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琉球王朝時代、国王に「若水」を献上した名泉!…沢岻樋川

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 浦添市沢岻にある、「沢岻拝所」「沢岻樋川」を訪ねました。沢岻は、多くの拝所が存在する所ですが、周辺で宅地造成が進み、いくつかの拝所が合祀され、「沢岻拝所」ができたと言われています。近くに、「沢岻自治会館」、「たくし幼児園」「昭和薬科大学附属高等学校・附属中学校」があります。拝所裏には、「東ヒージャー」「チブガー」「ヒージャーガー」「ハンダガー」「東之トン」「上之トン」「中之トン」「西之トン」の合祀された拝所の香炉が置かれています。

 

01-0212 沢岻拝所1

 

02-0212沢岻拝所2

 

03-0212 沢岻拝所3

 

04-0212沢岻拝所裏の香炉1

 

05-0212 沢岻拝所裏の香炉2

 

06-0212 沢岻拝所裏の香炉3

 拝所表には、右端に「根所」があり、「東のお嶽」「金満お嶽」「公芳お嶽」「中のお嶽」「公芳お嶽」「中のお嶽」「西のお嶽」「火水の守」がありました。「沢岻拝所」に隣接して、左手に、「慰霊碑」がありました。

 

07-0212 沢岻拝所4

 

08-0210 根所

 

09-0210 お嶽1

 

10-0210 お嶽2

 

11-0212 慰霊の碑

参照(浦添市ホームページ - 沢岻自治会 http://www.city.urasoe.lg.jp/article.php/s20120618115542439)

 「沢岻樋川」は、「昭和薬科大学附属高等学校・附属中学校」駐車場、道向かいの坂下にありました。水質はかなり良さそうです。樋川近くからの眺望は絶景でした。

 

12-0212 昭和薬科大付属高校・中学校

参照(昭和薬科大学附属高等学校・附属中学校 http://www.showayakka-jh.ed.jp/

 

13-0212 澤岻樋川1

 

14-0212 澤岻樋川2

「文化財 澤岻樋川(たくしひーじゃー)…当泉は一〇〇〇年余の歴史を有すると言われ、澤岻部落発祥の頃から地域住民に重宝され、子供が生まれた時には、産水を授かった由緒在る泉であります。琉球王朝の頃は、風水の方角が「亥の吉方」で水質も良いので、正月の朝、国王の長寿、繁栄を祈願し、「若水」を献上された名泉として広く知られております。当時、泉の前は石畳が敷かれ、浦添・中城・読谷方面より那覇、泊港へ唐船を迎える商いの道往還道路としてと利用され、人々は泉のほとりで一休みし、喉をうるおし語り合った場所でもあります。一九五〇年代までは、水量も豊富で近隣では、真赤な夕日を受けた金色の稲穂が雄大な田園風景をかもし出しておりました。

澤岻樋川(たくしひーじゃー)やかりーな泉(いじゅん) 首里御城(しゅいうぐすく)に若水(わかみじ)ゆうさぎてぃ 先年万年代(すにんまんでぇー)栄え(さけぇー)うにげ ひろし 一九九九年吉日修復」

 碑文?……教育委員会などの、公的な設置者名がありません。

 

15-0212 澤岻樋川3

 

16-0212 澤岻樋川4

 

17-0212 奥の水溜め

 

18-0212 手前水溜め中央

 

19-0212 排水

 

20-0212 手前水溜め左

 

21-0212 手前水溜め中央

 

22-0212 手前水溜め右


「浦添間切番所跡」「仲間火ヌ神」「根殿内」「龍福寺跡」…仲間の拝所群

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 浦添市仲間にある、「浦添間切番所跡」「仲間火ヌ神」「根殿内」「龍福寺跡」を訪ねました。浦添中学校校門前左側に、「浦添間切番所跡」の表示がありました。門の前は、色とりどりの花で一杯です。

01-0214 浦添中学校

参照(浦添中学校ホームページ http://www.urasoe.ed.jp/j01/

02-0214 浦添間切番所跡

03-0214 浦添間切番所跡

「浦添間切番所跡(うらそえまぎりばんじょあと)…浦添郵便局北側(うらそえゆうびんきょくきたがわ)からこの辺(あた)りにかけては、かつて浦添間切の番所(ばんじょ)がありました。『間切』とは現在(げんざい)の市町村(しちょうそん)に相当(そうとう)する琉球王国時代(りゅうきゅうおうこくじだい)の行政区画(ぎょうせいくかく)のことで、『番所』は今日(こんにち)の役所(やくしょ)にあたります。番所には地頭代(ジトゥディー)をはじめとする地方役人(じかたやくにん)が置(お)かれ、首里王府(しゅりおうふ)の命(めい)を受(う)け、間切内(ない)の行政を担(にな)いました。また、国王の普天満宮参詣(ふてんまぐうさんけい)の際(さい)には休憩所(きゅうけいじょ)に利用(りよう)されました。1881年(明治14)に訪(おとず)れた上杉茂憲県令(うえすぎもちのりけんれい、今でいう県知事)の記録(きろく)によると、番所は門(もん)を南西(なんせい)に構(かま)え、老松(おいまつ)が枝(えだ)を広(ひろ)げ、フクギ、ソテツが植(う)え連(つら)ねられているとあり、植裁(しょくさい)のゆき届(とど)いた美(うつく)しい施設(しせつ)であったことがわかります。番所は、1897年(明治30)に間切役場(まぎりやくば)、1908年(明治41)には村役場と改(あらた)められ、沖縄戦(おきなわせん)で損壊(そんかい)するまで浦添の行政の中心施設(ちゅうしんしせつ)でした。なお、1882年(明治15)には浦添小学校(うらそえしょうがっこう)が敷地内(しきちない)に開校(かいこう)し、浦添の学校発祥(がっこうはっしょう)の地(ち)としても重要(じゅうよう)な場所(ばしょ)です。」

04-0214仲間の拝所群

05-0214仲間の拝所群

06-0214仲間火ヌ神に向かう

07-0214仲間火ヌ神に向かう

08-0214 仲間火ヌ神

09-0214 仲間火ヌ神

「浦添市指定文化財 仲間火(ひ)ヌ神(かん)(仲間の拝所群)…沖縄の火ヌ神には、各家庭で祀(まつ)る火ヌ神のほかに、ムラの火ヌ神があります。この石の祠(ほこら)は、近世の仲間村の『地頭(じとう)火ヌ神』といわれています。地頭は琉球王国時代に間切(まぎり)や村(今の字)を領地にした士族で、その就任や選任の時に拝んだのが地頭火ヌ神です。また、王府の公的祭祀として、浦添ノロ(神女)がとりおこなう稲二祭(ウマチー)などでも、他の拝所とともに地頭火ヌ神がおがまれたようです。現在は、旧暦五月・六月の稲二祭や十二月の御願解き(うがんぶとぅち)などの年中行事に、仲間自治会の代表者数人で、ムラ拝みをおこなっています。以前より敷地はせまくなりましたが、祠(ほこら)の石組みなどは戦前の姿をとどめています。平成1十四年三月一日指定 浦添市教育委員会」

10-0214 仲間火ヌ神

11-0214 根殿内

12-0214 根殿内

「根殿内(ニードゥンチ)…仲間村(なかまむら)の草分(くさわ)けの家(いえ)『根殿内ニードゥンチ』がここである。浦添(うらそえ)の歴史(れきし)の中心(ちゅうしん)は仲間村であったとも伝(つた)わっており、根屋(ニーヤー)も仲間では殿内(ドゥンチ)という言葉(ことば)で敬称(けいしょう)され『根殿内(ニードゥンチ)』と呼(よ)ばれた。初拝(ハチウガ)み・御願解き(ウガンブトゥチ)・五月・六月のウマチーに拝(おが)まれ、与那覇門中(ユナハムンチュウ)によって維持(いじ)、継承(けいしょう)されている。」

 「根殿内」の跡から、浦添中学校前に戻り、グラウンド側の「龍福寺跡」に向かいました。

13-0214 浦添中学校門前

14-0214 浦添中学校門前

15-0214 浦添中学校グラウンド側

16-0214 龍福寺跡

17-0214 龍福寺跡

「龍福寺跡(りゅうふくじあと)…浦添中学校(うらそえちゅうがっこう)グラウンド西側(にしがわ)には、かつて龍福寺という首里王府(しゅりおうふ)の官寺(かんじ)があり、第一尚氏以前(だいいちしょうしいぜん)の歴代国王(れきだいこくおう)が祀(まつ)られていました。『琉球国由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)』(1713年)などによると、龍福寺はその昔(むかし)は極楽寺(ごくらくじ)と呼(よ)ばれ、英祖王(えいそおう)の時に浦添グスクの『西』に建(た)てられました。しかし、往来(おうらい)に不便(ふべん)で、年月(としつき)がたち荒(あ)れ廃(すた)れていたため、『前谷』へ移(うつ)されました。その後(のち)、火災(かさい)にあい、この場所(ばしょ)に移され、龍福寺に改名(かいめい)されました。万歴年間(ばんれきねんかん)の兵火(へいか)(1609年の薩摩侵入さつましんにゅう)の際(さい)に焼(や)き払(はら)われ、のちに尚寧王(しょうねいおう)によって再建(さいけん)されました。なお、『琉球藩雑記(はんざっき)』(1873年)には、『境内地五百坪余(けいだいちこひゃくつぼあまり)』とあり、龍福寺の敷地面積(しきちめんせき)は約1650m2であったことがわかります。その後の龍福寺は、大正初期に(たいしょうしょき)に兼城村(かねぐすくそん、現糸満市)座波(ざは)へ移転(いてん)し、大正末(たいしょうすえ)には美里村(みさとそん、現沖縄市)泡瀬(あわせ)に移転しました。

浦添原遺跡(うらそえばるいせき)…浦添中学校一帯(いったい)の地中(ちちゅう)には、浦添原遺跡が眠(ねむ)っています。発掘調査(はっくつちょうさ)の結果(けっか)、14世紀頃(せいきごろ)の畑(はたけ)の跡(あと)がみつかりました。ヘラを使(つか)って丸(まる)い穴(あな)を掘(ほ)り、種(たね)と肥料(ひりょう)を入(い)れて作物(さくもつ)を育(そだ)てたと考(かんが)えられています。」

