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「聞得大君御殿跡」「儀保殿内跡」「蔡温旧宅跡」…那覇市首里

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 那覇市首里には、数多くの遺跡・史跡があります。琉球王国時代、政治制度の整備とともに、宗教的な面から国王を支えるために、神女(ノロ)の組織を整備しました。その中心となったのが「聞得大君」です。「聞得大君御殿跡」の案内板は、「首里中学校」の正門わきにありました。

01-0302 首里中学校

02-0302 首里中学校

参照(那覇市立首里中学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/syuri-jh/

03-0302 聞得大君御殿跡

04-0302 聞得大君御殿跡

「聞得大君御殿跡(チフィジンウドゥンアト)…琉球王国時代の最高女神官「聞得大君加那志(チフィジンカナシ)」の神殿及び住居跡。尚真王代(1477〜1526年)、琉球王国の神女組織が整備され、最高位の聞得大君(きこえおおきみ)は国王を守護する『姉妹神』(おなり神)として、国王の長寿・国の繁栄・五穀豊穣・航海安全を祈願した。初代聞得大君は尚真(しょうしん)王の姉妹月清(げっせい)といわれ、以来王女・王母がその職につき、廃藩置県(1879年)に至るまで15代を数えた。聞得大君の就任の儀式を『御新下り(ウァーラウリ)』といい、首里城を出発して与那原(よなばる)・佐敷(さしき)を経由し、知念間切り(ちねんまぎり)にある聖地『斎場御嶽(セーファウタキ)』に到り、久高(くだか)島遙拝などの神事を行った。 王国時代に造られた『首里古地図(しゅりこちず)』(18世紀初頭)によれば聞得大君御殿の敷地は汀志良次(ティシラジ、現汀良町)・大中(ウフチュン)村(現大中町)に見られるが、最後はこの汀良の町に定められた。当時石垣に囲まれた建物の敷地面積は約2,000坪あったが、廃藩置県の後、御殿の神殿は中城御殿(ナカグスクウドゥン、現沖縄県立博物館敷地)に移され、敷地・建物は明治中期以降払い下げられ個人の畑地となった。1929年(昭和4)沖縄県立師範学校がその畑地を寄宿舎用地として購入し、沖縄戦(1945年)の後は首里中学校敷地の一部(グラウンド一帯)となった。」

05-0302 儀保殿内跡

06-0302 儀保殿内跡

07-0302 儀保殿内跡

08-0302 儀保殿内跡

「儀保殿内跡(ジーブドゥンチアト)…琉球王国時代の高級女神官の一人『儀保大阿母志良礼(ジーブウフアムシラリ)』の神殿及び住居跡。尚真(しょうしん)王(1477〜1526年)、琉球王国の神女組織が整備され、最高女神官『聞得大君(きこえおおきみ)』の下に首里(シュイ)・真壁(マカン)・儀保(ジーブ)の3人の『大阿母志良礼(おおあむしられ)』は首里(しゅり)の士女から選ばれ、聞得大君を補佐して国王の長寿・国の繁栄・五穀豊穣・航海安全を祈願するほか、琉球国中の御嶽・神女を3分割して所管した。『儀保大阿母志良礼』は首里の西之平等(ニシヌヒラ、現汀良・儀保・赤平・久場川町地域)を始め、浦添(うらそえ)・西原間切(にしはらまぎり)や慶良間(けらま)・粟国(あぐに)・渡名喜(となき)島など12間切3島の御嶽や神女(ノロ)を管轄した。 廃藩置県(1879年)の後、首里・真壁・儀保の3つの殿内の神殿は天界寺(ティンケージ)跡の一角に移され、1つの建物にまとめられて『三殿内(ミトゥンチ)』と呼ばれた。儀保殿内跡は大正初期には敷地・建物ともに払い下げられ民有地となった。」 

 「蔡温」は、琉球王国時代の著名な政治家です。中国留学後、尚敬王のもとで、三司官の一人として、農林業・治水などの殖産興業や行政制度の整備に貢献し、いくつかの著書を残しています。

09-0228 蔡温旧宅跡

10-0228 蔡温旧宅跡

11-0228 蔡温旧宅跡

12-0228 蔡温旧宅跡

「蔡温旧宅跡(サイオンキュウタクアト)…琉球王国時代の政治家蔡温の住居跡。 蔡温は1682年久米村(くめむら、現那覇市久米)生まれ。沖縄名を具志頭親方方文若(ぐしちゃんおやかたぶんじゃく)といい、蔡温は唐名(からな、中国名)、『?園(たんえん)』と号した。蔡温の祖は1392年琉球に渡ってきた久米三十六姓の一人である。 蔡温は1708年通事(つうじ)として中国へ渡り、そこで儒学(じゅがく)などを学ぶ。帰国後の1713年、13歳で即位した尚敬王(しょうけいおう)の『国師(こくし)』(学問師匠)となったことから、首里赤平(しゅりあかひら)村に屋敷を賜った。1728年三司官(さんしかん)に就任、1753年に辞任するまで25年間努めた。この間羽地大川(はねじおおかわ)の改修(1735年)、地方の山林視察など自ら治水・治山の実践を行い、『山林真秘(さんりんしんぴ)』などの実学書を残した。蔡温は他に儒教の教えをまとめた『御教条(ごきょうじょう)』や王国の政治経済についての提言書『独物語(ひとりものがたり)』など多くの書物を残し、近世琉球王国を代表する政治家と称される。1761年死去。享年80歳。 1729年に長男翼(よく)に尚敬王の王妃が嫁ぐことになり、改めて邸地(現在地)を賜った。敷地は600坪余あり、屋敷には門が2つあったという。沖縄戦時中、屋敷は日本軍の宿舎となり、石垣の石は飛行場建設のため供出された。戦後、道路拡張により敷地の一部は削られたが、蔡温が掘ったという井戸や当時の石垣がわずかに残されている。」

13-0228 宜湾朝保生家跡

14-0228 宜湾朝保生家跡

15-0228 宜湾朝保生家跡

「宜湾朝保生家跡(ギワンチョウホセイカアト)…琉球処分直前の三司官で、和歌人としても著名な宜湾朝保の生家跡。宜湾は、1823年首里に生まれた。生家の宜野湾家は、向氏(しょううじ)小禄御殿(うどぅん)の分家で、宜野湾間切の総地頭家であり、三司官を二人も出した名家である。 宜湾は、表(おもて)十五人の各職を歴任し、1862年三司官に任職。1868年明治政府が成立すると1871年には維新慶賀使(いしんけいがし)の副使となって上京。尚泰(しょうたい)を琉球藩主にするとの命を受け喜んで帰国した。1875年琉球処分が具体化しはじめると、宜湾ら維新慶賀使の責任として世の非難を浴び、同年三司官を辞職、翌年失意の内に54才の生涯を閉じた。 宜湾は、王朝時代を代表する和歌人で、後に宮中歌道御用掛となった薩摩藩士八田知紀(はったとものり)に師事し、和歌集『沖縄集』・『沖縄集二編』を編集した他、私家集に『松風集(しょうふうしゅう)』がある。 なお、宜湾の家名は、尚泰の次男尚寅(しょういん)が1860年に宜野湾間切を領して宜野湾王子と称したため、同名を避けて改名したものである。 設置 1998年3月 那覇市文化局歴史資料室」

16-0228 宜湾朝保生家跡周辺


「嘉手苅観音堂」「嘉手苅ガー」「ぬちしぬじガマ」…うるま市石川嘉手苅

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 うるま市石川嘉手苅にある「嘉手苅観音堂」のお堂には、戦前まで『邦海済宏(沖縄をひろく救う)』の扁額が掲げられていたそうです。「嘉手苅ガー」は、「王様より賜ったカー」として、生活用水として使用され、ウブガーとしても崇められていました。「ぬちしぬじガマ」は、沖縄戦で、嘉手苅、伊波の住民約300人が避難し、全員が助かったガマとして知られています。

参照(うるま市の文化財・市指定文化財 http://www.city.uruma.lg.jp/1/277.html

 

01-0213 嘉手苅観音堂

 

02-0213 嘉手苅観音堂

「嘉手苅観音堂 うるま市指定文化財第3号『建造物』 指定年月日:1984年(昭和59年)6月12日…嘉手苅観音堂は、紀伊(きい)の国(現在の和歌山県)から金武の福花に漂着した僧(日秀上人)が伊波按司に勧(すす)めて建立されたお堂と伝えられています。お堂の創建は、伊波按司の住まいである伊波グスクの下、ノロ殿内の西方と言われています。しかし2度の火災に遭(あ)い、伊波按司が嘉手苅の根人(ニーンチュ)に命じて、現在のお堂の西側に移転させましたが、そこでも火災に遭い、再移転したのが現在のお堂の場所です。 1919年(大正8年)に改修工事が行われ、平地に建てられていたお堂を石の台座の上に乗せています。戦前までは『邦海済宏(沖縄をひろく救う)』の扁額(へんがく)がお堂の中に掲げられていました。」

 

03-0213 嘉手苅観音堂

 

04-0213 嘉手苅観音堂

 

05-0213 嘉手苅観音堂

 

06-0213

 

07-0213 地頭火神

 

08-0213 地頭火神

 

09-0213

 

10-0306 嘉手苅ガー標識

 

11-0306 嘉手苅ガー

 

12-0306 嘉手苅ガー案内板

 

13-10306 嘉手苅ガー案内板

「嘉手苅ガー…嘉手苅ガーは、嘉手苅村の西山田(橋口山田)の先祖で、王に仕えていた人が役職を解かれ家に帰されたとき、その労に対し王より石大工が遣わされ、カーが構築されたとの伝承が残っています。 『王様より賜ったカー』という意味で『御拝領(グヘーロー)ガー』とも呼ばれています。 昔から生活用水として使用されたカーで、ウブガー(産泉)としても崇められています。設置 うるま市教育委員会」

 

14-0306 嘉手苅ガー

 

15-0306 嘉手苅ガー拝所

 

16-0306 嘉手苅ガー

 

17-0306 嘉手苅ガー

 

18-0306 育成学童クラブ

 「嘉手苅ガー」の標識がある道の反対側には、「育成学童クラブ」がありました。

 

