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ゆりユリ百合…大石公園ゆり祭り!

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 那覇市識名の「大石公園」で、「第2回大石公園ゆり祭り」が開催されました。「大石公園ゆり祭り実行委員会」の主催で、共催として、「識名1丁目自治会、三原自治会、繁多川自治会、上間自治会、識名自治会、真地自治会、真和志町自治会、長田1丁目自治会、沖縄女子短期大学後援会、那覇市識名市営住宅自治会、大石公園ヒージャー愛好会、真和志町スポーツ愛好クラブ……」、多くの自治会、愛好会、クラブが名を連ねています。「那覇市、那覇市教育委員会、伊江村……」が後援し、会期は、4月5日〜13日(8日間)でした。

02-0413 第2回大石公園ゆり祭り

03-0413 大石公園

04-0413 大石公園ゆり祭会場

05-0413 大石公園

06-0413 各自治会のぼり

07-0413 各自治会のぼり

08-0413 各自治会のぼり

09-0413 大石公園ゆり祭り

 「大石公園」遊具広場周囲の堤には、多くのゆりが咲き乱れています。まだ、つぼみのものも見られます。ゆりユリ百合……。「ゲートボール」「サッカー」「テニス」を楽しんでいる人もいます。訪ねたのが朝9時頃で、少し早かったのか、遊具で遊ぶ子どもの姿はあまり見られませんでした。近くの「識名小学校」のグラウンドで、サッカーをしている児童の姿が見えました。

12-0413 ゆりユリ百合

16-0413 ゆりユリ百合

20-0413 ゆりユリ百合

22-0413 ゆりユリ百合

26-0413 ゆりユリ百合

28-0413 ゆり

31-0413 ゆり

32-0413 ゆりユリ百合

35-0413 切り絵の世界

36-0413

37-0413

38-0413

39-0413

43-0413 テニスコート

44-0413 識名小学校

参照(那覇市立識名小学校 http://sikin-es.nahaken-okn.ed.jp/index.jsp

49-0413 大石公園

 


山之口獏 詩碑「座布団」を眺めながらくつろぐ…与儀公園

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 那覇市寄宮の「与儀公園」に、「山之口獏詩碑」があります。那覇市民会館側の通路を通り、公園に入った右手の所です。

 与儀公園は、那覇市最初の都市計画公園の一つで、沖縄県立図書館、那覇市立図書館、那覇市民会館と隣接しています。園内では、散歩・ウォーキング・ジョギングをしたり、ベンチに腰掛けくつろいだりしている姿が見られます。年齢を重ねた「ガジュマル」や「カンヒザクラ」「ヤシ」などに加え、季節の花が植えられています。

 公園内には、広場、野外ステージが整備され、年間を通し、各種のイベントが開催されます。「D51形蒸気機関車」も見られ、「山之口獏 詩碑」「恒久平和」の石碑などがありました。