「仲間交番前」「浦添カルチャーパーク」「屋富祖公民館」…おもろの碑

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 浦添市内には、9基の「おもろの碑」が建てられています。そのうちの「仲間交番前の碑」「浦添カルチャーパークの碑」「屋富祖公民館の碑」を訪ねました。「おもろ」は、「思い」と同源の語で,神に申し上げる,「神の歌」の意、 沖縄の古代歌謡、古代琉球人の民俗・信仰・労働などを歌った幅の広い叙事詩です(大辞林第三版)。「碑文」「対訳・説明」は摩耗し、読みにくいのですが、できるだけ読み、転記したいと思います。

参照(浦添の歴史を探る|おもろの碑 http://history.urasoeshikankou.jp/omoro.html

01-0214 仲間交番前

02-0214 仲間交番前の碑

03-0214 仲間交番前の碑

04-0214 仲間交番前の碑

【対訳】 浦添の根国 永遠に積もる黄金 浦添にこそ 渡嘉敷の真国

【解説】 古い沖縄の神歌を集めた書物 おもろそうし の中に登場するもので、浦添の繁栄を讃えた一首です。「浦添はいつまでも、黄金がたまるほどの繁栄が続く。これほどの栄華は浦添にしか見られない」と述べています。根国・真国は浦添の土地をほめた使い方。渡嘉敷は、浦添の古称としてオモロでよく使われます。古い時代、浦添は渡嘉敷と呼ばれていたが、やがて琉球の政治的な中心となったために、「うらおそい」(津々浦々を支配する土地)という名前に変わった、とする意見が有力です。

05-0214 浦添カルチャーパーク

06-0214 浦添カルチャーパーク

07-0214 浦添カルチャーパークの碑

08-0214 浦添カルチャーパークの碑

09-0214 浦添カルチャーパークの碑

【対訳】 浦添は 浦添には 神酒がある 酒がある 多謝 多謝 今日は 今日は 世寄せによの方を招き 渡嘉敷は 渡嘉敷には 酒がある 神酒がある

【解説】 古琉球の時代にうたわれたオモロ(神歌)を集めた書物おもろそうしに登場する歌の一つです。浦添には酒が満ちあふれている、その豊かさに感謝して、今日は酒宴を開こうではないか、という意味になります。酒が多いのは、生産の盛んな豊かな土地だという自慢なのです。「世寄せによ」は、幸福を招く人の意味で、浦添城に君臨する指導者のことを指しているのでしょう。渡嘉敷は浦添の別称です。明るく、おおらかな気分でうたわれた浦添賛歌です。

10-0214 屋富祖公民館

11-0214 屋富祖公民館拝所のガジュマル

12-0214 屋富祖公民館の碑

13-0214 屋富祖公民館の碑

14-0214 屋富祖公民館の碑

【対訳】 親富祖の大親 大屋子の貢租 上り行けば 太陽(王)は誇り給いて 又吉の大親 大屋子の棒物 今日の良かる日に 大屋子の棒物 今日の輝ける日に

【解説】 このオモロは親富祖の大親、又吉の大親と呼ばれる村の役人が、王に献上物を届ける状況を詠んだものです。この場合の「王は浦添グスクに君臨した人物、あるいは首里城の王様のことでしょう。親富祖のムラは一七世紀に廃止され屋富祖村に吸収されたと推定されます。屋富祖を直接詠んだオモロではないことから、このオモロが屋富祖にかかわる唯一のものです。

「字城間泉小公園」「牧港漁港」「字沢岻めじろ公園」…おもろの碑

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 浦添市内の「おもろの碑」−「字城間泉小公園の碑」「牧港漁港の碑」「字沢岻めじろ公園の碑」を訪ねました。

参照(浦添の歴史を探る|おもろの碑 http://history.urasoeshikankou.jp/omoro.html

01-0214 字城間・泉小公園

02-0214 字城間・泉小公園

03-0214 字城間・泉小公園の碑

04-0214 字城間・泉小公園の碑

05-0214 字城間・泉小公園の碑

【対訳】 城間の長老様 長老様の広い庭に 降り直せ 神たち 神 又吉の長老様

【解説】 城間の長老の広い庭に 神女たちがつどい、神歌をうたい、踊りつつお祭りをする状況を詠んだオモロです。 ムラには長老(男性)がおり、祭りをする広場がいくつもあって、神々に祈る神女たちもいました。古琉球の神遊びの情景を伝えるオモロです。城間を詠んだオモロは七首ほどありますが、ここに紹介したものはその中の代表的なものの一つです。又吉は城間のとなりにあったと思われる古いムラの名前です。

06-0214 牧港漁港の碑

07-0214 牧港漁港の碑

08-0214 牧港漁港の碑

09-0214 牧港漁港の碑

10-0214 牧港漁港の碑

「ここ浦添の地は、舜天・英祖・察度の三王統が栄え、古琉球の政治・経済・文化の中心地でした。このことを物語るように、おもろでは、浦添を『うらおそい』(浦襲い)、『しまのおや』(島の親)、『あぢのすでおや国』(按司の生まれる御国)と讃えられています。また当時の浦添の範囲には、現在の宜野湾市と那覇市・西原町の一部が含まれ、北谷・読谷も親しい共同の地でした。おもろとは、1531年から1623年にかけて首里王府によって編纂された『おもろそうし』全22巻に収められた古い歌謡のことで、全部で1554首あります。この碑文は、1372年に明の太祖の紹諭を受けて、琉球史上初めて中国と進貢貿易をおこなった察度王の偉業を賛美したおもろといわれるもので、歌意は次のとおりです。1.ジャナモイ・(察度王)は、どのような立派な親が生んだ子か、人々がその美しさを讃え見たがるよ

1.多くの按司が待ち望んでいた宝庫を、シャナモイこそ開けた

1.ジャナモイが謝名の上原に登って、けあげた朝露さえも香ばしい尋常でない勇姿を頌(うた)っています。察度王(1321年〜1396年)は、浦添間切謝名村の奥間大親と天女との間に生まれたと伝えられています。そして、英祖王統最後の王西威の後を継いで中山王となって王統を開き、在位は46年間(1350年〜1395年)におよびました。中国・朝鮮との貿易を開始し、中国へ留学生を派遣して、琉球の経済・文化の発展に大きな業績を残しました。この頃、琉球人が到着する港は泉州港でした。よってこのおもろの碑を、中国泉州市と浦添市との友好都市締結を永く記念するために、進貢貿易ゆかりの牧港港に建立します。なお、原石の加工・刻字および輸送は、中国泉州市のご厚意により寄贈されました。1988年9月23日」

11-0213 字沢岻・めじろ公園

12-0213 めじろ公園・中の殿

13-0213 めじろ公園・中の殿の御嶽

14-0213 めじろ公園・中の殿の御嶽

15-0213 字沢岻・めじろ公園の碑

16-0213 字沢岻・めじろ公園の碑

17-0213 字沢岻・めじろ公園の碑

このおもろは、尚清王の名付け親だった沢岻親方(?〜1520年)を讃えたものと言われている。歌意は、沢岻盛里つまり沢岻の太郎名付けの名声が、国・郡・村々にまで鳴り轟(とどろ)き、多くの人々に慕われているようすを歌っている。盛里は中城按司護佐丸の孫で、尚真・尚清父子二王の信任がきわめて厚く、正徳年間(1506〜22年)に三司官に任ぜられ、嘉靖元年(1522年)には王舅(おうきゅう)となって中国へ遣いして王を乗せる鳳凰轎(ほうおうきょう)と首里城崖下龍樋(りゅうひ)の吐水龍頭(とすいりゅうとう)をもたらしたことで知られている。

18-0213 字沢岻・めじろ公園

「浦西中学校正門前」「伊祖公園」「仲西公民館」…おもろの碑

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 浦添市内の「おもろの碑」−「浦西中学校正門前」「伊祖公園」「仲西公民館」を訪ねました。

01-0216 浦西中学校正門前

参照(浦西中学校ホームページ ttp://www.urasoe.ed.jp/j05/

02-0216 浦西中学校正門前の碑

03-0216 浦西中学校正門前の碑

04-0216 浦西中学校正門前の碑

【対訳】 名高い按司様が 浦添に居給えば 太陽が誇り給う 有名な按司様が 世の頂に居給えば

【解説】 古琉球の歌謡集「おもろそうし」に登場する神歌の一つです。すぐれた按司様が浦添には居るので、太陽(神)もご満足であらせられる、との意味になります。このようなすぐれた指導者を持つ土地浦添で、浦添の地は祝福されている、との気持ちが込められています。世の頂(つち)は浦添城の中にあった聖域で、転じて浦添の美称となった言葉です。字西原・字当山からもながめることのできる浦添城は、城(グスク)であると同時に、古人が深い思いを託した聖地でもあったのです。

05-0216 伊祖公園の碑

06-0216 伊祖公園の碑

伊祖城は、琉球の聖典「おもろそうし」に、「いしぐすく(石城)」・「かなぐすく(金城)とその堅牢をうたわれた、英祖王統(西暦1260〜1349年)5代の居城である。その王統初代の英祖王は「ゑぞのてだ(英祖の太陽)」とも讃えられ、舜天王統第3代の義本王のあとを襲って1260年に即位、在位40年に及んだと伝えられている。この碑文のおもろは、「ゑぞのいくさもい(英祖王の童名)」が、夏も冬もわかたず、毎月のように酒盛りをするほど、豊かな世を実現した、と賛美したものである。

07-0216 伊祖公園

08-0216 伊祖公園

09-0216 仲西小学校

10-0216 仲西中学校

11-0216 仲西公民館

 「仲西公民館」には、「おもろの碑」以外に、「仲西小学校跡」「仲西の獅子舞」の碑があり、敷地の一角には、拝所がありました。近くには、「仲西小学校」や「仲西中学校」があります。

参照(宮城小学校ホームページ http://www.urasoe.ed.jp/e09/)

参照(仲西小学校ホームページ http://www.urasoe.ed.jp/e02/)

参照(仲西中学校ウェブページ http://www.urasoe.ed.jp/j02/)

12-0216 仲西小学校跡

13-0216 仲西小学校跡

14-0216 仲西の獅子舞

 

