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馬がころぶほどの急坂と石橋…当山の石畳道と当山橋

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 浦添市当山の「当山の石畳道」を訪ねました。「浦添大公園」のわきに、「当山の石畳道」の表示があります。「首里城から浦添間切り番所をとおって宜野湾間切り番所にいたる」いわゆる、普天間街道です。「憩いの広場ゾーン」から、「当山の石畳道」へ繋がっています。近くには、当山小学校があります。

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「浦添市指定文化財 史跡 当山の石畳道…琉球王国時代に王府は、首里城と各間切りの番所(地方の役所)を結ぶ宿道を、川には橋をかけ、坂は石畳道に整備しました。この道は、首里城から浦添間切り番所をとおって宜野湾間切り番所にいたるいわゆる普天間街道で、牧港川の谷間に幅四.五メートル 長さ約二〇〇メートルの石畳道が残っています。馬がころぶほどの急坂で「馬ドゥケーラシ」と呼ばれていました。この道を通って、国王は普天間宮に参詣し、また各間切の年貢が首里城へ運ばれました。宜野湾間切が新設された一七世紀後半頃に整備されたと考えられますが、橋は大正時代に改築されました。 昭和五九年三月一日指定 浦添市教育委員会」

参照(浦添の文化財
http://www.city.urasoe.lg.jp/archive/8761234/bunka/bunka/bunka3.html

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「史跡の現状変更の禁止…ここは国指定史跡・普天満参詣道(ふてんまさんけいみち)です。石畳道や当山橋に傷をつけたり、汚(よご)したりする行為(こうい)や、樹木の伐採、産業廃棄物等ごみの投棄(とうき)など、史跡の現状を変える行為は文化財保護法により固く禁止されています。無許可で設置された工作物などは撤去します。 浦添市教育委員会」

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尚巴志の父・思紹とその家族が葬られている!…佐敷ようどれ

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 南城市の通称「つきしろの街」にある、「佐敷ようどれ」を訪ねました。県道86号線を「親慶原」から「百名方面」に向かい、「垣花」の標識から左折し、「つきしろの街」方面に向かいます。

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垣花で左折し、「つきしろの街」へ

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 「佐敷ようどれ」は、「航空自衛隊知念分屯基地」内にあります。基地入口で参拝したい旨を伝え、手続き(住所・氏名等を記入)をすると、基地内に入り、参拝することができます。体育館向かいに、小高い丘があり、その背後にあり、誘導してきた隊員の監視の下で、参拝することになります。

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体育館(右)と「佐敷ようどれ」のある丘(左)

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「航空自衛隊知念分屯基地」入口

 「佐敷ようどれ」には、琉球王国第一尚氏、尚巴志の父である思紹(ししょう)とその家族が葬られていると伝えられており、「『ようどれ』とは夕凪(ゆうなぎ)を指す琉球語と伝えられていますが、極楽を意味するともいわれます。

参照(佐敷ようどれ[ 佐敷=さしき。「ようどれ」]  南城市公式Webサイト

http://www.city.nanjo.okinawa.jp/about-nanjo/movie_ja/2012/02/post-51.html

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「県指定史跡 佐敷ようどれ 昭和33年1月17日指定…この墓は『佐敷ようどれ』と呼ばれ、尚巴志の父である思紹(ししょう)とその家族が葬られていると伝えられています。尚巴志は1402年に父思紹のあとを継いで佐敷按司(あんじ)となり、やがて中山王となりました。その後1422年に北山を、1429年に南山を滅ぼして三山を統一した人です。佐敷ようどれははじめ、佐敷城(ぐすく)近くの崖下にありましたが、風雨による損壊がめだったので、1764年(乾隆二十九年)にこの地に移葬されたものです。この墓は琉球石灰岩を用いて建造され、半円形の屋根をもった駕籠(かご)型の独特の形をしています。間口(まぐち)3.3m、奥行(おくゆき)2.6m、軒高(のきだか)2.1mとなっています。なお、この地域において許可なく現状を変更することは、県条例で禁じられています。沖縄県教育委員会 佐敷町教育委員会」

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「南城市字つきしろ」が誕生

「南城市佐敷字佐敷、玉城字垣花、知念字志喜屋の3字にまたがる通称「つきしろの街」を、字として新設する案が市議会9月定例会で可決され、平成25年4月1日より「南城市字つきしろ」が誕生することになりました。これにより、字佐敷、字垣花、字志喜屋の一部が字つきしろに変更となります。 - See more at: http://www.city.nanjo.okinawa.jp/about-nanjo/news/2012/11/post-144.html#sthash.XqAYB7pj.dpuf

「第一尚氏王統三代の陵墓」を訪ねる!

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 読谷村旧伊良皆村落にある「第一尚氏王統三代の陵墓」を訪ねました。

 1429年、当時、「北山・中山・南山」の三山に分かれていた琉球を、「尚巴志」が統一し、第一尚氏王統による琉球王国最初の統一王朝が成立しました。しかし、尚泰久王の子尚徳王のとき、前王の重臣であった金丸が王位に就き、第二尚氏王統に替わりました。そのとき、尚徳ゆかりの「平田子」や「屋比久子」が、第一尚氏王統の陵墓「天山陵」から遺骨を運び出し、読谷村伊良皆の「佐敷森」の岩陰に、第一尚氏の三王の遺骨を埋葬したといわれています。埋葬した平田子、屋比久子の墓も、三王の墓の近くに建てられています。

「尚巴志王(しょう はしおう、1372年 - 1439年6月1日、在位1421年 - 1439年)は、尚思紹王の子で、琉球王国・第一尚氏王統、第2代目の国王。神号は勢治高真物(せじたかまもの)。父・思紹、母・美里子の娘の長男として生まれる。父の思紹は、「鮫川大主(さめかわうふぬし)」ともいわれ、伊平屋島から馬天港へ渡ってきた。21歳のとき、父の後を継いで南山の佐敷按司となる。1406年、中山王武寧を攻撃して察度王朝を滅亡させ、首里(現在の那覇市)を首都とした。また父・尚思紹を中山王に即位させた。1416年、北山国を討伐し、次男尚忠を北山監守として北部の抑えにした。1421年、尚思紹王の崩御により中山王に即位。1429年、南山王他魯毎を滅ぼして三山を統一、第一尚氏王統による琉球王国最初の統一王朝を成立させた。在位中は首里城を拡張整備し、王城にふさわしい城とした。あわせて安国山に花木を植え、中山門を創建し外苑を整備した。また那覇港の整備を進め、中国をはじめ日本、朝鮮、南方諸国等、海外諸国との交易を盛んに行い、琉球の繁栄の基礎をもたらした。」

引用(尚巴志王 - Wikipedia尚巴志王 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%9A%E5%B7%B4%E5%BF%97%E7%8E%8B

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「警告…4WD運転者、並びにバイク運転者へ この地域は、娯楽行為は許可されていません。今日限り辞めて下さい。第18航空団 日本防衛省 読谷村 地主会伊良皆支部」

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とてもきれいな澄んだ水が湧き出しています

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「取水する皆さんへ…取水ポンプのホースは(写真) 新しく作った給水タンクを使用して下さい。お願いします。」

