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「芭蕉布」「デイゴ、四つ竹」「ハイビスカス」「シーサー」…沖縄の空の玄関口「那覇空港駅」

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 沖縄都市モノレール「ゆいレール」一日乗車券を購入して、駅構内と駅周辺を散策しました。「首里駅」から「那覇空港駅」に向かい、散策を開始しました。「那覇空港駅」のデザインは「芭蕉布」です。駅構内には、「アートガラス」(県花と琉球古典舞踊)、「アートタイル」(ハイビスカス)、「シーサー」があります。那覇空港駅から徒歩10分の沖縄都市モノレール株式会社敷地内に、「ゆいレール展示館」があり、ゆいレールや鉄道に関する、さまざまな資料が展示されています。

那覇空港駅(芭蕉布) 「アートガラス」(県花と琉球古典舞踊)…(沖縄の空の玄関口に位置する駅) 南国象徴する県花「デイゴ」。紅型と花笠を着装した華やかな古典女踊り「四つ竹」によって沖縄のイメージと、歓迎の意を表現しました。 「シーサー」 「アートタイル」(ハイビスカス)…沖縄の方言でアカバナーといいます。雨風に強く、沖縄ではよく垣根として屋敷の廻りに植えられています。

参照(沖縄都市モノレール株式会社「ゆいレール」 オンライン美術館 http://www.yui-rail.co.jp/gallery/nahakuko.html

00-0311 那覇空港駅

01-0318 連絡通路

02-0311 那覇空港駅

03-0318 那覇空港駅

04-0318 万国津梁の民

05-0311 めんそ〜れ 泡盛の邦へ

06-0311 琉球泡盛

琉球泡盛…泡盛は古い歴史と独特の製法を持つ蒸留酒です。 その製法は黒麹菌で米を麹にして、この米麹と水だけを原料に全量一度に仕込んで発酵させ、単式蒸留機で蒸留するものです。アルコールや各種添加物を一切加えない100%天然醸造の蒸留酒なので、飲み口さわやか、酔いざめもすっきりし、加えて芳醇な香りとコクが醸し出されます。また、蒸留した後、長期貯蔵によって熟成し、長く置けば置くほど風味とまろみが増して良質の古酒泡盛となります。

07-0311 日本最西端の駅 ゆいレール那覇空港駅

08-0311 ゆいレール

09-0311 鏡水大根

10-0311 「日本最西端の駅」 モニュメント

「日本最西端の駅」モニュメント…このモニュメントの形は過去・現在・未来を表している。ブロンズの大根は、かつてこの地が鏡水大根(カガンジデークニ)で有名な大根畑であったことを記録し、モノレールの車体は現在を、そして全体を形づく飛行機の翼は、沖縄の玄関である空港の象徴と共に、明るい未来に向けて羽ばたこうという希望を表現している。 県産出の勝連トラバーチンで全体の形に飛行機の翼をイメージし、中央部に短形に掘り込んだブロンズで「ゆいレール」と「鏡水大根」をはめ込み、空港・モノレール・地域(鏡水)三者のゆるぎない連帯を表現する。

11-0318 県花と琉球古典舞踊

12-0318 シーサー

13-0318 シーサー

14-0318 ハイビスカス

15-0311 日本最西端の駅・日本最南端の駅(ゆいレール展示館)

16-0311 那覇空港

17-0318 那覇空港

18-0311 ゆいレール展示館

19-0318 首里城号

20-0318 首里城号

21-0318 運転席


「平和の礎と平和祈念堂」「シーサー」「オオゴマダラ」…日本最南端の駅「赤嶺駅」

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 那覇空港駅から、左右に自衛隊基地を見ながら、車内放送で、沖縄のわらべうた「花の風車(はなのかざぐるま)」が流れ、「赤嶺駅」に到着しました。「赤嶺駅」のデザインは「宮古上布」で、「アートガラス」は「平和の礎と平和祈念堂」、「アートタイル」は「オオゴマダラ」です。雌雄の「シーサー」も鎮座しています。

 駅前広場には、「日本最南端の駅」記念碑があります。日本最北端の駅はJR宗谷本線の「稚内駅」、日本最東端の駅はJR根室線の「東根室駅」で、日本最西端の駅は、ゆいレール「那覇空港駅」です。

 赤嶺駅前は、路線バスやタクシー、自家用車から、モノレールへスムーズな乗り継ぎができるように、交通広場として整備されています。

00-0311 赤嶺駅

01-0318 赤嶺駅へ

02-0318

03-0318 赤嶺駅へ

04-0318 赤嶺駅

赤嶺駅(宮古上布) 「アートガラス」(平和の礎と平和祈念堂)…《激戦地摩文仁に通ずる最寄りの駅》 沖縄戦の最大の激戦地となった摩文仁に所在する代表的な平和のシンボルによって、平和を祈願する県民の心を表現。 「シーサー」 「オオゴマダラ」…沖縄で見られる蝶で、日本でもっとも大きく、ゆっくりと飛ぶのが特徴です。オオゴマダラのさなぎは黄金色をしてとてもきれいです。

05-0318 平和の礎と平和祈念堂

06-0318 シーサー

07-0318 シーサー

08-0318 オオゴマダラ

参照(沖縄都市モノレール株式会社「ゆいレール」 オンライン美術館 http://www.yui-rail.co.jp/gallery/nahakuko.html

09-0318 日本最南端の駅記念碑

10-0311 日本最南端の駅記念碑

11-0311 日本最南端の駅(ゆいレール展示館)

12-0311 赤嶺駅

13-0311 赤嶺駅

14-0318 赤嶺駅

15-0318 赤嶺駅周辺

16-1130 平和の礎

17-1130 沖縄平和祈念堂

参照(平和の礎について http://kouen.heiwa-irei-okinawa.jp/shisetsu-ishigi.html

参照(沖縄平和祈念堂ホームページ http://homepage2.nifty.com/kinendo/

「味ひとすじ」に泡盛造りを続けている老舗…「咲元酒造合資会社」

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 那覇市首里鳥堀町の「琉球銀行首里支店」向かいに、「咲元酒造合資会社」があります。「ゆいレール首里駅」を降り、「鳥堀交差点」を渡るとすぐの場所です。近くには、「首里城」「首里中学校」などがあります。

琉球王府時代、首里の鳥堀・赤田・崎山には、十余の造り酒屋がありました。「咲元」は古都首里で、100年余、「味ひとすじ」に、伝統的な泡盛造りを続けている老舗です。

参照(泡盛 咲元酒造のホームページ http://www.sakimoto-awamori.com/

01-0325 咲元酒造

02-0325 事務所

03-0325 事務所

04-0325 泡盛咲元

05-0325 萬田久子さんが絶賛した「咲元」の酒

06-0325 萬田久子さん

07-0325 生き延びた黒こうじ菌

「生き延びた黒こうじ菌…1945年、沖縄戦により、泡盛は、首里の街と共に壊滅しました。収容所から戻った二代目蔵主は、その光景に絶望します。しかし、泡盛の復活を固く願い咲元工場跡で土に埋もれていたニクブクの中に黒こうじらしき痕跡を奇跡的に発見しました。生きていることを信じ、蒸したわずかな米にニクブクを刻み入れ一昼夜、そこには、一粒、一粒の米にびっしりと黒こうじ菌が…。二代目蔵主は、生き延びていたことに感謝し涙したそうです。その後、少しずつ増やした黒こうじ菌を、再建し始めた周辺の蔵元に無償で配布し、泡盛の復興・再生に尽力しました。」

「ニクブク…藁(わら)で編まれた1畳から3畳ほどの敷物。地域によってはニクブー、ニンブー、ニーブとも呼ばれている。農家では庭先での籾(もみ)や豆類の天日干しに使用された。」

参照(沖縄コンパクト事典 http://ryukyushimpo.jp/modules/news/article.php?storyid=42479

08-0325 泡盛は黒こうじ菌で造られます

09-0325 製造工程

10-0325 泡盛再発見

11-0325 酒造工場入口

12-0325 工場

13-0325 イラストに依る解説

参照(咲元酒造のホームページ イラストに依る解説 http://www.sakimoto-awamori.com/book_awa_summary.html

14-0325 タイ米

15-0325 蒸し機

16-0325 三角棚の蒸米(黒こうじ繁殖)

17-0325 蒸米(黒こうじ繁殖)

18-0325 蒸米(黒こうじ繁殖)

19-0325 黒こうじ

 白い粉状の付着物が「黒こうじ」。時間がたつと、黒色になるそうです。

20-0325 蒸米(黒こうじ繁殖)