15-0216 仲西の獅子舞

「浦添市指定文化財(無形民族文化財) 仲西の獅子舞 昭和五十六年三月二日指定…仲西の獅子舞(ししまい)の由来については、よく分かっておりませんが、古老(ころう)の語るところによれば、古くからムラの行事の一つとして行われてきたようです。獅子舞(ししまい)は旧暦(きゅうれき)の七月十五日のムラ遊びの日に演じられてきました獅子を舞わせることにより、あらゆる災(わざわ)いや悪霊(あくりょう)をはらい、幸せや五穀豊穣(ごこくほうじょう)を願い、ムラがますます栄えることを祈りました。仲西の獅子舞(ししまい)の特色は、雄獅子(おすしし)であり、顔の表情が」いかめしく、舞が力強いところにあります。舞の種類は九演目あったようですが、現在では「マーイクャー」、「ボームタバー」、「シランガチ」、「ジェークーヤー」、「ジュークーヤー」、「マーイムタバー」、「ホーヤー」、「ケーヤー」の八演目が伝えられています。現在、仲西獅子舞保存会により保存継承されています。平成四年三月 浦添市教育委員会」

16-0216 仲西公民館の碑

17-0216 仲西公民館の碑

18-0216 仲西公民館の碑

【対訳】 大いなる にくげ按司様 美しく誇らん 良かる にくげ按司様 仲西のすぐれた真人よ 朝凪れに 夕凪れに 鈴富は 鈴富は

【解説】 仲西の優れた真人(まひと)と尊称される人物(にくげ按司)が、朝に夕に、鈴富(すずとみ)という名の船をあやつって、干瀬(りーふ)の多い難所を巧みに航海する情景をほめたたえたオモロ。伊那武・自謝嘉は那覇港の北西にある干瀬のことであろう。仲西の名が登場する数少ないオモロのひとつである。

19-0216 仲西公民館

20-0216 仲西公民館

21-0216 仲西公民館

22-0216 仲西公民館の碑

 沖縄では、本島(7)・久米島(1)・宮古島(1)・石垣(1)で、合計10チームが「キャンプ」を行い、「オープン戦」なども行われます。遺跡・史跡めぐりの移動中に、「浦添運動公園」で、「東京ヤクルトスワローズ」の練習風景を、遠くから眺めることができました。

23-0216 浦添運動公園

24-0216 浦添運動公園

25-0216 浦添運動公園

「ミツバチ」も大忙し!…伊芸区の「コスモス畑」

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 金武町伊芸区の「コスモス畑」を訪ねました。12月10日以降、(12/24)(1/7)(1/21)(2/4)と、2週間に1度の割合で観察し続け、2月16日の「コスモス祭り」を迎えました。今年は作付けが大幅に増えました。「ようこそ伊芸区へ」の幟が立ち、交通案内要員が、車を「伊芸地区公民館」方面へ誘導していました。「伊芸地区集会所」から「伊芸地区公民館」の右側では、摘み取りができましたが、「コスモスの摘み取りはひとり30本まで」という表示があり、今年から参加した左側には、「コスモスとらないで!」という表示がありました。右側には、テントが2張り建てられ、「野菜」や「お菓子」などの販売コーナーが設けられていました。お菓子の試食やスープのサービスもありました。

 高速道路近くの畑では、コスモスが咲き乱れ、思い思いに写真撮影をしたり、花を摘んだりしている姿が見られました。親子やカップルもいますが、友人同士で来たと思われる、中高年の女性の姿が多く見られました。

 きれいに咲いたコスモスの花の間に、ミツバチの姿が見えました。ミツバチは忙しそうに、花蜜を求めて、飛び回っています。一通り、花の撮影を終え、ミツバチの撮影に切り替えましたが、こちらの思い通りには動いてくれません。構図を考え、ピントを合わせた頃には、次の花へと飛び去ってしまいます。ミツバチの動きを予想し、早めにシャッターを切る必要があります。

 コスモス祭りの後は、コスモスを鋤き込み、緑肥にして、一期作の田植えに備えることになります。次回は、田植えの時期に合わせて、訪ねたいと思います。

01-0216 ようこそ伊芸区へ

02-0216 ひとり30本まで

03-0216 販売コーナー

04-0216 販売コーナー

05-0216 摘み取りへ

06-0216

07-0216

08-0216

09-0216

10-0216

15-0216

16-0216

18-0216 コスモスとらないで!

23-0216 伊芸地区集会所方面

25-0216 伊芸地区公民館方面

31-0216

33-0216

34-0216

36-0216

37-0216

39-0216

41-0216

42-0216

43-0216

46-0216

48-0216

トラクターでコスモスを鋤き込む!…伊芸区のコスモス畑

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 金武町伊芸区の「コスモス畑」を訪ねました。「コスモス祭り」の翌日です。「伊芸地区集会所」前では、トラクターで、コスモスの鋤き込みをしていました。高速道路近くには、まだ、コスモスが咲き乱れ、福祉関係の車が停まり、お年寄りが「コスモスの摘み取り」をしていました。

「緑肥の効果」として、以下の事柄が上げられています。

●有機物が増加し、土壌中の微生物がよく繁殖する。

●土の構造がよくなり、水はけや保水力も高まる。

●土壌中の微生物間のバランスがとれ、病害虫の多発を防ぐ。

●施設野菜土壌の塩類濃度を低下させる。

引用(芝・緑化・緑肥〜タキイの緑肥景観用作物〜 http://www.takii.co.jp/green/ryokuhi/kouka/index.html

01-0218 トラクターで鋤き込む

02-0218 摘み取り

03-0218 摘み取り

05-0218 鋤き込み準備

06-0218 コスモス

08-0218 コスモス

09-0218 コスモス

10-0218 鋤き込み

16-0218 鋤き込み

18-0218 鋤き込み

20-0218 鋤き込み

22-0218 鋤き込み

伊芸区婦人会の花壇

 「伊芸地区公民館」の道沿いには、「伊芸区婦人会」の花壇があり、「インパチェンス」「ペチュニア」「サルビア」などの花が咲いていました。手作りの「名票」や「安全運転よんなぁーよんなぁー(ゆっくりゆっくり)」「にふぇでーびる(ありがとうございました)」などのコメントに、「優しい心遣い、ほのぼのとした温かさ」を感じました。

25-0218 安全運転よんなぁーよんなぁー

26-0218 いんぱちぇんす

27-0218 笑顔

28-0218 インパチェンス

29-0218 サルビア

30-0218 ペチュニア

31-0218 にふぇでーびる

32 伊芸地区公民館

首里城の北にある御嶽!…「北(ニシ)森御嶽」

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 那覇市首里儀保町の「北(ニシ)森御嶽」を訪ねました。儀保交差点から平良向け左側、儀保交番近くにあります。「末吉公園」駐車場入口右手に、「拝所入口」の標識(破損)がありました。

 入口手前右手に、拝所1があり、「黄金豊饒神」と書かれていました。拝所入口階段を上り、参道を行くと、香炉が置かれた拝所がいくつかあります。「拝所2」の後方には、洞穴がありました。「拝所4」には、「儀保町土地地盤・守護神・火の神」の表示があります。儀保町自治会で管理しているようです。「拝所5」は、「ジボカンノンボサツ」と記されています。

 配所の一番奥に、「北(にし)森御嶽」がありました。沖縄の方言では、「東・西・南・北」を「東(あがり)・西(いり)・南(ふぇー)・北(にし)」といい、「北」を「にし」をいいます。「にし森御嶽」は、首里城の「北(にし)」の方角にあるので、元々は「北(にし)森御嶽」と呼ばれていたものです。西原(にしはら)も、首里の北にある原という意味で、「ニシバル」と呼ばれたようです。「北(にし)森御嶽」の近くに、「基本測量、四等三角点」がありました。「配所4」近くのサクラの木には、まだ花が残っていましたが、一部は実をつけはじめ、ピンクの花と緑の実が同時に見られました。

参照(沖縄の方言 http://www.123okinawa.com/04/hougen/05.html

01-0216 拝所1-黄金豊饒神

02-0216 拝所1

03-0216 拝所入口

04-0216 参道

05-0216 拝所2

06-0216 拝所2

07-0216 拝所2

08-0216 拝所3

09-0216 拝所4

10-0216  拝所4-儀保町土地地盤・守護神・火の神

11-0216 拝所4

12-0216 拝所4

13-0216 拝所5-ジボカンノンボサツ

14-0219 北(ニシ)森御嶽

15-0216 北(ニシ)森御嶽

16-0219 四等三角点

17-0216 サクラ

18-0216 サクラ

19-0216 サクラ

20-0216 サクラの実


「吉屋チルー歌碑」「比謝橋碑文」「比謝矼友竹亭顕彰碑」

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 嘉手納町と読谷村の間を流れる「比謝川」に架かる、「比謝橋」関連の石碑を訪ねました。国道58号線、「嘉手納町中央公民館」を過ぎ、町村境界の読谷村側、右手にあります。

 「吉屋チルー」は「恩納ナビー」と並んで、琉球王朝時代の代表的な女流歌人で、石碑の碑文「恨む比謝橋や 情け無いぬ人の わぬ渡さともて かけておきやら」で知られています。

「吉屋チルー…『吉屋』は遊郭の屋号、チルーは『鶴』の方言とされるが、吉屋チルーの伝記である平敷屋朝敏『苔の下』では、『遊女よしや君』とあるように、『吉屋チルー』は近世の呼称で、古くはただ『よしや』とだけ表記されていたとの指摘もある。伝承では、よしやは遊女で某按司と恋に落ちたが、黒雲殿と呼ばれる金持ちに身請けされる。悲嘆にくれたよしやは、食を絶ち、亡くなったという。8歳のとき、那覇の仲島遊郭へ売られていく途中、比謝橋(嘉手納町と読谷村の間に架かる橋)で詠んだとされる以下の歌が伝わっている。 うらむ比謝橋や 情け無いぬ人の 我身(わみ)渡さともて 架けて置きやら よしやは、真境名安興の『沖縄一千年史』に、恩納なべと双璧をなす女流歌人として紹介されている。 引用(吉屋チルー - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B1%8B%E3%83%81%E3%83%AB%E3%83%BC)」