01-0412 与儀公園

02-0412 シーサー

03-0412 シーサー

04-0412 蒸気機関車D-51

05-0412 山之口獏 詩碑

06-0412 山之口獏 詩碑

07-0412 山之口獏 詩碑

「山之口貘 詩碑(やまのぐちばくしひ)那覇市寄宮1丁目与儀公園内…1975年7月、貘の十三回忌に合わせ、山之口貘詩碑建立期成会(代表宮里栄輝、みやざとえいき)により建てられた詩碑。碑文には、1935年に発表された「座布団(ざぶとん)」が刻まれている。 山之口貘は、本名を山口重三郎(やまぐちじゅうさぶろう)といい、父重珍(じゅうちん)、母カマドの三男(四男三女の第五子)として1903年9月11日、那覇区東町(当時)に生まれた。沖縄県立第一中学校(首里高等学校の前身)在学中から新聞などに詩を投稿。その後、山城正忠(やましろせいちゅう)、国吉真哲(くによししんてつ)等とともに『琉球詩壇連盟』の結成に参加し、この頃から『山之口貘』のペンネームを使用した。1925年2度目の上京を果たし、職を転々としながらも文学者佐藤春夫や金子光晴等の支援を受け詩を発表した。 処女詩集『思弁の苑』(1938年)、『山之口貘詩集』(1940年)、太平洋戦争後には、『定本山之口貘詩集』(1958年)を発表した(第二回高村光太郎賞受賞)。1958年11月、34年振りに帰郷し、親族・友人等の歓迎を受け、2ヵ月近く滞在した。 1963年7月19日、胃ガンのため死去、享年59。千葉県松戸(まつど)市の八柱(やばしら)霊園に葬られた。死後4冊目の詩集『鮪(まぐろ)に鰯(いわし)』(1964年)が発表され、金子光晴はその本の中で、『貘さんは第一級の詩人で、その詩は従って第一級の詩である』と賞賛した。 未発表の作品を含む直筆原稿約7,500点余りは、遺族により沖縄県立図書館へ寄贈され、2010年11月『山之口貘文庫』として開設された。」

参照(山之口貘文庫 詩人が残した沖縄への遺産 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-167200-storytopic-154.html

参照(山之口貘詩碑説明板除幕式 http://www.city.naha.okinawa.jp/wk_simin/snap_snap/y2011/m09/0915yamanoguti.htm

08-0412 山之口獏 詩碑(座布団)

土の上には床がある/床の上には畳がある/畳の上にあるのが座蒲団で/その上にあるのが楽といふ/楽の上には/なんにもないのであらうか/どうぞおしきなさい/とすゝめられて/楽に坐ったさびしさよ/土の世界をはるかに/みおろしてゐるやうに/住み馴れぬ世界が/さびしいよ/山之口獏

09-0412 恒久平和

10-0412

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18-0412

 山之口獏の「喪のある景色」は、何度も読み返している詩の一つです。

うしろを振りむくと/親である/親のうしろがその親である/その親のそのまたうしろがまたその親の親であるというように/親の親の親ばっかりが/昔の親へとつづいている/まえを見ると/まえは子である/子のまえはその子である/その子のそのまたまえはそのまた子の子であるというように/子の子の子の子の子ばっかりが/空の彼方へ消えいるように/未来の涯(はて)へとつづいている/こんな景色のなかに/神のバトンが落ちている/血に染まった地球が落ちている

沖縄の歴史遺産・自然を装飾!…明治橋の欄干・歩道

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 明治橋は、「国場川」に架けられ、通堂町・東町と奥武山町・垣花町方面を結ぶ道路橋で、県内各方面につながる幹線道路となっています。奥武山公園と那覇港の間にあり、国道58号線と332号線の終点、331号線の起点でもあります。

 「明治橋の由来」を読み、橋周りの装飾を撮影しました。橋の欄干には、「極楽鳥の図、玉取り獅子の図、群れる魚と波の図、鳳凰乱舞の図、鶴と亀の図、麒麟の図」などが掲げられ、歩道には、「ハイビスカス、イジュ、アダン、ノボタン、キワタノキ、グンバイヒルガオ、ブーゲンビリア、トケイソウ、アラマンダ、ミフクラギ、ゲットウ、オーハマボー、ケラマツツジ、プルメリア」が描かれています。周辺離島や外国の都市の名前と方角を示しているものもありました。

「明治橋(めいじばし)は沖縄県那覇市にある長さ128m、片側3車線の橋で、北側に通堂町と東町、南側に奥武山町と垣花町がそれぞれ接している。那覇空港・沖縄本島南部と那覇市街地・沖縄本島中北部とを結ぶ沖縄県の大動脈といえる道路橋で、橋の南端部は国道58号と国道332号の終点(後者は国道331号と重複)、国道331号の起点(1993年3月までは終点)となっており、道路中央にはそれを示すモニュメントがある。明治時代の1883(明治16)年に最初の橋が完成、現在の橋は4代目(戦後2代目)で1987(昭和62)年3月に完成した。…また2003年には沖縄都市モノレール(ゆいレール)開通にあわせて、明治橋より東側に位置し壺川駅のある同市壺川の国道329号那覇東バイパスと奥武山町の奥武山公園との間に北明治橋(歩行者専用道路橋)が完成した。」