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「お願い…この泉は 伊良皆地区の 霊験あらたかな 拝所であります。そのため 伊良皆区民は 年二度にわたり この泉周辺の美化 並び排水路の 清掃を 行っております。心ある皆さん! どうか下記の事を 厳守して下さい。 1 泉への石や物の投げ込みは やめましょう。 2 衛生車(バッキュームカー)等の ホースを 直接泉内で洗う等の行為はやめましょう。 伊良皆区長」

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従是北六十四間 尚巴志王之墓

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屋比久子之墓

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宮城島 東江門中参拝記念碑 昭和五十七年八月八日建立

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平田子之墓

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「第一尚氏王統 第二代尚巴志王 第三代尚忠王 第四代尚志達王 陵墓」

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王朝時代の聖域巡拝儀式を再現「百人御物参」…首里城公園

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 1月26日(日)曇りときどき霧雨。首里城公園に行きました。同公園で、新たに「黄金御殿・寄満・近習詰所、奥書院」が開館し、記念の「首里城公園 百人御物参(再現儀式)」が行われたのです。木曳門を通り「下の御庭」に着いたのは、午後2時45分頃でした。雨のため、午前中の催しは中止されたそうです。午後は、3時開始予定です。

0126-1445-01 木曳き門

0126-1519-01 首里森御嶽

 会場整理のスタッフの話では、「正殿」前広場の「御庭」から始まり、「下の御庭」に来るのは3時20分頃だそうです。配布された資料(首里城管理センター)には、以下(抜粋)のように記されています。

「新施設は、正殿裏手『御内原』の一部にあたり、城内の住居空間であるとともに、年中行事の際には、御殿や建物内の火の神をまつる祭祀が行われていました。」

「百人御物参とは、神女たちが首里城及び周辺の聖域をお参りする行事であり、類似の行事を含めると、年間に6回程度行われていました。御嶽では国王の長寿とその子孫の繁栄、航海安全、国土の安全、五穀の豊穣を祈願していました。御嶽や聖域巡拝する行事は、首里城だけでなく、琉球全土で行われていました。」

「百人御物参(再現儀式)の流れ…第1場:諸官入場〜正殿への拝礼(御庭)  第2場:神女入場〜御嶽巡拝へ出発(御庭)  第3場:首里森御嶽拝礼(下の御庭)  第4場:京の内巡拝(京の内)  第5場:首里森御嶽拝礼(下の御庭)  一連の祈願を終えた一行は木曳門から退場します。」

「クェーナ、おたかべ(儀式のBGM)…神女たちは、クェーナと呼ばれる祭祀歌謡を謡いながら移動します。百人御物参のときにどのようなクェーナが謡われたのかは、残念ながらわかっていません。今回は「道ぐわいにや」というクェーナを使用しています。首里森御嶽に到着した神女たちは、拝礼に続いて「おたかべ」と呼ばれる祈りの言葉を捧げました。おたかべは、国王の長寿とその子孫の繁栄、航海安全、国土の安全、五穀の豊穣を祈願する内容を独特の言葉で唱えます。」(首里城公園管理センター)

 神女たちが「下の御庭」に現れたのは15:35頃でした。「首里森御嶽」に、米と酒を入れた「御籠飯」と「御玉敷」を供え、おたかべを唱えながら、拝礼しました。「首里森御嶽拝礼」後、「京の内」に向かいます。ここからは、男子禁制です。同行してきた諸官は、「下の御庭」で待機します。

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0126-1536-0312 米と酒を供える

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 神女の一行は、「京の内」にある4ヵ所の御嶽を拝みます。御嶽には、ガジュマルやクロツグが植えられていました。

0126-1538-0000 京の内に入る

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0126-1544-01 拝所

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0126-1549-02 拝所

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 京の内」から戻った神女たちを諸官が出迎え、再度「首里森御嶽」を拝み、その後、「木曳門」から退場しました。

0126-1558-0025 首里森御嶽拝礼

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0126-1604-03 木曳門へ

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 公園スタッフに規制されながら、神女の後を大勢の観光客が、ぞろぞろついて廻ることになりました。再現行事とはいえ、本来の姿からすると、なんとも妙な感じです。デジカメを手にした客が多く見られました。行事終了後、「木曳門」の外で、観光客に頼まれ、神女(役)たちが記念撮影に応じていました。それを見ながら、「カミンチュがピースすると、何とも妙な感じだ」とつぶやいている人がいました。

もうすぐ終了、「インカ帝国展」…沖縄県立博物館・美術館

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 マチュピチュ「発見」100年「インカ帝国展」に行きました。(2月2日(土)まで、「沖縄県立博物館・美術館」で開催)。」

参照(マチュピチュ「発見」100年 インカ帝国展 http://www.rbc.co.jp/event/inkaten/index.html

 展示は、「第1部インカ帝国の始まりとその性質」「第2部インカ帝国の統治」「第3部滅びるインカ、よみがえるインカ」「第4部マチュピチュへの旅」「マチュピチュを3Dで完全再現!」となっており、約160点が展示されています。

「3つの視点からとらえるインカ帝国…インカ帝国を多角的な視点で謎解くインカ帝国とはどのような文明だったのか…。その全貌を紹介する大規模な展覧会は、日本では開催されたことがありませんでした。15世紀前半〜16世紀前半に繁栄した南米最大にしてアンデス文明最後の国家インカ帝国。車輪も文字も鉄器も持つことのなかった彼らが、なぜ多数の巨大建築物を擁する大文明を短期間に築くことができたのか。なぜそれほどの高度な文明が、一握りのスペイン人の侵略の前にあっけなく敗北したのか。「太陽の王」とはどのような存在だったのか。考古学・人類学・歴史学など各分野の最新研究からインカ帝国の全貌に迫ります。総点数160点に及ぶ、インカの考古遺物は、その多くが日本初公開です。」

引用(展示構成「歴史的観点からみたインカ帝国展」「プロローグ」|TBS インカ帝国展 マチュピチュ「発見」100年 ttp://www.tbs.co.jp/inkaten/construction/index-j.html

 「インカ帝国展」は、東京 2012年3月10日(土)〜6月24日(日)国立科学博物館に始まり、仙台、山梨、静岡、富山、京都、福岡、鹿児島、「沖縄沖縄県立博物館・美術館(2014年11月9日(土)〜2014年2月2日(日)」と巡回してきました。

 

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「展示参観メモ」…展示会場内は写真撮影禁止なので、参観時、メモをとりました。……16世紀前半南北4千キロに広がる大帝国を築いたインカ帝国…文字も鉄も車輪すらもっていなかった…最新のバーチャルリアリティの技術を用いて、マチュピチュ遺跡の姿を3D映像シアターで再現…古代ペルー人が厳しい気候や地理学的障壁を乗り越えつつ周辺の人々と調和のとれた共存関係を築いた…車輪も、通貨を介した取引のシステムも、文字ももっていませんでした。…独特な世界観、社会習慣、美意識、論理組織体系を持つインカの世界…先住民の記録者、フェリペ・グァマン・ポマ・デ・アヤラ…軍用貫頭衣(チュニック)上部が赤でその下が白黒の市松紋様…