01-0204 吉屋チルー歌碑

02-0204 吉屋チルー歌碑

「吉屋チルー歌碑…この歌は、女流歌人吉屋チルー(一六五〇〜一六六八)の作品で、八歳に那覇仲島の遊郭に身売りされる際、詠んだといわれる。チルーが詠んだと思われる歌は二〇首余あるが、その作品のほとんどは抒情的である。 生地などまだ謎の部分が多いが、『苔の下』を表した平敷屋朝敏をはじめ後世の人々は、チルーの生涯や作品に心を寄せ、歌劇、映画、民謡、歌曲の世界に登場させている。 恨めしい比謝橋は 情けのない人が 私を渡そうと思って かけたのでしょうか 身売りという不条理を背負ったチルーのやり場のない気持ちが、比謝橋や橋をかけた人に向けられ、絶望的な悲しみが伝わってくる。 平成十七年七月二日 読谷村文化協会」

03-0204 比謝橋碑文

04-0204 比謝橋碑文

「比謝橋碑文…比謝橋は、1716(康熙55)年から1717(康熙56)年に木橋から石橋に改築された。比謝橋碑文は、その際に建立された石碑である。石碑には漢文で、比謝橋一帯の地誌や比謝橋架橋の歴史等が記されている。それによると、当初の木造橋は風雨や虫害で傷んでいたことから1667(康熙6)年と1689(康熙28)年に修理を行ったが、修理のたびに人民は工事に駆り出され、多大な負担を負わされてきた。そこで琉球王府は南風原親方等に命じて石橋に改築したところ、人民に大変喜ばれたと記されている。読谷村教育委員会は、比謝橋碑文が比謝橋架橋やせき石造建造物の歴史及び交通史を知る上で重要なものであることから、読谷村指定文化財(有形文化財)として2012(平成24)年5月23日に指定した。2013(平成25)年3月 読谷村教育委員会」

05-0204 比謝橋碑文

06-0204 比謝橋碑文

「比謝橋碑文…比謝橋(ひじゃばし)は、1716(康熙55)年〜1717(康熙56)年に木橋から石橋へと改良されました。比謝橋碑文(ひじゃばしひもん)にはこの改良工事を記念し、比謝橋にまつわる話が記(しる)されています。碑文は漢文(かんぶん)で刻(きざ)まれ、工事が終わった1717年に建てられています。碑文には、主に次のことが記されています。?比謝川周辺が風光明媚(ふうこうめいび)なこと。?比謝橋は昔、小さな木橋で、1667年(康熙6)年と1689年(康熙28)年に木橋修理をおこなったこと。?石橋工事は6ヵ月余(あま)り要(よう)し、工事後、人々に喜ばれたこと。 この碑文は沖縄戦で倒れていましたが、昭和39年に現在地に建て直してあります。ちなみに、石橋は終戦後の昭和28年まで残っていましたが、米軍の道路工事でその姿は失われてしまいました。」

07-0204 比謝矼友竹亭顕彰碑

08-0204 比謝矼友竹亭

「比謝矼友竹亭…比謝矼友竹亭とは、廃藩置県後、首里から旧王府所領の牧原・久得・御殿敷あたりに移住してきた旧士族同好者たちの琉歌創作サークルである。 その活動は、越来村在住の山内盛熹を点者に迎え、比謝川河畔のこの地に店舗を構えていた黒糖仲買商人「全通店」の広間で行われた。 活動成果は明治40年から大正5年にかけて、再々琉球新報や沖縄毎日新聞等の文芸欄に発表され、その数実に700余首にも及び、県琉歌界隆盛の一翼を担ってきた。またこのサークル活動は実に本村記録文学の嚆矢で、その影響は本村の琉歌ならびに三線音楽の発展に大いに寄与し今日に及んでいる。 ここに本協会は先人の遺徳をしのび、その功績を称えて顕彰碑を建立する。平成17年7月2日 読谷村文化協会」

09-0204 比謝橋

10-0204 比謝橋復元模型

11-0204 比謝川

12-0204 交通安全之塔

13-0204 比謝川流域図

14-0204 比謝川流域図

人々のくらしを見守ってきた老木!…「内間の大アカギ」

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 浦添市内間の「内間の大アカギ」を訪ねました。「内間児童センター」入口の手前、左手にあります。近くには、「内間西公園」「沖縄県立浦添高等学校」「浦添市立内間小学校」などがあります。

参照(沖縄県立浦添高等学校 http://www.urasoe-h.open.ed.jp/index.html

参照(浦添市立内間小学校 http://www.urasoe.ed.jp/e07/

01-0214 内間の大アカギ

02-0214 内間の大アカギ

03-0214 内間の大アカギ

04-0214 内間の大アカギ

05-0214 内間の大アカギ

「浦添市指定文化財(天然記念物)内間の大アカギ 昭和五十六年三月二日指定…アカギはトウダイグサ科に属する半落葉の高木で、成長すると高さが二十メートルにも達する大木になります。 木肌は赤褐色(かっしょく)で、四月から五月頃に緑黄色の花が咲き、十一月から一月頃に褐色の果実がつきます。果実はヒヨドリなどの好物で、秋頃に食べているのを見かけることができます。 アカギの分布域は沖縄諸島、八重山諸島、中国南部からインド、マレーシア、オーストラリアに広がります。 内間の大アカギは現在のところ、高さは約十八メートル、胸高直径一・二メートルの大きさに成長しています。枝は幹から七・五」メートルの周囲に広がっています。 アカギは、長期間水に浸した後、十分に乾燥させ、建築材・家具材・農機具材として利用されていたようです。 この大アカギは去る大戦の戦災から免れた数少ない樹木の一つであり、人々のくらしを見守ってきた老木として大切に保護していきたいと思います。 平成四年三月 浦添市教育委員会」

 「内間児童センター」入口の右手には、「拝所」や「御嶽」が合祀された祠などがありました。この辺りは「東ノ殿跡」と呼ばれ、大きな岩の根元に古代墓が有り、頂上には「茶貫貫丸(チャヌチヌチマル…400年前、内間に獅子舞を伝えたと言われる人)」が祀られ、聖域としての御獄で、グスク時代の痕跡がある「内間遺跡」でもあり、土器片や青磁片、貝殻・獣・魚等の骨などの生活痕跡が出土したそうです。…戦後の開発のため、御獄内の拝所や墓は、祠をたてて合祀されています。拝所祠の後ろには御墓があり、そこに茶貫貫丸の物と思われる石厨子が収められています。

参照(浦添市観光協会 Official Blog 浦添市探検隊(笑)。「内間地域散策」へ参加して来ました! http://urasoeshi.blogspot.jp/2011/12/blog-post_12.html

06-0214 内間児童センター

07-0214 拝所入口

08-0214 拝所入口

09-0214 御嶽(五つ合祀)

10-0214 殿之御神

11-0214 嶽々の御神

12-0214 茶後軒丸

13-0214 瑞穂之御神

14-0214 水火之御神

15-0214 拝所(七つ合祀)

16-0214 拝所(七つ合祀)

17-0214 拝所(七つ合祀)

18-0214 御嶽(五つ合祀)

19-0214 御嶽後方左手

20-0214御嶽後方右手

ちょう・チョゥ・蝶…黄金の蛹も…那覇市「ちょうちょガーデン」

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 那覇市古波蔵「漫湖公園、テニスコート」側にある「ちょうちょガーデン」を訪ねました。入口を入ると、左側に受付用テーブルがあり、その右手、鉢植えの植物に黄金色の「オーゴマダラ」の蛹がいっぱいぶらさがっているのを見て、思わず、「すごーい!」といい、しばらく見とれていました。大城氏らしいょうが那覇市のチョウとして選定されたのを記念して、3月9日に首里公民館で、『記念式典・講演会・オオゴマダラ放蝶・祝賀会』を開催するので、よろしければ参加して下さい」と呼びかけていました。

 「ちょうちょガーデン」には、「幼虫飼育部屋」「食草・蜜源植物栽培室」などもあり、年中、チョウを見ることができます。園内には、多くのオオゴマダラがゆったりと飛び交い、圧巻でした。蜜源の花蜜を吸ったり、雌を求めて飛び回ったり、食草の「ホウライカガミ」に産卵したりと、いろいろな姿をみることができます。「オオゴマダラ」の他に、「リュウキュウアサギマダラ」も見ることができました。

「ちょうちょガーデン…本ガーデンでは年間を通してチョウが見られます。*オオゴマダラ等の生態が観察できます*チョウの食草が見られます*チョウの蜜源植物などを知る事ができます 『街にチョウを翔ばそう』 1.目的…人とチョウ等の小動物が共生できる自然環境を構築することは重要である。本ガーデンでは、環境・情操(命どう宝)教育に役立ち、安らぎと癒しを実感してもらうことを目的としている。 2.オオゴマダラの生態…本種は古くから、私たちの身近で見られる日本最大のチョウです。成虫は整髪料等に誘引されるのでアンマーウ一ヤー(婦人を追いかけるチョウ)との呼び名もある。我が国に於ける食草はホウライカガミ(キョウチクトウ科)だけです。幼虫は自らが毒虫(ピロリジジンカルカロイドという有毒物質を保有)であることを示す派手な色彩(警戒色)をしている。蠕も同様に黄金色を呈し、これも捕食者(小鳥等)に自らの毒性をアピールする色と考えられている。 3.オオゴマダラの分布…オオゴマダラは沖縄島を自然分布の北限とするが、喜界島にも棲息する。ところが、奄美大島・徳之島・沖永良部島には棲息しない。琉球列島以南の東南アジアに分布する。八重山産は黒斑部が少ないことから白っぽく見えること、沖縄島産より一回り大きいことなどから、沖縄島産とは別亜種として区別される。」

引用…「ちょうちょガーデン」リーフレット(「首里城下にチョウを翔ばそう会」会長 大城安弘 監修)

参照(森の家・ちょうちょ・水鳥・環境  暮らしの情報  那覇市 http://www.city.naha.okinawa.jp/kurasi/joho/gakusyuNature.html

01-0222 「ちょうちょガーデン」入口

02-0222 受付簿記入テーブル

03-0223 那覇市のチョウに選定

05-0222 黄金色の蛹

07-0222 黄金色の蛹

09-0222 黄金色の蛹

10-0222 黒色の蛹

11-0222 羽化後の抜け殻

13-0222 オオゴマダラ成虫

15-0222 オオゴマダラ成虫

17-0222 オオゴマダラ成虫

18-0222

19-0222

20-0222

21-0222

23-0222 ホウライカガミとオオゴマダラ

29-0222 吸蜜中のオオゴマダラ

31-0222 吸蜜中のリュウキュウアサギマダラ

33-0222

38-0222

40-0222 食草・蜜源植物栽培室

「喜舎場の石獅子」「イーヌカー」「喜舎場公之墓」…喜舎場歴史散策の道

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 北中城村喜舎場の「喜舎場歴史散策の道」を訪ねました。「沖縄自動車道」「喜舎場トンネル」の上にあります。近くには、「米軍施設」「北中城村役場」「北中城小学校」「北中城中学校」などがあります。