19-0306 ぬちしぬじガマ標識

 

20-0306 ぬちしぬじガマ

 

21-0306 ぬちしぬじガマ標識

 

22-0306 ぬちしぬじガマ

 

23-0306 ぬちしぬじガマ

参照(沖縄鍾乳洞探検!ヌチシヌジガマ体験エコツアー-がじゅまる自然学校 http://wens.gr.jp/gajumaru/gaj-kojin/nuchi.html)

「闘牛の里」「舞天(ブーテン)ゆかりの地」…うるま市石川

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 うるま市石川(旧石川市)は、戦後沖縄最初の市で、沖縄諮詢会設置、沖縄民政府スタート、戦後学校教育の発祥など、戦後沖縄は、石川の捕虜収容所から始まったといわれます。「世栄津森」には「闘牛場(ウシナー)」がありました。市内には、「映画館」や「劇場」もいくつかありました。「大衆芸能に貢献した舞天(ブーテン)」と「闘牛」は、終戦直後の石川市を象徴するものだといえます。

 石川は「闘牛の里」として知られ、沖縄県で唯一のドーム型闘牛場「うるま市石川多目的ドーム」が建設され、年間を通して、各主催団体による闘牛大会が開催されています。3月2日午後1時、「多目的ドーム」で、「読谷大闘牛大会」(読谷闘牛組合主催)が開催されました。当日、終了直後に通りかかり、記念撮影や帰り支度をしている様子を撮影しました。「多目的ドーム」の近くには、「石川地域活性化センター舞天館」があります。

参照(闘牛 in Okinawa http://togyu.ti-da.net/e5997650.html

参照(石川地域活性化センター舞天館 http://www.city.uruma.lg.jp/4/3136.html

参照(伝えたいふるさとの100話 http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/furusato099.htm

01-1115 闘牛の里

02-1115 石川多目的ドーム

03-1115 石川地域活性化センター舞天館

04-1217 ブーテン

05-1115 石川地域活性化センター舞天館

06-0302 優勝した梨夢神

07-0302 優勝した梨夢神

08-0302 優勝した梨夢神

09-0302 闘い終えて…

10-0302 闘い終えて…

11-0302 闘い終えて…

12-0302 帰り支度

13-0302 帰り支度

14-0302 帰り支度

15-0302 帰り支度

16-0302 帰り支度

17-0302 帰り支度

18-0302 家路

「闘牛の里」「舞天ゆかりの地」…うるま市石川

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 うるま市石川(旧石川市)は、戦後沖縄最初の市で、沖縄諮詢会設置、沖縄民政府スタート、戦後学校教育の発祥など、戦後沖縄は、石川の捕虜収容所から始まったといわれます。「世栄津森」には「闘牛場(ウシナー)」がありました。市内には、「映画館」や「劇場」がいくつかありました。「大衆芸能に貢献した舞天(ブーテン)」と「闘牛」は、終戦直後の石川市を象徴するものだといえます。

 石川は「闘牛の里」として知られ、沖縄県で唯一のドーム型闘牛場「うるま市石川多目的ドーム」が建設され、年間を通して、各主催団体による闘牛大会が開催されています。3月2日午後1時、「多目的ドーム」で、「読谷大闘牛大会」(読谷闘牛組合主催)が開催されました。当日、終了直後に通りかかり、記念撮影や帰り支度をしている様子を撮影しました。「多目的ドーム」の近くには、「石川地域活性化センター舞天館」があります。

参照(闘牛 in Okinawa http://togyu.ti-da.net/e5997650.html

参照(石川地域活性化センター舞天館 http://www.city.uruma.lg.jp/4/3136.html

参照(伝えたいふるさとの100話 http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/furusato099.htm

01-1115 闘牛の里

02-1115 石川多目的ドーム

03-1115 石川地域活性化センター舞天館

04-1217 ブーテン

05-1115 石川地域活性化センター舞天館

06-0302 優勝した梨夢神

07-0302 優勝した梨夢神

08-0302 優勝した梨夢神

09-0302 闘い終えて…

10-0302 闘い終えて…

11-0302 闘い終えて…

12-0302 帰り支度

13-0302 帰り支度

14-0302 帰り支度

15-0302 帰り支度

16-0302 帰り支度

17-0302 帰り支度

18-0302 家路

「劇聖玉城朝薫生誕の地」「与那原良矩生家跡」「亀川盛武生家跡」…那覇市首里儀保町

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 琉球王国時代、踊奉行として、「執心鐘入」「二童敵討」「女物狂」「孝行の巻」「銘苅子」などの組踊を創作した「玉城朝薫」生誕之地は、桃原2丁目から儀保2丁目の石畳道の間にありました。近くには、那覇市指定史跡の「加良川」があります。

01-0228 劇聖玉城朝薫生誕之地

02-0228 劇聖玉城朝薫生誕之地

03-0228 加良川

04-0228 加良川

「加良川(カラガー、取付道路を含む)市指定史跡 指定 1989(平成元)年7月14日…加良川は、大中・桃原・儀保村の接点を流れる川の岸にある共同井戸です。18世紀のはじめごろにつくられた『首里古地図』には、井戸のある岩蔭と木立、それに長方形の空地が描かれています。 加良川という名は、『球陽』尚移8(1759)年の条に、『加良川石橋をつくった』としてはじめて現れます。この橋は沖縄戦で失われ、今ではコンクリート製となっています。さらに、カーとして史料に現れるのは、1807年に建立された『宝碑(宝碑)』碑文の中です。 構造を見ると、川岸にある岩の洞穴から流れ出る水をせき止め、その前に石畳の水汲み広場が設けられています。加良川橋から広場へ降りる石畳道は幅を広く取り、川沿いには一段高い通路を設け、水汲みに集まる人々が順序よく出入りできるように工夫されています。 指定されている範囲は、カーとともに真嘉比川対岸の首里桃原2丁目から首里儀保2丁目の石畳道も含まれています。 那覇市教育委員会」

05-0228 加良川

06-0228 真嘉比川

07-1119 宝碑

 琉球王国時代の三司官で、教訓的な琉歌を数多く残し、「君子親方」と称され、和文学にもすぐれ、沖縄三十六歌仙の一人に数えられている、「与那原良矩」の生家跡です。

08-0302 与那原良矩生家跡

09-0302 与那原良矩生家跡

10-0302 与那原良矩生家跡

「与那原良矩生家跡(ヨナバルリョウクセイカアト)…琉球王国時代の三司官(さんしかん)与那原良矩の生家跡。与那原家は馬良詮(ばりょうせん)大浦親方良憲(ウフうらそえおやかたりょうけん)を始祖とする馬氏小禄殿内(ばうじおろくドゥンチ)の分家で、大里間切(おおざとまぎり、現南城市大里)を領有する総地頭家。与那原良矩のほか、王国時代末期の三司官与那原良恭(りょうきょう)・良傑(りょうけつ)親子など9人もの三司官を輩出した名家であった。 与那原は1718年生まれ、唐名(からな、中国名)を馬国器(ばこっき)という。1762年進貢正使として中国へ赴き、1765年その報告として鹿児島(かごしま)へ上国している。1769年三司官に就任、1796年に辞任するまで28年間務めた。この間王国の刑律典『琉球科律(りゅうきゅうかりつ)』の編さんなどにも携わった。 道徳を重んじた人といわれ、教訓的な琉歌を数多く残し、後に『君子親方(くんしウェーカタ)』と称された。また、和文学にもすぐれ、沖縄三十六歌仙の一人に数えられている。1797年死去、享年80才。」

 琉球処分期の三司官で、処分反対運動のリーダーとして、抵抗の姿勢を崩さなかった「亀川盛武」の生家跡です。

11-0302 亀川盛武生家跡

12-0302 亀川盛武生家跡

13-0302 亀川盛武生家跡

「亀川盛武生家跡(カメガワセイブセイカアト)…琉球処分期の三司官で、処分反対の指導者であった亀川盛武の生家跡。亀川家は、毛氏(もううじ)豊見城殿内(どぅんち)の分家で、与那城間切の総地頭家である。 1871年維新慶賀使(いしんけいがし)が上京。尚泰(しょうたい)を琉球藩王とする旨の命を受けて帰国したが、それが琉球処分への布石となったことから、亀川らは慶賀使の伊江(いえ)王子朝直(ちょうちょく)、宜湾親方朝保(ちょうほ)らを激しく糾弾、三司官の宜湾を辞任に追い込んだ。 1875年、明治政府の処分官松田道之(まつだみちゆき)が来島。処分へ向けた諸策が次々に打ち出される中、亀川は、反日派<頑固党>のリーダーとして、士族層の抵抗運動を指導した。処分の跡も脱清(脱琉渡清、だつりゅうとしん)派を支援、旧士族層の県政への非協力を画策するなど、抵抗の姿勢を崩さなかった。 琉球王朝の崩壊という抗しがたい現実に、それでもなお抵抗せんとした亀川は、時代を象徴する人物の一人だったといえる。」

14-0305 ゆいレール

 高台から見た「儀保駅」とゆいレール。車体側面に「育てたい まちなみ」と書かれています。

15-0308 ゆいレール儀保駅

16-0302 儀保駅周辺観光案内図

 儀保駅周辺の遺跡・史跡や観光名所の場所を知るのに役立ちます。

ちょう・チョゥ・蝶・「オオゴマダラ」…那覇市首里公民館

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 「オオゴマダラ」が那覇市の蝶に選定されたのを記念して、3月9日、午後1時30分から、那覇市首里公民館で、「記念式典・7講演会・放蝶・祝賀会」等が行われ、終了後、食草「ホウライカガミ」の無料配布がありました。アトラクションとして、城南小学校吹奏楽部による「吹奏楽(ひこうき雲・他)」があり、祝賀会では、かぎやで風節の踊りなどがありました。

01-0309

03-0309 城南小学校吹奏楽部

05-0309 経過報告

06-0309 式辞

07-0309 祝辞

 