 

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0128-1511-02 マチュピチュ模型

 

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「仲間樋川」と「仲間ンティラ」!…浦添市仲間の拝所群

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 浦添市仲間の「仲間樋川」と「仲間ンティラ」を尋ねました。当日は、樋川上の桜がきれいでした。「仲間樋川」は「仲間の拝所群」の一つで、仲間集落の「村ガー」として大切にされてきました。地域の人々と水との関わりを知る上で大切な文化財です。

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参照(浦添の文化財 http://www.city.urasoe.lg.jp/archive/8761234/bunka/bunka/bunka3.html

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「仲間樋川は市内で最も大きな井泉(せいせん)の一つで、仲間集落の村ガー(共同井戸)として大切にされてきました。「樋川(フィージャー)」とは湧き出る水を樋で導き、水を容易に汲み取れるようにした井泉のことです。仲間樋川の樋は大きな琉球石灰岩を削ってつくった大変立派なものです。1731年に首里王府が編纂(へんさん)した『琉球国旧記』には『中間泉(中間邑にあり樋川と俗にいう)』の記述があり、その頃にはすでに樋が掛けられていたことがわかります。昭和10年にはコンクリートを用いた近代的な改修が行われ、現在の姿になりました。昼夜湧き出る水は、貯水・飲み水用の「水タンク」に溜(た)められ、次に洗濯などをする「平場」を経(へ)て、最後は農具や農作物の水洗い、馬の水浴びなどをする「ウマアミシ(溜め池)」に溜まるように造られました。そして。溢(あふ)れ出た水は苗代田(ナーシルダー)へ注ぐようになっていました。大切な水を飲用水、洗濯用水、雑用水、灌漑(かんがい)用水の順に利用する工夫がみられます。仲間樋川は沖縄戦で大きな被害を受けず、戦後は豊富な水量で中間の収容所に集められた数千人の生活水をまかないました。その後、上水道が普及する昭和40年代まで水を利用するたくさんの人々で賑わいました。井泉の清浄な水は人の体を育て、健康を保つ特別な霊力(れいりょくセチ)を持つと信じられ、人々の信仰対象にもなりました。その証として仲間樋川の樋の傍(かたわ)らには香炉(こうろ)が置(お)かれ、地域の大切な拝所(はいしょ)となっています。現在も旧暦五月・六月のウマチーや十二月の御願解き(ウガンブトゥキ)などの年中行事の際に、自治会で村拝みがおこなわれています。また、各家庭に水道が普及する以前は、子どもが生まれたときには産水(うぶみじ)をもらい、正月には若水(わかみず)を汲(く)んで家の火の神や仏壇(ぶつだん)に供えました。仲間樋川は人々と水との関わりを知る上で大切な文化財です。」

04-0120-1321 仲間樋川の整備について

「仲間樋川(フィージャー)の整備について…仲間樋川の整備に先立ち発掘調査を実施しましたが、残存する遺構は10年改修時のもでした。この調査結果をふまえ浦添市教育委員会および浦添市文化財調査審議会で検討した結果、今回の整備は10年改修時の姿としました。ただし、水タンクの整備については、?過去の樋川が樋と溜め池で構成されていたこと、?水タンクが本来の景観を損ねていること、?地域の方々が過去のように水とのふれ合いをもとめていることなどから、水タンクの上部を切り取った形のため池にしました。平成21年12月吉日 浦添市教育委員会」

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07-0120-1323 樋

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10-0120-1324 ウマアミシ

11-0120-1328 史跡 仲間ンティラ

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「浦添市指定文化財 史跡 仲間ンティラ(仲間の拝所群)…ティラまたはテラと呼ばれる拝所は、奄美・沖縄地方に分布し、その多くは洞穴(どうけつ)になっています。仏をまつる寺ではなくムラの神が鎮座しているところと考えられています。仲間ンティラも、横穴の洞穴になっています。『琉球国由来記』(一七一三年)に記されている長堂之嶽(ながどうのたき)が仲間ンティラにあたると考えられます。旧暦正月の初拝(はちうが)み、五月・六月の稲二祭(ウマチー)、十二月の御願解き(うがんぶとぅち)などの年中行事には、他の拝所とともに村拝みを行っています。戦前は、台座に蓮(はす)の葉が刻まれた石灯籠(いしとうろう)が建ち、拝みを行う祠は赤瓦葺きで、壁は石積みだったようですが、去る大戦で失われました。現在は洞穴一帯を埋め立て、再建した祠の中から洞穴に入る形に変わっています。平成十四年三月一日指定 浦添市教育委員会」

13-0120-1329 仲間ンティラ

14-0120-1329 仲間ンティラ裏側

15-0120-1328 仲間自治会館

「聖水」と「洗濯水」を使い分ける!…「西原東ガー」「洗濯ガー」

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 浦添市西原の「西原東ガー」と「洗濯ガー」を訪ねました。「西原トンネル」の上に、「うがんやま公園」があり、その入口近くに、「西原東ガー」「西原洗濯ガー」があります。「西原トンネル」は、バイパスを作る際、「うがんやま公園」内の史跡等を保護するために、道を切り開かず、トンネルにしたものと思われます。以下の道順だと、スムーズにたどり着くことができます。帰る際も、バイパスまでは、元の道をたどった方が無難です。(目印は、長府製作所・沖縄営業所と沖電システムです)。……那覇方面から「浦添バイパス」を北上〜「西原トンネル」通過〜「長府製作所・沖縄営業所」から左折〜「長府製作所ソウコ」に沿って左折〜直進(上る)〜左手に「沖電システム」を見ながら、直進〜「西原洗濯ガー(浦添市西原三丁目18)」・「西原東ガー」〜「うがん山公園」

 市指定史跡等は、教育委員会が設置した説明文を読むと、その由来や特徴が分かります。古い時代の沖縄の「カー」や「樋川」では、水溜の後ろに、広いスペースを持ち、飲料水、生活用水を段差で区別して、洗い物や水浴びなども、そこで済ますことができるようにしている場合があります。

 「西原東ガー」の場合は、スペースが狭いので、「聖水」として用いる「西原東ガー」と、「洗濯」などに用いる「洗濯ガー」を使い分けるように工夫したものと、思います。

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「浦添市指定文化財 史跡 西原東ガー…カー(井泉)は水道がまだ整備されていない頃から今日まで、人々の生活に欠かせない水を供給していました。カーの水は人の体を育て、健康を保つセヂ(霊の力)がこもっていると信じられていました。西原東ガーは西原部落の東(アガリ)に位置するカーであることからアガリガーと呼ばれています。水は石灰岩と粘板岩(クチャ)の境目から湧き出ています。アガリガーは六百年位前から現存するといわれ、現在の石積みに改善されたのは三百年位前と伝えられています。アガリガーは出産のときに使われる産水(ウブミジ)をくんだ「産井泉(ウブガー)」としても使われていました。また、人々から拝(おが)まれ、元旦の朝には若水(ワカミジ)をくんで仏壇に供え、家族の健康と安全を祈り旧暦の六月十五日のウマチーには水神への感謝とむら人の健康祈願をしています。カーの前の「ヒンプン」は行水の際の「ヒタテ」(かこい)に使われていました。その後、婦女子が水を運ぶ時に、頭に水おけを乗せやすくするための台としても使われたようです。昭和五十六年三月二日指定 浦添市教育委員会」