01-0108 喜舎場トンネル

 「喜舎場公園」端に、「喜舎場歴史散策の道」の案内板がありました。2度訪ね、「喜舎場の石獅子」「舎場公鳥居」「イーヌカー」「喜舎場祖先の墓所」「喜舎場公之墓」「喜舎場公之子孫上代之墓」「喜舎場公之墓所」「仲間神屋」を廻りました。

 北中城村には、国・県・村指定の多くの遺跡・史跡がありますが、これまで訪ねたことのない箇所が大部分なので、時間を作って、訪ねたいと思います。

参照(北中城村ホームページ http://www.vill.kitanakagusuku.lg.jp/site/view/index.jsp

参照(北中城村立北中城小学校ホームページ http://www2.vill.kitanakagusuku.lg.jp/kitasyou/) 

参照(北中城中学校ホームページ http://kitanakachuu.ti-da.net/

02-0220 喜舎場公園

03-0220 喜舎場歴史散策の道

04-0209 喜舎場歴史散策の道

05-0209 戦没者慰霊之塔

06-0220 喜舎場殿

07-0209 喜舎場殿

08-0209 喜舎場自治会

「ここは神様がいらっしゃる場所です。タテモノにキズをつけたらケイサツへ連絡します。ここでは遊ばないでください。喜舎場自治会」

09-0220 喜舎場公園

10-0220 喜舎場の石獅子

11-0220 喜舎場の石獅子

12-0220 喜舎場の石獅子

「喜舎場の石獅子(シーサー)…喜舎場の石獅子は、もとは集落の俗称(ぞくしょう)ビンダマーチュから安谷屋の北側(儀間原ジーマバル)にあった巨岩のカニサンに向かって鎮座(ちんざ)していました。この巨岩は、喜舎場に災いをもたらすフィーザン(火山)であると信じられ、その返しとして石獅子が据えられました。この石獅子は、巨岩に対する火除け、魔除けとしての村獅子で、除災信仰を知るうえで重要であります。大きさは、長さ102cm、高さ59cm、幅45cmです。昭和58年8月に現在地に移されました。北中城村教育委員会」

13-0220 喜舎場の石獅子

14-0209 喜舎場公鳥居

15-0220

16-0220 イーヌカー

17-0220 イーヌカー

18-0220 イーヌカー

19-0209 喜舎場祖先の墓所

20-0209 喜舎場祖先の墓所

21-0220 喜舎場公之墓

22-0220 喜舎場公之墓

23-0209 参拝者へのお願い

「参拝者へのお願い!…ここは、地域の大切な民俗文化財です。参拝後は、供え物の全てを持ち帰り清潔を心がけましょう。文化財を大切に!喜舎場自治会」

24-0209 喜舎場公之子孫上代之墓

25-0209

26-0209 喜舎場公之墓所

27-0220 仲間神屋

28-0220 仲間神屋

29-0220 仲間神屋

「仲間神屋は一九六四年(昭和三十九年)の建築から四十四年が経過し老朽化によるコンクリートの剥離落下等があり自治会予算によって改築する。二〇〇八年(平成二十年)六月吉日竣工 設計監理 安照建築設計事務所 施工 安里組 喜舎場自治会」

30-0220

31-0220 北中城小学校

忘れられない、二十世紀の爪あと…旧海軍司令部壕

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 那覇市と豊見城市の境にある、「旧海軍司令部壕」を訪ねました。

「旧海軍司令部…昭和19年(1944年)日本海軍設営隊(山根部隊)によって掘られた司令部壕で、当時は450mあったと言われています。カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、4000人の兵士が収容されていました。戦後しばらく放置されていましたが、数回に渡る遺骨収集の後、昭和45年(1970年)3月、観光開発事業団によって司令官室を中心に300mが復元されました。」

引用(旧海軍司令部壕 [旧海軍司令部壕について]  http://kaigungou.ocvb.or.jp/about.html

 交通アクセスは次の通りです。

【那覇空港方面より】国道332号線から奥武山公園手前の信号(山下)を右折し県道7号を直進 そのまま県道7号バイパスへ進み、トンネルを抜けると標識有り、右側に見えるりうぼう豊見城店の手前交差点を左折

【那覇市街より】国道58号線を空港向けに進み左手、奥武山公園を越えた信号(山下)を左折し県道7号を直進。そのまま県道7号バイパスへ進み、トンネルを抜け、右側に見えるダイレックス豊見城店の手前交差点を左折

引用(旧海軍司令部壕 [交通アクセス]  http://kaigungou.ocvb.or.jp/access.html

01-0222 海軍壕公園総合案内板

02-0222 慰霊之塔

03-0222 慰霊之塔

「旧海軍司令部壕…この壕は太平洋戦争中沖縄方面根拠地隊司令部のあった場所で昭和二〇年六月十三日午前一時戦い利あらず遂に大田実司令官は『大君の御はたのもとに死してこそ人に生まれし甲斐ぞありけり』の辞世の句を残し将兵四千余名と共に壕内で壮烈な最期を遂げ 太平洋戦争中最も悲惨を極めた沖縄戦における海軍部隊の組織的戦闘はここで終わった。鍬やつるはしで掘った壕には司令官室作戦室等があり当時の姿をしのび世界の恒久平和を祈念するにふさわしい戦績である。」

04-0222 展望台

05-0222 ビジターセンター

06-0222 ビジターセンター

07-0222 ビジターセンター

08-0222 資料館

参照(旧海軍司令部壕 [資料館] http://kaigungou.ocvb.or.jp/shiryokan.html

09-0222 資料館

10-0222 資料館

11-0222 資料館

12-0222 資料館

13-0222 壕入口

14-0222 壕内

15-0222 壕内

16-0222 壕内

17-0222 壕内

18-0222 壕内

19-0222 大田司令官の電文

参照(大田司令官の電文 http://kaigungou.ocvb.or.jp/shiryokan.html#denbun

20-0222 壕内

21-0222 壕内

22-0222 壕内

23-0222 壕内

24-0222 壕内

25-0222 下士官室

26-0222 下士官室復元図

27-0222 壕内

28-0222 出撃風景(出口付近)

29-0222 壕内

30-0222 壕内

31-0222 米軍上陸全般図

32-0222 沖縄戦

33-0222 沖縄戦

34-0222 壕出口

35-0222 壕出口

36-0222 壕出口

37-0222

38-0222 月光橋

「世栄津森」と「くらんたなか」…うるま市石川

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 うるま市石川の「世栄津森」と「くらんたなか」を訪ねました。国道329号線「白浜1丁目」交差点から「石川バイパス」に向かう途中、右側に小さな丘があります。

01-0225 住居表示案内図

02-0225 都市緑地世栄津の森

03-0225 世栄津森とくらんたなか

04-0225 世栄津森とくらんたなか

「世栄津森(ユエツムイ)とくらんたなか…下(した)の広場(ひろば)をはさんで北(きた)と南(みなみ)に小高(こだか)く盛(も)り上(あ)がったこのあたりを世栄津森(ゆえつむい)と呼(よ)んでいます。南側(みなみがわ)を前の世栄津(メーヌユエツ)、北側(きたがわ)を後の世栄津(クシヌユエツ)といって、昔(むかし)は松(まつ)の大木(たいぼく)がうっそうと繁(しげ)り、その様子(ようす)は神々(かみがみ)しいばかりでした。「くらんたなか」とはこの両方(りょうほう)の森(ムイ)にはさまれた広場(ひろば)で、昔(むかし)はそこに首里(しゅり)の王様(おうさま)に納(おさ)める穀物(こくもつ)を入(い)れる倉(くら)が建(た)っていました。それで くら=倉(くら) たなか=間(あいだ)・中間(ちゅうかん)、という意味(いみ)から「くらんたなか」と呼(よ)ばれるようになったということです。また、この両方(りょうほう)の森(むい)が馬(うま)の背中(せなか)に乗(の)せる鞍(くら)の 前(まえ)と後(うしろ)の部分(ぶぶん)で真中(まんなか)の広場(ひろば)が人(ひと)がまたがる部分(ぶぶん)に似(に)ているところから、鞍(くら)の真中(まんなか)「くらんたなか」と呼(よ)ばれるのだという話(はなし)もあります。遠(とお)くからだとそのように見(み)えるかもしれませんね。 平成5年3月31日 石川市教育委員会」

05-0225 世栄津の森

06-0225

07-0225 塔由来記

「塔由来記…第二次世界大戦に於て海外及本島内又此の周辺に散華せる八百余柱の英霊を祭り慰霊の塔を建立す一九五七年四月 石川市」

08-0225 世栄津の森

09-0225 世栄津の森

10-0225世栄津の森

11-0225

12-0225 クランタナカでのウスデーク

13-0225 世栄津の森

14-0225 世栄津の森公園

15-0225 世栄津の森公園

16-0225 世栄津の森公園

17-0225 歩道装飾

18-0225 歩道装飾

19-0225 歩道装飾

20-0225

 道路左右の歩道に、「琉球舞踊」の絵板を埋め込んだ装飾がありました。「柳」「作田節」「老人老女」「天川」「谷茶前」「伊野波節」「若衆こてい節」「高平良万歳」などがあります。中に、同じ絵柄で、花風(はなかぜ)、花風(はなふう)と記されたのがありました。

21-0225 柳(やなじ)

22-0225 作田節(つぃくてんぶし)

23-0225老人老女(ろうじんろうじょ)

24-0225 天川(あまかわ)

25-0225 花風(はなかぜ)?

26-0225 花風(はなふう)?