08-0309 祝辞 

09-0309 祝辞

11-0309 講演

16-0309 放蝶

18-0309 放蝶

20-0309 放蝶

22-0309展示

26-0309 卵

27-0309 幼虫

31-0309 幼虫、蛹

33-0309 幼虫、蛹

35-0309 蛹

40-0309 蛹

43-0309 祝賀会

44-0309 祝賀会

45-0309 ホウライカガミ

中部から古都首里への玄関口…那覇市首里平良町

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 那覇市首里平良町は、もともとと西原間切平良町でしたが、首里に編入され、平良町となりました。かつては、浦添・西原などから首里へ来る人々に、「憧れの古都首里への玄関口」として親しまれていました。

参照(首里地域情報サイト「e首里ドットコム」首里かわらばん No25-inner http://www.e-sui.com/kawara/No25-inner.pdf

 

01-0303 大平橋

 

02-0303 大平橋

 

03-0303 大平橋

「太平橋(タイヘイキョウ)…首里と浦添を結ぶ街道に架けられた石橋のアーチ橋。別に平良橋(たいらばし)という。 琉球王国時代の1597年、時の国王尚寧(しょうねい)は首里(しゅり)から浦添城(うらそえグスク)に至る道の整備を行い、板橋であった太平橋を石橋に改めた。 太平橋付近は1609年薩摩(さつま)侵攻の際、浦添方面から攻め上った薩摩軍と戦ったところである。1945年の沖縄戦当時、米軍の進攻を阻むため、日本軍が橋を爆破した。戦後やや上流側にコンクリート製の橋が架けられ、現在でも首里・浦添むを結ぶ交通の要所となっている。 設置 2007年2月 那覇市市民文化部歴史博物館」

 

04-0303 大平橋

 

05-0303 安謝川

 

06-0303 安謝川

 

07-0303 平等所跡

 

08-0303 平等所跡

 

09-0303 平等所跡

「平等所跡(ヒラジョアト)…琉球王国時代の裁判所跡。警察・拘置所機能も有した。設置年代は不明。敷地は88坪あったといい法廷兼事務所、拘置所等が置かれた。『平等之側(ひらのそば)』(平等所長官)、『平等方吟味役(ひらほうぎんみやく)』(次官)の下に『平等所大屋子主取(ウフヤクぬしとり)』(首席判事)、『平等所大屋子(ウフヤク)』(判事)等の役人がおり、首取・大屋子が取調をもとに調書と判決の案文を提出し、斬刑(ざんけい)・流刑(るけい)・寺預(てらあずけ)などの判決が確定した。平等所では他に王家の墓陵『玉陵(タマウドゥン)』の管理や首里市中の土地・山林に関する事務も行った。 1879年(明治12)の琉球処分後、一時『久場川芝居(くばがわしばい)』(演芸場)が置かれた。 設置 2007年2月 那覇市市民文化部歴史博物館」

 

10-0303 平等所跡

 

11-0303 高平良山

 

12-0303 高平良山

 

13-0303 高平良山

「高平山(タカデーラヤマ)…琉球王国時代に創作された組踊(くみおどり)『万歳敵討(ばんざいてきうち)』の舞台。組踊登場人物『高平良御鎖(タカデーラウザシ)』の屋敷があった場所と設定される。 物語は、放漫な高平良御鎖はある日、『大謝名比屋(おおじゃなのひや)』がもっていた名馬を見て望んだが、断られたため、比屋を闇討ちにした。大謝名の息子『謝名子(じゃなのしー)』と『慶雲(けいうん)』の二人は時機を伺い、高平良を討ち取るというものである。 『万歳敵討』の作者田里朝直(たさとちょうちょく、1703〜1773年)は、組踊創始者玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)、平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)に続く人物で『万歳敵討』とともに『義臣物語(ぎしんものがたり)』・『大城崩(ウフグスクくずれ)』を創作し、田里の組踊三番と称されている。 高平山から首里末吉(しゅりすえよし)町にかけての丘陵地帯は王国時代からの墓地地帯でもあり、王族が眠る『末吉陵(すえよしりょう)』、王国時代の政治家羽地朝秀(はねじちょうしゅう)の墓、那覇市指定文化財『宜野湾御殿家の墓及び墓地』などがある。また首里平良(しゅりたいら)町と末吉町を結ぶ道は玉城朝薫作の組踊『執心鐘入(しゅうしんかねいり)』の舞台となった遍照寺(へんしょうじ、元万寿寺まんじゅじ)跡が残っている。 設置 2007年2月 那覇市市民文化局歴史博物館」

 

14-0303 宮古井戸(ナークガー)?

 

15-0303 宮古井戸(ナークガー)?

 

16-0303 若夏学院

 「首里第三尋常高等小学校跡」は、城北中学校若夏分校「沖縄県立若夏学院」になっています。

 

17-0305 平良自治会館

 村の中央に位置していたことから、自治会館の広場は、「中之毛(ナーカヌモー)」と呼ばれ、様々な地域行事が行われていました。

 

18-0305 平魂之塔

 「平良自治会館」の広場の隅にあります。

19-0305 道路整備工事中

 側に、「サントーガー」などがあった道は、道路整備工事が行われています。

宮森小学校「仲よし地蔵」「平和の鐘の塔」…うるま市石川

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 うるまし石川の「宮森小学校」を訪ねました。事務室で来校趣旨を説明し、教頭先生の許可を得て、校内に設置されている「仲よし地蔵」などを参拝し、撮影しました。石川で生まれ育った私は城前小学校出身で、隣の「宮森小学校」は、戦後、石川学園(現城前小学校)での分校式、命名式後、宮森初等学校として誕生した学校です。

 「ジェット機墜落事故」が起きたのは、小学校6年の時です。給食時間に、廊下にいた数人の生徒が、大声で、「アーッ、落ちる、落ちる」と叫んでいました。ジェット機が、城前小学校の校舎すれすれに飛び、隣の宮森小学校に落ちたのです。墜落直後に、ものすごい音とともに、炎が空高く上り、教科書で見た「原爆」のキノコ雲のようでした。

 しばらくの間は、とんでもないことが起きたということ以外、何が起きたのか全く分からず、ただ、ものすごく不安な状況に包まれていました。そのうちに、いろいろな情報が入ってくるようになり…小学校3年の級友で、宮森小学校に転校したI君も、犠牲になったことが分かりました。

 私たちが小学生、中学生の頃は、少女暴行致死事件等、米軍が関与した事件事故がいくつも起き、納得のいく結論が得られない状況が続いていました。そのような中で、ジェット機墜落事故が起きたのです。

01-0310 校門

02-0310 仲よし地蔵

03-0310 5仲よし地蔵

04-0310 仲よし地蔵

05-0310 仲よし地蔵

06-0310 仲よし地蔵(実篤と書かれています)

07-0310 仲よし地蔵

08-0310仲 よし地蔵

09-0310 ジェット機被災者慰霊像(贈:地蔵像、武者小路実篤)

10-0310 ジェット機墜落事故概況

「概況…1959年(昭和34年)6月30日午前10時40分、嘉手納空軍所属のF100ジェット戦闘機が2時限目終了後の楽しいミルク給食時間に、ここ宮森小学校に墜落、死者は小学生11名、一般の人6名、合計17名、重傷者220名余、住宅27棟、公民館1棟、3教室を全焼、住宅8棟、2教室を半焼させた。 10時36分に整備終了後のテスト飛行で嘉手納を飛び立った飛行機は、一旦東シナ海に向かうが真栄田岬上空でエンジン異常が発生、パイロットは嘉手納に引き返そうとするが、太平洋に向かえとの指示に従い、具志川上空でパラシュートで脱出救助、無人の飛行機はくしくも石川へ向かうことになる。わずか4分間の飛行であった。沖縄においては、第2次大戦後の基地災害では最も大きい事故で、世界の航空史上、まれな大惨事として国内外に大きく報道された。1999年(平成11年)6月30日」

参照(うるま市立宮森小学校_jp- http://miyamori-sho.edu.city.uruma.okinawa.jp/

参照(宮森小学校米軍ジェット機墜落事故 - 公文書館通信 - 沖縄県公文書館 http://www.archives.pref.okinawa.jp/publication/2009/06/post-218.html

参照(映画「ひまわり〜沖縄は忘れない あの日の空を〜」公式ホームページ http://www.ggvp.net/himawari/) 

11-0310 折り鶴

12-0310 掲示板、平和の鐘の塔

13-0310 平和の鐘の塔

14-0310 平和の鐘の塔

15-0310 平和の鐘の塔

「創立六十周年記念事業 平和の鐘の塔…宮森小学校(みやもりしょうがっこう)は、一九四五(昭和二十)年十月二十二日、石川学園(がくえん)(現城前小学校、しろまえしょうがっこう)における分校式(ぶんこうしき)、命名式(めいめいしき)の後、宮森初等(しょとう)学校としてこの地(ち)に誕生(たんじょう)しました。 設立当初(せつりつとうしょ)から、教育愛(きょういくあい)に燃(も)える保護者(ほごしゃ)、地域(ちいき)そして情熱的(じょうねつてき)な教師達(きょうしたち)により、幾多(いくた)の困難(こんなん)を乗(の)り越(こ)えて、輝(かがや)かしい伝統(でんとう)と校風(こうふう)の樹立(じゅりつ)に努力(どりょく)してきました。 一九五〇(昭和二十五)年七月、石川地区教育委員会(いしかわちくきょういくいいんかい)(当時)主催(しゅさい)による野球大会整備作業中(やきゅうたいかいせいびさぎょうちゅう)の土砂崩(どしゃくず)れ事故(じこ)(児童五名死亡)。一九五九(昭和三十四)年六月、米軍整備不良(べいぐんせいびふりょう)ジェット機墜落事故(ジェットきついらくじこ)(児童十一名死亡、教師二名、児童百五十六名負傷)という二度にわたる悲(かな)しい出来事(できごと)がありました。 あのときから幾年経(いくとせへ)た今(いま)でも悲(かな)しみは癒(いや)されることなく、亡(な)くなった子(こ)ども達(たち)の時間(じかん)は止(と)まったままです。 このたび、創立(そうりつ)六十周年(しゅうねん)という節目(ふしめ)の年(とし)にあたり、宮森小学校のさらなる飛躍(ひやく)と子どもたちの健(すこ)やかな成長(せいちょう)を願(ねが)い、そして、あのような悲(かな)しい事故(じこ)が二度(ど)と起きないよう祈(いの)るとともに、平和(へいわ)の鐘(かね)を打(う)ち鳴(な)らして全世界(ぜんせかい)に恒久平和(こうきゅうへいわ)を呼(よ)びかけるため、平和(へいわ)の鐘(かね)の塔(とう)を建設(けんせつ)しました。 二〇〇五(平成十七)年十月二十二日 うるま市立 宮森小学校 創立六十周年記念事業実行委員会」