参照(西原東ガー http://www.city.urasoe.lg.jp/archive/8761234/enhozen/urasoe-envmap/zeniki/bunkazai/syousai/nishiharaagarigaa.htm

03-0130-1243 西原東ガー

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05-0130-1245 自治会作成の「注意」

06-0130-1245 右側

07-0130-1245 左側

08-0130-1246 正面 

09-0130-1246 水面

10-0130-1246 カーの左端

11-0130-1247 ヒンプン

12-0130-1248 うがんやまへの階段

13-0130-1240 階段左側

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「浦添市指定文化財 史跡 西原洗濯(にしはらせんたく)ガー…西原洗濯ガーは、隣接する村ガー『東(あがり)ガー』を補うカー(井泉せいせん)として昭和二年九月に新築された。東ガーは産水(うぶみず)、正月の若水(わかみず)といった聖水として利用されたのに対し、洗濯ガーはその名の通り衣類の洗濯、農具類や野菜の洗い、水浴びなどに利用された。築造(ちくぞう)は、クチャ(泥岩でいがん)に溜め池を掘り、上部に方形(ほうけい)の石灰岩(せっかいがん)を布積(ぬのづ)みにして表面をセメント張(ば)りにしている。また、カーの築造や背景を示す「昭和二年九月新築」や土地・道路の寄付者の刻銘(こくめい)も良好に残している。洗濯ガーは本市の近世(きんせい)から近代にかけた井泉の変遷(へんせん)を理解する上で重要な文化財であり、築造に関する刻銘及び近世の隣接するカーとの使い分けなど、稀(まれ)に見る井泉である。 平成十八年十二月十九日指定 浦添市教育委員会」

15-0130-1248 説明板の裏から上る

16-0130-1249 左は民家

17-0130-1249 洗濯ガー

18-0130-1249 正面

19-0130-1250 カーの石垣に抱きついた木の根

20-0130-1250 カーの石垣に抱きついた木の根

「経塚の碑」「安波茶橋」…うらおそい歴史の道

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 琉球王府時代、王府からの令達を伝え、貢租のために使う宿道を整備し(道に石畳を敷き、川に石橋を架け)ました。「中頭方西街道」は、首里城から浦添を経て読谷に至るルートです。今回は、中頭方西街道の「経塚の碑」「安波茶橋」を訪ねました。

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0120-1337-02 中頭方西街道

「中頭方西街道〜なかがみほうせいかいどう〜…琉球王府時代(一四二九〜一八七九)、首里王府からの諸令達(しょれいたつ)や貢祖(こうそ)のために使われた宿道(しゅくみち)の一つで、「公事道(くうじみち)」とも呼ばれています。中頭方西街道は、首里城を起点に平良、大名を通り、浦添の沢岻(たくし)、経塚、安波茶(あはちゃ)、仲間、牧港を経て読谷に至るルートを指し、北の恩納、国頭方面を繋ぐ主要道路でした。一九五七年建立の『浦添城の前の碑」』には、尚寧王の命により首里平良から浦添城までの道を拡張し、平良橋を木橋から石橋に架け替え、道に石畳を敷く国家的大土木工事を実施したと記されています。中頭方西街道は、琉球王国の政治・経済の発展に伴い整備されてきた道であり、琉球の歴史・文化・交通を考える上で重要な文化財です。 浦添市教育委員会」

0129-1726-01 中頭方西街道

0129-1727-02 今も地中に眠る石畳道

「今も地中に眠る石畳道…この場所の地下約1.5mには発掘された石畳道が保存されています。道は、幅3.1mほどのややきつい坂道で、外側には雨水を逃がす側溝が取り付けられています。また、道沿いの屋敷からすりつけられた小さな石畳の出入り口も見つかっています。」

0129-1723-01 浦添工業高等学校

 

0129-1727-04

0120-1341-01 うらおそい歴史の道

「琉球の宿道(昔道)…王府時代に始まった宿次により、首里を中心に道路が整備されました。宿次のルートは次のようなものでした。沖縄本島を大きく国頭方(北部地域)、中頭方(中部地域)、島尻方(南部地域)に分け、それぞれ東海岸沿いにのびる宿道を東宿、西海岸沿いにのびる道を西宿といいました。島尻方(本島南部地域)は東回りを南風原之宿、西回りを真和志之宿といいました。」

引用(浦添の歴史を探る|琉球の宿道(ンカシミチ) http://history.urasoeshikankou

「経塚の碑」

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0120-1344-02 経塚の碑

「浦添市指定文化財 史跡 経塚の碑…昔、このあたりは松が生い茂る人里離れたさみしい場所で、ここに巣(す)くう妖怪が道ゆく人々をたぶらかしていました。一六世紀のはじめ、高野山で修行した日秀上人(にっしゅうしょうにん)が、お経(金剛経こんごうきょう)を書いた小石を埋め、その上に『金剛嶺こんごうれい』と刻んだ石碑を立て、妖怪を鎮めたと伝えられています。その後、地震の時に「チョウチカチカ」、あるいは「チョウチカ、チョウチカ」と唱(とな)えるとおさまると信じられるようになりました。お経を埋めた塚を経塚(きょうづか)といい、この地域の名前の由来となっています。妖怪の碑は旧暦一〇月一日のウマチーヌウガンで拝まれるなど、地域の人々から大切にされています。 昭和五六年三月二日指定 浦添市教育委員会」

0120-1343-01 金剛嶺

「安波茶橋」

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0129-1730-01安波茶橋と石畳道

0129-1733-01安波茶橋と石畳道

0129-1733-02安波茶橋と石畳道

0129-1731-02安波茶橋と石畳道

0130-1455-01 安波茶橋

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「安波茶橋と石畳道…安波茶(あはちゃ)橋と石畳道は、一五九七年に尚寧王の命で浦添グスクから首里平良までの道を整備したときに造られたと考えられています。首里城と中頭・国頭方面を結ぶ宿道(しゅくみち、幹線道路)として」人々の往来でにぎわい、国王もこの道を通って普天間宮に参詣しました。橋は石造のアーチ橋で、小湾川に架けられた南橋と支流のアブチ川に架けられた北橋からなります。深い谷の滝壷の側に巨岩を積み上げる大変な難工事だったと思われます。南橋は沖縄戦壊され、で破北橋も崩壊していましたが平成十年に北橋を修復しました。橋の下流には、赤い皿(椀)で水を汲んで国王に差し上げたと伝えられる赤皿ガーがあります。浦添市教育委員会」

