありますが、現在は利用する人は少なくなりました。道幅2〜3mで延長約740mが良好な状態で保存されています。田園空間整備事業 今帰仁村」

発掘された建物跡

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「発掘された建物跡…2007〜2010年の発掘調査で、規模の大きな石造りの基壇(きだん)と呼ばれる石積み遺構が確認されました。基壇の上には木造(もくぞう)の建物が建築(けんちく)されたと考えられますが、残念ながら建物の柱を支える礎石(そせき)などが失われていたため、建物の規模は分かっていません。城内に10ある郭(くるわ)の中でも基壇や、石積みが多用(たよう)される建物は主郭(しゅかく)や大庭(うーみゃ)、御内原(うーちばる)など城内中枢(ちゅうすう)部に限られることから、ここに建てられていた建物は重要な機能を担った建物と推定されています。発掘で見つかった建物跡の年代はおおよそ16世紀頃と考えられています。」

琉球王国のグスク及び関連遺産群

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「『琉球王国のグスク及び関連遺産群』 世界遺産…2000年12月2日、今帰仁城跡は『琉球王国のグスク及び関連遺産群』の一つとして、ユネスコの『世界遺産条約』に基づく世界遺産リストに登録されました。全世界の人々のために保護すべき遺産として、特に優れて普遍的な価値のあるものが、このリストに登録されます。 今帰仁城跡…かつて琉球に統一王国が樹立する以前の三山時代(北山、中山、南山)北山王の居城として『今帰仁城』が築かれ、沖縄本島北部(やんばる)の政治、経済、文化の拠点となったグスクである。今帰仁城は15世紀初頭まで隆盛を極めるが、北山最後の王、攀安知が1416年に尚巴志の率いる連合軍によって滅ぼされてしまう。その後、監守制度(1422〜1665年)がしかれ首里王府から派遣された監守によって北部地域が統治された。」

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「クヮンソウ…和名は、アキノワスレグサ(秋の忘れ草)、沖縄ではクヮンソウと呼ばれているユリ科の植物です。」

平郎門

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「平郎門(へいろうもん)…平郎門の名称は、1713年に編集された『琉球国由来記(りゅうきゅぅこくゆらいき)』に『北山王者、本門、平郎門を守護す』と記載され登場します。1742年に描かれた『今帰仁旧城図(なきじんきゅうじょうず)』の資料にはこの場所が『本門』として記されています。2つの史料から、今帰仁城の重要な門がこの門で、平郎門と呼ばれていたことが分かります。しかし、城としての機能を終え300年以上経った1900年代初め頃には、既に門は大きく崩落していたことが分かっています。1961年12月から翌年4月頃に現在の門の形に修理(しゅうり)が行われました。」

「寒緋桜」が開花!

 「平郎門」をくぐると、城郭につづく長い石段が見えました。門近くに、「寒緋桜」の表示がありました。その中に、つぼみがふくらみ、花が開いているのを見つけました。寒緋桜(カンヒザクラまたはヒカンザクラ)の開花です。

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「寒緋桜…バラ科、原産:中国、花期:1月〜2月、方言名:サクラ、花言葉:精神的な美」

城壁は語る…世界遺産「北山城跡」(2)!

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旧道

 「平郎門」から続く石階段の右手に、「旧道」があります。岩盤を利用した道幅を狭くし、大勢の敵兵が一気に入れないよう工夫された石敷きの小道です。

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「旧道(きゅうどう)…平郎門(へいろうもん)から直線的に伸びる石階段は、1960年代に整備された階段です。本来の登城道は、平郎門から場内へ向かって石階段の右手側にあります。1980年の発掘調査によって石敷(いしじ)きの小道が発見されています。旧道は、大きな岩盤の谷間を利用して、道幅(みちはば)を狭(せま)く造り、敵兵(てきへい)が攻め入っても大勢(おおぜい)の兵隊(へいたい)が上の郭まで一気に入れないように工夫(くふう)されたつくりになっています。」

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大庭

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「大庭(うーみやー)…政治・宗教儀式が行われたと考えられる場所で、首里城の御庭(うなー)と同様の機能を有していた郭と考えられています。七五三の階段を登ってきて大庭を取り囲むように、正面には正殿(主郭)、右側が南殿、北側の一段高いところに北殿跡があったと考えられます。北殿跡には、建物跡とみられる礎石が今も残っています。写真は旧歴八月のグスクウイミと呼ばれる年中祭祀で、今帰仁グスクの祭祀を司る今帰仁ノロによって、村の安全・子孫繁栄・世果報(ゆがふ)を祈願します。」

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「志慶真乙樽(しげまうとぅだる)の歌碑…今帰仁の城 しもなりの九年母(くにぶ) 志慶真乙 樽が ぬきゃいはきゃい 大意:今帰仁グスクの南にある志慶真ムラという集落に『乙樽』という美女がいました。黒髪が美しい乙女の噂は国中に広がり『今帰仁御神』と呼ばれ時の山北王も側室として仕えさせました。なに不自由なく暮らす幸福な毎日を過ごしましたが、高齢の王には長い間後継ぎが無く、王妃も乙樽も世継ぎが授かることばかりを祈っていました。やがて王妃が子を授かり、そのことを季節はずれの蜜柑(みかん)が実ったことに例え、子供のはしゃぐ声に満ちた平和な様子を謡っています。」