16-0310 平和の鐘の塔

17-0310 平和の鐘の塔

18-0310 平和の鐘の塔

19-0310 平和の鐘の塔

20-0310 平和の鐘の塔

21-0310 平和の鐘の塔

22-0310 校舎

23-0310 校舎

24-0310 校舎

25-0310 2mの標識

26-0310 運動場

27-0310 庭園

28-0310 花壇

29-0310 花壇

30-0310 花壇

31-0310 花壇

32-0310 花壇

33-0310 花壇

34-0310 花壇

35-0310 花壇


縄文時代の体験学習の場・「仲原遺跡」…うるま市与那城伊計

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 うるま市与那城伊計の「仲原遺跡(なかばるいせき)」を訪ねました。同遺跡は、伊計島のほぼ中央に位置する、縄文時代晩期の遺跡で、学術的価値が高い遺跡として、国の史跡に指定されています。訪ねたときは、遺跡の環境整備工事中で、屋根の骨組み作成や、チガヤで屋根を葺く作業をしているところでした。近くには、復元作業に用いる材料が置かれていました。各住居址の説明板を読み、しばらくの間、縄文人の生活に思いをはせました。

参照(うるま市の文化財・国指定文化財 http://www.city.uruma.lg.jp/1/279.html

01-0306 仲原遺跡

02-0306 仲原遺跡

03-0306 仲原遺跡

「仲原(なかばる)遺跡の復元整備…仲原遺跡の復元整備は、訪れる方が古代の息吹を感じる学習の場として、またオアシス的憩いの場となるようにとの目的で整備されました。遺跡の上には、遺跡の保護を考えて全体に約70cmの厚さの土をかぶせてあります。復元建物は地下の遺構の位置や形を再現し、すでに壊れてなくなった壁や屋根部分については、建築史や民俗事例などを参考に復元しました。また建物の周辺の樹木は、自生するアダン林を中心に本来島にある種類を選び、自然の森になるように植えられています。

仲原(なかばる)遺跡の概要…仲原遺跡は、島のほぼ中央の平地に営まれた縄文時代のムラの跡です。北側海岸に近年まで利用されていた自然湧き水(インナガー)があり、縄文時代から使われていたものと考えられます。遺跡一帯はもとキビ畑で、土地改良事業の事前の発掘調査で竪穴住居址が発見されました。これにより不明であった沖縄県の縄文時代晩期(約2500〜2000年前)のムラの広がりや住居の大きさ、造りなどが具体的に分かってきました。また遺物も土器の鉢、壷、石斧類、骨製の針、錐、他に当時の人が食べ残した獣・魚骨類、貝殻が出土しました。 遺跡は土地改良地内にありましたが、住民の協力により保護され、また学術上価値が極めて高いことから、昭和61年に国指定史跡になりました。所在地 与那城町字伊計1972番地 指定年月日 昭和61年(1986年)8月16日 指定面積 4758m2 整備期間 昭和62年〜平成8年度(10年間) どうぞゆっくりと散策し縄文時代の集落をご満喫ください。」

04-0306 環境整備工事中

05-0306 環境整備工事中

06-0306 仲原遺跡

07-0306 第1号復元住居

08-0306 第1号復元住居

09-0306 第1号復元住居

10-0306 第11号復元住居

11-0306第11号復元住居

12-0306 第2b号復元住居

13-0306 第2b号復元住居

14-0306 第3号復元住居

15-0306 第3号復元住居

16-0306 第15号復元住居

17-0306 第15号復元住居

18-0306 第18号復元住居

19-0306 第19号復元住居

20-0306 環境整備工事中

21-0306 環境整備工事中

22-0306 環境整備工事中

23-0306 仲原遺跡

24-0306 仲原遺跡

25-10306 仲原遺跡

26-0306 竪穴住居址と復元

27-0306 竪穴住居址と復元

「竪穴住居址(たてあなじゅうきょし)と復元(ふくげん)…竪穴住居址は、建てかえられたものを含めて23棟発見されました。平面形はほぼ方形、大きいものは5×6m、小さいものは2×3mありました。住居址の軸、入口の向き、大きさ、造り、建物の新旧などから、大型の建物と、その周辺に小型の建物が数棟グループになっていたものと推定されます。建物の復元にあたって、入口は民俗事例や建物の造りから人が出入りできる程度の高さにして、竪穴をとりまく石積みは低くなっています。また石積みのすき間には赤土が埋めこまれています。柱や屋根組材は、古くからこの地域の民家で使われているヤラブをもちいました。柱や竹、カヤをしばるには、アダンの根を材料にした縄を使用しました。さらに屋根材には伊計島に自生したチガヤが使われています。」

28-0306 出土遺物

29-0306 仲原遺跡平面図

30-0306 仲原ムラの植物

31-0306 仲原遺跡

「首里市跡」「歴史散歩の道『ヒジガービラまーい』」「赤田首里殿内」…地域の歴史・文化にふれる

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 私たちの周りには、地域の歴史・文化を伝える、数多くの遺跡・史跡があります。「首里市跡」は、琉球王国時代から明治期にかけて、首里地域最大の市場で、かつては「町端」と呼ばれ、その後、「池端」と改称された場所にあります。近くには、「山城まんじゅう」もあります。

 かつての「崎山馬場」に向かう一帯は、「崎山ギャラリー」と呼ばれ、芸術的な彫像が設置されています。

 赤田町には、弥勒神が町を練り歩く「ミルクウンケー」が伝えられており、わらべ歌「赤田首里殿内(アカタスンドゥンチ)」として、親しまれています。

01-0312 山川方面から池端へ

02-0312池端から首里城前方面へ

03-0312 池端から当蔵方面へ

04-0312 池端から山川方面へ

05-0312 池端

06-0312 首里市跡

07-0312 首里市跡

08-0312 首里市跡

09-0312 首里市跡

10-0312 首里市跡

「首里市跡(シュリマチアト)…琉球王国時代から明治期にかけての首里の市場跡。別に大市(ウフマチ)という。この一帯は首里地域最大の市場で、地名も市場の側のため「町端(まちばた)という。肉・魚・野菜など生鮮品や古着、壷などの日常品のほか、近郊地域からも品物が持ち込まれ販売された。 遅くまで賑わいを見せ、「町端の二度夕飯(ニドユウバン、売れ残りを料理すること)という言葉も伝わっている。明治期以降、玉陵(タマウドゥン)」付近に市場(真和志マチ)が移ったため、1920年(大正9)町端の地名を龍潭(りゅうたん、池)にちなみ「池端(いけはた)」と改称した。 設置 2007年2月 那覇市市民文化部歴史博物館」

11-0312 山城まんじゅう

12-0312 山城まんじゅう

13-0313

14-0313

15-0313

16-0313

17-0313 崎山馬場ギャラリー

「崎山馬場ギャラリー…崎山村(さきやまむら)、赤田村(あかたむら)、鳥小堀村(トゥンジュムイむら、現在の首里鳥堀町)は、首里三箇(しゅりさんか)と呼(よ)ばれ、王府時代(おうふじだい)から庶民(しょみん)のまちとして栄(さか)えました。特(とく)に廃藩置県(はいはんちけん、1879年)以降(いこう)は、泡盛(あわもり)づくりが盛(さか)んに行(おこ)なわれ、県下(けんか)にその名(な)を轟(とどろ)かせました。 ここから東(ひがし)へ90mほど行ったところから、直線(ちょくせん)に東(ひがし)へ延(の)びる約230mの道(みち)は、かつて「崎山馬場(さきやまばば)」(サチヤマウマウィー)と呼(よ)ばれ、王家御用(おうけごよう)の馬場(ばば)でした。ここでは、主(おも)に馬術訓練(ばじゅつくんれん)が行(おこ)なわれ、時(とき)には王様(おうさま)もお出(で)ましになったと伝(つた)えられています。 また、崎山村(さきやまむら)の人(ひと)たちは、馬場(ばば)を利用(りよう)して綱引(つなひ)きを行(おこ)なっていました。 馬場(ばば)であった道(みち)は再整備(さいせいび)がなされ、せせらぎや彫刻(ちょうこく)のある「崎山馬場(さきやまばば)ギャラリー」として、今(いま)でも崎山地区(さきやまちく)の中心的(ちゅうしんてき)な道空間(みちくうかん)となっています。 歴史散歩の道『ヒジガービラまーい』那覇市教育委員会 平成6年(1994年)3月設置」

18-0313 崎山馬場ギャラリー

19-0313 ヒジガービラまーい

20-0313ヒジガービラまーい

「歴史散歩の道『ヒジガービラまーい』…『ヒジガービラまーい』は、琉球王朝時代(りゅうきゅうおうちょうじだい)の古(ふる)い道筋(みちすじ)をたどりながら、地域(ちいき)の歴史(れきし)や文化遺産(ぶんかいさん)に接(せっ)し、楽(たの)しく散策(さんさく)できるように整備(せいび)された散歩道(さんぽみち)です。 この散歩道(さんぽみち)は、守礼門(しゅれいもん)からヒジ川橋(ガーばし)に至(いた)る、およそ1.8のKmの道筋(みちすじ)にある崎山馬場跡(さきやまばばあと)、雨乞い嶽(あまごいタキ)、御茶屋御殿跡(ウチャヤウドゥンあと、王家の別邸)、ヒジ川ビラ(石畳道、いしだたみみち)、などの史跡(しせき)をたどるように整備(せいび)されています。 道しるべをたどっていくと、地域(ちいき)の歴史(れきし)や文化(ぶんか)の跡(あと)が、身近(みぢか)なところに刻(きざ)み込(こ)まれている様子(ようす)を見(み)ることができます。 那覇市教育委員会 平成6年(1994年)3月設置」