0130-1452-01 安波茶橋と石畳道

0130-1454-01 赤皿ガー

0130-1456-03 てだこウォーク

 浦添市では、2月1日、2月2日の両日、「てだこウォーク」が催されます。コースには、表示板が設置されていました。

参照(てtedakowalk2014.ti-da.net/)だこウォーク2014) http://

0130-1450-02


おいしい!…リーゾナブルなランチバイキング

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 西原町小那覇にある「ビストロ・ボンヌ・シャンス」のランチバイキングに行きました。その日のメニューは、「・鶏肉の酒蒸し・白身魚の唐揚げ(チリソースあん)・豆野菜炒め・スクランブルエッグ・気まぐれパスタ・ライス・スープ・サラダ・カレー・ドリンク・デザート」でした。

 料金(800円)を支払い、写真撮影許可の確認後、料理を撮影しました。ウィークデーで、開店直後に行ったためか、客もそれほど多くなく、ゆっくり、食事を楽しむことができました。品数はそれほど多くありませんが、材質がよく、ほど良い味付けがなされており、料金に比べ、リーゾナブルだと思います。ここでは、「おいしい」と言いながら、食べ過ぎることが多いのです。その日、皿に取り分けた料理は、いつもより少なめですが、サラダ、デザート、コーヒーとともにいただくと、おなか一杯です。やはり、食べ過ぎです。

0130-1213-02 レストランへ

0130-1212-02 レストランへ

0130-1212-01 レストラン入口

参照(ビストロ・ボンヌ・シャンス http://www.alteck.co.jp/prima/bistro_bonne_chanse.htm

本日のメニュー

0130-1211-01 本日のメニュー

0130-1135-01 デザート

0130-1135-03 デザート

0130-1135-02 サラダ

0130-1135-04 フルーツ

0130-1136-01 サラダ

0130-1136-02 ドレッシング

0130-1136-03

0130-1136-04 かき揚げ

0130-1136-05 ポテト

0130-1136-06 ヒジキ

0130-1136-08 気まぐれパスタ

0130-1136-09 白身魚の唐揚げ

0130-1136-10 豆野菜炒め

0130-1137-01 スクランブルエッグ

0130-1137-02 鶏肉の酒蒸し

0130-1137-03 ケーキ

0130-1137-04 ケーキ

0130-1137-05 ケーキ

0130-1137-06 ケーキ

0130-1138-01 ライス

0130-1139-01 カレー・スープ

本日の食事

0130-1145-01 本日の食事

0130-1145-02 デザート

0130-1145-03 デザート

0130-1147-01 サラダ

0130-1203-01 ケーキ・コーヒー

館外の景色

0130-1208-01 館外の景色

0130-1208-02 館外の景色

0130-1208-03 館外の景色

0130-1209-01 館外の景色

0130-1209-02 館外の景色

色とりどりの花・はな・ハナ・華!…首里城公園「琉球の華みぐい」

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 「首里城公園」で、首里城公園「琉球の華みぐい」が開催されました。2月1日(土)〜2月11日(火)の間、国営沖縄記念公園首里城地区(系図座・用物座)、県営首里城公園(首里杜館芝生広場など)で、「?『舞への誘い』特別公演、?国営沖縄記念公園スタンプラリー、?琉球楽器(三線)体験会、?草花及び観葉植物等による園内装飾、?ステージイベント(首里杜館特設ステージで、沖縄県立芸術大学、首里高校吹奏楽部を中心とした演奏会)」が行われます。

参照(首里城公園 Official Site  イベント案内-- 首里城公園「琉球の華みぐい」 http://oki-park.jp/shurijo-park/event/event140127.html

 首里杜館芝生広場は、色とりどりの草花や観葉植物等で飾られていました。「サルビア、ベゴニア、インパチェンス、マリーゴールド、ペチュニア、パンジー、ブーゲンビレア(ブーゲンビリア)、ハイビスカス」などが見られます。

 1月26日に訪ねた際、広場や通路に、たくさんの花と石が並べられていました。作業をしている人に、「何をしているのですか」と尋ねると、「2月1日から花まつりが始まるので、その準備です。」と答え、袋から出した石を運びながら、「石が重くて、運ぶのが大変ですよ」と言っていたのを思い出しました。

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 撮影ポイントで、「イー・アール・サン」と声をかけて、記念撮影をしているグループがいました。親子や若い男女もいます。広場隅の木陰に腰掛けて、花の装飾を眺めている人もいました。

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0201-1053-01 琉球の華みぐい

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0201-1057-06 パンジー

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0201-1101-01 琉球の華みぐい

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0201-1102-03 ハイビスカス

0201-1103-01 ブーゲンビレア

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伝統を継承、絆を深めた3年間!…首里高校・染色デザイン科

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 沖縄県立首里高等学校・染色デザイン科「そめおり展」に行きました。那覇市のパレット久茂地6階「那覇市民ギャラリー」で、1月26日から開催されている展示会の最終日でした。「染色デザイン科」の生徒たちが、3年間学んできたことの集大成の場です。

参照(沖縄県立首里高等学校公式サイト>学校総合案内>染織デザイン科紹介 http://www.shuri-h.open.ed.jp/

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 生徒一人ひとりが、「着尺」「帯/タペストリー」それぞれに、作品名を添えて展示してありました。制作した生徒たちはそれぞれ、いろいろな思いをしながら、仕上げていったことと思います。同時に、伝統を継承しながら、自分なりに考え・工夫し、新たなものを創り出していく喜びを感じたのではないでしょうか。かけがえのない、素晴らしい経験をしたことと思います。

 壁画「継承」(縦2.4m、横10.8m)は圧巻でした。会場をうめた34人の個性が、壁画に集約されているように感じました。「沖縄、そして日本の伝統を次の世代に繋げていけたらという願いを込め制作」したそうです。染色デザイン科『そめおり展』開催にあたってのチラシに、「私たちはしっかりと大地に根を張り、力強く咲く桜に、自分たちを重ね合わせて表現しました。この激しく変化する世の中を先導していける人になるため『生きる力』を身につけたいと思っています。それが私たち3年生皆の願いです。…私たちは3年間学んだ伝統工芸とそれらを通して絆を深めた仲間の大切さを、後輩たちに伝えたいです。……」(首里高校染色デザイン科69期壁画実行委員)と述べています。高校生の豊かな感性と堅実な考え方に感心しました。

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「第36回沖縄県工芸公募展、新人賞受賞、亀谷恵、Beach in summer…沖縄のきれいな海と砂浜を表現しました。このきれいな海が輝いているのは夏の季節であり、また、制作期間が夏にあたっていたため、Beach「 in summer 」とつけました。黄色の経縞とロートンの浮き出ている部分で、海と砂浜のキラキラ感を表現しています。ピンクの部分はサンゴをイメージしました。この色を出すまでに何回も試染を繰り返し行ったことが大変でした。私はデザインに時間をかけ、特に海と砂浜の境目を表現するのにとても苦労しました。それでも自分だけの作品が仕上がった時は、とても嬉しかったです。また、織りながらロートンを入れる調子を変えたりするのが、楽しかったです。」