御内原

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「御内原(うーちばる)…北殿跡の北側にある一段高いところを御内原と呼んでいます。この場所は伝説では女官(にょかん)部屋があったと伝えられており、城内で最も重要な御嶽(うたき、イベ)があります。特に御内原の北端からの眺望は、城内で最も開けていて今帰仁(なきじん)城跡のほぼ全てを望むことが出来ます。また、国頭(くにがみ)の山並(やまな)みや離島の伊平屋(いへや)・伊是名(いぜな)島を眺めることも出来ます。特に晴れた日には、沖縄本島北端の辺戸岬(へどみさき)の先22km洋上(ようじょう)にある与論(よろん)島(鹿児島県大島郡)を見ることが出来ます。」

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ソイツギ

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「ソイツギ(城内下之御嶽)…今帰仁城跡には御嶽のイベ(最も聖なる場所)が2つあります。大庭(うーみゃ)の北西にあるソイツギは、『琉球国由来記』(1713年)に『城内下之嶽』、神名「ソイツギノイシズ御イベ」と記され、旧暦八月のグスクウイミという祭祀の時、今帰仁ノロが五穀豊穣等を祈願します。御内原にあるテンチジアマチジ(『城内上之御嶽』)や神アサギ跡と共に祭祀場として拝まれます。」

 

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テンチジアマチジ

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「テンチジアマチジ(城内上の御嶽)…御嶽とは、琉球固有の祭祀施設、琉球の信仰における聖域の総称で、神が存在、あるいは来訪する場所です。テンチジアマチジは御内原(うーちばる)の南東側、低い石垣で囲まれる御嶽です。沖縄の古謡『おもろさうし』では『今帰仁のカナヒヤブ』と謡われ、今帰仁グスクの守護神として崇められる最も神聖な場所です。俗にテンチジアマチジと呼ばれ、昔は御内原とこの地域は男子禁制で、城内の女官によって子孫繁栄、国家安泰、五穀豊穣を祈願したと伝えられています。旧暦七月のウブウイミ、八月のグスクウイミでは、今帰仁ノロによって祭祀が執り行われます。」

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版築

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「版築(はんちく)…土を敷いて突き固(かた)め、その上にまた土を敷き固める。それを何回も繰り返して、堅固な基盤を造成する土木技術のことを版築とよびます。版築は、古代中国の殷代(いんだい)(BC14〜12世紀)の頃に確立され、日本へは紀元4世紀頃に古墳(こふん)づくりの技術に伴って伝来し、のちに主として宗教建築の基礎工事や土塁(どるい)などに用いられるようになります。沖縄県では、ここ今帰仁城本丸の発掘調査で初めて発見されました。今帰仁城の本丸敷地は、もとは古生代石灰岩(こせいだいせっかいがん)でできた岩山の頂上部で、東西に傾斜した地形になっており、そのままでは建物が建つような平坦な面ではありませんでした。そこで、まず山頂部をある程度削って平らにし、つぎに東西の斜面部に土留めの石を積み上げ、最後に内側に版築をして、平場を造成しています。本丸の発掘調査で9枚の層が確認され、第8層(13世紀末頃)で丁寧な版築造成が見られます。第8層の厚さは20cm〜120cmあり、この層は1〜5cmの黄褐色や赤褐色の土層からなり、縞模様(しまもよう)になっています。縞模様の層を数えると、土を約30回も敷きならし突き固めていることがわかります。第8層のほか、第3層と第4層では、土と石を交互に敷きつめた平場造成がなされています。」

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山北今帰仁城監守来歴碑記

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「山北今帰仁城監守来歴碑記(さんほくなきじんじょうかんしゅらいれきひき)…今帰仁按司(あじ)十世宣謨(せんも)が1749年に首里王府から今帰仁城の永代管理と典礼を司ることを許されたことを記念し、故地を顕彰すべく建立しました。今帰仁監守は尚巴志(しょうはし)が1416年に山北王を滅ぼした5年後に第二子尚忠(しょうちゅう)を派遣に始まり、その後、尚真(しょうしん)王代に第三子尚韶威(しょうしょうい)を派遣し、以後、同家が代々世襲で現地の監守を勤めました。碑文の内容は、三山時代の業績から説き起こし、今帰仁按司が今帰仁城を立派に治めたことを記し、後世の子孫に伝えるための顕彰碑となっています。同碑文は保存状態も良く琉球王国時代の地方監守の歴史を知る上で貴重な資料です。」

志慶真門郭

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「志慶真門郭(シジマジョウ)…ここは俗に志慶真門と呼ばれている所で、城内で最も東に位置する郭です。志慶真門郭の発掘調査が昭和55年〜57年度に実施されました。発掘の結果、志慶真門郭と大庭(ウミャー)との通路石郭が確認されています。郭内の当初の地形はゆるやかな傾斜地で、宅地の造成工事により段差を設け、建物の建立がなされています。建物は約6m×6m或いは4m×5m程度の規模で中に炉跡があります。瓦が出土しないことから板葺きの掘立柱建物であったと考えられます。また、建物間を結ぶ石敷道や石段なども検出されました。それらの遺構は修景整備がなされています。出土品には、武具類・陶磁器・装飾品・子供用遊具などがあり、これらの出土遺物より「家族単位」の生活が営まれていたことが考えられます。石垣は地山を削り、自然の岩を利用して積み上げる工法がなされています。なお、郭の南側には志慶真門跡が明らかになっています。 昭和59年3月19日 今帰仁村教育委員会」