21-0325 撹拌用具

22-0325 運搬用ザル

23-0325 仕込場

24-0325 仕込容器

25-0325 仕込中

26-0325 泡盛の貯蔵容器

27-0325 泡盛の貯蔵容器

28-0325 蒸留機

29-0325 蒸留機

30-0325 一番酒

31-0325 濾過機

32-0325 検定用貯蔵容器

33-0325 沖縄戦を生き抜いた三石甕

34-0325 沖縄戦を生き抜いた三石甕

「この甕は沖縄戦を生き抜き、現在蔵元に残った唯一の三石甕です。使い込まれた甕から造り出される古酒は格別な味わいがあります。」

35-0325 試飲コーナー

36-0325 試飲コーナー

37-0325 咲元

38-0325 咲元

39-0325 賞状

「歓喜の踊りカチャーシー」「シーサー」「イリオモテヤマネコ」…新興の商業・住宅地に発展する「小禄駅」

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 車内放送で、「小禄豊見城(うるくとぅみぐしく)」を編曲したものを聞きながら、「小禄駅」に到着しました。改札付近での沖縄方言による案内放送では、「うるく」と発音しています。

 「小禄駅」のデザインは「小禄絣」で、「アートガラス」は「歓喜の踊りカチャーシー」、「アートタイル」は「イリオモテヤマネコ」です。雌雄の「シーサー」も鎮座しています。

 駅前は、タクシーや自家用車の乗降場のための交通広場が整備され、駅周辺には、市営住宅、大型ショッピングセンター、各種店舗や飲食店、ビジネスホテルなどがあり、近くに、「那覇市立金城小学校」「那覇市立金城中学校」「沖縄県立那覇西高等学校」などの教育機関や「那覇市総合福祉センター」などの公共施設があります。

00-0311 小禄駅

01-0318 小禄駅

02-0318 歓喜の踊りカチャーシー

03-0318 シーサー

04-0318 シーサー

05-0318 イリオモテヤマネコ

小禄駅(小禄絣) 「アートガラス」(歓喜の踊りカチャーシー)…(新興の商業・住宅地に発展する駅) 農村から都市化が進む、バイタリティ溢れる街を、沖縄の代表的な歓喜の踊りにより表現。(踊りは「三村節」のイメージもある) 「シーサー」 「アートタイル」(イリオモテヤマネコ)…西表島に焼く100頭生息していると言われ、絶滅が心配されていることから、国内希少野生動植物種に指定されています。 20世紀になって発見された新種の猫です。

参照(沖縄県立那覇西高等学校 http://www.nahanishi-h.open.ed.jp/

参照(那覇市総合福祉センター http://w1.nirai.ne.jp/nkg-109/

06-0311 ソング・オブ・インディオ

「ソング・オブ・インディオ…リュウゼツラン科ドラセナ属ドラセロナ・リフレクサ、原産地:マダガスカル。越冬温度:51〜10度。特性:インド原産のドラセロナ・リフレクサの園芸品種です。細長い笹のような形の葉の緑に黄色の斑(ふ)がはいった美しい樹形が特徴です。日によく当たると黄色い斑が鮮やかになります。乾燥にも強く、丈夫で育てやすい植物です。ソング・オブ・インディオの名のとおり枝先が開いて、大きく口をあけて歌っている楽しそうな姿形で明るい雰囲気の観葉植物です。」

07-0311 ソング・オブ・インディオ

08-0311 慶良間諸島国立公園

09-0311 小禄駅

10-0311 連絡通路

11-0311 ショッピングセンター

12-0318 小禄駅

13-0318 小禄駅周辺

14-0311 小禄駅周辺

「浜比嘉大橋」欄干の装飾…浜比嘉平安座線

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 沖縄県道238号浜比嘉平安座線は、うるま市勝連比嘉(浜比嘉島)を起点とし、うるま市与那城平安座(平安座島・沖縄県道10号伊計平良川線)を終点とする一般県道です。浜比嘉島と平安座島は、1997年(平成9年)に完成した、全長1.43kmの「浜比嘉大橋」で結ばれています。

01-0321 海中道路

02-0321 浜比嘉大橋

03-0321 浜比嘉大橋

04-0321 はまひがおおはし

05-0321 はまひがおおはし

06-0321 はまひがおおはし

07-0321 浜比嘉平安座線

08-0321 浜比嘉大橋

「浜比嘉大橋」の欄干は、「勝連町立比嘉小学校」「勝連町立浜中学校」「与那城町立平安座小学校」「与那城町立平安座中学校」(当時)の児童生徒の作品、「エイサー」「ハーリー」の様子、「飛龍」「鳳凰」「鶴」「亀」「蝙蝠」「トウカムリ貝」「シャコ貝」などの動物、「アリアケカズラ」「梅」「竹」「デイゴ」「ユウナ」「松」などの植物で装飾されています。

 「伊計島、宮城島、浜比嘉島、平安座島」の四島は、海中道路で沖縄本島と結ばれ、往来が便利になりましたが、児童生徒数が減少し続け、各島で、複式学級が行われていました。その課題解消のため、うるま市は、7つの小中学校を平安座島に統合し、「彩橋小中学校」(平成24年度開校)としてスタートさせています。「浜比嘉大橋」欄干の児童生徒作品の当時の学校名を見ると、島をめぐる環境の変化を考えさせられます。

参照(学校統廃合 http://www.city.uruma.lg.jp/5/4577.html

「校区の概要 彩橋小中学校:うるま市は沖縄本島の中部東海岸に位置し、太平洋に突き出た与勝半島には五つの有人島が点在している。 その内の四島は、東洋一である海中道路で結ばれ、陸続きとなったことにより先人たちの夢であった離島苦は解消され沖縄本島からの行き来が便利になった。 現在は、両サイドにコバルトブルーの海を望む海中道路の景観の良さは、ドライブコース、ウィンドサーフィン等のマリンスポーツに最適な場所となり、観光とレジャースポットとなっている。 しかし、陸続きで便利になった反面、人口の流出に伴う過疎化傾向となり、以前は、各島毎にあった小学校、中学校の児童生徒数は、年々減少を続け、すべての学校で複式学級となる状況までに小規模化してきた。 ここで、100年以上の長年の歴史を作り上げてきた伊計島の伊計小中学校、宮城島の宮城小学校、桃原小学校、宮城中学校、浜比嘉島の比嘉小学校、浜中学校、平安座島の平安座小中学校とあった7つの学校を、平安座島に統合し、彩橋小中学校(平成24年度開校)としてスタートさせることとなった。」

引用(校区の概要 彩橋小中学校_php http://ayahashi-shochu.edu.city.uruma.okinawa.jp/index.php?oid=219&dtype=1000&pid=1

09-0321 勝連町立比嘉小学校

10-0321 勝連町立比嘉小学校

11-0321 勝連町立浜中学校

12-0321 与那城町立平安座小学校

13-0321 与那城町立平安座小学校

14-0321 与那城町立平安座中学校

15-0321 エイサー

16-0321 ハーリー

17-0321 飛龍

18-0321 飛龍

19-0321 鳳凰

20-0321 鶴

21-0321 亀

22-0321 蝙蝠

23-0321 アリアケカズラ

24-0321 梅

25-0321 竹

26-0321 デイゴ

27-0321 ユウナ

28-0321 松

29-0321 トウカムリ貝

30-0321 シャコ貝

31-0321 平安座島

うちな〜バイキング…海の駅あやはし館

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 うるま市与那城と「平安座島、浜比嘉島、宮城島、伊計島」をつないでいる海中道路の中程にロードパークがあり、マリンスポーツや散策などを楽しむことができます。ロードパークの端には、「海の駅あやはし館」があり、館内2階は「うるま市文化資料館」(うるま市屋平)で、1階には、「旬鮮レストランあやはし」「特産品販売コーナー」などがあります。レストランの「うちな〜ランチバイキング」は大人990円(4歳〜小学6年生;620円、ドリンクバー160円)です。

 メニューは、「ご飯、にぎり寿司、サバの塩焼き、春巻き、大学いも、マカロニサラダ、グリーンサラダ、コーヒーゼリー、ドリンク」などに、「沖縄ソバ、血イリチャー、豆腐ちゃんぷるー、足てびち、アーサ天ぷら、ミミガー和え、もずくの酢の物、ぜんざい、紅いもわらび餅」などの沖縄らしい料理が加わっていました。ガラス越しに金武湾を眺め、ゆったりとくつろぎながら、バイキングを楽しむことができました。館外駐車場近くの散策路には、「サバニ」型のベンチが設けられていました。

