那覇市首里には、数多くの遺跡・史跡があります。琉球王国時代、政治制度の整備とともに、宗教的な面から国王を支えるために、神女(ノロ)の組織を整備しました。その中心となったのが「聞得大君」です。「聞得大君御殿跡」の案内板は、「首里中学校」の正門わきにありました。
01-0302 首里中学校
02-0302 首里中学校
参照(那覇市立首里中学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/syuri-jh/)
03-0302 聞得大君御殿跡
04-0302 聞得大君御殿跡
「聞得大君御殿跡(チフィジンウドゥンアト)…琉球王国時代の最高女神官「聞得大君加那志(チフィジンカナシ)」の神殿及び住居跡。尚真王代(1477〜1526年)、琉球王国の神女組織が整備され、最高位の聞得大君(きこえおおきみ)は国王を守護する『姉妹神』(おなり神)として、国王の長寿・国の繁栄・五穀豊穣・航海安全を祈願した。初代聞得大君は尚真(しょうしん)王の姉妹月清(げっせい)といわれ、以来王女・王母がその職につき、廃藩置県(1879年)に至るまで15代を数えた。聞得大君の就任の儀式を『御新下り(ウァーラウリ)』といい、首里城を出発して与那原(よなばる)・佐敷(さしき)を経由し、知念間切り(ちねんまぎり)にある聖地『斎場御嶽(セーファウタキ)』に到り、久高(くだか)島遙拝などの神事を行った。 王国時代に造られた『首里古地図(しゅりこちず)』(18世紀初頭)によれば聞得大君御殿の敷地は汀志良次(ティシラジ、現汀良町)・大中(ウフチュン)村(現大中町)に見られるが、最後はこの汀良の町に定められた。当時石垣に囲まれた建物の敷地面積は約2,000坪あったが、廃藩置県の後、御殿の神殿は中城御殿(ナカグスクウドゥン、現沖縄県立博物館敷地)に移され、敷地・建物は明治中期以降払い下げられ個人の畑地となった。1929年(昭和4)沖縄県立師範学校がその畑地を寄宿舎用地として購入し、沖縄戦(1945年)の後は首里中学校敷地の一部(グラウンド一帯)となった。」
05-0302 儀保殿内跡
06-0302 儀保殿内跡
07-0302 儀保殿内跡
08-0302 儀保殿内跡
「儀保殿内跡(ジーブドゥンチアト)…琉球王国時代の高級女神官の一人『儀保大阿母志良礼(ジーブウフアムシラリ)』の神殿及び住居跡。尚真(しょうしん)王(1477〜1526年)、琉球王国の神女組織が整備され、最高女神官『聞得大君(きこえおおきみ)』の下に首里(シュイ)・真壁(マカン)・儀保(ジーブ)の3人の『大阿母志良礼(おおあむしられ)』は首里(しゅり)の士女から選ばれ、聞得大君を補佐して国王の長寿・国の繁栄・五穀豊穣・航海安全を祈願するほか、琉球国中の御嶽・神女を3分割して所管した。『儀保大阿母志良礼』は首里の西之平等(ニシヌヒラ、現汀良・儀保・赤平・久場川町地域)を始め、浦添(うらそえ)・西原間切(にしはらまぎり)や慶良間(けらま)・粟国(あぐに)・渡名喜(となき)島など12間切3島の御嶽や神女(ノロ)を管轄した。 廃藩置県(1879年)の後、首里・真壁・儀保の3つの殿内の神殿は天界寺(ティンケージ)跡の一角に移され、1つの建物にまとめられて『三殿内(ミトゥンチ)』と呼ばれた。儀保殿内跡は大正初期には敷地・建物ともに払い下げられ民有地となった。」
「蔡温」は、琉球王国時代の著名な政治家です。中国留学後、尚敬王のもとで、三司官の一人として、農林業・治水などの殖産興業や行政制度の整備に貢献し、いくつかの著書を残しています。
09-0228 蔡温旧宅跡
10-0228 蔡温旧宅跡
11-0228 蔡温旧宅跡
12-0228 蔡温旧宅跡
「蔡温旧宅跡(サイオンキュウタクアト)…琉球王国時代の政治家蔡温の住居跡。 蔡温は1682年久米村(くめむら、現那覇市久米)生まれ。沖縄名を具志頭親方方文若(ぐしちゃんおやかたぶんじゃく)といい、蔡温は唐名(からな、中国名)、『?園(たんえん)』と号した。蔡温の祖は1392年琉球に渡ってきた久米三十六姓の一人である。 蔡温は1708年通事(つうじ)として中国へ渡り、そこで儒学(じゅがく)などを学ぶ。帰国後の1713年、13歳で即位した尚敬王(しょうけいおう)の『国師(こくし)』(学問師匠)となったことから、首里赤平(しゅりあかひら)村に屋敷を賜った。1728年三司官(さんしかん)に就任、1753年に辞任するまで25年間努めた。この間羽地大川(はねじおおかわ)の改修(1735年)、地方の山林視察など自ら治水・治山の実践を行い、『山林真秘(さんりんしんぴ)』などの実学書を残した。蔡温は他に儒教の教えをまとめた『御教条(ごきょうじょう)』や王国の政治経済についての提言書『独物語(ひとりものがたり)』など多くの書物を残し、近世琉球王国を代表する政治家と称される。1761年死去。享年80歳。 1729年に長男翼(よく)に尚敬王の王妃が嫁ぐことになり、改めて邸地(現在地)を賜った。敷地は600坪余あり、屋敷には門が2つあったという。沖縄戦時中、屋敷は日本軍の宿舎となり、石垣の石は飛行場建設のため供出された。戦後、道路拡張により敷地の一部は削られたが、蔡温が掘ったという井戸や当時の石垣がわずかに残されている。」
13-0228 宜湾朝保生家跡
14-0228 宜湾朝保生家跡
15-0228 宜湾朝保生家跡
「宜湾朝保生家跡(ギワンチョウホセイカアト)…琉球処分直前の三司官で、和歌人としても著名な宜湾朝保の生家跡。宜湾は、1823年首里に生まれた。生家の宜野湾家は、向氏(しょううじ)小禄御殿(うどぅん)の分家で、宜野湾間切の総地頭家であり、三司官を二人も出した名家である。 宜湾は、表(おもて)十五人の各職を歴任し、1862年三司官に任職。1868年明治政府が成立すると1871年には維新慶賀使(いしんけいがし)の副使となって上京。尚泰(しょうたい)を琉球藩主にするとの命を受け喜んで帰国した。1875年琉球処分が具体化しはじめると、宜湾ら維新慶賀使の責任として世の非難を浴び、同年三司官を辞職、翌年失意の内に54才の生涯を閉じた。 宜湾は、王朝時代を代表する和歌人で、後に宮中歌道御用掛となった薩摩藩士八田知紀(はったとものり)に師事し、和歌集『沖縄集』・『沖縄集二編』を編集した他、私家集に『松風集(しょうふうしゅう)』がある。 なお、宜湾の家名は、尚泰の次男尚寅(しょういん)が1860年に宜野湾間切を領して宜野湾王子と称したため、同名を避けて改名したものである。 設置 1998年3月 那覇市文化局歴史資料室」
16-0228 宜湾朝保生家跡周辺