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都会のオアシス!…倉敷ダム

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 うるま市石川楚南にある「倉敷ダム」を訪ねました。同ダムは沖縄市・うるま市にあり、金城ダム(那覇市)、座間味ダム(座間味村)、我喜屋ダム(伊平屋村)と同様、沖縄県管理のダムです。県では、儀間ダム(久米島町)を建設中で、平成26年度の完成をめざしています。ダム湖である「倉敷湖」は、財団法人ダム水源地環境整備センターが選定する「ダム湖百選」に選ばれています。県内には、県管理のダムが5、国管理のダムが9、土木事務所管理ダムが1あります。

参照(沖縄県-土木建築部ダム事務所-事務所概要  http://www.pref.okinawa.jp/site/doboku/damu/01_gaiyo.html

豊かな自然が育む都会のオアシス

「倉敷ダムの施設…倉敷ダムの環境は、亜熱帯植物の木陰に小鳥がさえずり、清流の水辺にはトンボが飛び交い、カニやハゼなどの小さな動物たちが遊ぶ水辺で囲われています。豊かな清流を湛える倉敷ダムは、水と戯れ、遊び、自然学習する空間として、資料館や多目的広場を備えています。管理庁舎や取水塔、バルブ室などの建物には沖縄の赤瓦を葺き、外壁は琉球石灰岩風に仕上げるなど、沖縄の風土を考慮した伝統的な建築の様式を取り入れた、景観設計がなされています。

 (倉敷ダムの環境施設/沖縄県 http://www.pref.okinawa.jp/site/doboku/damu/kanri/kurashiki-sisetsu.html)」

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「倉敷ダム周辺地形模型は、米軍の用地接収、端慶山ダム建設のため帰郷出来ず、その後、沖縄本島の水事情改善のための倉敷ダム建設に協力していただいた倉敷郷友会の要請を受け、倉敷で生活していた米軍上陸前の19年当時の集落を可能な限り正確に再現しています。」

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夫婦の泡盛、松藤!…崎山酒造廠

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 金武町伊芸の「崎山酒造廠」を訪ねました。明治38年、首里で創業した酒造所で、二代目夫婦の名前から命名された、泡盛「松藤」で知られています。同社は、「水」「麹」「醪」「澱」の四つのこだわりをもって、泡盛づくりをしています。(崎山の四つのこだわり http://sakiyamashuzo.jp/contents/kodawari/

 予約なしに一人で訪問したのですが、比嘉さんが丁寧に対応してくれました。パネルで、会社概要や製造工程などを説明した後、機器や装置を見ながら、説明してもらいました。

 泡盛は、黒麹菌が繁殖しやすい硬質米(タイ米)と恩納岳からの伏流水(硬度30〜40の軟水)を用いてつくります。1「洗米→水切り→浸漬」、2「蒸し」、3「製麹前半(種付け・マジン・カチャーイ)」、4「製麹後半(盛り→仕舞仕事→出麹)」、5「仕込み」、6「常圧蒸留」、7「濾過」、8「熟成」の各製造工程で、独自のこだわりをもって作業を進め、濃厚な酒質を実現し、熟成させています。

(泡盛 松藤の崎山酒造廠 公式サイト http://sakiyamashuzo.jp/contents/koutei/

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老若男女が遊ぶ庭…あしびなー!

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 豊見城市豊崎の「沖縄アウトレットモールあしびなー」を訪ねました。ここは、年末に、きれいなイルミネーションが見られる場所の一つです。かつて、沖縄では、各村に「遊ぶ庭(アシビナー)」と呼ばれる広場があり、老若男女が集い交流する場として活用されていました。

「沖縄アウトレットモールあしびなー」は現代の「遊ぶ庭」を再現しました。沖縄をはじめとしたさまざまな民族文化を楽しめるイベントなど、エンターテイメントも充実しています。(沖縄アウトレットモールあしびなーhttp://www.ashibinaa.com/about/index.html

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土と炎の美…「読谷山焼」陶器市!

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 読谷村座喜味の「やちむんの里」を訪ねました。そこで、12月20日(金)、21(土)、22日(日)の3日間、読谷山焼「陶器市」が開催されています。

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 陶器市に先立ち、北窯では、9日(月)の晩、登り窯に火が入り、12日(木)晩まで3日間、窯焚きが行われ、17日(火)に窯出しが行われました。読谷山窯では9連房、北窯では13連房の登り窯があります。10日に訪ね、登り窯の窯焚きの様子を見ていたので、その後の窯の様子を見るため、北窯に行きました。そこで、許可を得て、登り窯の中を見せてもらいました。房の内部には、仕切りで棚が作られていました。外から薪を投げ込む穴もあります。

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 広場には、各工房で制作された陶器が並べられ、市価より2割程度安い価格で販売されていました。村内外のやちむんファンが、品定めをしながら、見ていました。お気に入りの品を購入している人もいます。

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護佐丸伝説が蘇る!…世界遺産「中城城跡」(1)

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 北中城村大城にある「中城城跡」を訪ねました。同城跡は、琉球王国の成立で重要な役割を果たした護佐丸が、座喜味城築城の後、中城城に移り、増築した城です。国指定史跡で、『選定琉球王国のグスク及び関連遺産群』のひとつとして、ユネスコの『世界遺産条約』に基づく世界遺産リストに登録され、日本100名城にも選定されています。