01-0321 うるま市観光MAP

02-1008 海中道路

03-0321 伊計平良川線ロードパーク

04-0321

05-0321

06-0321 海の駅あやはし館

07-0321 エイサー伝説の地

08-0321 エイサー伝説の地

09-0321 闘牛のメッカ

10-0321 海の駅あやはし館

11-0321 販売コーナー

12-0321 旬鮮レストランうちな〜バイキング

13-0321 うちな〜バイキング

14-0321 にぎり寿司

15-0321 ソバ汁

16-0321 血イリチャー

17-0321 豆腐ちゃんぷるー

18-0321 サバの塩焼き

19-0321 足てびち

20-0321 春巻き、アーサ天ぷら

21-0321 大学いも

22-0321 ミミガー和え

23-0321 マカロニサラダ

24-0321 もずくの酢の物

25-0321 グリーンサラダ

26-0321 ぜんざい

27-0321 コーヒーゼリー、紅いもわらび餅

28-0321 ドリンク

29-0321 取り分け

30-0321 サバニ

暮らしに寄り添うステキなものを…「暮らしにアートin伊計島」

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 旧うるま市立伊計小中学校跡(うるま市与那城伊計)で開催された「暮らしにアートin伊計島」の様子です。うるま市与那城から海中道路に入り、「平安座島、宮城島」を通り、「伊計大橋」を渡って、「伊計島」に到着しました。旧伊計小中学校は創立100年余の歴史を持つ学校で、校内に、「全国初義務教育八年制発祥校」「自分の希望と目標をもとう」「はばたけ 翔 少年少女よ自信と 勇気を持て」などの石碑や、「二宮金次郎像」があります。

01-0329 伊計大橋

02-0329 自分の希望と目標をもとう

03-0329 二宮金次郎像

「二宮金次郎…二宮金次郎(本名 金治郎)は七十才の生涯を閉じるまで封建時代年貢米や飢饉にあえぐ農民を救い 小田原藩の家老の財政立て直しや六百以上の村の立て直しの功績が大きく 明治の終わり頃から昭和の初めにかけて 日本人なら誰でも知っている勤勉努力・親孝行・思いやりのお手本とされた方である 学ぶこと働くこと世のために尽くす心を伊計小中学校児童生徒 地域の人々に未来永劫語り伝え後進の励みになるよう銅像を建立する 柴刈り縄ないわらじをつくり 親の手助け弟を世話し 兄弟仲よく孝行つくす 手本は二宮金次郎(明治四十四年作の歌)」

04-0329 はばたけ 翔 少年少女よ 自信と 勇気を持て

05-0329 旧伊計小中学校跡

「うるま市立伊計小中学校 閉校式…伊計小中学校は、明治35年(1902年)に創立、平成24年(2012年)3月31日をもって、109年の長い歴史を閉じ閉校します。本校卒業生の皆様、地域の皆様、これまでお世話になった先生、関係者の皆様ありがとうございます。」

引用(うるま市立伊計小中学校_php http://ikei-shochu.edu.city.uruma.okinawa.jp/index.php

参照(学校統廃合 http://www.city.uruma.lg.jp/5/4577.html

06-0329 暮らしにアート in 伊計島

 

 会場は、「家庭科準備室」「美術教室」など、学校の施設を活用して、「陶器」「木工」「ガラス」「染織・革・玩具」「紅型」「アクセサリー」「服飾」などの「工芸作家の作品販売コーナー」、「島のコーナー」「おばあ喫茶」「手づくり体験ひろば」などがありました。「闘牛写真展コーナー」には、牛の模型が置かれ、多数の写真がパネル展示され、ビデオ上映もありました。

参照(花藍舎 (からんしゃ) −宮良千加−暮らしにアートin伊計島2 〜おきなわ作家市〜 http://okinawasakkaiti.ti-da.net/e6037211.html

 うるま市の「伝統神うるまー」が登場すると、親子の長い列ができました。「うるまー」は、一人ひとりにプレゼントを手渡し、握手、記念撮影をしていました。列の両側には、カメラを構えた親の姿がありました。

 

09-0329 おばあ喫茶

11-0329 あまわり

13-0329 幸運人魚

16-0329 アートにんじん

18-0329

22-0329

25-0329 琉球玩具ロードワークス

32-0329 木の昆虫づくり

33-0329 貝殻アート体験

36-0329 伝統神うるまー参上

37-0329

38-0329 美ら海 マグネットセット

39-0329 闘牛

42-0329 闘牛写真展

46-0329

50-0329 伊計島

イモリの不思議な世界…うるま市立「海の文化資料館」

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 海中道路の中程、うるま市与那城屋平の「海の駅あやはし館」2階、「海の文化資料館」ロビーで開催された、「イモリの不思議な世界」の様子です。2階への階段には「イモリ」のシールが貼られ、階段左右の壁面には、「イモリ」の写真が展示されていました。

 2階には、「海の文化資料館」展示場があり、山原船と木造船の資料などがありますが、場内撮影は禁止です。ロビーに設けられた「イモリの不思議な世界」コーナーには、「イモリのアマ クマ ウリ 作:コザ高校インターシップ生」と書かれています。パネルで、「生物多様性ってナニ?」「イモリとヤモリのちがい」「イモリの住み家 湧き水の不思議」「外来種、在来種」「イモリも道路を通るから気をつけよう」「古代道具の中のイモリ」「沖縄の地質年代」など、イモリについて、多方面からわかりやすく説明していました。ビデオコーナー、感想文のコーナーもあります。

 見学後、窓の装飾に気付きました。外に出ると、休憩所から、ロードパーク方面の海中道路を見渡すことができ、海上で、ウィンドサーフィンを楽しんでいる様子を見ることができました。

02-0321 海の駅あやはし館

05-0329 「イモリ」の写真

08-0329 イモリの アマ クマ ウリ

09-0329 生物多様性ってナニ?

10-0329 シリケンイモリ

11-0329 シリケンイモリ

12-0329

14-0329 アカハライモリ

15-0329 アカハライモリ

17-0329 イボイモリ

18-0329 イモリとヤモリのちがい

19-0329 イモリの住み家 湧き水の不思議

21-0329 外来種、在来種

25-0329

27-0329

30-0329 古代道具の中のイモリ

36-0329 うるま市の動物、植物

38-0329 感想コーナー

40-0329 イモリの アマ クマ ウリ

45-0329

49-0329 ウィンドサーフィン

50-0329 ロードパーク


琉球開びゃくの祖神「アマミチュー」「シルミチュー」…「浜比嘉島」

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 「浜比嘉大橋」を渡ると、前方に標識があり、左方が「比嘉」、右方が「浜」となっています。左折して、比嘉方面に向かいました。「ハマガー」「ノロ墓」を廻り、坂道を上って、「比嘉小学校跡」に向かいました。校門は閉じられ、校門わきに「比嘉小学校閉校記念碑」がありました。学校統廃合により、「彩橋小中学校」に統合されたのです。

01-0321 海中道路周辺名所案内

02-0321 標識

05-0321 ハマガー

「ハマガー…このカーは、字比嘉のウブガーで、正月元旦の若水を汲む井泉です。 うるま市教育委員会」

08-0321 ノロ墓

09-0321 比嘉小学校跡

10-0321 比嘉小学校閉校記念碑

参照(うるま市立 比嘉小学校_php http://higa-sho.edu.city.uruma.okinawa.jp/

参照(学校統廃合 http://www.city.uruma.lg.jp/5/4577.html

 「比嘉グスク」「アマミチューの墓」「ソージガー」「シルミチュー」と、見所がいっぱいです。「高江洲製塩所」では、「流下式塩田」により塩を作っており、見学、体験学習ができます。「竜宮神」「前ヌカー」「慰霊碑、記念碑」「シーローガー(イーヌカー)」「西の御嶽(イリヌウタキ)」「地頭代火の神」「東の御嶽」と、たくさんの箇所を参拝・見学して、浜比嘉島を後にしました。

13-0321 比嘉グスク

15-0321 アマミチューの墓

16-0321 アマミチューの墓

「アマミチューの墓(はか) 記念物(史跡)…字比嘉の東方海岸にアマンジと呼ばれる岩屋(いわや)の小島があり、そこに洞穴(どうけつ)を囲(かこ)い込(こ)んだ墓(はか)がある。地元では琉球開(かい)びゃく伝説で有名なアマミチュー、シルミチューの男女二神及び他の神が祀(まつ)られていると伝えられている。毎年、念頭拝み(ニントゥウグワン)には比嘉のノロ(祝女)が中心となって島の人々多数が参加して、豊饒(ほうじょう)・無病息災(むびょうそくさい)・子孫繁昌(しそんはんじょう)を祈願(きがん)している。 また、古くから各地からの参拝者(さんぱいしゃ)が絶(た)えない、信仰圏(しんこうけん)の広い貴重(きちょう)な霊場(れいじょう)である。 文化財保護条例により、勝連町文化財に指定します。 平成7年2月20日 勝連町教育委員会」