27-0225 谷茶前(たんちゃめー)

28-0225 伊野波節(ぬふぁぶし)

29-0225 若衆こてい節(わかしゅーくてぃぶし)

30-0225 むんじゅる

31-0225 高平良万歳(たかでーらまんざい)

「瀬長グスク」「子宝岩」「平敷屋朝敏と組踊り『手水の縁』」…豊見城市瀬長島

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 豊見城市「瀬長島」の「子宝岩」「平敷屋朝敏生誕三百年記念顕彰碑」などを訪ねました。豊見城市では、「豊見城市発祥の地とされている瀬長島について、自然環境や歴史文化を活かした観光拠点の整備を実現するため、必要な施設並びに設備、サービスなど瀬長島の全体のあり方を瀬長島観光拠点整備検討委員会で検討し、『瀬長島観光拠点整備計画』としてとりまとめています。」

引用(瀬長島観光拠点整備計画【概要版】 http://www.city.tomigusuku.okinawa.jp/index.php?oid=58&dtype=1005&pid=176

01-0226 瀬長グスク

02-0226

03-0226 子宝岩

04-0226 子宝岩

「上ぬ穴いりば いきがんぐわなさい 下ぬ穴いりば いなぐなすさ」

05-0226 子宝岩

「子宝岩…戦前は、ここの波打ちぎわに石灰岩が隆起してできた高さ数メートルの岩があった。その岩には上下二つの穴が開いており何時のころからか村内外から人々がここを訪れ『子宝に恵まれますように』と祈り、男の子が欲しければ「上の穴」、女の子が欲しければ「下の穴」へ。小石を投げ入れて願かけをする習わしがあった。地元の人々は、その岩を親しみを込めて「イシイリー」または「子宝岩」と呼んだ。」

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07-0226 竜宮之神

08-0226 竜宮之神

09-0226 サンセットパーク

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12-0226 瀬長島(瀬長グスク)

13-0226 瀬長島(瀬長グスク)

「瀬長島(瀬長グスク)…潮長島は、豊見城(とみぐすく)市西岸から沖合約600mに浮かぶ周囲約1.5km、最標高約30m、面積約18haの島である。戦前まで約30戸が北側平野部(現・野球場一帯)に集落を構え、半農半漁の暮らしを営む有人島であった。 太古(たいこ)の時代、琉球の国を創ったアマミキヨの子南海大神加那志(なんかいうふがみかなし)が最初にこの島に住み、そこから豊見城の世立てが始まったという豊見城発祥(はっしょう)伝説が残る。 島内にはかつて瀬長グスクカあり、瀬長按司(あじ)が居住したグスクだったと伝えられている。これについては、琉球王府が1713年に編集した『琉球国由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)』の中で、『瀬長按司ハ王位ノ御婿(むこ)ニテ…(巻8)、『往古ハ瀬長按司居住ノ跡アリ…(巻12)』と記述ざれている。これまでに中国製青磁(せいじ)や陶器(とうき)・グスク系土器などが出土している。 地元では古くから島を別名「アンジナ」と呼んでおり、按司のいる砂島がアジシナシマへ転訛(てんか)し、それがアンジナになったとも伝えられている。 1719年(康熙58)に来琉した中国の冊封副使(さっぽうふくし)・徐葆光(じょほこう)は、瀬長島を訪れた際の様子について、『遊山南記』の中で、美しい砂浜の静けさと大勢の人が雨宿り出来るほどの巨石奇岩の様子などその変化に富んだ景観を讃えている(『驚球国使略』)。また、昭和11年には沖縄八景の一つに数えられるなど、豊見城を代表する風光明媚(ふうこうめいび)な景勝地であった。 1944年(昭和19)、沖縄戦に伴い住民らに島外退去が命ぜられ、引き続き戦後も島全体が米軍基地として接収されることとなった為、やむなく島民は対岸で集落を構えざるを得なかった。このときの基地建設工事で島は大きく削り取られ、また、島と本島および空港とをつなぐ2本の海中道路が取付けられるなど景観は激しく変貌(へんぼう)した。島は、長らく米海軍弾薬貯蔵(だんやくちょぞう)基地として使用され、1977年(昭和52)には返還された。 戦前まで島内には、瀬長グスクの遺構を始め、子宝祈願とともに誕生する新生児の性別を占った『子宝岩(イシイリー》」、さらに『琉球国由来記』にも記述のある瀬長ノ嶽(たき)など多くの遺跡や拝所(はいしょ)、井泉等が残り、信仰の対象として各地から参拝者が訪れていたが、戦後は立入禁止となり遺構の多くが基地建設と同時に破壊され往時の面影はほとんど残されてない。対岸のアカサチ森に遥拝所が建てられ、島内にあった拝所、井泉等が集合移設されている。アンジナムヌメーや浜下りは、瀬長島とゆかりのある行事であり、また、男女の恋愛を題材とした組踊『手水の縁』の一幕も、瀬長島が舞台設定であると言われている。」

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15-0226 手水の縁

16-0226 手水の縁

「手水の縁…主人公 波平山戸が登場して浜下りでにぎわう瀬長島の情景を述べる。自らは歌碑のように『咲き乱れる百合を眺めて遊ぼう』と語る。その後、玉津が登場し『手水』を介して二人は恋仲となる。 白浜にふちどられた美しい離れ小島・瀬長島は、平敷屋朝敏の時代からすでに景勝地として広く知られていたようである。」

17-0226 平敷屋朝敏生誕三百年記念顕彰碑

18-0226 平敷屋朝敏生誕三百年記念顕彰碑

19-0226 仲風節

20-0226 仲風節

21-0226 仲風節

「仲風節…歌意は『語ってくれ恋をしにわたろう この世で暁をしらせる鳥が鳴かない島があるならば』という。 平敷屋朝敏は、ここ瀬長島を恋を語る理想郷『鳥鳴かぬ島』に見立て、五・五・八・六調の仲風節に詠んだと伝えられている。」

22-0226 平敷屋朝敏と組踊り「手水の縁」

23-0226 平敷屋朝敏と組踊り「手水の縁」

「平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)と組踊(くみおどり)『手水の縁(てみずのえん)』…顕彰碑(けんしょうひ)は、和文学者であり、組踊「手水の縁」の作者として名高い、平敷屋朝敏(一七〇〇〜繭七三四)が誕生して三百年にあたる、二〇〇〇年十一月二十三日に、「手水の縁」にゆかりのある瀬長島に建立した。平敷屋朝敏は、組踊の創始者である玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)(一六八四〜一七三四)と同時代に生き、十六年後輩として劇作の影響を受けて、組踊「手水の縁」を創作するとともに、『苔の下(こけのした)』『貧家記(ひんかき)』『若草物諾(わかくさものがたり)』『万歳(まんざい)』の擬古文物語(ぎこぶんものがたり)を書き、高く評価されている。また、琉歌の一形式である仲風形式(なかふうけいしき)を、考えだした人としてもよく知られている。建立した歌碑にある『語て呉れ恋ひ渡ら 浮世鳥鳴かぬ島のあらは』(誘ってくれ、恋をしに渡ろう。この世に暁を知らせる鳥の鳴かない島があるならば)は、平敷屋朝敏がこの瀬長島を理想郷として見立てて歌ったと伝えられている。 『手水の縁』は数多い組踊の中で、唯一の恋愛物語である。その物語の舞台が本村の瀬長島から始まり、糸満市の波平玉川、知念村の山口(現在は山里)、知念浜となっており、本島南部の海岸を結ぶ線上に、物識は展開する。 あらすじは、旧暦三月三日の浜下りの日に、瀬長山に山戸(ヤマトゥ)が花見にきたことから、この組踊は始まる。その帰りにのどがかわいていたので、波平玉川で髪を洗う玉津(タマチィ)に出会う。山戸は、玉津に『手水』を飲ませてくれと頼むが、見ず知らずの人だといい、かたくなにことわる。山戸の再三の申し入れに玉津は、『手水』をさしあげる。二人は、心を許しあう中になり、再会を約束する。その後、山戸は、玉津のもとに忍び、その帰りに門番にみつかる、志喜屋(しきや)の大屋子(ウフヤク)と山口の西捷(ニシンチ)は、『玉津と山戸との密会が世間の噂になっている』として、主人の命令により、玉津を処刑すべく知念浜にでかける。志喜屋は山口に、玉津を処刑するように言いつける。山口が太刀を振りかざして、きりつけようとしたところへ、山戸が駆け込み、命乞いをする。二人は、山戸と玉津の愛しあう心に強く打たれて、主人には、玉津を殺してきたと報告することにして、二人を逃がす。二人は礼を言って人知れずおちのびる。 沖縄の年中行事の旧暦三月三日の、浜下りという日を物語の発端(ほったん)として、見ず知らずの若い男女が『手水』をさしだし、もらい受けることで、急速に近づく。そして、名乗り、住居(すまい)を教えることで結ばれるという、わが国の古い民俗をとり入れて、組踊を展開させていく手法は、先輩の玉城朝薫にはない、朝敏独自の世界なのである。そして、約束、忍び(密会)、発覚、処刑、逃避行とつきすすむ内容は、愛しあう男女の常道として、多くの若者たちの共感を得たのである。

歌碑(右)…語て呉れ(カタティクィリ) 恋ひ渡ら(クイワタラ) 浮世鳥鳴かぬ(ウチユトゥイナカン) 島のあらは(シマヌアラバ) (仲風節 中敷屋朝敏作)

歌碑(左)…世間とよまれる(シキントゥユマリル) 瀬長山見れは(シナガヤマミりバ)花や咲き美さ(ハナヤサチジュラサ) 匂しほらしや(ニウイシュラシャ) (組踊『手水の縁』波平山戸の台詞より) 二〇〇一年三月 豊見城村教育委員会」

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「万歳嶺(上ナチジナームイ)」と「官松嶺(下ナチジナームイ)」…首里、真和志の旧跡

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 「首里観音堂」の場所は、琉球王国時代、松が生い茂り、『万歳嶺夕照(ばんざいれいせきしょう)』と詠(うた)われた首里八景の一つでした。その西方の丘には、数千本の松の苗を植え、「官松嶺」と名付けました。「万歳嶺」は「上ナチジナームイ」」、「松嶺」は「下ナチジナームイ」と呼ばれていました。

参照(那覇市歴史博物館 http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/) 旧跡標示板案内<地区一覧<首里(首里支所管内)、真和志(真和志支所管内)