 12月21日、22日に、「世界遺産中城城跡プロジェクションマッピング」が行われました。

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「世界遺産…200年12月2日、中城城跡は『琉球王国のグスク及び関連遺産群』のひとつとして、ユネスコの『世界遺産条約』に基づく世界遺産リストに登録されました。全世界の人々のために保護すべき遺産として、特に優れて普遍的な価値のあるものが、このリストに登録されます。

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裏門

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三の郭

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・大井戸

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二の郭

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一の郭

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・拝所-中森ノ御イベ

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一の郭

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・一の郭西側城壁解体工事

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古琉球時代を今に伝える!…世界遺産「中城城跡」(2)

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 「中城城跡」は、中城村の西北から北中城村の南側、標高160mの丘陵にあります。沖縄のグスクの中で、最も遺構がよく残っていることで知られています。石垣の上から、西に東シナ海、東に中城湾、勝連半島、知念半島を見渡すことができます。

 城は先中城按司が築き、読谷の座喜味から移ってきた護佐丸により増築され、完成したといわれ、美しい曲線で構成され、芸術的な築城技術が高い評価を受けています。

・拝所-雨乞いの御嶽

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・拝所-小城ノ御イベ

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南の郭

・拝所-御當蔵火神

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西の郭

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正門

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・鍛冶屋跡

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西の郭

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・拝所-トモヤグラノ御イベ

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・ペリー探検隊のスケッチ場所

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・拝所-ナミナミノ御イベ

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・拝所-カワヤグラノ御イベ

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帰路

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 「世界遺産中城城跡プロジェクションマッピング」会場には、「中城小学校」「中城幼稚園」などのテントが立てられ、スタッフの打ち合わせやリハーサルが行われていました。

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空まで届け平和の光の柱!…平和祈念公園

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 糸満市摩文仁の「平和祈念公園」を訪ねました。「平和の丘」を中心に、「平和の光を灯そうエコキャンドル作り体験」で作ったキャンドルに火を灯し、白木の柱に見立てたサーチライトの「平和の光の柱」で糸満摩文仁の地と天を結ぼうとしています。

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「平和の丘」

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・平和の光を灯そう

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「平和の光を灯そうエコキャンドル作り体験…結婚式場で使用済みのローソクを利用してオリジナルのキャンドルを作る体験です。平和のメッセージとしキャンドルの温かな光に平和への願いを込めましょう NPO法人自然体験学校」

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・平和の光の柱

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「平和の光の柱 趣旨…全戦没者之霊の標柱として白木の柱に見立てたサーチライトの厳かで神秘的な純白無垢の光の柱で糸満摩文仁の地と天を結ぶものです。5本の光は沖縄戦で戦没された日本・米国・英国・朝鮮半島・台湾の5か国・地域の戦没者を表します。 沖縄県平和祈念財団」

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平和の願いを光に込めて!…いとまんピースフルイルミネーション

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 糸満市摩文仁の「糸満市観光農園」を訪ねました。12月14日〜1月3日、「人と人とをつなげる祈りの光」をテーマに、平和祈念公園で「平和の光の柱」、同農園で「いとまんピースフルイルミネーション」が行われます。

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プランターの花たち1225!

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 この時期、雨の日は、沖縄でも暖房が必要です。アスター(?)は、9月10日に種をまき、67日目の11月15日に開花し、12月25日で107日目になります。開花時期は、個体間でだいぶ異なり、それぞれのペースで、つぼみをつけ、花を咲かせています。クリスマスの日の菜園やプランターの花たちの様子です。

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いろいろいるゾウ…イルミネーション!

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 12月中頃から、町の中や家々で、クリスマスの飾り付けやイルミネーションを見かけることが多くなりました。ホテルや植物園などでも、LEDなどを活用したイルミネーション企画があります。

 派手さはないものの、心が和むイルミネーションがありました。沖縄子供の国駐車場で見かけたのもその一つです。

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後世まで継承・発展させる!…与那原町立「綱曳資料館」

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 与那原町与那原の親川広場内、与那原町立「綱曳資料館」を訪ねました。同施設は、平成元年に国のふるさと創生事業が提唱されたのを受け、「伝統ある綱曳を後世まで継承、発展させる施設を建設する」ことを決定し、平成4年3月に完成したものです。

 「展示コーナー」には、綱曳の由来、綱作り風景、与那原綱曳関連の資料、過去の記録写真などが展示され、ヤーマ(綱合わせ機)や小太鼓等小道具、大綱(縮小)や旗頭、衣装などもあります。「ビデオコーナー」で、綱曳のDVDを視聴することもできます。与那原町内小学生の学習成果なども展示されていました。

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「綱曳の由来…与那原の綱曳の起源は、尚永王(1573〜1588)までさかのぼるといわれている。その由来は全沖縄に琉布する。綱曳由来と同じで、次のようにつたえられている。…ある年、稲が不作のうえに害虫が発生し人々は餓死寸前であった。途方にくれた村頭はアムト(堤)の下に捨てた老人に相談したところ、村民総出で鐘、太鼓を打ち鳴らし、大声をだしながら綱を曳くようにと教えてくれた。この事をきいた王は、毎年綱を曳いて豊年祈願することを奨励し、老人を捨てる事を禁じたといわれている。」

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「日延べの御願…与那原大綱曳は、本来旧暦6月26日に行われ、町内の拝所に来年の豊年や住民の健康を祈願してから曳かれた。しかし、農家の減少や生活環境の変化、観光宣言要素が強くなったことなどから、26日以降の日曜日に改められた。そこで、26日当日は豊年、健康祈願とともに綱曳の延期を報告する「日延べの御願」が実行委員会によって行われる。」

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参照(与那原大綱曳HP http://www.town.yonabaru.okinawa.jp/maturi/2008/top.html

ニライカナイの郷…久高島に架かる虹!