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「伊祖の高御墓」と「浦添貝塚」…うらおそい歴史の道

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 浦添市伊祖の「浦添の高御墓」と「浦添貝塚」を訪ねました。「浦添の高御墓」は、英祖王の父、恵祖世主(えそよのぬし)と三人の按司が納骨されていると信じられている墓で、国道330号の伊祖トンネル上の崖の中腹にあります。崖下には、約3000年前の貝塚時代前期の遺跡である「浦添貝塚」があります。どちらも、「浦添大公園」の「入口広場」から行くことができます。

 近くには、親子で楽しめる「遊び広場」があり、いろいろな遊具が設置され、楽しそうに走り回っている子どもの歓声が聞こえます。

0129-1651-01 入口広場

0129-1616-01 遊び広場

0129-1635-01 伊祖トンネル

参照(浦添大公園の紹介/沖縄県 http://www.pref.okinawa.jp/site/doboku/toshimono/koen/urasoedaikoen.html

参照(浦添の文化財 http://www.city.urasoe.lg.jp/archive/8761234/bunka/bunka/bunka3.html 

浦添貝塚

0129-1619-01 浦添貝塚

0129-1619-02

「県指定史跡 浦添貝塚…この貝塚は今から3千余年前に住んでいた人々がのこしたものです。貝塚からは石斧(いしおの)、土器(どき)、貝の飾りやたくさんの貝がらなどが発見されています。その頃は山野や海の動植物だけを食料にして生活する原始社会でした。この貝塚から、九州の縄文時代にあたる市来式土器(いちきしきどき)が発見され、また、奄美諸島でよくみられる爪形の模様をもつ土器などもたくさん出土しています。この貝塚は、他の同じ時期の貝塚に比べて、とくに土器の形式が奄美の土器によく似ていることが特色です。このことから、この貝塚をのこした人々の時期や、奄美・九州など北とのつながりがあったことがわかります。なお、この地域において無断で現状を変更することは、条例で禁じられています。 昭和58年3月21日 沖縄県教育委員会 浦添市教育委員会」

伊祖の高御墓

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「県指定有形文化財(建造物)伊祖(いそ)の高御墓(たかうはか)昭和四十七年二月二十五日指定…伊祖の高御墓は、伊祖部落の北東をほぼ東西に延びる浦添丘陵の石灰岩の中腹北側斜面にある。俗に「タカウファカ」と呼ばれ、英祖王(在位一二六〇〜九九年)の父祖、恵祖世主(いそゆぬぬし)の墓として知られている。墓は岩の中腹にある洞穴を利用し、その前面を相方積(あいかたづ)み(亀甲乱れ積みともいう)で積み重ねて塞(ふさ)いだ崖葬(がいそう)墓である。墓口が広く、歴史的に古い形式に属するもので、沖縄における墓の変遷を知る上で極めて貴重な墓である。墓内には石厨子(いしずし)一基と甕棺(かめかん)二基が安置されている。なお、近くには浦添貝塚(うらそえかいづか)があり、貝塚期には岩陰住居(がいいんじゅうきょ)として利用されたと考えられている。昭和四十七年、国道三三〇号(バイパス)建設工事によって存亡の危機にさらされたが、県民の保存運動、関係者の努力によって浦添貝塚とともに保存された。昭和六十一年三月二十五日 沖縄県教育委員会 浦添市教育委員会」

0129-1620-01 伊祖の高御墓へ

0129-1624-01 伊祖の高御墓

0129-1626-01 伊祖の高御墓

0129-1628-02 伊祖の高御墓

1401291629-01 バイパス

「コスモスまつり」は2月15日(土)16日(日)!…伊芸地区のコスモス畑

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「コスモスまつり」は2月15日(土)16日(日)!…伊芸地区のコスモス畑

 金武町伊芸地区のコスモス畑(水田)を訪ねました。「芽が出た(12月10日)」「本葉が出た(12月24日)」「つぼみができた(1月7日)」「コスモスが咲き出した(1月23日)(http://blog.goo.ne.jp/nrai5029knai/e/7336361c821fcc56972797326e30c807)」に続いての訪問です。「伊芸地区集会所」〜「伊芸公民館」の水田は、コスモスの花でいっぱいでしたが、場所により、開花状況がかなり異なります。

 「伊芸地区公民館」の職員に尋ねると、「現在は五分咲きで、今年の『コスモスまつり』は、2月15日(土)と16日(日)の予定で、16日には、『摘み取り』ができる。その後、コスモスを鋤きこんで緑肥にし、3月10日頃の『田植え』に備える。一期米の収穫は7月頃。栽培品種は、『ちゅらひかり』が大部分で、他に、ひとめぼれ、黒米などがある。」と、話してくれました。

 「ちゅらひかり」は、おいしい減農薬米が作りやすいといわれ、東北農業研究センターで育成し、沖縄で奨励品種に採用された品種です。

参照(農研機構 http://www.naro.affrc.go.jp/tarc/contents/tyurahikari/

 花を観察している側を、小学生が通っていきました。こちらを見て、手をふっている子がいました。

 コスモスは、周りの草たちと競って、たくましく生い茂っています。これまでは、高い位置から見下ろす形で撮ることが多かったのですが、いろいろな角度から眺めると、それぞれ、異なった雰囲気が感じられます。

これまでのアングル

01-0204-1244 沖縄自動車道方面1

02-0204-1254 伊芸地区公民館方面1

03-0204-1314 伊芸地区集会所方面1

今回のアングル

04-0204-1307 沖縄自動車道方面2-1

05-0204-1309 沖縄自動車道方面2-2

06-0204-1258 伊芸地区公民館方面2-1

07-0204-1259 伊芸地区公民館方面2-2

08-0204-1329 伊芸地区集会所方面2-1

09-0204-1310 伊芸地区集会所方面2-2

10-0204-1332 下校中の子どもたち

コスモスの花

11-0204-1303

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13-0204-1255

14-0204-1306

15-0204-1326

16-0204-1345

17-0204-1348

18-0204-1305

19-0204-1342

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「にしはらつなひきばし」と「陽迎橋」…牧港川に架かる橋

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 「にしはらつなひきばし」と「ようげいばし(陽迎橋)」を訪ねました。 「にしはらつなひきばし」は、浦添市西原の「ルンルン倶楽部ゴルフレンジ」近くの「中華料理栄龍」の手前にあります。橋の欄干は、綱引きの「雄綱」と「雌綱」をかたどっています。沖縄の伝統的な綱引きでは、「雌綱」の先を「雌綱」の先に差し込み、「かぬち棒」で固定し、太鼓や銅鑼を打ち鳴らしながら、引き合います。西原地区では、八月中旬に、約三百年の歴史と伝統を誇る「西原大綱引き」が行われます。橋の下を流れる「牧港川」は、当山方面を経て、牧港まで延びています。

01 にしはらつなひきばし-雌綱

02 にしはらつなひきばし-雄綱

03 にしはらつなひきばし-中央

04 にしはらつなひきばし-雌綱

 「ようげいばし(陽迎橋)」は、浦添市前田の「沖縄石油ガスKK」近くにあり、「てだ(太陽)の町-浦添」らしい名称だと思いました。「浦西中学校」の門前の広場に通じています。