17-0321 アマミチューの墓

20-0321 ソージガー

21-0321 シルミチュー

22-0321 シルミチュー

「シルミチュー 民族資料(無形民俗文化財)…字比嘉の南々東端の森の中に大きな洞穴(どうけつ)がある。地元では琉球開(かい)びゃく祖神(そしん)、アマミチュー、シルミチューの居住(きょじゅう)したところと伝えられている。 毎年、念頭拝み(ニントゥウグワン)には比嘉のノロ(祝女)が中心となって、海浜(かいひん)から小石一個を拾って来て、洞穴内に安置(あんち)された壷(つぼ)に入れて拝(おが)んでいる。また洞穴内には鍾乳石(しょぅにゅうせき)の陰石(いんせき)があり、子宝(こだから)の授(さず)かる霊石(れいせき)として崇拝(すうはい)され、信仰圏(しんこうけん)の広い貴重(きちょう)な霊場(れいじょう)である。 文化財保護条例により、勝連町文化財に指定します。 平成7年2月20日 勝連町教育委員会」

23-0321 参道

24-0321 2シルミチュー

26-0321 高江洲製塩所

27-0321 流下式塩田

30-0321 竜宮神

32-0321 前ヌカー

34-0321 慰霊碑、記念碑

「贈呈…シェリー大佐の浜比嘉住民に対する貢献により記念として、マリン将校婦人会より贈る。」

36-0321 浜中学校跡

参照(浜中学校_jp- http://hama-chu.edu.city.uruma.okinawa.jp/

39-0321 シーローガー(イーヌカー)

43-0321 西の御嶽(イリヌウタキ)

「西の御嶽(イリヌウタキ)…この御嶽は、琉球国由来記に勝連間切の拝所として、「マサゴロヨリアゲ嶽」と記録されています。民話では、「メーベーヌタキ」と呼ばれ、金武王子のウナイがノロとして来たことから「チンヌウタキ」と呼ばれ、このノロの子がチンダカ屋の先祖と伝えられています。 うるま市教育委員会」

45-0321 浜地区学習等供用施設

46-0321 地頭代火の神

「地頭代火の神(ジトウデーヒヌカン) 民族資料(無形民俗文化財)…字浜の公民館敷地内に、コンクリート製の小祠(しょうし)があり、その中に火の神の依り代(よりしろ)として、三個の霊石(れいせき)を祀(まつ)った拝所(はいしょ)である。 琉球王府時代、浜には地頭代のおえか地(役地、えきち)があり、地頭代となるには先ず浜地頭を務めなければならなかったという。『地頭代火の神』が奉安(ほうあん)されたのはこの為(ため)とされ、貴重(きちょう)な歴史・民族文化財(みんぞくぶんかざい)である。尚現在の小祠には、『琉球国由来記(りゅうきゅうこくゆらいき)』に記される『殿(浜里主所)』と合祀(ごうし)されている。 今でも、立身出世(りっしんしゅっせ)の神として、進学、旅立ちに際し祈願(きがん)する慣(なら)わしになっている。 文化財保護条例により、勝連町文化財に指定します。 平成7年2月20日 勝連町教育委員会」

47-0321 地頭代火の神

48-0321 東の御嶽

50-1104 浜比嘉島

中城湾と金武湾の自然堤防、石油備蓄基地の島…「平安座島」

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 うるま市与那城から、「海中道路(沖縄県道10号伊計平良川線)」に進むと、「平安座海中大橋」がそびえています。平安座海中大橋のイメージは、「平安座海中大橋のイメージ…「波を蹴り、雲を突き抜け、飛び立つ鳳凰」 主題とケーブル…羽を広げた鳳凰(古来中国の想像上の鳥) 親柱…五色の霞 高欄…躍動感のある波 歩道…琉球絣」(参照:平安座海中大橋一般図)です。

01-0306 平安座海中大橋一般図

02-0306 平安座海中大橋

03-0329 海中道路

04-0329 平安座島

「へんざじま【平安座島】…沖縄県沖縄島(本島)中南部東海岸に突出する与勝(勝連)半島の北東側,金武(きん)湾口に点在する与勝諸島の一島で,与那城(よなぐすく)村に属する(現、うるま市与那城平安座)。周辺の美しい静かな海は1965年与勝海上公園に指定されたが,68年にアメリカの石油会社ガルフ・オイルが進出,71年には石油備蓄基地(CTS)の建設が始まり,平安座島をはじめ宮城(みやぎ)島,伊計(いけ)島,浜比嘉(はまひが)島などの島々とその周辺の海は激変した。」

引用(平安座島 とは - コトバンク http://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E5%BA%A7%E5%B3%B6?dic=sekaidaihyakka

参照(平安座島 - Wikipedia  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E5%BA%A7%E5%B3%B6

 「平安座島」入口には、「世開之碑」が建立されています。

05-0306 世開之碑

06-0306 世開之碑

 海中道路で結ばれている「平安座、浜比嘉、宮城、伊計」四島の小中学校が統合された「彩橋小中学校」を訪ねました。校門を入ると、「平安座シヌグモーのクワディーサー(名木)」が目に付きます。校内には、「世礼国男先生を偲ぶ」「世礼国男先生の像」「九十周年記念歴史資料館」「平安座小中学校創立百周年記念」「平安座小中学校閉校記念碑」や各期の「卒業記念」などがありました。

参照(平安座小中学校_jp- http://henza-shochu.edu.city.uruma.okinawa.jp/

参照(彩橋小中学校_jp- http://ayahashi-shochu.edu.city.uruma.okinawa.jp/

09-0329 彩橋小中学校

10-0329 彩橋小中学校

11-0329 彩橋小中学校

12-0329 平安座シヌグモーのクワディーサー(名木)

13-0329 平安座シヌグモーのクワディーサー(名木)

「平安座シヌグモーのクワディーサー(名木)…初代屋ケ名クワーディーサーよりやや若いが樹齢約250年といわれる この名木は昭和六二年七月に村木に指定された。 和名モモタマナ、学名コバ゛テイシーと呼ばれその枝に葉力が残っている間は「まだ寒がある」とお天気博士としても親しまれている。」

15-0329 世礼国男先生を偲ぶ

17-0329 世礼国男先生の像

19-0329 山原船

20-0329 平安座小中学校創立百周年記念

22-0329 平安座小中学校閉校記念碑

23-0329 九十周年記念歴史資料館

 島内には、いくつかの「カー」がありますが、案内表示がなく、はっきりしないものがありました。「国吉之河(クンシヌカー)」「与佐次河」「歌碑、歌意と由来」「慰霊塔、慰霊の詞」「沖縄石油基地株式会社」入口などを廻りました。帰路、空き地の角に、「ここは旧三月の神事の場所です ゴミを置かないでください 自治会」という表示を見つけました。

27-0329 国吉之河(クンシヌカー)

28-0329 歌碑、歌意と由来

29-0329 歌意と由来

30-0329 与佐次河

31-0329 与佐次河

「与佐次河…・泉井は、古くは山手の方にあったと伝えられるが乾隆年間(1737年頃)に現在地に移設した石造建築で与那城町の指定文化財である。・瓦屋根の建造は平成11年2月10日(1999年)に完成した。 平安座自治会」

36-0329 東豊河

37-0329 沖縄石油基地株式会社

38-0329 沖縄石油基地株式会社

39-0329慰霊塔、慰霊の詞

41-0329 ここは旧三月の神事の場所です

43-0329

44-0329 浜比嘉大橋

「古武道」「シーサー」「カンムリワシ」…各種スポーツ施設があるイベント会場に隣接した「奥武山公園駅」

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 小禄駅から、車内放送で、沖縄のわらべうた「じんじん(沖縄方言、ホタル)」を聞きながら、「奥武山公園駅」に着きました。「奥武山公園駅」の染織デザインは「琉球絣」、「アートガラス」は「沖縄の伝統的な古武道」、「アートタイル」は「カンムリワシ」(石垣島や西表島に生息している鷲。国指定特別天然記念物、国内希少野生動植物に指定)です。

 駅に隣接して、「奥武山総合運動場…奥武山運動公園」があります。公園内には、沖縄県立武道館、陸上競技場、野球場「沖縄セルラースタジアム那 覇」、体育館、弓道場、プール、テニスコート、多目的広場、沖縄県護国神社などがあり、年間を通して、多種のスポーツ、文化行事が開催されています。「夏まつり」「産業まつり」「那覇まつり」など、各種のイベント会場としても利用されている場所です。「奥武山運動公園」入口の案内板に、「今の那覇は浮島だった…。奥武山、小島から現在へ」「古海岸、1700年頃、1868年頃(明治初年頃)」「奥武山球場の歴史」など、興味深い写真と説明文がありました。近くには、「沖縄県立小禄高等学校」があります。