引用(明治橋 (那覇市) - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E6%A9%8B_(%E9%82%A3%E8%A6%87%E5%B8%82

 

01-0413 331号線起点

02-0413 58号線終点

03-0413 明治橋の由来

04-0410 明治橋の由来

「明治橋の由来…国場川は、沖縄本島南部(島尻)を西に流れて東シナ海(那覇港)に注ぐ県内随一の河川である。琉球王国時代、この川を横断して国都首里と南部を結んだのは真玉橋(建立一九一一年)であった。 そのとき建てられた『真玉橋碑文』によれば、その年首里から南部一帯に至る道が敷設され、橋が架けられた。その目的は、一般の交通に供することと外敵侵入の際に首里及び周囲の軍勢が、那覇港南岸の垣花に集結できる態勢をつくるためであった。 那覇は、王国時代に商業都市として隆盛したが、明治十二(一八七九)年廃藩置県により政治の中心が首里から移り県都となった。そのため那覇にも南部を結ぶ新たな橋が必要となった。 それまで那覇と対岸の垣花を結ぶ交通は、もっぱら船に頼っていた。那覇側は渡地(わたんじ)と呼ばれていたが、その渡地と垣花を結ぶ橋が初めて架けられたのは、明治十六(一八八三)年のことで、年号にちなみ『明治橋』と命名された。 この橋は木製で、御物城(交易品を納めた倉)より海寄りに架けられた。渡橋賃は一人三厘・人力車六厘・駕籠一銭で、島尻の十四間切が架橋、運営した。 明治二十六(一九〇三)年、橋の位置を御物城の手前、奥武山寄りに移し、南北二橋に架けかえ、『北明治橋(長さ六〇間)』『南明治橋(長さ五〇間)』と呼んだ。 幾度かの改修を経て本格的な架替が昭和十五(一九四〇)年に始まり、十六年に北明治橋が、翌十七年に南明治橋が完成した。北明治橋の位置は現在の橋とほぼ同じ位置であった。 しかし、この橋は昭和二十(一九四五)年の沖縄戦中に日本軍の手により戦術爆破されたとされる。 戦後、米軍により橋は復旧されたが、両明治橋はその後の埋め立てで姿を消した。 昭和二十八(一九五三)年、旧明治橋(長さ一〇一メートル)が架設された。下部は鉄筋コンクリート、上部は綱板構造であった。 昭和四十七(一九七二)年、沖縄は本土復帰を果たし急速に経済復興をとげてきたが、むそれにつれて交通量も増大し加えて塩害を受け、橋の老朽化が著しいため、昭和五十七(一九八二)年から架替に着手された。 新橋は、親柱に沖縄のシンボル旧首里城正殿の龍柱を据えるとともに、高欄、羽目板、歩道などにも沖縄の歴史遺産や自然を装飾して、表玄関にふさわしい橋にした。 昭和六十二年三月」

05-0413 明治橋

06-0413 明治橋

07-0410 龍柱

09-0413 国場川

10-0413 国場川

14-0413 明治橋

16-0413 那覇港

18-0413 御物城

20-0413 玉取り獅子の図

21-0413 玉取り獅子の図

22-0413 群れる魚と波の図

23-0413 麒麟の図

24-0413 鶴と亀の図

25-0413 極楽鳥の図

27-0413 西-久米島

29-0413 西-ニューデリー

32-0413 東-メキシコ、パナマ

34-0413 東-南北大東島

36-0413 ハイビスカス

37-0413 イジュ

38-0413 アダン

39-0413 ノボタン

40-0413 キワタノキ

41-0413 グンバイヒルガオ

42-0413 ブーゲンビリア

43-0413 トケイソウ

44-0413 アラマンダ

45-0413 ミフクラギ

46-0413 オーハマボー

47-0413 ケラマツツジ

48-0413 ゲットウ

49-0413 プルメリア

51-0413 明治橋

那覇の歴史・文化を学ぼう!…「ガジャンビラ」「落平」「ガーナー森」

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 「ガジャンビラ」は、那覇市垣花町、国道331号線山下高架道わきの旧道、港側にあります。高架道向かいに、「沖縄通関社」などが見える場所です。説明板付近から、那覇港を見渡すことができました。