01-0228 観音寺

02-0228 万歳嶺慈眼院

03-0228 万歳嶺記

04-0228 万歳嶺記

05-0228 万歳嶺跡

06-0228 万歳嶺跡

「万歳嶺跡(バンザイレイアト)…万歳嶺(ばんざいれい、俗称『上ナチジナームイ』は首里台地の西端に位置する丘のことで、かつては松が生い茂り、頂上から美しい眺望が開けていたため、『万歳嶺夕照(ばんざいれいせきしょう)』と詠(うた)われた首里八景の一つであった。 時の国王尚真がこの地に遊覧した際、王の治世、国の繁栄を祝う万歳の声がわきおこったことから、1947年、丘の頂上に『万歳嶺記(ばんざいれいき)』の碑を建立し、この丘を『万歳嶺』と称した。 1617年、後に国王となる尚豊(しょうほう)が国質(くにじち)(人質)として薩摩(さつま)に赴いた際、父尚久(しょうきゅう)は息子の無事な帰国を祈願。同年尚豊が無事帰国したので、翌1618年、尚久は万歳嶺の南斜面に千手観音像(せんじゅかんのんぞう)を奉じ、観音堂(かんのんどう)と慈眼院(じげんいん)を建立した。 その後、観音堂は旅の航海安全を祈る場所として人々の信仰を集めていたが、1945年の沖縄戦で焼失、『万歳嶺記』の碑も破壊された。戦後、万歳嶺の頂上付近を削り、観音堂が新たに建てられ、『万歳嶺記』の碑も、残った一部を台座に組み込み、復元されている。 なお、万歳嶺に対し、その西方に連なる小高い丘は『官松嶺(かんしょうれい)』(ぞくしょう『下ナチジナームイ』)と呼ばれていた。設置200年3月 那覇市経済文化部歴史資料室」

07-0228 観音竹の由来

「観音竹の由来…観音竹(かんのんちく)はシュロチクの一種で亜熱帯に広く分布しており、沖縄には中国より伝わり庭木として植栽されていた。当寺院にも古い時代から植えられカンノンチクと呼称されてきた。いつしかこの庭木を観音竹といい、全国に広まっていった。当寺院は観音竹の名称の由来地となっている。 首里観音堂」

08-0228 彼岸庭

09-0228 万歳嶺

10-0228 万歳嶺社務所

11-0228 長老樹

12-0228 官松嶺記

13-0228 官松嶺記

14-0228 官松嶺記

「官松嶺記(カンショウレイキ)…『官松嶺記』は琉球王国時代の1497年(弘治10)に建立された石碑である。 石碑が建立された丘は俗に『下ナチジナームイ』と呼ばれ、万歳嶺(ばんざいれい)(俗称『上ナチジナームイ』、現観音堂)の西方に続く均整のとれた小高い丘陵で景勝の地であった。時の国王尚真(しょうしん)はこの丘に数千本の数千本の松の苗を植えさせ、『官松嶺』と名付けた。碑文は円覚寺(えんかくじ)の僧種桂(しゅけい)の撰文で、名前の由来とともに松が生い茂る様を国王の長寿・人徳にたとえ、国の繁栄を讃えた内容となっている。官松嶺一帯は、1914年首里・那覇間に電車が開通したのに伴い、北斜面沿いに軌道が敷設された(1933年廃止)。昭和初期には名前の由来となった松の木々はすでになかったという。沖縄戦(1945年)の後、官松嶺の頂上付近は削られて民家となり、南側にはホテルが建設された。 沖縄戦で破壊された『官松嶺記』碑は残欠(上半分)が沖縄県立博物館に残されている。本碑は残欠や戦前の拓本をもとに、材質を中国福建省(ふっけんしょう)産の輝緑岩(きりょくがん)、碑身の高さを164cmとして元の建立地に近接する現在地に新たに復元したものである。」

15-0228 官松嶺記

16-0228 官松嶺記

「つつじ祭り」始まる…東村村民の森つつじ園

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 県立高校卒業式の3月1日、東村村民の森つつじ園(東村字平良)では、「第32回東村つつじ祭り」が始まりました。花見期間は、平成26年3月1日(土)〜3月23日(日)です。会場入口付近のつつじはだいぶ咲いていましたが、全体的には、これからという感じです。今日は、好天気の下、たくさんのつつじを眺め、リフレッシュすることができました。

参照(第32回東村つつじ祭り|東村 花と水とパインの村 http://www.vill.higashi.okinawa.jp/detail.jsp?id=56547&menuid=12066&funcid=1

01-0301 つつじ園入口

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12-0301 つつじ橋

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32-0301 展望台からの眺望

33-0301展望台からの眺望

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「石川部落事務所」「世栄津橋」「前ヌ川」…うるま市石川

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 戦前、旧美里村の石川地区には、石川・伊波・嘉手苅・楚南・東恩納・山城の6字がありました。戦後、石川に造られた難民(捕虜)収容所を基盤として石川市が発足しました。その後、市町村合併を経て、うるま市石川となっています。

01-0225 石川部落事務所

02-0225 石川部落事務所

03-0225 石川部落事務所

「石川部落事務所…うるま市指定文化財 史跡 2005年(平成17年3月1日)指定…この建物は、1932年(昭和7年)に旧美里村字石川の『ムラヤー(村屋)』として建てられたもので、現在でいう公民館に相当します。沖縄県内に戦前から残るムラヤーとしては唯一の建物です。ムラヤーは、字石川の各種の年中行事をはじめ、農繁期には、女学校出身の女性たちが子供の面倒をみる所にも使われていました。1945年(昭和20年)の石川市施行後は、約5年間にわたって市役所として使用されました。その後は石川部落事務所となり、現在でも石川部落会の年中行事、青年会のエイサーやウスデークの練習場として使われています。」

04-0225 うるま市の文化財

参照(うるま市の文化財 http://www.city.uruma.lg.jp/DAT/LIB/WEB/1/urumasinobunkazai.pdf

05-0225 地頭火の神

06-0225 地頭火の神

07-0225 地頭火の神

08-0302 サーシ御川

09-0302 サーシ御川

10-0302 サーシ御川

11-0302 前ヌ川

12-0302 前ヌ川

「前ヌ川(産川)祭神水の神 在所 石川水溜原七五三番拝所地籍一一〇坪 前ヌ川は、戦前は周囲に松の大木林立し汲めどもつきぬ清水湧き溢れ水質良好であったが大木も次第に伐採されて境内次第に荒廃し、殊に戦後は人口の増加に伴い、管理の不十分を相埃って水量減退し。水質汚濁し、昔の清浄さを失っている。 此の川は昔郊外にあった石川、渡口、両部落が合併後(一七〇五年代)新設された井戸で、村の後方中央に位置し、全村之に依存していた。 此の川は出産の時の『名附け水』、死者の『湯灌水』、天然痘、麻疹等の『水撫水(ウビナデー)』元旦の若水等に霊泉として重用せられ、殊に元旦には『川詣り』と称し、住民一同参拝した。 この川は、古来由緒のある川でありますので、市民の皆さんでキレイにしましょう。 改修 昭和五十三年(一九七八年)八月十六日 整備 平成十七年(二〇〇五年)十二月十一日 管理者 石川部落会」

13-0302 前ヌ川

14-0302 小那覇歯科跡

「小那覇 舞天(おなは ぶーてん、1897年 - 1969年)は沖縄県出身の演劇人、歯科医師である。本名・小那覇全孝。現在の今帰仁村生まれ。旧制沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)から旧制日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)を経て嘉手納で歯科医院を開業するかたわら、沖縄の伝統芸能の保存、普及に努め、また大衆演劇人として弟子の照屋林助とともに、占領下の焦土と化した沖縄で大きな人気を博し、沖縄のチャップリンと呼ばれた。」

引用(小那覇舞天 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%82%A3%E8%A6%87%E8%88%9E%E5%A4%A9

15-0302 世栄津橋

16-0302 ゆーえつばし

17-0302 富祖橋

18-0302 石川川

19-0302 石川川

20-0302 石川川

21-0302 遊歩道

22-0302 川沿いの柵装飾

 川沿いの柵パイプを支えている石柱は、「ハイビスカス、サンダンカ、ムラサキカタバミ、ゴクラクチョウカ、ゲットウ、アロエ、デイゴ、ルリハコベ、オオタニワタリ」などの植物の絵で飾られていました。

23-0302 ハイビスカス

24-0302 サンダンカ

25-0302 ムラサキカタバミ

26-0302 ゴクラクチョウカ

27-0302 ゲットウ

28-0302 アロエ

29-0302 デイゴ

30-0302 ルリハコベ

31-0302 オオタニワタリ

32-0302

「沖縄諮詢会堂跡」「戦後教育発祥之地」「東恩納博物館跡」…うるま市石川

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 うるま市石川は、戦後、各地の難民(捕虜)収容所の中心で、戦後沖縄の「政治・経済・教育・文化」などの発祥地であり、「沖縄諮詢委員会堂跡」、「戦後教育発祥之地」碑、「東恩納博物館跡」などがあります。「うるま市立石川歴史民俗資料館」を訪ねると、各種史料や写真などを通して、終戦直後の石川の様子について知ることができます。

「うるま市立石川歴史民俗資料館…沖縄の「戦後政治・経済・教育・文化の発祥地」と言われる石川の終戦直後の様子を中心に展示する。戦後の沖縄行政の出発点、沖縄諮詢委員会、県立博物館の前身の東恩納博物館、沖縄戦後初の小学校、終戦直後の松竹梅の劇団、米軍服、HBTの更生衣料、2×4の材木で造った規格住宅、カンカラ三線など沖縄戦後の政治・経済・教育・文化・生活の発祥地ならではの資料、写真を展示。また、平成17年4月1日「うるま市」誕生より、旧市町の衣・食・住に関わる生活用具、生産に関わる農・漁具、衣類、葬制、民俗芸能などの民俗資料の展示を行う。」

引用(うるま市立石川歴史民俗資料館 http://www.city.uruma.lg.jp/1/201.html

01-1127 石川市街地(捕虜収容所跡)