21-0311 赤田クラブ

22-0311 赤田首里殿内

23-0311 赤田首里殿内

「首里殿内跡(シュンドゥンチアト)…首里王国時代の高級女神官の一人『首里大阿母志良礼(シュイウフアンシラリ)』の神殿及び住居跡。尚真(しょうしん)王代(1477〜1526年)、琉球王国の神女組織が整備され、最高女神官「聞得大君(きこえおおきみ)」の下に首里(シュイ)・真壁(マカン)・儀保(ジーブ)の3人の「大阿母志良礼(おおあむしられ)」が置かれた。3人の「大阿母志良礼」は、聞得大君を補佐して国王の長寿・国の繁栄・五穀豊穣・航海安全を祈願するほか、琉球国中の御嶽・神女を3分割して所管した。「首里大阿母志良礼」は、首里の南風の平等(フェーヌヒラ、現大中・桃原・当蔵・赤田・崎山・鳥堀町地域)を始め、斎場御嶽(セーファウタキ)や久高(くだか)島のある知念間切(ちねんまぎり)、尚円(しょぅえん)王統初代の尚円ゆかりの伊是名(いぜな)島など王国祭祀で重要な地域の神女(ノロ)を管轄した。 廃藩置県(1879年)の後。首里・真壁・儀保の3つの殿内の神殿は天界寺(ティンケージ)跡の一角に移され、1つの建物にまとめられて「三殿内(サンドゥンチ)」と呼ばれた。首里殿内跡は大正初期に払い下げられ、敷地の一部は赤田倶楽部(くらぶ、公民館)となり、1921年(大正10)に結成された首里三箇(さんか、赤田・崎山・鳥堀町)の中学生会「三星会(さんせいかい)」の集会所としても利用された。 赤田町には旧暦7月16日に弥勒(みろく)神が町を練り歩く「ミルクウンケー」という行事が古くから伝えられ、この行事を歌ったわらべ歌『赤田首里殿内(アカタスンドゥンチ)』は広く親しまれている。 設置2004年3月 那覇市市民文化部歴史資料室」

24-0311 赤田クラブ

「沖縄文教学校」「沖縄外国語学校」から「琉球大学」へ…「戦後高等教育発祥之地」うるま市田場

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 戦後沖縄の教育は、うるま市石川の「城前小学校」で始まり、同校には、「戦後教育発祥之地」の碑があります。うるま市田場には、「沖縄文教学校」「沖縄外国語学校」などが設立され、学校跡地に、「戦後高等教育発祥之地」の碑が建立されています。「沖縄文教学校」「沖縄外国語学校」は、「琉球大学」の開学により吸収されました。「田場小学校」は、「沖縄文教付属小学校」として創立し、その後、「田場初等学校」として独立しました。

01-0302 戦後教育発祥之地

参照(城前小学校_jp- http://shiromae-sho.edu.city.uruma.okinawa.jp/

「沖縄文教学校(おきなわぶんきょうがっこう)は、1946年1月に具志川村(現在のうるま市)田場に開設された沖縄戦後初の教員養成機関である。当初は「師範部」「外語部」「農林部」の3部で構成されたが、「外語部」は沖縄外国語学校に、「農林部」は現在の沖縄県立中部農林高等学校に分離独立した。 修業期間は1期生は2か月、2期生は4か月、3期生は6か月と次第に長期化していった。修了者には教員免許が付与され、1年間の教員勤務が義務付けられた。 1950年の琉球大学開学に伴い吸収された。」

引用(沖縄文教学校 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%96%87%E6%95%99%E5%AD%A6%E6%A0%A1

02-0306 戦後高等教育発祥之地

03-0306 戦後高等教育発祥之地

04-0306 戦後高等教育発祥之地

05-0306 戦後高等教育発祥之地

06-0306 戦後高等教育発祥之地

「戦後高等教育発祥之地…太平洋戦争直後の一九四六年一月より四年余、ここ田場原頭に、極度の窮乏のなかで、学びて倦むことを知らぬ、燃える青春群像があった。 琉球大学の前身としての役割を担った沖縄文教学校、沖縄外国語学校が、幾多の俊秀を世に送り出した、ここは、戦後高等教育発祥の地である。 一九九〇年三月三十日 設置者 具志川市 土地提供者 沖縄文教外語同窓会」

07-0306 田場小学校

08-0306 田場小学校

09-0306 田場小学校

10-0306 田場小学校

11-0306 田場小学校

参照(学校沿革 うるま市立田場小学校_php http://taba-sho.edu.city.uruma.okinawa.jp/index.php?oid=38&dtype=1000&pid=5

12-0309 首里城跡

13-0309 琉球大学跡

「琉球大学跡…琉球大学は 一九五〇年五月 第二次世界大戦で崩壊したここ首里城跡に開学した。 琉球王朝の中心であったこの地は 新しい時代の 学術文化の創造の場として蘇り 向学の志に燃える青少年の希望の地となった 以来 一九八二年に移転するまで この地において 総合大学として発展し 多くの人材を世に送り出してきた ここに琉球大学が誕生し 沖縄における大学教育が開始されたことを記し 碑を建立する 一九九四年一月 琉球大学 琉球大学同窓会」

参照(琉球大学沿革概要 http://www.u-ryukyu.ac.jp/univ_info/gakucho/school_history.html)

「ひんぷんガジュマル」「徳田球一」「宮城輿徳」…「ガジュマル緑地」名護市

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 「名護のひんぷんガジュマル(平成9年国指定天然記念物)」は、名護の移り変わりを見てきた『市民の木』として、親しまれています。名護市城2丁目の「ガジュマル緑地」には、「ひんぷんガジュマル」の説明板や「徳田球一記念碑」「宮城輿徳」生誕百年を記念する会の説明板、「2000年九州・沖縄サミット記念写真」などがありました。周辺には、「悪いことはしません」「ここは神様のいる場所ですよ」など、コメント付き・キジムナーのイラストがあちこちに隠れていました。

01-0301 名護市街案内図

02-0301 ひんぷんガジュマル

03-0301 ひんぷんガジュマル

04-0301 ひんぷんガジュマル

05-0301 ガジュマル緑地

06-0301 名護のひんぷんガジュマル

「名護のひんぷんガジュマル(通称:ひんぷんがじまる) 国指定天然記念物 平成9年9月2日指定…『ひんぷん』とは屋敷の正門と母屋との間に設けられた屏風状(びょうぶじょう)の塀のことで、外からの目隠しや悪霊を防ぐものといわれます。乾隆15年(1750年)具志頭親方蔡温(ぐしちゃんおやかたさいおん)は、当時の運河開通論(うんがかいつうろん)と王府の名護移遷論議(なごいせんろんぎ)を鎮圧するため、三府龍脈碑(さんぷりゅうみゃくひ)を建てました。この石碑がひんぷんのように見えることから『ヒンプンシー』と名付けられ、その隣に生育するガジュマルもいつしか『ひんぷんがじまる』と呼ばれるようになりました。 ガジュマル(Ficus microcarpa. L.f.)はクワ科の常緑高木で、屋久島以南の亜熱帯から熱帯にかけて分布し、沖縄では屋敷林、緑陰樹(りょくいんじゅ)として広く植栽されています。漢名は榕樹(ようじゅ)で、幹はよく分岐して枝葉は四方に繁茂(はんも)し、垂下する気根は地上に降りて幹となり広く美しい樹冠(じゅかん)をつくっていきます。 ひんぷんがじまるは、推定樹齢(すいていじゅれい)280〜300年、樹高(じゅこう)19m、胸の高さでの幹周囲は10m、樹冠(じゅかん)の広がりは長いところで直径30m、堂々とした市のシンボル、そして街のひんぷんの役割を担っています。ひんぷんがじまるの特異な景観は古くから衆目の的になり、写真におさまる周辺の様子で街の移り変わりを知ることもできます。名護の移り変わりを見てきたひんぷんがじまるは、まさに『市民の木』です。 ※文化財の現状を変更したり、保存に影響を及ぼす行為は、条例及び法律で禁じられています。平成12年(2000年)3月 名護市教育委員会」

07-0301 徳田球一記念碑

08-0301 徳田球一記念碑

09-0301 徳田球一記念碑

「徳田球一記念碑…徳田球一(1894.9.12〜1953.10.14)は、名護・沖縄が生んだ偉大な思想家・政治家です。戦前・戦後の苦難の時代を、高い志をもって社会運動に奔走しました。大衆を心から愛した情熱の人、日本を変革することに情熱を注いだ人物です。 徳田球一は、1894年この名護の十字路近くに生まれました。沖縄で中学校を卒業後、鹿児島の第七高等学校に進みましたが、すぐ沖縄にもどりました。23歳の時上京し、日本大学で学んで弁護士になり、社会運動に参加し、1922年の日本共産党結成に働きました。1928年、3.15事件で検挙され、終戦までの18年間獄中にありました。戦後、日本共産党書記長、衆議院議員となり、『徳球・とっきゅう』の愛称で国民的支持と人気を得ましたが、1950年マッカーサー指令により追放され、中国に亡命しました。その60年の生涯は、名護・沖縄・日本の近代史の一面を身をもって表現しています。 このような徳田球一の比類のない人物と業績を私たち郷里の者が評価し、永く讃えるため、この碑を建立しました。 1998年10月14日 徳田球一顕彰記念事業期成会」

10-0301 宮城輿徳

11-0301 宮城輿徳

「宮城輿徳(みやぎよとく 1903.2.10〜1943.8.2)…画家・宮城輿徳は1903年2月、名護間切(現名護市)東江に生まれた。16才のとき、父の呼び寄せで渡米。サンディエゴ官立美術学校などで絵を学ぶ。 移民社会の中で画家としての道を歩みながら、戦争と革命の激動する世界のなかで波乱の人生を送った。 アメリカで人種差別、移民労働者の悲惨な境遇を目の当たりにし、『働く者の食える社会』への道を社会運動に求めた。日中問題や東アジアの課題に強い関心を持っていた輿徳は日本に帰り、同志・尾崎秀実らとゾルゲ機関の活動に参加。 故郷沖縄の状況とアメリカ、東アジアのそれが相似の構図にみえ、沖縄の解放につながるとの思いから軍国主義一色の日本で、持病を抱えての情報・反戦活動を殉教者のごとく実践した。 絵の才能を期待され、愛する甥に『いつか君たちの時代がくる』と話していた宮城輿徳は逮捕され、1943年8月40才で獄死。 ここ名護の地に生まれ、心から名護を愛し、日本と世界の歴史に深く関わった人物・宮城輿徳を記憶するため、この碑を建立する。☆肖像は1927年、輿徳24才のときの写真より ☆月光像 1934〜41年頃の作品 2006年1月25日 宮城輿徳生誕百年を記念する会」