参照(奥武山公園 沖縄県立武道館 - 公式サイト_jp- http://ounoyama.jp/

参照(沖縄県立小禄高等学校 http://www.oroku-h.open.ed.jp/

00-0311 奥武山公園駅

01-0318 奥武山公園駅

02-0311 沖縄の伝統的な古武道

03-0311 カンムリワシ

04-0318 シーサー

05-0318 シーサー

06-0311 奥武山公園駅

07-0311 奥武山公園駅

08-0311 奥武山公園駅周辺

09-0318 奥武山公園駅周辺

10-0318 奥武山公園駅周辺

11-0318 奥武山公園駅周辺

12-0403 奥武山公園駅周辺

13-0318 まちなみ号

14-0318 まちなみ号

15-0318 まちなみ号

16-0311 奥武山運動公園

17-0311 今の那覇は浮島だった…。奥武山、小島から現在へ

「今の那覇は浮島だった…。奥武山、小島から現在へ…『昔』の那覇の水際線は左図の様に、現在の安里川の崇元寺の道向かいが漁場であり、ガーブ川の与儀公園手前にケーシンダーという山原船の船着き場でした。また、国場川の真玉橋あたりまで漁船や山原船が出入りしたといわれ、現在の泉崎から沖合に松や福木が鬱蒼とした浮島がありました。この頃の那覇は奥武山、三重城、御物城、ガーナー森等大小幾つかの島からなる緑豊かな浮島で景観のとても美しいところでした。那覇バスターミナル構内の仲島大石は、その面影を残しています。」

18-0311 古海岸、1700年頃、1868年頃(明治初年頃)

「古海岸…この頃の奥武山は、国場川の河口(漫湖)に浮かぶ小島で、奥武山の東側に御物城や君南原(拝所があった)そして西側にガーナー森、更に北側のアカバタキーにもいくつかの小島がありました。また、現在の那覇港付近には渡地や硫黄城、港口付近には三重城や沖の寺(臨海寺)、屋良座森やイビヌ前、住吉等が海中の小島としてありました。」
「1700年頃…この頃は上流からの土砂の堆積等によって、漫湖は陸地化しはじめます。赤バタキーの小島の一部も陸地化しはじめ、渡地や硫黄城がつながり、三重城や沖の寺(臨海寺)も通堂(現在の通道町)から海中道路でつながり、屋良座森城やイビヌ前、住吉も陸続きになりましたが、御物城や奥武山、ガーナー森はまだ小島でした。」
「1868年頃(明治初年頃)…奥武山も堆積土砂で少しずつ大きな島となってきましたが、御物城、ガーナー森はまだ小島でした。明治時代になり、那覇港が主要港として利用されるようになると、三重城周辺や唐船小堀が埋め立てられ、その後、漫湖方面にも埋め立て地が広がりました。この頃の埋め立ては、比較的埋め立てが容易な『潟』といわれる浅瀬に行われました。」

19-0311 現在(平成年14年)

「現在(平成年14年)…現在、屋良座森城は米軍によって取り壊され、みる影もありませんが三重城、御物城、ガーナー森などは陸上の小丘として残り、昔の面影をかろうじて残す貴重な存在となっています。奥武山公園の国場川沿いでは水辺環境整備として、国場川の護岸を親水護岸に改修し小規模な埋め立てにより親水広場が造成されました。」

20-0311 奥武山球場の歴史

「奥武山球場の歴史…沖縄県における野球の歴史は、1894年(明治27年)沖縄中学(後の一中、現在の首里高)の修学旅行隊が京都の三高(現在の京都大学)を訪問した際に野球を教えられ、その後贈られた用具を使って、見様見真似でプレーしたのが始まりでした。その後、野球は戦争の影響で一時中断した時期があり、戦争復興期には、若い選手たちの活躍が県民に希望と活力を与えてくれました。このような沖縄県野球の歴史の中で、昭和35年に整備された奥武山球場は、県内初の本格的な野球場として、県内球児のあこがれの野球場で多くの熱闘の舞台となってきました。」

21-0311 奥武山運動公園

22-031 野球場「沖縄セルラースタジアム那覇」

23-0311 奥武山運動公園

24-0311 奥武山運動公園

25-0403 沖縄県立小禄高等学校

26-0403 沖縄県立小禄高等学校

27-0403 沖縄県立小禄高等学校

「枯山水」の庭園がある新築された伽藍…「天授山万松院」

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 那覇市首里当蔵町、首里公民館近くに、「臨済宗妙心寺派天授山万松院」があります。一六一三年(万歴四十一年)、カ翁周航禅師が岩頂山万松院(後の蓮華院)を賜ったのが始まりとされています。現在の伽藍(寺の建物、庭などすべて)は、二〇〇九年十二月に新築されたものです。

 門周辺には、見事な「枯山水」の庭園があります。主な行事/活動は、「大晦日の除夜の鐘」「初詣、正月三日間の鐘つき」「信徒の会」「」「春・秋の彼岸供養、盆供養、花祭り」「御詠歌の練習と奉詠」「春、秋の法話講演会」「座禅と健康体操の会」「健康祈願・先祖供養・水子供養・交通安全・その他祈願」「悩み事、位牌に関する相談等」です。

 展示資料の中に、「一九四五年四月二日に米軍によって、首里上空より撮影された航空写真」を拡大したものがありました。「首里城」「首里第一尋常高等小学校」「沖縄師範第二宿舎(今の首里中学校)」「沖縄県立第一中学校(今の首里高校)」「沖縄県立第一中学校寄宿舎(一中健児之塔)」「首里第二尋常高等小学校(今の城西小学校)」「万松院、蓮小堀」「沖縄県立工業学校」「今の芸大グラウンド」などが写っています。

 写真を囲み、数人の男女が、現在の様子と比べ、当時に思いをはせながら、話をしている姿が見られました。

01-0308 万松院

02-0308 万松院

03-0308 臨済宗とは

参照(日本最大の禅寺|京都花園 臨済宗大本山 妙心寺 公式サイト http://www.myoshinji.or.jp/

04-0308 枯山水

05-0308 枯山水

06-0308 枯山水

07-0308 万松院

08-0308 万松院

09-0308 万松院

10-0308 沿革

11-0308 蓮の花・蓮華

12-0308 天授山萬松院歌為東峰上人賦

13-0308 解釈

14-0308 解釈

15-0308 梵鐘

16-0308 天授山

17-0308 航空写真

「この写真は、一九四五年(昭和二十年)四月二日に米軍によって、首里上空より撮影されたものです。」 首里城や万松院も鮮明に写っています。どうぞ、ゆっくりとごらんください。

18-0308 航空写真

19-0308 首里城、首里第一尋常高等小学校

20-0308 沖縄師範学校、沖縄師範付属小学校…

21-0308 万松院、蓮小堀、沖縄県立工業学校

22-0308 沖縄師範第二宿舎

23-0308 かたぬはな、上之毛

24-0308 首里第二尋常高等小学校

25-0308 中城御殿、首里警察署

26-0308 宜野湾御殿

27-0308 沖縄県立第一中学校

28-0308 沖縄県立第一中学校寄宿舎

29-0308 扁額「天授山」

30-0308 扁額「天授山」

31-0308 ○○寺とは……

32-0308 ○○院とは……

33-0308 知足、幸せの「はひふへほ」

34-0308 独座、大雄峰

35-0308 おかげさま、禅−いまを生きる−

36-0308 中国禅宗の開祖菩提達磨大師

「山下町第一洞穴遺跡公園」として整備、市民の学習の場として活用…「山下町第一洞穴遺跡」

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 那覇市山下町の「山下町第一洞穴遺跡」を探し、なかなか見つけることができませんでしたが、二度目の訪問で、やっと、場所を確認することができました。洞穴遺跡は、現在、「山下町第一洞穴遺跡公園」として整備中で、周りが柵で囲われ、中に入ることができません。案内板設置場所と思われる箇所や園内の設備は、シートで覆われていました。奥武山公園近くにある、この場所から、旧石器時代の人骨や石器などがされたとは……。その価値が知られず、眠ったままの遺跡が、他にもあるのかも知れないと考えると、ワクワクします。近くには、「那覇市立垣花小学校」があります。

 那覇市は、「山下町第一洞穴遺跡公園」として整備し、市民の学習の場として活用したいとしています。 

01-0405 山下町第一洞穴遺跡公園

02-0405 山下町第一洞穴遺跡公園

03-0405 山下町第一洞穴遺跡公園

04-0405 山下町第一洞穴遺跡

05-0405 山下町第一洞穴遺跡

「山下町第一洞穴遺跡 沖縄県指定史跡 1969(昭和44)年8月26日指定…洞穴は標高約15mの琉球石灰岩小丘にあり、間口約1.5m、奥行約5.0m、高さ約3.0mで南に開口している。発掘調査は二度行われた。1962年の調査では鹿の骨・角製品や石器(石弾)等が発掘され、1968年の調査では6枚の堆積層が確認されている。下層の6枚目の堆積層からは、鹿の骨や角を削ってつくった骨・角製品や、化石化した8歳ほどの子供の大腿骨と頭骨が出土している。また3段目の層から採集した木炭の年代測定により、およそ32,000年前の遺跡であることが明らかにされた。沖縄最古の遺跡である。 沖縄県教育委員会 那覇市教育委員会」