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 琉球王朝時代の聖地「東御廻り」のコースを回っている途中、一時、小雨がぱらついたりしました。「斎場御嶽」から「知念城跡」に行く途中、東方の海側に「虹」が架かっているのに気づき、車を停めて、しばらく観察・撮影しました。

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 虹は、「知念城跡」の駐車場に着いたときも、まだ見えました。虹は東方海上にあり、山側から、ニライカナイの郷「久高島」に架かっているように見えます。

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 「知念城跡」は、整備工事中で、一部しか見ることが出来ませんでした。一通り見終わり、駐車場に戻ったとき、また、淡い虹が見えました。

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高速道で見た虹

 以前、沖縄高速道走行中にうるま市石川付近で見た虹です。

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 虹の発生する原理を説明しているサイトが、いくつかあります。関心のある方は、アクセスしてみてください。

 「虹を見るチャンスは?…雨が止んだ直後、あるいはまだ雨が止んでいない時に日射があると、太陽のある方向と逆の方向を見てみましょう(図1)。幸運な場合、きれいな虹の全体あるいは虹の橋の一部分を見つけることがあります。太陽高度が高い日中は虹は低くしか見えませんが、太陽高度が低い朝や夕方には大きくきれいな虹がみられます。」

引用(虹の発生とその仕組み http://www.jma-net.go.jp/matsue/chisiki/column/phenomena/rainbow.html)

参照(虹 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%B9)


琉球王朝時代の聖地巡礼-東御廻り(1)

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 琉球王朝時代の聖地「東御廻り」のコースの一部、「御殿山」「親川」「佐敷上グスク」を訪ねました。園比屋武御嶽石門は、前に訪ねたときのものです。説明文(緑)は、教育委員会などの案内板に記載されたものです。説明を読みながら史跡を見ると、名称の由来がわかり、「そうだったのか」と思うことがあります。

園比屋武御嶽石門(那覇市)

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「園比屋武御嶽石門、園比屋武御嶽…石門とその奥の森を園比屋武御嶽といい王府の祈願所であった。石門は、神社で言う拝殿にあたるが本殿に相当する建物はなく、石門の後ろに広がる森がそれにあたるという。 石門の創建は尚真王時代の1519年。1933年には旧国定に指定されたが沖縄戦で大破、1956年に復元され後に解体修理し1986年に完成した。竹富島の西塘の作と伝えられる。石材は主に琉球石灰岩を用い板葺唐破風屋根を表わす。屋根の飾りなどに日本と中国の様式を合わせて用いた沖縄独特の優れた石造建築である。 沖縄県教育委員会 那覇市教育委員会」

 園比屋武御嶽は、「石門が拝殿にあたり、本殿にあたる建物はなく、背後の森そのものが本殿にあたる」というのが意外でした。沖縄の御嶽の特徴を表したものといえそうです。

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「世界遺産 琉球王国のグスク及び関連遺産群園 園比屋武御嶽石門…2000年12月2日、園比屋武御嶽石門は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして、世界遺産条約に基づく世界遺産リストに登録されました。世界の人々のために保護すべき遺産として、特に優れて普遍的な価値があるものが、このリストに登録されます。」

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御殿山(与那原町)

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「御殿山(ウドゥンヤマ)…名前の由来は、山原から首里の御殿に納める木材の置場に指定されたことによる。オモロでは「よなははま きこゑ 大きみ やちよ かけて と よまさに 又 あきりくち とよむ大きみ やちよ」とうたわれている。『球陽・遣老説伝』に『漂流の大君加那志(おおぎみかなし)』として由来がのっており、戦前は立派なお宮があり、尚家の人々が年一度お参りしていたといわれる。聞得大君(きこえおおぎみ)の御新下(うあらう)りの際には最初の休息地となり御仮家が設けられた場所である。現在も町の行事や東御廻(アガリウマーイ)のコースにもなっている。与那原町教育委員会」

 御殿山は、海の近く平地にある祠なのに、なぜ「御殿・山」なのかがわかりました。「山原から首里の御殿に納める木材の置場」からきたのです。

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親川(与那原町)

 

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「親川…天地開闢の昔、御殿山に天降りした天女が、その御子の出産にあたり、産湯を召したとの神話に発し、琉球王朝時代には国王の久高参詣(旧八月の神拝)の東御廻りや聞得大君の御新下りの際、「お水撫」の儀式を行うなど、首里出発後、最初の拝所として、休息の御用水を献じたところと伝えられています。澄みきって冷たい水が、こんこんと湧き出るこの古泉は人々の崇拝をあつめた霊所であります。与那原発祥の頃、この泉を中心に村を興し、町民の団結と憩いの場となっていました。今でも町民が一体となる与那原の大綱曳きはここから出発し、この地で終わります。」