12-0301 2000年九州・沖縄サミット記念写真

13-0301 ガジュマル緑地

14-0301 ガジュマル緑地

15-0301 ガジュマル緑地

16-0301 ガジュマル緑地

17-0301 悪いことはしません

18-0301 ここは神様のいる場所ですよ

19-0301 ここは神様のいる場所ですよ

20-0301 あなだばし

21-0301 あなだ橋

22-0301 幸地川ハッピーロード

23-0301 幸地川

24-0301 幸地川

25-0301

26-0301

27-0301

28-0301

29-0301

30-0301

魅川も行く・オープンキャンパス2014…沖縄科学技術大学院大学

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 3月16日(日)恩納村谷茶の「沖縄科学技術大学院大学」で、「オープンキャンパス2014(科学×夢=ムゲンダイ!!〜キミの夢が未来をかえていく!〜)」が開催されました。開始時刻の10時前から、小中高の児童生徒や小さい子を連れた親子などで混んでいました。団体で見学に来た人もいました。

 「講堂」で資料入りの袋をもらい、「エントランス」から「トンネルギャラリー」に入り、エレベーターに向かっている途中、「テレビの収録」をしている場面にぶつかりました。テレビでよく見かける魅川憲一郎がいます。隣人と話しながら、収録に気付き、「あっ!魅川憲一郎がいる。」といい、手をふっている人もいました。

参照(魅川憲一郎オフィシャルブログ『運命なのよっ!』 http://ameblo.jp/tsubasa-pro-mikawa/

 「沖縄科学技術大学院大学」は、世界的な独自の研究をしている研究室が多く、セキュリティ対策で、大部分は「Staff Only」や「No Entry」ですが、第1研究棟、第2研究棟、センター棟のいくつかの研究室が一部を開放し、説明コーナーを設けていました。そこでは、小さい子やお年寄りにも分かるように、説明の工夫がなされていました。ふだんの「キャンパス見学」にはない、貴重な体験をすることができます。「ゼブラフィッシュ」の光る目に見入っている子、「透過型電子顕微鏡」の説明に聞き入っている子、「プログラミング」に夢中になっている子、「体験コーナー」で見入っている子などがいました。「このような体験が、将来の進路選択の一要因となるのかな」と思いました。

参照(Home  沖縄科学技術大学院大学 OISTHome  沖縄科学技術大学院大学 OIST http://www.oist.jp/ja

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「代掻き」「田植え」光景…金武町伊芸地区

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 3月14日、「金武町伊芸地区公民館」近くの水田を訪ねました。「コスモス畑」があった場所です。「コスモスまつり」の件で、「伊芸地区公民館」を訪ねた際、3月10日頃から田植えが始まると聞いていたのを思い出したのです。一面の田圃には水が張られ、田植えが終わっている水田が、半分ほどありましたが、田植え直前の「代掻き」をしている様子、田植機で「田植え」をしている様子、手植えで「田植え」をしている様子などを見ることができました。

 一通り作業を終えところで、「苗は購入するのですか」と尋ねると、「苗を買うのではなく、農家ごとに種籾を購入して、選別・種籾蒔きなどを行い、自分で育てる。この程度に育つのに、約一月かかる。この地域では、ほとんどが『ちゅらひかり』を栽培している」と話してくれました。

 田植機で一通り植え、機械が通らない箇所などに、手植えで補修をします。

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05-0314 代掻き

06-0314 代掻き

07-0314 代掻き

08-0314 代掻き

09-0314 苗を搬入

10-0314 育苗箱の苗

11-0314 田植機に育苗マットをセット

12-0314 田植機に育苗マットをセット

13-0314 田植機で田植え

14-0314 田植機で田植え

15-0314 田植機で田植え

16-0314 田植機で田植え

17-0314 田植機で田植え

18-0314 手植え

19-0314 手植え

20-0314 手植え

21-0314 手植え

22-0314 手植え

23-0314 手植え

24-0314 手植え

25-0314 田植え終了

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27-0314 田植え終了

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29-0314 補修

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「稲作…最近の一般的な方法

1.まず、育苗箱に稲の種・種籾(たねもみ)まき、育苗器で発芽させる。

2.次に、ビニールハウスに移して、ある程度まで大きく育てる。

3.トラクターにて、田の土を砕いて緑肥などを鋤き込む(田起こし)。

4.圃場に水を入れ、トラクターにてさらに細かく砕き田植えに備える(代掻き)。

5.育った苗を、田植機(手押し又は乗用)で、本田に移植する(田植え)。

6.定期的な雑草取り、農薬散布、肥料散布等を行う(専用の農業機械を使う)。

77.稲が実ったら稲刈りと脱穀を同時に行うコンバインで刈り取る。

8.通風型の乾燥機で乾燥する(水分量15%前後に仕上げるのが普通)。

9.籾すり機で籾すりを行う(玄米)。

10.精米機にかける(白米)。」

引用(稲作 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C

参照(お米づくりに挑戦(バケツ稲作り)|みんなのよい食プロジェクト http://www.yoi-shoku.jp/education

「天王寺跡」「蓮華院跡」「建善寺跡」…琉球王国時代の臨済宗の寺院跡

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 「天王寺井戸」は、天王寺の井戸ですが、当蔵村の「村ガー」として、人々の生活用水にも利用されていました。首里公民館近くにあります。

01-0227天王寺井戸

02-0308天王寺井戸

「天王寺井戸(テンノージガー)…首里三ケ寺のひとつである天王寺の井戸。 天王寺創建時、寺域に井戸がなかったため、この井戸を使い始めたのが始まりとされている。 大きなガジュマルの木が目印で、井戸は丸い筒型になっている。当蔵村の『村ガー』(共同井戸)として人々の生活用水にも利用され、旧暦9月9日『重陽の日』には、当蔵自治会によって健康や繁栄が祈願される。 天王寺敷地は、龍潭通りを渡った首里教会付近にあたり、首里教会入り口と隣接する民家の後方に天王寺の石垣が残されている。 NPO法人 首里まちづくり研究会」

03-0308 天王寺井戸

04-0308 天王寺井戸

 「天王寺」は、「円覚寺」「天界寺」とともに首里三カ寺と称され、尚家菩提寺の一つでした。天王寺跡は、「龍潭通り」の「首里公民館」の向かい側にあり、敷地の一部は、「日本キリスト教団首里教会」となっています。

05-0309 天王寺跡

06-0309 天王寺跡

07-0309 天王寺跡

08-0309 天王寺跡

「天王寺跡(テンノウジアト)…琉球王国時代の臨済宗(りんざいしゅう)の寺院跡。 第二尚氏王統の始祖尚円(しょうえん)が成化年間(1465〜1487)に創建したといわれ、尚円が王位につく前の邸宅で、第三第国王尚真(しょうしん)の生誕地とされる。後に国王は円覚寺、王妃は天王寺、未婚の王子・王妃は天界寺に祀られたことから、円覚寺(えんかくじ)・天界寺(てんかいじ)とともに三カ寺と称される尚家菩提寺(ぼだいじ)の一つとなり、国王の元服・即位の際には三カ寺を行幸するのが例となった。寺域は700坪近くあり、建善寺(けんぜんじ)・広徳寺(こうとくじ)・蓮華院(れんげいん)などの末寺があった。 1879年(明治12)の琉球処分後は尚家の私寺となったが、その後払い下げられ、仏像・神位(位牌)・梵鐘などは円覚寺へ移され、本殿である方丈殿(ほうじょうでん)は1903年(明治36)に開校した女子実業補修学校(後の島尻女史工業徒弟学校)の校舎として島尻郡小禄間切(しまじりぐんろくまぎり、現那覇市)に移築された。1933年(昭和8)寺域の西半分(341坪)を日本メソジスト首里教会が購入し、会堂を建立した。沖縄戦(1945年)の後は日本基督教団首里教会として現在に至っている。 現在首里教会入口と隣接する民家の後方に天王寺の石垣が残されている。 設置 2007年2月 那覇市市民文化部歴史博物館」

09-0308 首里汀良町の獅子舞

10-0308 首里汀良町の獅子舞

 

11-首里汀良町の獅子舞(131103 首里文化祭)

12-首里汀良町の獅子舞(131103 首里文化祭)

「首里汀良町の獅子舞 那覇市指定無形民俗文化財 昭和62年8月10日指定…もとは旧暦の八月十五夜にここアスイ森嶽(ムイダキ)の境内で、村の厄払いと百姓達の親睦の目的で催された。現在はその十五夜の前後に日を選んで町民全体の行事として行われる。糸芭蕉の繊維でつくられたぬいぐるみをまとい、頭と前足、尻尾と後足の計二人で演じられる。県内の他の獅子舞がユーモラスであるのに対し、首里汀良町のものは凄みのある勇猛な獅子舞である。 那覇市教育委員会」

 「新井戸」は、汀志良次村(現・首里汀良町)の村ガーで、戦前は「豆腐水」として重宝されていました。現在でも水量は豊富です。

13-0308 新井戸

14-0308 新井戸

「新井戸(ミーガー)…汀志良次村(現・首里汀良町)の村ガー(共同井戸)。「ティシラジミーガー」とも呼ばれ、箱形の形状をしている。言い伝えによると、防火用水を得るために王府の費用で掘られたもので、10人でも一度に水を汲み出せるよう、大きくつられたといわれる。見事な石積みや「新」とつくことから、比較的新しい井戸だと考えられる。井戸は深く、戦前は水の清らかさと水量の豊富さで「トーフミジ(豆腐水)」として重宝されており、現在でも水量は豊富である。井戸手前の石積みは、戦後安全のために積まれたものである。 NPO法人 首里まちづくり研究会」