05 牧港川

06 牧港川

07 ようげいばし

08 陽迎橋

 よく見ると、橋の欄干の装飾がとてもユニークでした。「アレレッ!これ、何だ!」という感じで、頭の上に両手で和をつくり、「目・鼻・口」をデザインした装飾が、八個ほどこされていますが、表情を微妙に変えてあります。「すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい」という、金子みすゞの「わたしと小鳥とすずと」を思い出しました。あなたは、どう感じますか。

09 欄干の装飾1

10 欄干の装飾2

11 欄干の装飾3

12 欄干の装飾4

13 欄干の装飾5

14 欄干の装飾6

15 欄干の装飾7

16 欄干の装飾8

17 地域の皆様へ

18 浦西中門前の広場

19 浦西中門前の広場

 

参照(金子みすず詩集 http://www.geocities.jp/kushikishishsi/2001/1028/kanekomisuzu.html

参照(浦西中学校ホームページ http://www.urasoe.ed.jp/j05/

「第一橋」「干支橋」「当山橋」…「牧港川」に架かる橋

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 「浦添大公園、憩いの広場ゾーン」にある、「第一橋」「干支橋」「当山橋」を訪ねました。「第一橋」は、「牧港川」沿いを東側「当山石畳」方面に100mほど行ったところにあり、橋の名称表示はありませんが、「浦添大公園」のチラシに記されていました。そこから200mほど行くと「干支橋」があり、その先に「当山橋」と「当山の石畳」があります。

 これまで、途中で帰ることが多かったのですが、今回は疑問を解消するまで見て回り、三つの橋の位置関係を知ることができました。

 浦添大公園周辺では、崖下に崖葬の墓が多く見られ、予想以上に緑が深く、川を流れる水量が豊富でした。古くから「うらおそい…浦々を襲う(支配する)土地」と呼ばれた所です。麦畑や水田が広がる豊かな土地で、牧港などの貿易港も控えている浦添で、琉球王国が誕生し、その後の琉球王国の基礎を築いたといわれています。

01 第一橋

02 第一橋

03 第一橋

04 干支橋

参照(国立国会図書館 「日本の暦」―暦の中のことば 干支 http://www.ndl.go.jp/koyomi/kotoba/02_eto01.html

05 干支橋欄干

06 干支橋

07 シーサー(雌)

08 シーサー(雄)

「口の開いたシーサーが雄で、右側に置き、福を招き入れ、口を閉じたシーサーが雌で、左側に置き、あらゆる災難を家に入れないとされています。」

引用(シーサー - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC

09 子

10 丑

11 寅

12 卯

13 辰

14 巳

15 午

16 未

17 申

18 酉

19 戌

20 亥

21 干支橋

22 干支橋下の水流

23 当山橋側の水流

24 当山橋1

25 当山橋2

参照(最近の若者はたぶん知らない干支・十二支の由来 - NAVER まとめ http://matome.naver.jp/odai/2132099269877058301


親子がふれあい、楽しく遊ぶ!…「あそび広場」

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 「浦添大公園、ふれあい広場ゾーン」にある、「あそび広場」を訪ねました。ここは、「芝生広場」「遊び広場」「展望広場」の3つからなり、子どもからお年寄りまで、それぞれに合った活動ができるようになっています。「遊び広場」の遊具の下にはカバーを敷き、転んでもケガをしないよう配慮されています。

 「あそび広場」には、東屋が4つあり、ベンチやイスに腰掛け、子どもが自由に遊んでいる様子を眺めている親の姿が見られます。遊具は、「大型アスレチック」「コンビネーション」「スベリ台」「ローラースベリ台」「大型ローラースベリ台」「スプリング」「スイングボール」と豊富です。晴れた日には、歓声をあげ、思いっきり、走り回っている子どもたちの様子が見られます。今日は、今にも降り出しそうな天気の中、遊具などの撮影に徹しました。

01 あそび広場入口

02 ラバーを敷き詰めた遊び場

03 ローラースベリ台

04 スプリング

05 スプリング

06 スプリング

07 はいさいひろば

08 スベリ台

09 スベリ台

10 スベリ台

11 スベリ台

12 コンビネーション

13 5歳までの園児専用スイングボール

14 広場の遊具

15 階段

16 大型アスレチック

17 大型アスレチック

18 大型ローラースベリ台

19 大型ローラースベリ台

20 大型ローラースベリ台

21 あそび広場

22 あそび広場

23 あそび広場

24 東屋

25 東屋

26 大きな東屋

27 琉球石灰岩の石積み

28 展望台

29 沖縄そば専門店

30 展望台からの眺望

31 展望台からの眺望

32 展望台からの眺望

33 公園管理事務所側のパーラー

34 芝生広場でゲートボール1

35 芝生広場でゲートボール2

参照(ふれあい広場ゾーン http://okiryoku.org/park/index.php/2012-11-22-08-41-07/2012-11-30-08-37-06

「エイサーキャラクター」のイラスト!…「エイサーのまち宣言」の沖縄市

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 沖縄市諸見里の「コザ運動公園」内にある「沖縄市野球場」は、「コザしんきんスタジアム」の愛称が決定し、オープンに向けた工事(当初は1月末完成予定)が進められていました。野球場周辺歩道側−植え込みのプランターに花が移植されていますが、プランター側面に、「エイサーキャラクター」の「エイ坊」「たーくん」「サーちゃん」「さなじぃ」のイラストが描かれていました。

01 コザしんきんスタジアム

02 野球場周辺歩道

03 プランター1

04 プランター2

05 プランター3

06 プランター4

07 エイサーキャラクター1-1

08 エイサーキャラクター1-2

09 エイサーキャラクター2

10 エイサーキャラクター3

11 エイサーキャラクター4-1

12 エイサーキャラクター4-2

参照「エイサーキャラクター紹介(エイ坊とその仲間たち)沖縄市観光ポータルKozaWeb http://www.kozaweb.jp/eisa/character.html

 沖縄市は、地域青年会の「エイサー」が盛んで、1956年、「コザ市・エイサーコンクール」を開催しました。その後、いくつかの課題を乗り越え、1977年からは、「沖縄全島エイサーまつり」が開催されるようになりました。現在は、初日の「道ジュネ―」、中日の「沖縄市青年まつり」、最終日の「県内各地より選抜されたエイサー」の3日間開催となっています。

参照(沖縄全島エイサーまつりについて沖縄市観光ポータルKozaWeb http://www.kozaweb.jp/eisa/zentou.html

 沖縄市は、平成19年6月13日、6月定例会において、全会一致で「エイサーのまち宣言」決議案を可決、制定しました。

「エイサーのまち宣言 沖縄市では、エイサー文化の継承・発展とエイサーを通した青少年の健全育成、エイサーの活用による地域活性化の推進を広く内外に表明し、『エイサー』のメッカという地位を確固たるものとすべく、平成19年6月13日、をいたしました。※平成19年6月13日、6月定例会において、全会一致で宣言決議案が可決されました。」

「エイサーのまち宣言

大地をゆるがす太鼓の音(おと) 天まで響く歌三(うたさん)線(しん)の声(こえ)