06-0405 山下町第一洞穴遺跡公園

07-0405 山下町第一洞穴遺跡公園

08-0405 山下町第一洞穴遺跡公園

09-0405 山下町第一洞穴遺跡公園

10-0405 山下町第一洞穴遺跡公園

11-0405 山下町第一洞穴遺跡公園

12-0405 山下町第一洞穴遺跡公園

13-0405 山下町第一洞穴遺跡公園 

「那覇市は旧石器時代最古級の遺跡として知られる「山下町第一洞穴遺跡」の公園整備に取り組む方針だ。遺跡からは3万2千年前の人骨などが発掘されており、1969年に琉球政府の史跡指定を受け、現在は県指定史跡。私有地内にあり保護が課題となっていたが、市が昨年買い取りを終えた。2014年度の完成を目指し、本年度から遺跡の核となる岩場の整備に着手する予定。 市教育委員会の新城和範生涯学習部長は9日の市議会12月定例会で「市民の学習の場や、わが国最古級の人類遺跡という観光資源としても活用したい」と述べた。金城徹氏(自民党新風会)への答弁。 旧石器時代の遺骨発掘に詳しい琉球大医学部非常勤講師で、名桜大客員研究員の土肥直美さん(形質人類学)は「人骨と同じ所で発掘された石器の評価がまだ定まっていない中で、公有地化され、公園が整備されるのは全国初ではないか」と取り組みを評価。「山下洞穴が整備されることで、他の遺跡整備もスタートラインに立てるのではないか。これから研究を進める上でも後押しになる」と意義を語った。」

引用(山下洞穴を公園整備 学習や観光資源に活用  http://ceron.jp/url/ryukyushimpo.jp/news/storyid-185081-storytopic-5.html

参照(那覇広域都市計画の変更について  那覇市 Naha City http://www.city.naha.okinawa.jp/kakuka/tokei/osirase/test1.html

参照(垣花小学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/kakin-es/

地域の歴史を語る!中城村「泊の大クワディサー」「泊区拝所ウタキ」、うるま市勝連平安名「ワイトゥイ」

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 中城村泊の、国道329号沿いに、「泊の大クワディサー」「泊区拝所ウタキ」があります。「泊の大クワディサー(村指定天然記念物)」は、泊の共同井戸だった「泊のシチャヌカー」の近くにあり、一帯は泊村の拝所になっています。

01-0321 泊の大クワディサー

02-0321 泊の大クワディサー

03-0321 泊の大クワディサー

「村指定文化財 泊の大クワディサー…泊の大クワディサー(和名:モモタマナ)は、古老の話によると、首里王府から派遣されていた中城間切り番所の役人が離任する際に、懇意にしていた泊ムラの人たちとの別れを惜しんでフッチャヌメーとシチャヌカー付近に1本ずつ植えたといわれています。 このうち、フッチャヌメー付近に植えたクワディサーは1945年の沖縄戦で消失し、今は残っていません。シチャヌカー付近のクワディサーは明治の頃からすでに今のような姿だったといわれており、幹周りは4mで樹齢200年くらいと推定されています。 現存するクワディサーは中城を代表する名木であると共に学術上重要であることから、1997年(H9)年3月7日 村文化財に指定しました。」

参照(とよむ中城 | 文化財一覧|沖縄県中城村公式 観光・文化情報ページ http://toyomu.com/spot/?cat=3

参照(コバテイシ(モモタマナ) - 結〜つなぐ、ひらく、つむぐ〜 - gooブログ http://blog.goo.ne.jp/nrai5029knai/e/241dbf529a68cf6c95981f9f38e5d168

04-0321 泊区拝所ウブガー

05-0329 水準点

06-0329 水準点

07-0329 泊区拝所ウタキ

08-0329 泊区拝所ウタキ

09-0329 泊区拝所ウタキ

10-0329 泊区拝所ウタキ

11-0321 泊区拝所

12-0321 泊区拝所

 うるま市勝連平安名に、「ワイトゥイ」と呼ばれる比殿(ヒドゥン)農道があります。ワイトゥイは、強固な岩山を掘削し、1932年から3年の歳月を費やして完成した悲願の農道です。岩を割って取ったことから「ワイトゥイ」と呼ばれています。

13-0329 ワイトゥイ、旧比殿農道

14-0329 旧比殿農道

15-0329 ワイトゥイ

16-0329 ワイトゥイ

17-0329 ワイトゥイ

18-0329 ワイトゥイ

19-0329 ワイトゥイ

20-0329 平安名地区地すべり防止区域

21-0329 ワイトゥイ

22-0329 ワイトゥイ

23-0329 ワイトゥイ

「ワイトゥイ うるま市教育委員会指定文化財 第10号…ワイトゥイは、字平安名南西部(あざへんななんせいぶ、比殿原ヒドゥンバル、嘉慶奈久カゲナク)の農耕地(のうこうち)へ通(つう)ずる断崖(だんがい)を掘削(くっさく)した農道(のうどう)です。 長年(ながねん)、村人(むらびと)は比殿バンタの急崖(きゅうがい)の険阻(けんそ)な山道(やまみち)を登(のぼ)り降(お)りしていたが、この苦難(くなん)を解消(かいしょう)するために、昭和7年から同10年にかけてこの断崖を掘削、横断農道(おうだんのうどう)を開通(かいつう)させました。長(なが)さ約(やく)150m、高さは最(もっと)も高いところで20mもあります。当時は、トゥンゲー(金鍬、カナグワ)やカニガラ(石割棒、イシワリボウ)などを使った人々の難工事(なんこうじ)の跡(あと)が断面(だんめん)に刻(きざ)まれており、その苦難(くなん)の歴史(れきし)を知るうえで重要(じゅうよう)です。」

24-0329 記念碑

奥武山周辺の歴史を学ぼう…壺川駅

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 奥武山公園駅から、国場川沿いにレールがカーブし、その先に「壺川駅」があります。駅のすぐ近くに奥武山公園、那覇市中央郵便局があります。壺川駅の「ゆいレールサウンド」「唐船ドーイ(とうしんどーい)」は、沖縄の祝いの席を締めくくる「カチャーシー」でよく使われる曲です。聞いていると心がウキウキします。「アートガラス」は「国場川に競う爬竜船」で、「アートタイル」は「マングローブ」です。雌雄の「シーサー」も鎮座しています。

 国場川には奥武山などの小島が海に浮かび、垣花や小禄には、船で行き来していた時代があり、そこに橋を架け、「明治橋」と呼んだようです。橋の周りには、「史跡案内板?、史跡案内板?、明治橋の歴史案内板、埋め立ての歴史案内板」の4基の案内板があり、わかりやすく説明しています。橋の移り変わりについては、「学童保育の小学生」らしい一行が、二人の指導員と共に、案内板を読み、見学しているようすを見かけました。

 4月7日は、県内の高校で、「入学式」が行われました。通りかかった、「沖縄県立那覇西高等学校」の正門にも、「祝入学式」「入学おめでとう」と書かれた門の前に、会場整理の職員、生徒が待機していました。駐車場方面から、「吹奏楽」の音が聞こえます。数人の生徒が、本番前の音あわせをしているようでした。

参照(沖縄県立那覇西高等学校 http://www.nahanishi-h.open.ed.jp/

00-0311 壺川駅

01-0318 壺川駅

02-0311 国場川に競う爬竜船

03-0318 シーサー

04-0318 シーサー

05-0318 マングローブ

06-0311時刻表

07-0311 壺川駅

08-0405 ゆいレール 個性あふれる島々 癒しの島

09-0405 ゆいレール 個性あふれる島々 癒しの島

10-0318 北明治橋

11-0405 北明治橋

12-0405 国場川(明治橋方面)

13-0405 国場川(那覇大橋方面)

14-0311 史跡案内板?

15-0405 史跡案内板?

16-0405 奥武山周辺の歴史を学ぼう

17-0405 明治橋の歴史案内板

「奥武山の歴史をみまもる 明治橋の移り変わり…初代の明治橋は明治16年(1883)に架(か)けられました。この明治橋は木製で御物城(オモノグスク)より下流(港口)側にあり、絵図で見るように一部が堤のような石積みになっていました。また、写真で見るように橋の高欄(こうらん)の縦桟(たてさん)が斜(なな)めになっているなど、細部のデザインが後の時代の木橋とは異(こと)なっていました。 初代の明治橋の橋脚(きょうきゃく)が水害で流されたため、明治36年(1903)に御物城(オモノグスク)の上流側に南と北の二つの明治橋を架(か)けました。渡地(ワタンジ)から奥武山側を北明治橋(約108m)、奥武山側と垣花(かきのはな)を結ぶ橋を南明治橋(約90m)と呼(よ)びました。毎年5月の波上祭では北明治橋を利用して、波上宮から奥武山公園までの渡御行列が行われました。」

18-0405 どうして明治橋?