15-0308 真嘉比川

 「蓮小堀」は、首里城の北東にあった人口の池で、戦後、琉球大学敷地造成のため、埋められました。「蓮華院」は、琉球王国時代の臨済宗の寺院で、天王寺の末寺です。1907年頃、現在の糸満市に移転しました。

16-0227 蓮小堀・蓮華院跡

17-0227 蓮小堀・蓮華院跡

「蓮小堀・蓮華院跡(リングムイ・レンゲインアト)…蓮小堀(リングムイ)は首里城の北東に位置する人口の池。尚巴志(しょぅはし)王代(1422〜1439年)首里城整備のため土を掘り出した跡が池になったとされ、蓮(はす)に覆われていたことから名付けられた。池の広さは約2,000坪あったといい、約800坪の半島が池中に突き出ていた。沖縄戦(1945年)の跡も蓮小堀は残っていたが、1958年(昭和33)琉球大学グランド造成のため円覚寺(えんかくじ)裏山が削られた際、その土砂で埋められた。その後一帯はバスターミナル、次いで図書館などの公的施設が建設された。 蓮華院(れんげいん)は琉球王国時代の臨済宗(りんざいしゅう)の寺院で、天王寺(てんのうじ)の末寺。万歴(ばんれき)年間(1589〜1619年)の創建とされる(創建時の所在地不明)。当初岩頂山万松院(がんちょうざんばんしょういん)と称したが、18世紀頃までには「蓮小堀」の半島に移設されたと思われ、後に妙法山(みょうほうざん)蓮華院と改められた。1907年(明治40)頃糸満村(現糸満市)に移転、敷地は個人の別荘となった。 設置 2007年2月 那覇市市民文化部歴史博物館」

 「建善寺」は、琉球王国時代の臨済宗の寺院でした。

18-0308 建善寺跡

19-0308 建善寺跡

「建善寺跡(ケンゼンジアト)…琉球王国時代の臨済宗(りんざいしゅう)の寺院跡。山号は霊芝山(れいしざん)。天王寺の末寺。景泰(けいたい)年間(1450〜1456年)第一尚氏尚泰久(しょうたいきゅう)王の創建とされる。1609年の薩摩(さつま)侵攻後は廃寺となったが、1619年金武王子尚久(きんおうじしょうきゅう)により再興され、一時金武家の菩提寺(ぼだいじ)となった。寺は当初首里崎山(しゅりさきやま)村にあったが、再興時に現在地に移転したとされる。 寺域は800坪余あり、寺後方の丘陵斜面を利用した見事な庭園があったという。昭和初期、個人に払い下げられた。現在寺の入口の石段と良質な水で知られた井戸が残る。 設置2007年2月 那覇市市民文化部歴史博物館」

20-0308 建善寺跡

21-0308 龍潭通り


「東シナ海」から「太平洋」まで見渡せる「石川高原展望台」…うるま市石川

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 うるま市石川は、「東シナ海」から「太平洋」まで約4kmの、沖縄本島で最も細い地域にあたります。県道6号線から「ビオスの丘」の案内に沿って曲がり、「ビオスの丘」(うるま市石川嘉手苅)を過ぎて、しばらく行くと、右手に、平成6年1月に竣工された「石川高原展望台」(うるま市石川山城福地原)があります。すぐ近くに、「沖縄ロイヤルゴルフクラブ」があります。駐車場から頂上まで約200段の階段は、一気に登るのは無理でした。二度ほど休みながら、頂上に着くと、広場に、「一等三角点」「展望台」などがありました。「御天福徳神」と書かれた小さな石碑もあります。「展望台」からは遠くまで眺望が開け、「東シナ海」方面の北部地域、「恩納岳」「石川市街」、「太平洋」方面の「宮城島・伊計島」、沖縄市の「倉敷ダム」などが見えました。眼下には、「沖縄ロイヤルゴルフクラブ」の青々とした芝生が広がっていました。

「一等三角点は、約40kmの間隔で、全国に約1000点設置されています。柱石の一辺は18cm、破壊や破損に備えて、柱石の直下には2枚の盤石も埋設されています。(三角点 – Wikipedia)」

参照(沖縄観光施設|沖縄観光スポット「ビオスの丘」沖縄旅行で子供と自然体験 http://www.bios-hill.co.jp/

01-0317 石川高原展望台

02-0317 一等三角点

03-0317 御天福徳神

04-0317 展望台

05-0317 恩納岳

06-0317 石川市街

07-0317 石川市街

08-0317 宮城島・伊計島

09-0317 倉敷ダム

10-0317 道ばたの花

11-0317 道ばたの花

12-0317 道ばたの花

 「石川高原展望台」から、うるま市兼箇段に向かいました。途中、沖縄市池原に、「カーヌイジュン」を見つけました。「兼箇段ジョーミーチャー墓」は、沖縄市とうるま市の境にある、「川崎川」に架かる「復興橋」を過ぎた左手にあります。

13-0317 カーヌイジュン

14-0317 カーヌイジュン

15-0317 カーヌイジュン

16-0317 兼箇段ジョーミーチャー墓へ

17-0317 兼箇段ジョーミーチャー墓

18-0317 兼箇段ジョーミーチャー墓

19-0317 兼箇段ジョーミーチャー墓

20-0317 兼箇段ジョーミーチャー墓

「兼箇段ジョーミーチャー墓 うるま市指定文化財第32号「史跡」 指定年月:2005年(平成17年)2月16日…この墓は、いつ頃に築造されたか明らかではありません。墓の構造は山の中腹から下にかけて削り落として横穴式にくり抜いたもので、架橋の下に大小3つの小さな前門があります。 墓には「兼箇段大主(カネカダンウフシュ)」、「テビージ」、「根人(ニーッチュ)」、「ヰ(イ)ガン」、「根神(ニイガン)」、「祝女(ノロ)」などのシマの要職にあった者や、「アジガユー」、「門ミーチャーカシラユー」、「ナカヌユー」といった時代に生きた人々の遺骨が崇められているとのことで、地元兼箇段ではこれらの霊を慰めるため、1963年旧5月に墓の蓋石を新調して、ここに祀る個人の名を刻記し後世に伝えると共に外観を整備して現状の維持につとめております。」

21-0317 兼段ジョーミーチャー墓

22-0317 兼段ジョーミーチャー墓

23-0317 兼箇段ジョーミーチャー墓

24-0317 復興橋

25-0317 川崎川

26-0317 川崎川

27-0317 川崎川

那覇新都心にある国指定史跡…伊是名殿内の墓・『銘刈墓地群』

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 那覇市銘苅2丁目「那覇市消防本部」向かいの丘に、「伊是名殿内の墓」があり、『銘刈墓地群』の一つとして、国指定史跡になっています。「那覇市銘苅」は、「天久」「おもろまち」「上之屋」などとともに、「那覇新都心」と呼ばれ、国・県・市の各種機関や大型商業施設などがあり、安謝川の流域、浦添市との境界で、近くには、「新都心公園」「銘苅小学校」「安岡中学校」などがあります。そのような場所に、国指定史跡、伊是名殿内の墓・『銘刈墓地群』がありました。3月20日は、那覇市内小学校の、「卒業式」の日です。

参照(那覇市立 銘苅小学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/mekar-es/

参照(2.5.沖縄県那覇市立銘苅小学校:文部科学省 http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/04121502/055/011.htm

参照(安岡中学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/yasuo-jh/

参照(銘苅墓跡群 文化遺産オンライン http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=163218

01-0319 史跡周辺の道路

02-0319 史跡周辺の道路

03-0319 伊是名殿内の墓

04-0319 伊是名殿内の墓

05-0319 伊是名殿内の墓

06-0319 伊是名殿内の墓

07-0319 伊是名殿内の墓

08-0319 伊是名殿内の墓

09-0319 伊是名殿内の墓

「伊是名殿内の墓 国指定史跡『銘刈墓地群』 指定年月日:平成19年7月26日 那覇市銘刈2丁目…伊是名殿内(いぜなどぅんち)の墓は、伊是名・伊平屋(いへや)両島の総地頭(そうじとう)家(上流士族)、伊是名家の墓です。銘刈墓地群の中にあって他の墓とは、その規模・造形などが大いに異なる亀甲墓(かめこうばか)です。 この墓は小高い山を三面に切り取り、その切り取った土で敷地を造成してつくられた、面積約660m2の県内最大級の亀甲墓です。その規模・造形技術は沖縄県内の墓の中でも傑出(けっしゅつ)したもので、道教(風水)の思想を基につくられています。 裏庭を囲む石垣には『相方(あいかた)積み』を用い、隅には突出した石『隅頭(すみがしら)』があり、上級士族の屋敷囲いの石積みを彷彿とさせます。入口には、本門と中門の2つの門があり、入口をクランク状につくることにより、ヤナカジ(悪い風)が直接墓本体に当たらない工夫が施されています。 中門を抜け墓庭に入ると、左手には葬儀に用いた用具等を処分するための、石を積んでつくられた穴があります。また、墓本体の正面右手には土地の神であるヒジャイ(后土神、こうどしん)を祀(まつ)る祠(ほこら)が見られます。 墓室内は天井をアーチ状に組み、奥の壁に向かって3段、両側の壁に1段の棚が設けられています。さらに墓室入口付近にあるシルヒラドゥクル(洗骨まで遺体を安置する場所)には、床面の石を外すと棺を置くための場所が現れる細工が施されています。 このように墓内外の施設の精巧なつくりは、沖縄県内において他では見ることのできないものです。 この墓は、その外観より18世紀代の様式のものであることがうかがえます。亀甲墓は17世紀に中国南部から伝わり士族階級に広がり、18世紀代に沖縄において独自の発達をして完成された墓で、この墓はその特徴をよく表している代表的な墓といえます。 設置 2009年3月 那覇市教育委員会」

10-0319 伊是名殿内の墓

11-0319 伊是名殿内の墓

12-0319 伊是名殿内の墓

13-0319 伊是名殿内の墓

14-0319 伊是名殿内の墓

15-0319 伊是名殿内の墓

16-0319 伊是名殿内の墓

17-0319 銘刈墓地群?