 「親川」と「綱曳資料館」(与那原発祥の古泉に建てられた)との関わりが分かります。沖縄では、自然の湧泉を水源として利用することが多く、「浅い井戸になったものを『カー(川)』」「水脈から桶で水を引いて水溜を造ったものを『ヒージャー(樋川)』」と呼んでいました。「川」をあてていますが、「川…雨などの自然の水が集まり、陸上のくぼみを傾斜に沿って流れ下る水路。河川(かせん)。」(Yahoo!辞書)とは違うのです。

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佐敷上グスク(南城市佐敷)

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「佐敷ノロ殿内…ノロ(ヌル)は、琉球王府時代に村落のお祭りを行い、宗教的に村落を管理支配した女性神役です。ノロ殿内とは、ノロの火之神を祭ってある建物のことをいいます。初代佐敷ノロは苗代大親(尚思紹)の長女でした。佐敷ノロは代々、喜友名家の系統の女性が昭和初期まで継承していましたが、最後のノロが他界してからは後継者が途絶えています。南城市教育委員会」

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「佐敷グスク(上ウィグスク)…佐敷グスクは、三山を統一した尚巴志とその父尚思紹の居城跡といわれています。1979年の発掘調査によって、青磁・白磁のお椀や皿、土器、石器、鉄釘や小銭などが出土しました。また、柱のあとや土留めの石積みも確認されましたが、沖縄各地のグスクにみられるような石垣はまだまだ発見されていません。さかえる町 しぜんの町 きぼうの町 佐敷町教育委員会」

案内板は合併前の「佐敷町」のままでした。

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「内原の殿(ウチバルヌトゥン)…内原の殿は、上城の殿ともよばれ、女官たちの働いていた場所といわれており、もともとはカマド跡付近にあったと考えられています。以前は粟石の柱で壁はありませんでしたが、昭和55年にコンクリートのほこらに建て替えられました。南城市教育委員会」

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「上グスクのカマド跡…グスク時代のカマド跡といわれており、火の神(ヒヌカン)を
」祭ったところと考えられています。また、この辺りは女官たちの働いていた場所といわれています。そのようなことから、女官の詰所といわれる内原の殿は、もとはこのカマド跡にあったともいわれています。南城市教育委員会」

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「上グスクのカマド跡…グスク時代のカマド跡といわれており、火の神(ヒヌカン)を
」祭ったところと考えられています。また、この辺りは女官たちの働いていた場所といわれています。そのようなことから、女官の詰所といわれる内原の殿は、もとはこのカマド跡にあったともいわれています。南城市教育委員会」

テダ御川(南城市知念)

 

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「テダ御川(テダうっかー)…『テダ』とは太陽を意味する言葉で、ここでは琉球国王を指します。その昔、国王が麦の初穂祭に久高島(くだかじま)を参拝する途中、この地で豊かに湧き出る水をいただき休息をとりました。そして海上の無事を祈ったのです。テダ御川は東廻りの聖地として、今でも人々から崇められています。南城市指定史跡。」

「東御廻り(あがりうまーい)の由来…『東御廻り』とは、沖縄民俗の祖先、《アマミキヨ》が住み着いたと伝えられる知念・玉城の霊地巡拝行事です。首里城を中心に、大里・佐敷・知念・玉城を『東方(あがりかた)』と呼んだことから、知念・玉城の聖地巡拝を『東御廻り』と称しました。久高島は麦の発祥地、玉城は稲の発祥地として国王自ら参詣しました。」

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 以前、墓地の間を通り、しんどい思いをしながら、丘を越えて海岸に抜け、「テダ御川」までたどり着いたことがあります。今回は、案内表示にしたがい、海側から行きました。平坦な道が整備されていて、無理なく、訪ねることができました。

世界遺産-斎場御嶽…東御廻り(2)!

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 琉球王朝時代の聖地「東御廻り」のコースの一つで、世界遺産に登録されている「斎場御嶽」(南城市知念)を訪ねました。チケット売り場は、「がんじゅう駅南城」の駐車場にあります。

幸せの架け橋…がんじゅう駅南城

 がんじゅう駅南城には、南城市で行われているイベント情報や観光施設などのパンフレットがあり、調理室や体験室も整備されています。裏手広場には、「幸せの架け橋」があり、そこからの眺望は見事です。青い海の向こうに、神の島「久高島」が見えます。全国的にも話題のパワースポットとなっています。参照(がんじゅう駅 南城 http://okinawa-nanjo.jp/station/

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斎場御嶽

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「斎場御嶽(せーふぁうたき)…『御嶽』とは、奄美諸島から宮古・八重山にいたる南西諸島に広く分布している聖地の総称です。斎場御嶽は、琉球王朝時代に王府が整備した国家的な宗教組織との関係が深い、格式の高い祭祀場でありました。せーふぁ(霊感の高い聖なる場所)の名前が示すように、巨岩や聖樹に囲まれた空間には、首里城内にある部屋名と同じ名前の拝所があり、当時の王府と斎場御嶽の関わりの深さをみることができます。琉球最高神女である聞得大君の、就任儀礼「お新下り」の御名付けがこの地で行われたということは、王権を信仰面・精神面から支えていた証でもありましょう。現在でも、聖地巡拝の習慣を残す東御廻り(あがいうまーい)の聖地として、参拝客は後を絶ちません。世界遺産登録2000年12月2日、国指定1972年5月15日」