19-0405 奥武山周辺の歴史を学ぼう

「奥武山周辺の歴史を学ぼう…この橋には、この案内板を含め4基(き)の案内板が設置されています。じっくり読んで、奥武山(おうのやま)周辺の史跡や周辺の埋(う)め立ての歴史、そしてこの橋のデザインモチーフとなった明治橋の歴史など、あなたも奥武山(おうのやま)通になろう。」

20-0405 埋め立ての歴史案内板

21-0405 昔の那覇は浮島だった…

22-0405 奥武山周辺の歴史を学ぼう

23-0405 奥武山公園

24-0407 那覇西高等学校

25-0407 那覇西高等学校正門

26-0407 出番を前に…吹奏楽部

27-0407 出番を前に…吹奏楽部


「三町内の各拝所の合同神殿」「住吉神社」…那覇市山下町西公園

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 「奥武山公園」から那覇空港に向かう途中左手に、「那覇市山下町西公園」(山下町)があります。公園奥に、「住吉神社参道」がありました。長い階段が続く参道を登っていくと、開けた場所に、「シーサー」「三つの井」「垣花三町内各拝所合同神殿」「住吉神社社殿」などがありました。沖縄では、地域ごとに各種の拝所があったのですが、戦後、宅地増設のため、まとめて合祀されている箇所が増えているようです。それにしても、「儀間の井、湖城の井、親井」「田代の神、村代の神、土帝君、火之神、地頭火之神、龍宮神、国元森の神」とは……。

 広場に、その経緯を記した「住吉神社並垣花各拝所復興記念碑」が建てられています。

 参拝後、脇道を登っていくと、「大城の殿」があり、どんどん登っていくと、「がじゃんびら公園」に着きました。「住吉神社」は、「がじゃんびら公園」がある丘の中腹にあったのです。

01-0403 山下西児童公園

02-0403

03-0403 住吉神社参道

04-0403 住吉神社参道

05-0403 シーサー

06-0403 シーサー

07-0403 親井、湖城の井、儀間の井

08-0403 垣花三町内各拝所合同神殿

09-0403 祈願する方へ告ぐ

「祈願する方へ告ぐ…・この神域は1-垣花の各拝所の神様と住吉神社と垣花のお嶽です。・拝み後の供物(線香、銭紙、白紙)等は各自でお持ち帰り下さい。・絶対に境内や周辺に捨てない事。・清潔にしてこそ貴方の拝みは神様に通じます。 垣花神社管理者」

10-0403 湖城の殿、儀間の殿

11-0403 田代の神、村代の神、土帝君

12-0403 火之神、地頭火之神

13-0403 龍宮神、国元森の神

14-0403 住吉神社社殿

15-0403 住吉神社並垣花各拝所復興記念碑

「住吉神社並垣花各拝所復興記念碑…住吉神社は往昔儀間村の地頭で甘藷の伝播栽培法を木綿織および砂糖創製などで産業界の大恩人といわれている麻氏六世儀間真常公が西暦一六一一年慶長十六年に尚寧王の随員として薩摩から帰国のときに会場守護のとして請来し当初儀間村の自宅内に法案尊崇した 祭神は表筒男命 中筒男命 底筒男命の御三神である 神社は村人達の尊崇もあって間もなく那覇港南岸の末吉森に社殿を造営し爾来三百数十年にわたり垣花三町民および県民が尊崇して来たが昭和二十年初夏の沖縄戦において社殿は滅失し米軍の港湾工事で境内に末吉森とともに海没した 戦後は垣花三町民有志が山下町の東南の地に仮社殿を造営し尊崇して来たが近年にいたり腐朽甚だしくなり再建の運びにいたった 今ここに山下町西の殿の山中中腹に良地を選び工事費二千萬円也で昭和五十六年八月二十二日起工 昭和五十七年三月十五日町内の各拝所の合同社殿も併せて造営した 住吉 垣花 山下の三町民ならびに県民の心の拠り所として尊崇し社殿復興落成を記念してその経緯を碑に刻銘し永く後世に伝承するものである 昭和五十七年壬戌三月十五日」

16-0403 大城の殿

遊ぶ!「こども」、くつろぐ!「ネコ」…奥武山公園

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 「奥武山公園・奥武山総合運動場」は、ゆいレール「奥武山公園駅」「壺川駅」のどちらからも行ける便利な場所にあり、「ジョギング」や「各種スポーツ」を楽しんでいる様子が、園内いたる所で見られます。「芝生広場」「青空パーク」では、一緒に遊んでいる親子、子どもが遊んでいる様子を眺めながら、くつろいでいる親、祖父母の姿が見られました。その近くでは、ネコが、くつろいでいます。

「奥武山総合運動場は、昭和34年6月に開設された沖縄県内初の運動公園で、モノレール「奥武山公園駅」と「壺川駅」に隣接し、那覇空港からも車で約5分という交通に便利な場所に位置しています。 公園内の施設ではNAHAマラソン等の各種スポーツ大会や武道大会、スポーツ教室等が開催され、子供から大人まで多くの方々がスポーツを楽しんでいます。また、「産業まつり」や「那覇まつり」などのイベントのメイン会場としても活用されており、県民にとって馴染みの深い施設となっています。」

引用(奥武山公園 沖縄県立武道館 - 公式サイト_jp- http://ounoyama.jp/

01-0405 奥武山公園・奥武山総合運動場施設のご案内

02-0405 奥武山公園

03-0405 のびのび芝生広場

04-0407 遊具広場

05-0405 青空パーク

06-0405 青空パーク

07-0407 青空パーク

08-0407 青空パーク

09-0407 青空パーク

10-0407 青空パーク

11-0407 青空パーク

12-0407 青空パーク

13-0407 青空パーク

14-0407 青空パーク

15-0407 青空パーク

16-0405 シーサー

17-0405

18-0405

19-0405

20-0405

21-0405

22-0405

23-0405

24-0405

25-0407 シーサーとネコ

26-0405

27-0405

奥武山周辺の歴史を学ぼう!…「改租記念碑」「天頭山」

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 奥武山公園内の「改租記念碑」「天頭山」を訪ねました。「陸上競技場」と「沖縄護国神社」の間の道を登った高台、「県立奥武山水泳プール」の裏手上方に、「改租記念碑」があります。近くには、「東京オリンピック記念若人の森」や、いくつかの拝所がありました。

01-0311奥武山周辺の歴史を学ぼう

「改租記念之文(かいそきねんのもん)…1889〜1903年の土地整理が終わったときの記念碑(ひ)で、1907年に建てられました。沖縄(おきなわ)では地租改革(ちそかいかく)にあたるのが土地整理で、古い土地制度(せいど)や税金(ぜいきん)のかけ方を根本から改める改革でした。」

「天頭山(てんとうやま)…奥武山(おうのやま)の一番高いところで、「池城山(いけぐすくやま)」と呼ばれることもあります。そこには、仏教(ぶっきょう)と関わりのある梵字(ぼんじ、古いインドの文字)で書かれたものなど、文字が記された3基(き)の碑文(ひぶん)があります。しかし、何のために誰(だれ)がたてたのか、詳しいことはわかっていません。」

02-0405 沖縄護国神社

03-0405 改租記念碑

04-0405 改租記念碑

05-0405 改租記念碑

06-0405 改租記念碑

「改租記念碑…沖縄県における土地・租税制度の抜本的改革となった土地整理事業(1899〜1903年)の完了及び、この事業を推進した第8代沖縄県知事奈良原茂(ならはらしげる、1892〜1908年在任)の実績を讃えた記念碑。記念碑の文章は、大蔵大臣、内閣総理大臣を歴任した松方正義(まつかたまさよし)の筆による。1908年7月4日、同じく建立された奈良原の銅像とともに除幕式が行われた。 1879年に設置された沖縄県では、世替(よが)わりにともなう人心の動揺を抑えるため、琉球王国時代の『旧慣温存(きゅうかんおんぞん)』の方針がとられた。国家財政の基礎となる税収入についても、王国時代の『地割制度(じわりせいど)』(一定の周期で耕す土地を割り替えること)や宮古・八重山地方の『人頭税(にんとうぜい)』など旧来の土地・租税制度により物納されたが、土地の質入・売買など土地制度の変容や徴収方法の不統一・不公平により矛盾を抱えていった。この問題を解決すべく、土地整理事業が実施された。 事業では、官・民有地の区別を明確にし、民有地での私的所有が認められ、さらに土地の所在地や収穫量などを勘案して地価を設定し、地租の課税基準が定められた。これにより、沖縄においても土地の個人所有及び土地所有者をもって納税者(金納)とする近代的な土地・租税制度が確立し、納税額による選挙権の付与など、税にもとづく近代国家体制が整備された。 なお、同時に建立された奈良原の銅像は、戦時体制下に出された金属類回収により供出されたと思われ、現在は銅像台座のみが残されている。」