18-0319 銘苅小学校

19-0319 銘苅小学校

文様に込められた思い…首里城「京の内跡」出土品展

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 西原町上原の「沖縄県立埋蔵文化財センター」の「企画展示室」で、首里城「京の内跡」出土品展が開催され、国指定重要文化財が公開されています。同企画展は入場無料で、3月23日(日)までです。「沖縄県立埋蔵文化財センター」は、「琉球大学医学部附属病院」の向かいにあります。

 展示物を見ながら、「掘り出された断片を、専門的な知識を基に、ジグソーパズルのように組み合わせ、元の形を復元している様子」を想像しました。ものすごく根気の要る仕事だと思いました。

参照(沖縄県立埋蔵文化財センター/沖縄県教育委員会 http://www.pref.okinawa.jp/edu/maizo/madoguchi/soshiki/maizo/

参照(琉球大学医学部附属病院ホームページ http://www.hosp.u-ryukyu.ac.jp/

01-0320 縄県立埋蔵文化財センター

02-0320 企画展示室

03-0320 首里城『京の内跡』出土品展

04-0320 首里城「京の内」とは

「首里城『京の内』とは…首里城内は、政事(まつりごと)を司る正殿一帯と、国王のプライベート空間である御内原、そして聖域としての空間である京の内に大きく分けることができます。京の内は、首里城内の南西側を占める面積約5,000m2の区画を指します。 琉球王国の正史、『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』に記されている琉球の創世神話によると、天上に住む天帝が琉球の創世神アマミクに指示し、国頭は辺戸の安須森(あすもり)から最良の聖地を求めながら南下しつつ、今帰仁カナヒャブ、知念森(ちねんむい)、斎場嶽(せいふぁだけ)、藪薩(やぶさつ)の浦原、玉城アマヅツ、久高コバウ森を巡り、そして首里城の首里森(すいむい)グスク、真玉森(まだまむい)グスクの御嶽を創設するとともに、琉球の島々をつくらせます。この京の内は、アマミクが最後に降り立った場所とされ、琉球最高の聖域として認めた場所なのです。そのため、京の内の『京』は、霊力(セジ・シジ)と同義とされています。歴代の国王は、この最適の地に造った首里城を行政と祭祀の中心としました。 王府の神女・女官関係の文書がまとめられた『女官御双紙(にょかんおそうし)には、首里城内に10箇所の御嶽があるとされています。これらは城内の東西南北、南島、南西、北東、北西のほか、上下に配置されており、ありとあらゆる方向の守りとしたことが考えられています。これらの御嶽において、祭祀を司る多くの神女たちは、その霊力により国王が末永く優れた存在として、長寿が得られるように祈りました。この様子は、『おもろさうし』の中でうたわれています。 このような背景から、首里城の中でも特別な空間であった京の内跡から出土した遺物の数々は、城内で執り行われた祭祀に用いられた可能性を示しているのです。」

05-0320 青花 椀 瓶

07-0320 禄 福

09-0320 青花 瓶

10-0320 青花 椀 瓶

11-0320

12-0320

13-0320

16-0320

17-0320 襷雲火焔雷人文字…

18-0320 龍馬麒麟鳳凰蝙蝠魚…

20-0320

22-0320

24-0320 青花 壷 鉢

28-0320 文様に込められた思い

29-0320 松蓮椿牡丹梅芭蕉竹

30-0320 蓮 水草

33-0320

35-0320 菊

36-0320 青磁 水注

37-0320 牡丹

39-0320 青磁 鉢 唐草

40-0320 青花 花瓶

歴史を肌で感じ取る!…埋蔵文化財センター「体験学習室」

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 西原町上原の「沖縄県立埋蔵文化財センター」は、沖縄県内の遺跡を発掘し、出土品を整理・保管し、研究成果を展示しています。「体験学習室」では、土器(複製)を実際に手にとって学ぶことができます。復元にチャレンジする作業を通して、「接合、復元」の仕方について、理解を深めることができます。子どもから大人まで、楽しく歴史を学び、体験できる施設だと思いました。入場無料、朝9時〜夕方5時の開所で、休所日は「毎週月曜日、国民の祝日、年末年始、慰霊の日」となっています。

参照(沖縄県立埋蔵文化財センター/沖縄県教育委員会 http://www.pref.okinawa.jp/edu/maizo/madoguchi/soshiki/maizo/

02-0320 沖縄県立埋蔵文化財センター

04-0320

05-0320 青磁牡丹唐草文花瓶

06-0320 青花梅樹文双耳花瓶

07-0320 青花八方文大合子

08-0320

09-0320 青花八方文大合子 紅釉水注

10-0320 器の破片から全体の形を復元する

11-0320 接合にチャレンジ

12-0320

13-0320 ヒント?こんな形になるよ!

14-0320 ヒント?完成図はこれだ!

15-0320 ヒント?これが完成図だ!

16-0320 ヒント?これが完成図だよ

17-0320 ヒント?これが完成図だよ

18-0320 ここに戻してね

19-0320 接合にチャレンジ(完成写真)

20-0320 元の場所に戻してね

23-0320 表土層の除去 遺構確認

25-0320 遺構発掘 遺構実測

26-0320 水洗・注記 接合・復元

27-0320 実測・撮影 図板作成・報告書刊行

29-0320 最初と最後の形を比べてみよう

30-0320

33-0320 土器ができるまで

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42-0320

 

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アジア・太平洋地域の教育研究拠点大学をめざして…琉球大学

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 西原町千原の「琉球大学本部」壁面には、「アジア・太平洋地域の教育研究拠点大学をめざして」と書かれた懸垂幕があり、建物入口には、「知の津梁」シーサーが鎮座し、大学旗が掲げられています。「琉球大学本部」と「附属図書館」間の緑地には、「首里の杜」が造成され、首里キャンバスにあった「開学の鐘」や樹木等が移設され、関係者の「記念植樹」がなされています。

01-0320 琉球大学

02-0320 琉球大学本部

03-0320 琉球大学本部

04-0320 知の津梁(阿)

05-0320 知の津梁(吽)

06-0320 知の津梁

「このシーサーは、琉球大学名誉教授西村貞雄氏から原型の寄贈を受け、琉球大学オリジナルシーサーとして作成したものです。 沖縄のシーサーに関する検証・調査を踏まえ、さらに本学の歴史や地域性なども考慮して、独自のシーサーをデザイン・制作しました。 平成23年6月9日

07-0320 琉球大学構内案内図

参照(琉球大学公式ホームページ http://www.u-ryukyu.ac.jp/

08-0320 開学の鐘

09-0320 開学の鐘

10-0320 開学の鐘

「開学の鐘…この『開学の鐘』は、1950年5月22日本学が開学した当時、米軍使用済みのガスボンベを吊して時鐘として使用したものである。昭和62年3月竣工」

11-0320 首里の杜

12-0320 首里の杜

13-0320 首里の杜

「首里の杜…本学は 第二次世界大戦の戦火によって荒廃した沖縄の復興と発展に寄与し 新しい民主社会の形成者養成を目指して 一九五〇年五月二十二日米国軍政府によって設立され 以後一九六六年七月琉球政府に移管さらに 一九七二年五月沖縄の本土復帰に伴い国立大学となった この 首里の杜 は 本学が由緒ある首里城跡に開学し 三十年間を過ごした首里時代の思い出を残すため首里キャンバスにあった開学の鐘や樹木等を移設し 一九八五年五月の移転統合完了を記念して造成されたものである 平成元年 開学記念日 寄贈 琉球大学同窓会」

14-0320 SHURI CASTLE

15-0320 SHURI CASTLE

「SHURI CASTLE : SHURI CASTLE WHICH WAS TOTALLY DESTROYED DURING THE BATTLE OF OKINAWA WAS THE TRADITIONAL HOME OF KINGS BETWEEN 1166-1879 A D DURING OKINAWAS GOLDEN AGE 1477-1526 A D MAGNIFICENT BUILDINGS WERE CONSTRUCTED THE UNIVERSITY ADMINISTRATION BUILDING IS LOCATED ON THE SITE OF THE THRONE ROOM」

16-0320 SHURI CASTLE の碑

17-0320 SHURI CASTLE の碑

「SHURI CASTLE の碑…この碑は、琉球大学の創設を記念して、1950年に米軍当局により建立されたものである。 3段からなる琉球石灰岩の上の石には、次のような英文の内容の青銅製銘板が嵌め込まれている。『沖縄戦で跡形もなく破壊された首里城は、1166年から1879年の間、琉球国王の居城であった。琉球王国がその黄金時代を誇った1477年か1526年にかけて、壮麗な建造物が築造された。現在は琉球大学の本館が、その首里城正殿跡に建っている。』 この碑は、当初、琉球大学本館横にあったが、その後、旧首里キャンパス内を、転々と幾度か移設された。 この度、琉球大学50周年を機に、『首里の杜』に据えることになった。平成12年11月1日 琉球大学」

18-0320 複製護国寺の鐘

19-0320 複製護国寺の鐘

20-0320 複製護国寺の鐘

「複製護国寺の鐘…1854年7月12日、琉球國からマシュー.シー.ペリー提督へ護国寺の鐘が贈呈されたために生まれた友好のきずなを一層深める友好のシンボルとして、アメリカ合衆国国民から琉球大学及び琉球列島の住民へ複製した護国寺の鐘を贈呈する。 1960年7月20日 琉球列島高等弁務官 ドナルド P.ブース陸軍中将」

参照(ドナルド・P・ブース - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BBP%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%BC%E3%82%B9

21-0320 友好の木

「友好の木 共有の根深し 分かち合う未来に向け 樹高高かれ 琉球大学50周年記念植樹 贈 ミシガン州立大学 平成12年5月22日」

22-0320 友好の木

23-0320 記念植樹

24-0320 記念植樹

25-0320 記念植樹

26-0320 記念植樹

27-0320 記念植樹

28-0320 琉球大学開学45周年記念彫刻「なみ」

29-0320 中央食堂

30-0320 附属図書館

31-0320 共通教育棟

32-0320 教育学部

33-0320 法文学部

34-0320 駐車場

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