宮森小学校ジェット機墜落事故から58年目の6月30日、「うるま市宮森小学校」を訪ねました。高校の同期生には、石川から離れた場所で暮らし、慰霊祭等に参列できない人もいます。彼らの代理として、花束を捧げ、校内の様子を撮影しました。
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(参照)宮森小ジェット機墜落事故 琉歌とひまわりに込めた遺族の想い(http://www.qab.co.jp/news/2017063092100.html)
(引用)事故の概要 NPO法人 石川・宮森630会(http://ishikawamiyamori630kai.cloud-line.com/gaiyou/)
1959年6月30日午前10時40分頃、カデナ基地所属のF100ジェット戦闘機(ジョン・シュミッツ機長)が離陸後時速463キロ、高度約300 メートルに達した時、エンジン火災と危険を知らせる警告ランプが点灯。
搭載していた25ポンド爆弾四発を南西の海に投棄し、カデナ基地に引き返そうとしたがエンジンが爆発したのでパイロットは脱出し、機体は石川市6区5班・8班(現うるま市石川松島区)に墜落し、その衝撃で撥ね上がり、付近の家々を引きずるようにしながら北西の方向約150m先、2時間目が終了した後のミルク給食中の宮森小学校に激突、炎上しました。
この事故により、宮森小学校の生徒が11名(後に後遺症で1名が2歳で死亡)、地域住民が6名死亡しました。
重軽傷者も220名に達し、住宅27戸、公民館1棟、校舎3教室を全焼。住宅8戸、校舎2教室を半焼させる大惨事となりました。
当初、事故はエンジントラブルであり、不可抗力であったと説明されました。(夏空の雷が思いがけない落雷したようなもので、手のつけようがなかったことを、特に察知してほしい - 空軍司令官スミス少将 1959年7月3日 琉球新報)
ところが、事故から40年後にQAB(琉球朝日放送)によって、不可抗力の事故ではなくて、エンジントラブル以前の「整備不良」が原因だったことが米軍資料で明らかにされました。爆弾を四発も搭載していることも県民には隠されていたのです。