07-0405

08-0405 東京オリンピック記念若人の森

09-0405

10-0405

11-0405

12-0405

 「改租記念碑」の場所から一旦降り、左方向に周り、「沖宮」方面に行きました。「沖宮」の本殿から、階段を登りきった高台に、「天頭山」があります。近くには、「ききみあぐむが節」の石碑、「すべての人の心に花を」の石碑、「うるま世界平和の塔」「包丁司」「春日大神、天照皇大神、八幡大神」の石碑などがありました。

13-0405 沖宮

参照(沖宮 (那覇市) http://www.genbu.net/data/ryukyu/oki_title.htm

14-0405 沖宮

15-0405 シーサー

16-0405 シーサー

17-0405 沖宮

18-0405

19-0405 拝殿

20-0405 拝殿

21-0405 神輿之碑

22-0405 八坂神社

23-0405

24-0405

25-0405

26-0405 日本の平和の記念樹 梛 なぎ

27-0405 日本の平和の記念樹 梛 なぎ

28-0405 天頭山

29-0405 天頭山

30-0405

31-0405 うるま世界平和の塔

32-0405 うるま世界平和の塔

33-0405 ききみあぐむが節

34-0405 すべての人の心に花を

35-0405 包丁司

36-0405 春日大神、天照皇大神、八幡大神

37-0405

奥武山周辺の歴史を学ぼう!…「心海上人の墓」「世持神社」

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 「心海上人の墓」は、奥武山公園内、「沖縄護国神社」入口手前右手にあります。墓石に「心海上人の墓」と記されていますが、入口には表示や案内板がないので、気付かないことが多いだろうと思います。墓域にある墓などについても、由来などがよくわかりません。

01-0311-心海上人の墓

「心海上人の墓…心海上人(しんかいしょうにん)は、その生い立ちなどよく分かっていません。波上護国(ごこく)寺の住職(じゅうしょく)として務(つと)めたあと、奥武山に龍洞寺(りゅうどうじ)を建て隠居(いんきょ)し、最期(さいご)は自分でお墓(はか)に入りお経(きょう)を唱(とな)えながら亡(な)くなったと伝えられています。また、『龍洞松濤(りゅうどうしょうとう)』として球陽八景(きゅうようはっけい)の一つに数えられ、山上にかなでる松風の音は遊行を楽しませる風景の優(すぐ)れた所であるとされていました。」

02-0405 沖縄護国神社

03-0407 心海上人之墓

04-0407 心海上人之墓

05-0407 心海上人之墓

06-0405 ??

07-0407 ??

08-0407 ??

 「世持神社」は、奥武山公園「県立武道館錬成棟」向かいの丘の上にあります。「鳥居」の右手に「世持神社」の石碑があり、左手には、「みなと村役場跡」の案内板があります。石段の「参道」を上って行くと、雌雄の「シーサー」が鎮座し、右手に、「産業恩人記念碑」があります。記念碑は、沖縄の産業界に貢献した「野国総管、儀間親方真常、蔡温・具志頭親方文若」の三人の功績を称えるために建立されたものです。

09-0407 世持神社

10-0407 世持神社鳥居

11-0407 参道

12-0407 シーサー

13-0407 シーサー

14-0407 産業恩人記念碑

15-0407 産業恩人記念碑

参照(世持神社 http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/okinawa/nahasi/yoji/yoji.html

参照(石碑にきざまれた野國總管 http://www.town.kadena.okinawa.jp/kadena/soukan/book/42.html

 境内には、二つの社殿があり、右側には、「恵比寿神・大黒神」が祀られていました。社殿右手奥に、「恵比須大明神、混比羅大明神、大國大明神」の石碑がありました。「世持神社」の側には、「遊具広場」があり、広場の上から、ゆいレール「奥武山公園駅」が見えました。

16-0407 世持神社社殿

17-0407 恵比寿神・大黒神

18-0407 恵比寿神・大黒神

19-0407 世持神社

20-0407 世持神社

21-0407 世持神社

22-0407 舎利禮

23-0407

24-0407 恵比須大明神、混比羅大明神、大國大明神

25-0407

26-0407 みなと村役場跡

27-0407 みなと村役場跡

「みなと村役場跡(ミナトソンヤクバアト)…沖縄戦の後、特別に設置された行政区みなと村の役場跡。 1945年(昭和20)の沖縄戦の後、米軍専用となった那覇港での米軍需物資や民間の食料品等の荷役作業は、当初日本軍捕虜によって行われていたが、捕虜の解放、本土への引き上げにより、沖縄県民約2千人の那覇港湾作業隊(なはこうわんさぎょうたい)が組織された。この作業隊及びその家族を含めて約1万人の生活・労務管理等を円滑に行うため、1947年(しょうわ22)5月1日、当時の沖縄民政府によりみなと村か設置された。初代村長には港湾作業隊の指揮を執っていた国場幸太郎(こくばこうたろう)氏が就任。役場庁舎には奥武山(おうのやま)の世持(よもち)神社の建物が使用された。 村の行政区域は、奥武山を中心に戦前の那覇市山下町、真和志(まわし)村の楚辺(そべ)・松尾(まつお)・坪川(つぼがわ)など約23万坪にも及んだ。また米軍のテントカバーで作られた規格住宅が1世帯に1棟ずつ割り当てられ、奥武山など区域ないには規格住宅が立ち並んだ。 1950年(昭和25)、港湾作業が民間の業者による請負制になったため、村存続の意義がなくなり、同年8月1日那覇市に合併し、みなと村は解消された。 設置2002年3月 那覇市市民文化部歴史資料室」

28-0407 遊具広場から見た奥武山公園駅

海外貿易品の貯蔵庫「御物城」、那覇港を守った「三重城」

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 「那覇港」沿いの道路は、「那覇港みなとまちプロムナード」として整備され、散歩やジョギングなどのコースとして最適です。「那覇港」は、琉球王朝時代、海外との貿易の拠点として、重要な港であり、海外貿易品は、海中の小島にあった「御物城」に貯蔵していました。

01-0412 那覇港みなとまちプロムナード

02-0311 御物城

「御物城(オモノグスク)…琉球王朝(りゅうきゅうおうちょう)の時代に、海外貿易品(ぼうえきひん)を貯蔵(ちょぞう)した首里(しゅり)王府の倉庫で「昔」は海中の小島でした。1884年に物産展示場(ぶっさんてんじじょう)となり、後に風月楼(ふうげつろう)という料亭(りょうてい)がそこに建てられていました。戦後は米軍施設(しせつ)内に取り込(こ)まれ、「今」は那覇軍港内にあり城郭の一部とアーチ門が残っています。また、周辺から多量の青磁(せいじ)や白磁(はくじ)などが出土しており、かつて海外と盛(さか)んに交易(こうえき)していたことを知る上で、とても貴重(きちょう)な遺跡(いせき)です。」

03-0412 那覇ふ頭船客待合所

04-0412 那覇ふ頭

05-0412 御物城

06-0412 御物城

 「三重城」はロワジールホテル那覇の裏手にあり、敷地内は国有他で、「第十一管区海上保安部那覇信号所(三重城)」が建っています。「三重城」から、那覇港に出入りする船舶や、那覇空港に離発着する航空機を見ることができます。

参照(ロワジールホテル那覇 http://www.loisir-naha.com/?cid=ovtr_PC_oknwa_LO-NAHAX_spe_br_037743

07-0311 三重城

「三重城(ミイグスク)…対岸にあった屋良座森城(ヤラザムイグスク)と同様に那覇の港を守った。今は石垣(いしがき)の一部が残り、拝所(はいしょ)として利用されている。」

08-0412

09-0412 鳥居

10-0412 参拝者各位へ

「参拝者各位へ…三重城は、皆様の安らぎと祈りの聖地です。汚さず、キレイに致しましょう。 第十一管区海上保安部」

11-0412 那覇信号所

12-0412 利用者の皆様へお願い

「利用者の皆様へお願い…第十一管区海上保安部那覇信号所(三重城)敷地内は、国有他となっています。当三重城を利用される方は、利用後ゴミ等を残さず必ず持ち帰るようご協力お願いします。」

13-0412

14-0412

15-0412

16-0412 三重城

17-0412 三重城

18-0412

19-0412

20-0412 五臓神

21-0412

22-0412 三重城ふるさと海岸

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