 戦後、難民(捕虜)収容所が造られ、人口が急増した、かつての「石川市」(現うるま市石川)市街地を、「伊波城跡」から、撮影しました。

02-0302 沖縄諮詢会堂跡

03-0302 沖縄諮詢会堂跡

04-0302 沖縄諮詢会堂跡

「沖縄諮詢会堂跡 うるま市指定文化財第35号「史跡」 指定年月日:2005年(平成17年)3月1日…沖縄諮詢会は、戦後1945年(昭和20年)8月に、米軍政府と県民の意思の疎通(そつう)を図り、沖縄の再建について諮問(しもん)するための機関として米軍政府主導で設置されました。戦後初の行政執行機関であった沖縄諮詢会の執務は、1932年(昭和7年)に建築された民家を利用したこの会堂で行われました。 沖縄諮問会は、戦後初の行政執行機関で、沖縄各地の収容所から120名余の代表が石川に集められ、米軍が示した、?専門的知識を持っている、?一部の地域、階級にこだわらない、?日本軍部や帝国主義と密接な関係にない、?利己の利益を考えていない、という選考基準にしたがって15名の委員が選出されました。 翌1946年4月、東恩納に「沖縄民政府」が発足し、沖縄諮詢会は解消され、諮詢会堂も約8ヶ月でその役目を終えました。」

参照(8月20日 沖縄諮詢会設立(1945年) - 公文書館通信 - 沖縄県公文書館 http://www.archives.pref.okinawa.jp/publication/2012/08/post-62.html

05-030 うるま市立城前小学校

06-0302 戦後教育発祥之地

07-0302 3戦後教育発祥之地

「本校は、戦後沖縄における学校教育発祥の地である。戦争の苦しみの中にあっても、なお教育を守りぬこうとする住民の熱意がもりあがり、昭和20年5月7日沖縄戦まだたけなわの頃、開校の実現を見たのである。全島が戦場化し、各地から難を避けて当地に集まった住民子弟のうち児童790名を集め、校長山内繁茂氏外職員20名、給仕1名、小使い2名、理髪師1名の人員をもって開校したのであるが、校舎はもちろん机、腰掛け、教科書、学用品など一物もなく、砂の上に指で字を書かせるということから教育が始まったのである。石川市教育委員会」

08-0302 うるま市立城前小学校

09-0302 うるま市立城前小学校

10-0302 うるま市立城前小学校

11-0302 うるま市立城前小学校

参照(うるま市立城前小学校 http://shiromae-sho.edu.city.uruma.okinawa.jp/index.php

12-0302 石川集会所

13-0302 石川集会所周辺

14-0302 石川集会所周辺

15-0302 中央地区住宅地区改良事業

16-0302 中央地区住宅地区改良事業

17-0302 中央地区住宅地区改良事業

「中央地区住宅地区改良事業…事業経過:戦後まもなく当地区は食料品、衣料品、その他日用品などを豊富に取り揃え商業活動の中心として公設市場を構築し発展していった。(写真上)しかし、昭和42年2月に市場内の木造トタン葺き倉庫から出火があり、またたくまに広がっていった。この大火で全焼55件、半焼10件となり沖縄でも戦後最大の公設市場火災があった地区である。 その後、焼け野原となった当地区に公社分譲住宅(5階建 1階部分は店舗)・市営住宅(5階建 1階及び2階部分は公設市場)を建築し、かつての賑わいを取り戻し石川市の中心市街地となった。(写真右下) しかし、近年になり大型店舗の郊外への出店や付帯施設の未整備により、客足が減り始め閉店となる店舗が多くなった。また建物の老朽化が著しく、コンクリートの亀裂や剥離(はくり)が多く見られるようになり、中心市街地の空洞化が進行していった。 そこで、当市では地域住民参加型のまちづくりによる基本構想を策定し、住宅地区改良事業を立ち上げた。本事業では老朽化し火災等保安上の危険のある不良住宅や店舗を解体し、従前の居住者のための健康で文化的な生活を営むことのできる改良住宅及び附帯施設を建築すること、また改良店舗の建築及び緑地や道路を一体的に整備することにより、以前に失われた中心市街地の商業都市機能を取り戻し、さらに拡充をはかり、石川市の「顔」となるような魅力のあるまちづくりを目的とした。」

18-0302 東恩納博物館跡

19-0302 金謝敷嶽(カンジャシチウタキ)

 「東恩納博物館跡」は、「東恩納公民館」の近くにあり、その近くには、「金謝敷嶽嶽(カンジャシチウタキ)」「神下毛(カンサギモー)」「雲古御嶽(クモコウタキ)」などの拝所がありました。

20-0302 金謝敷嶽

21-0302 東恩納公民館

22-0302 神下毛

23-0302 神下毛

24-0302 雲古御嶽

25-0302 雲古御嶽

26-0302 雲古御嶽

「伊波貝塚」「伊波城跡」「伊波ヌール墓」…うるま市石川伊波の遺跡・史跡

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 うるま市石川伊波には、「伊波貝塚」「伊波城跡」「伊波ヌール墓」などの遺跡や史跡があります。「伊波貝塚」は、南島の先史文化を考える上で欠かすことのできない遺跡で、国指定の史跡となっています。

参照(国指定文化財等データベース http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp

 「伊波城跡」は、野面積でつくられた城で、未整備のままでしたが、今後の整備計画が作成されています。城内には、数カ所に拝所がありました。「伊波ヌール墓」の周辺には多くの古墓が点在しているので、バイパスを造る際、トンネルを通して、遺跡を保護しました。

01-0304 伊波貝塚

02-0304 伊波貝塚

03-0304 伊波貝塚

「史跡 伊波貝塚 昭和47年5月15日 国指定…この貝塚は、金武湾を望む標高90メートルの丘陵下方のゆるやかな傾斜地に形成されています。遺跡の範囲は東西約160メートル、南北約20メートル-ほどで、貝層がその中に点在しています。貝層は厚さ60センチメートルほどで、海水産・淡水産・陸産の貝類のほか魚骨、じゅごん・いのしし・いぬ等の獣骨とともに、磨製石器等の石器、土器、骨針等の骨製品、垂飾類の貝製品が出土しています。 この貝塚は、大正9年大山柏氏が発掘を実施し、荻堂貝塚とともに戦前から著名な貝塚として知られています。伊波式土器を出土する標準遺跡でもあって沖縄諸島貝塚時代前期に属し、南島の先史文化を考える上で欠かすことのできない遺跡の一つです。 沖縄県教育委員会 昭和53年3月31日」

04-0114 標識

05-0114 伊波城跡

06-0114 伊波城跡

07-1127 伊波城跡

「沖縄県指定史跡【伊波城跡】…伊波城跡は別名、伊波グスクとも呼ばれ、石川市街地を北東側に見降ろす標高87mの丘陵に位置し、東西45m、南北52mの範囲に一重の石垣をめぐらせた単郭式の城で面積は3712m2の比較的小型のグスクといえます。城壁は自然の地形を巧みにとりこみながら石垣をS字状にくねらせ、自然石をほとんど加工せずに積み上げていく野面積(のづらづみ)という技法でつくられています。平成元年の発掘調査によって城内の地表下50cmから数回の立て替えをしたと思われる柱穴跡(ちゅうけつあと)が発見され、掘っ建て柱建物の存在が確認されました。また大量の地元産土器や外国産土器中国産の青磁(せいじ)や白磁(はくじ)、三彩陶器(さんさいとうき)・褐※陶器(かつ※とうき)・染付(そめつけ)・南島産の須恵器(すえき)なども出土しており、伊波按司の交易の広さと力を知ることができます。また当時の人々の食べ残した貝殻や魚や猪の骨なども出土しています。これらの遺物は13世紀後半から15世紀のものが多く出土していますが、同時に貝塚時代の土器も多数出土しており、約二千八百年前の貝塚が伊波グスクを含めたこの丘陵ぜんたいにあったことがうかがわれ、この地域が古代から人々の重要な居住地であったことを改めて教えてくれます。平成5年2月設置 沖縄県教育委員会 石川市教育委員会 許可なく文化財の現状を変更したり保存に影響を及ぼす行為をすることは法律および条例で禁じられています。」

08-0114 伊波城跡

09-0114 拝所

10-1127 伊波城跡

11-1127 伊波城跡

「県指定史跡 伊波城跡 昭和56年6月15日指定…伊波(いは)城跡は、琉球石灰岩からなる標高87mの丘の上に築かれた石垣囲いのグスクです。伝承によれば、1322年には怕尼芝(はにじ、羽地はねじ)按司(あんじ)に滅ぼされた今帰仁(なきじん)グスクの城主の子孫がこの地に逃れてきて、のちに力を得て伊波按司(あんじ)となって、ここにグスクを築いたものといわれています。構造は周縁に一重だけの城壁をめぐらす単郭式で(たんかくしき)で、石垣はほとんどが自然石をそのまま用いた野面(のづら)積みという方法で積まれています。東北面は切り立った自然の断崖(だんがい)を利用し、南面は突き出た自然岩をうまくとりこんで、石垣をめぐらしています。グスクの内外には、グスク土器、外国製陶器(いわゆる南蛮など)、中国からもたらされた青磁(せいじ)などがみられます。なお、この地域において許可なく現状を変更することは、県条例で禁じられています。沖縄県教育委員会 石川市教育委員会」

12-1127 拝所

13-1127 拝所

14-1127 拝所

15-1127 拝所

16-1127 伊波城跡

17-1127 伊波城跡

18-1127 伊波城跡

19-1127 四等三角点

20-1127 石川市街

21-1127 石川市街

22-1127 石川市街

23-1127 石川市街

24-0114 伊波ヌール墓

25-0114 伊波ヌール墓

「伊波ヌール(ノロのこと)墓は、伊波ノロの遺骨(いこつ)を納(おさ)めた墓と伝えられています。伊波ノロは、琉球王府より任命された公事ノロで、伊波、山城、嘉手苅、石川の祭祀を司っていました。 旧石州市教育委員会の調査の結果、墓室内には、15基の厨子甕(ずしがめ)があり、そのほとんどに2体修分の骨が納められていたことがわかりましたが、銘書(ミガチ)はなく、遺骨の名前や亡くなった年代を特定するにはいたりませんでした。現在は、伊波自治会を中心に管理され、収穫祭のウマチー行事や清明祭の時に参拝が行われるなど、地域に関わりの深い文化財として大切にされています。ノロ墓の下を通るトンネルの丘陵崖下には、タカ御墓(スミス御墓)など多くの古墓が点在しています。うるま市指定文化財」

26-0114 伊波ヌール墓

27-0114 石川バイパス

 「伊波ヌール墓」の下はトンネルで、石川バイパスが通っています。

28-1127 ヌール家

29-0114 ヌール家

30-1127 神アサギ

31-0114 ヌール家・神アサギ

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