太鼓は人々の魂をゆるがし 歌三(うたさん)線(しん)は悠久(ゆうきゅう)の歴史と平和を謳(うた)う

夏の夜の勇壮華麗な演技に 青年たちは珠玉(たま)の汗をとばす

ドンドンドン魂の太鼓 トゥントゥンテン癒(いや)しの三(さん)線(しん)

ピューイピューイと指笛がなり スリサーサーと声が弾む

エイサーのリズムは宇宙の波長と調和して 人々の心をときはなす

青年たちの愛郷(あいきょう)心(しん)は エイサーによって育まれた

エイサーを踊る喜びが 島を愛する心を育てた

沖縄全島エイサーまつりは 戦後の混乱した沖縄で

ウマンチュに勇気と活力を与えた

郷土の芸能文化をこよなく愛する沖縄の中でも沖縄全島エイサーまつりは

島人(しまんちゅ)の魂を駆り立て 人々を興奮の渦に巻き込み 人々を魅了し続けた

そしてエイサー文化は 強固なものへと継承発展される

私たち沖縄市民は エイサーを通して育んできた 心優しい精神と

先人たちが築きあげた偉大なる文化遺産エイサーを

迎(げい)恩(おん)の心に満ちたわがまちの誇りとするとともに

たくましい生命力と文化の薫り高い

住みよいまちづくりに努めることを決意し

ここにエイサーのまち沖縄市を宣言する

平成19年6月13日 沖縄市」

引用(沖縄市  市長室メッセージ  エイサーのまち宣言 http://www.city.okinawa.okinawa.jp/site/view/contview.jsp?cateid=134&id=5104&page=1

花・はな・ハナ!…「寒川緑地」周辺の坂道

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 那覇市首里寒川町の「赤マルソウ通り」から、「繁多川」方面に向かう曲がりくねった坂の途中に「寒川緑地」があります。緑地高台からは、那覇市内を一望することができ、遊具などはありませんが、斜面を利用して、よく整備された場所です。緑地間の坂道は、寒川から繁多川に抜けるのに便利で、交通量の多い道路です。歩道では、ウォーキングやジョギングをしている人をよく見かけます。

 沖縄では、年明けとともに、県内のあちこちで、桜、ひまわり、コスモスなど、各種の「花祭り」が開催されます。「曲がりくねった坂道(ドラゴン……と呼ばれたこともあります)」の両端でも、ミニバラ、サンダンカ、ハイビスカス、ペンタス、インパチェンス、ニチニチソウ、コスモス、ツワブキ、コダチヤハズカズラなど、色々な花が咲いていました。(2月1日撮影)。

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 歩道側に、「このみちは、こども園まある父母会がきれいにしています。那覇市道路管理室」という、道路ボランティアの標識が立てられていました。

洞穴内が御嶽になっている牧港の拝所!…「牧港テラブのガマ」

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 浦添市牧港の「牧港テラブのガマ」を訪ねました。この洞窟は、源為朝の妻子が夫の帰りを待ちわびて暮らしたと言われているところです。琉球石灰岩の自然洞穴ですが、内部は結構広く、天井の鍾乳石からは、水滴がポタポタ落ちていました。5、6カ所に線香の跡が残っていました。

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「市指定史跡 牧港テラブのガマ 昭和六十一年三月三十一日指定…牧港テラブのガマは、方言でティランガマと呼ばれる。琉球石灰岩の自然洞穴(しぜんどうけつ)である。牧港の拝所(はいしょ)として洞穴内が御嶽、洞穴の前庭が「琉球国由来記」にある牧港の殿(トゥン、祭祀場)になっている。洞穴の広さは約三十平方メートル、床には砂利が敷き詰められ天井には若干の鍾乳石(しょうにゅうせき)がある。中央部の奥には(はいだん)があり、今でもときおり参拝者が訪れている。伝説によれば、乾道(けんどう)元年(一一六五)に今帰仁の運天港に漂着した源為朝(みなもとのためとも)は、大里按司(あじ)の妹を妻に迎え男子をもうけた。しかし為朝は浦添から出帆し帰郷、残された妻子はこの洞穴で為朝を待ちわびた。以来この地はマチナト(牧港)とよばれるようになったという。その子の名は尊敦(そんとん)といい、後の舜天(しゅんてん)王である。昭和六十三年三月三十日 浦添市教育委員会」

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05-0211 入口右手

 入口右手に、浦添市教育委員会の注意書きがあります。

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「多くの方が訪れるところです。火気の使用はご遠慮下さい。また使用した線香やウチカビは持ち帰って下さい。浦添市教育委員会」

07-0211 入口左手…水滴(スジ状)が3本見える

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11-0211 最奥部

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13-0211 天井の鍾乳石

浦添市内最大級の亀甲墓!…「浦添御殿の墓」

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 浦添市沢岻の「浦添御殿の墓」を訪ねました。第二尚氏14代国王「尚穆(しょうぼく)」の第二子「尚図(浦添朝央)」を祖とする浦添家の墓です。墓は18世紀頃の造営と推定され、浦添市内で最大級の亀甲墓です。

参照(浦添御殿の墓 – Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E6%B7%BB%E5%BE%A1%E6%AE%BF%E3%81%AE%E5%A2%93

01-0212 沢岻公園

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03-0212 左手階段を上る

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「浦添市指定文化財 史跡 浦添御殿(うらそえうどぅん)の墓…浦添御殿の墓は、第二尚氏第十四代国王尚穆(しょうばく)王(在位一七五二〜一七九四)の次男、浦添王子朝央(ちょうおう)を元祖とする浦添家の墓です。浦添家は代々浦添を領地とし、近世琉球を代表とする政治家や文化人を輩出した由緒(ゆいしょ)ある家系でした。墓の造営は十八世紀末とされ、浦添市内でも最大級の亀甲墓(かめこうぼ)です。広い庭や大きなヒンプン、巧みに組み合わされた石積み、正面に使われた大きな石などは、浦添家の栄華(えいが)を今に伝えるものです。かつて墓の近くには、墓を管理する御墓番(おはかばん)の屋敷があり、昭和二十年の航空写真でも確認できます。平成二十年三月三日指定 浦添市教育委員会」

 「浦添御殿の墓」周辺は整備され、「沢岻公園」となっています。公園左手階段を上ると、墓を観察することができます。周囲に厚い石組みと、前面に大きなヒンプンをもつ、広い庭のある墓で、主の格式の高さを伺わせます。近くには、「沢岻小学校」「沢岻幼稚園」「昭和薬科大付属高等学校・付属中学校」などがあります。

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08-0212 ヒンプン

09-0212 ヒンプン前の通路

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 「浦添御殿の墓」に隣接して、左手に「沢岻按司墓」がありますが、こちらは、自然の崖を利用した質素な墓です。その奥に、「東樋川」と「玉城世本地本祝女」などと記された屋根付きの拝所がありました。いろいろ書かれていますが、摩耗して、文字を判読できませんでした。

11-0212 沢岻按司墓

12-0212 沢岻按司墓

13-0212 沢岻按司墓そばの洞穴

14-0212 東樋川

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16-0212 玉城世本地本祝女

17-0212-16の左側

18-0212-16の右側

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