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「御門口(うじょうぐち)…斎場御嶽の入口で、神社でいえば拝殿に当たる所です。琉球最高の御嶽ゆえに、ここから入場できるのは王府関係者に限られていました。右側には、御嶽内にある六つの拝所を示す香炉が置かれ一般の人々はここで御嶽の中に向かって拝みました。」

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「大庫理(うふぐーい)…首里城正殿の二階は大庫理と呼ばれ、祭祀的な機能を持つ格式の高い場所です。聞得大君のお新下り儀式での『お名付け(霊威づけ)』の儀礼が、首里城と同じ名前を持つこの場所でとり行われたのは、その名にふさわしいことと言えましょう。前面にある磚(せん)敷きの広間では、神女たちが聞得大君を祝福し琉球王国の繁栄を祈りました。」

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「斎場御嶽の艦砲穴(かんぽうあな)…1945年の沖縄戦において、『鉄の暴風』と形容されるほどの砲弾が撃ち込まれ、終戦直後は沖縄本島至る所に艦砲穴といわれる砲弾でできた穴が残っていたが、大半の艦砲穴は埋められるなどして残っていない。そのため、沖縄戦の様子を伝える戦争遺跡として保存している。」

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「寄満(ゆいんち)…寄満とは首里城内にある建物の名前で、国王のために食事を作る厨房を指します。当時、ここには国内外からの海幸・山幸が集まりました。それが、『豊穣の寄り満つる所』と理解されていったのでしょう。同じ名前を持つ斎場御嶽のこの場所には、第二次世界大戦前まで、その年の吉兆を占う馬の形をした石(うまぐゎーいし)が置かれていました。」

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「シキヨダユルアマガヌビー(奥側) アマダユルアシカヌビー(参道側)…二つの壷中にあるのは神聖な水です。触れることは、ご遠慮ください。 沖縄県南城市教育委員会」

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「三角岩…自然岩や洞穴に囲まれたこの場所には、いくつもの拝所が集まっています。正面に見える三角形の空間の突き当たりが三庫理(さんぐーい)、右側がチョウノハナの拝所で、いずれも首里城内にある場所と同じ名前を持っています。また、左側からは太平洋と久高島が遠望できます。さて、三角岩の右側には、『貴婦人様お休み所』と日本の鍾乳石が見えます。滴り落ちる水はその下に置かれた壷に受けられ、それぞれが中城御殿(国王の世子)と聞得大君御殿の吉兆を占うとともに、お正月の若水とりの儀式にも使われる霊水でした。」

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「久高島遙拝所(くだかじまようはいじょ)…琉球王国の絶対的な存在である国王はまさに太陽であり、その太陽のあがる方向にある久高島は、東方楽土ニライカナイへの『お通し(遙拝)』所として沖縄各地で崇拝されています。琉球王朝時代の久高島遙拝所は御門口下方にありますが、いつしかこの場所が遙拝所として定着したことを受け、南城市としても保護しているものです。沖縄県南城市教育委員会」

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琉球八社の一つ「国指定史跡末吉宮跡」!

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 琉球八社の一つ「国指定史跡末吉宮跡」に向かいました。途中には、長い階段や、足場が悪く勾配が急な登り道があるので、歩きやすい履き物などの配慮が必要です。小さい子が泣き出して、お母さんにおんぶしてもらっているのに出会いました。登るのも楽ではありませんが、降りるときの方が、いっそう注意が必要です。

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「国指定史跡 末吉宮跡 昭和47年5月15日指定 沖縄県指定有形文化財 建造物 末吉宮磴道 昭和31年2月20日指定…末吉宮は、かつての琉球八社の一つで、俗に「社壇」と呼ばれている。尚泰久王代の1456年頃、天界寺住持鶴翁和尚が熊野三社権現を勧請して奉祀したのにはじまるという。本殿は三間社流造り本瓦葺きで、前面に向拝を付している。磴道は、参道を登りつめたところから祭場までの8段、祭場から拝殿跡までの21段および拝殿跡から本殿までの7段の一連の石造階段部分をいう。本殿と祭場はそれぞれ別の岩盤の上にあり、両間は切石積みの石造単拱橋(アーチ橋)で継いでいる。なお、磴道は昭和46年に修理され、本殿は昭和47年に復元された。末吉宮の下方には、末吉宮の神宮寺で俗に「末吉の寺」と呼ばれる遍照寺(もの万寿寺)の跡がある。この寺は山号を大慶山といい、真言宗に属し、沖縄における神仏混淆の信仰形態を知るうえで重要な資料である。また、社殿の周囲の崖下には点々と拝所が設けられ、信仰の対象となっている。平成2年3月 沖縄県教育委員会 那覇市教育委員会」

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 磴道は、参道〜祭場〜拝殿跡〜本殿間の一連の石造階段部分をいいます。本殿は、石造りのアーチ橋上に築かれていました。アーチをくぐると、頭上に朱塗りの本殿の側面が見えます。

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「史跡 末吉宮跡 昭和47年5月15日国指定…末吉宮は「末吉社壇」の名で沖縄県民に親しまれたお宮で、室町時代中期に建立されたものです。波上、沖、安里八幡、識名、普天間、金武、天久と共に琉球八社の一つにあげられている近くの万寿寺(現遍照寺)の鎮守として熊野権現を祀ってあります。本殿は沖縄の地方色をよくあらわしている三間社流造本殿として昭和11年 国宝に指定されましたが 第二次大戦で砲撃を受け 建物の礎石と柱二本と虹梁(頭貫)を残したのみで飛散しました。現在の建物はこれら残った礎石と資材を基に昭和47年に復元修理をしたものです。なお、この地域で許可を得ることなく現状を変更し、又は保存に影響を及ぼす行為をすることは、法律によって禁じられています。文部省 沖縄県」

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 史跡の説明版の上から、遠方に「首里城」が見えます。

幸せの花・はな・ハナ-末吉公園!

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 元日の午後、「末吉公園(那覇市首里末吉町)」を訪ねました。管理事務所近くの駐車場は、ほぼ満車状態でした。近くで、たこ揚げをしている人がいます。「早く、早く」と、両親をせかしている、子どもたちのはずんだ声が聞こえます。

 駐車場北側の斜面には、花壇がつくられ、そのときどきの花を見ることができます。久しぶりにのぞいてみると、いろいろな花が咲いていました。棒の先に花の種の袋をかぶせ、名標がわりにしていました。種をまいて育てているようです。バラ、ハイビスカス、サンダンカ、コスモス、マリーゴールド、ペチュニア、ベゴニア、ジニア、ペンタス等、いろいろな花が咲いていました。しばらく見ていると、心が安らぎ、幸せな心持ちになります。

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「末吉公園概要…末吉公園は那覇市北部の末吉風致地区(自然の維持を目的)内の丘陵地に位置し、中央を安謝川が流れるV字城の傾斜地で、那覇市に於て自然林の残存する唯一の公園です。本公園は昭和46年に都市計画公園として整備に着手し、これまでに多目的広場、休憩舎、ピクニック園地、散策園路等の建設が行われています。昭和59年には、管理事務所と駐車場が開設され、総合公園としての姿を整えつつあります。計画面積:8.76ヘクタールのうち、7.74ヘクタールが開園され那覇市民はもとより近隣市町村からも広く利用されています。今後の施設整備としては、野鳥観察園、水園、緑の相談室等の設置計画があり、樹木が茂り小川のせせらぎが聞こえ、野鳥が飛びかうのどかな自然公園として整備を進める計画であります。又、公園内には重要文化財である末吉宮、磴道、宜野湾御殿の墓等文化的価値の高い施設が保存されている一方、鳥獣保護区や保安林の指定もあり、文化財の保存と合わせて自然林の保全も行われています。」

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佐銘川大主の住居跡-馬天御嶽…東御廻り(3)

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 「馬天御嶽」を訪ねました。県道137号佐敷玉城線の「新里坂」を上っていくと、与那嶺商店の手前、左手に「佐敷勤労者体育センター」「馬天御嶽」の標識が見えます。そこを左折し、しばらく進むと、右手に「馬天御嶽」の表示があります。表示にしたがって右折し、滑り止めのついた坂を上っていくと、「馬天御嶽」に到着します。「馬天御嶽」は、琉球三山統一の覇者・尚巴志(しょうはし)の祖父、佐銘川大主の住居跡ですが、もとの場所が大雨で埋没したため、現在地に移されました。

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「馬天御嶽(ばてんうたき)…琉球を統一した尚巴志の祖父佐銘川大主(さめがわうふぬし)が、伊平屋島(いへやじま)を逃れて移り住んだところで、もとの場所(新里公民館の近く)は屋敷跡や井戸・漁網干し場などもありましたが、1959年の大雨による地滑りで埋没し、現在地に移されました。正月や5月・6月ウマチーに地域や門中によって拝されています。」

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「イビの森…もともとイビの氏神(イビの御嶽)が祀られていました。1959年(昭和34年)のシャーロット台風に伴う豪雨により、軽石山(通称)付近が崖崩れ及び地滑りをおこし、その際に、佐銘川大主(さめがわウフシュ)の居住跡一帯が埋没してしまいました。一年後、佐銘川大主城住居跡(馬天御嶽)、佐銘川大主住居跡にあった井戸(上馬天御井戸ウィーバティンウカー、下馬天御川シチャバティンウカー)御天竺神(ウティンジクガミ、天の神への御通し)伊平屋神(佐銘川大主の生地である伊平屋島への御通し所で、ヤマトバンタともいう)が、このイビの森に移転されています。沖縄県南城市教育委員会」

 御嶽には、いくつもの拝所があり、当時の人々が、祖先を敬い、節目ごとに祈り、寄り添って生きている様子が伺われます。いつの世も、為政者は、そのようにして、自らを正当化し、そのための仕組みを作ってきたのでしょう。

参照(佐銘川大主の屋敷跡(さめがわうふぬしのやしきあと) | 南城市公式Web ...
http://www.city.nanjo.okinawa.jp/about-nanjo/movie_ja/2012/02/post-87.html

参照(場天御嶽 |「テンペスト」沖縄観光ガイド - Walkerplus http://sp.walkerplus.com/tempest/37.html

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0102-1629-01 馬天御嶽

0102-1630-01 伊平屋神

0102-1630-02 イビ御嶽

0102-1630-03 御天竺神

0102-1631-01 上馬天御井戸

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0102-1636-03 伊平屋御通し

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