01-0311 ガジャンビラ

「ガジャンビラ…ガジャンは「蚊」、」ヒラは「坂」の方言です。昔、中国から持ち帰ったブンブンと歌う珍(めず)しい虫(蚊、か)をこの坂で逃(に)がしてしまったことからついたと言われています。」

02-0413 ガジャンビラ

03-0412 ガジャンビラ

「ガジャンビラ(那覇市垣花町3丁目)…那覇垣花(なはかきのはな)から小禄安次嶺(やろくあしみね)にいたる坂道の名称。付近一帯を指す地名にもなっている。琉球王国時代、中国からの使節(冊封使)は、この地をさして『儀間山(ぎまやま)』・『筆架山(ひつかざん)』と記しているが、1877年(明治10)刊行の『沖縄志』(伊地知貞馨著)の那覇港図には、『蚊坂(ガジャンビラ)』とあり、ガジャンビラと呼ばれていたことがわかる。 名称の由来は定かではないが、『南島風土記』(東恩納寛惇著)は、坂の付近に住む人名または屋号をとって、『我謝の坂(ガジャヌヒラ)』から転訛したものではないかと記している。一方、那覇の民話は『昔、中国から持ち帰ってきた蚊が、この坂の上で逃げてしまい、ここから琉球国中に広まった』と、伝えている。 1905年(明治38)に始まった垣花と糸満(いとまん)村を結ぶ県道工事により、ガジャンビラの坂道は整備され、1918年(大正7)には馬車軌道も敷設された。坂の両側や付近の丘陵には松が生い茂り、また、坂の頂上からのすばらしく、眼下に見下ろす那覇街並みは、絵画や絵ハガキの題材にもなっている。 沖縄戦の後、坂一帯は米軍基地となったが、1972年(昭和47)の日本復帰後、ガジャンビラを含む旧県道は、那覇糸満間の幹線道路国道331号線として整備された。1984年(昭和59)には国道331号線山下高架道開通により、ガジャンビラの一部は旧道となった。 設置 2003年3月 那覇市市民文化部歴史資料館」

04-0412 ガジャンビラ

05-0412 ガジャンビラ

06-0412 那覇港方面

07-0412那覇港方面

08-0412 国道331号線山下高架道

 「落平」は、那覇市山下町の「沖縄県住宅供給公社」入口右手、道路側にありました。道向かいには、「沖縄セルラースタジアム那覇」がある場所です。

09-0311 落平

「落平(ウティンダ)…『昔』は那覇の井戸(いど)は塩辛(しおから)水で飲料水には使えませんでした。そこで、対岸の落平(ウティンダ)より湧き出る水を、水桶(ハジ)を積んだ伝馬船(でんません)で那覇に運び売り、飲み水として歩く『水売り』が見られました。」

10-0413 落平

11-0413 落平

12-0413 沖縄県住宅供給公社

13-0413 沖縄セルラースタジアム那覇

 「ガーナー森」は、「沖縄県立小禄高等学校」のすぐ側にある丘です。「ゆいレール」奥武山公園駅の近くで、「焼肉屋の駐車場」に隣接しています。近くには、「鏡原保育園」「那覇市療育センター」などがあります。

14-0311 ガーナー森

「ガーナー森(ムイ)…『昔』は離(はな)れ小島だったガーナー森(ムイ)を中国から来た冊封使(さっぽうし)たちは、その形から『鶴頭山(かくとうざん)』とよび、周辺は漁舟夕照と詠まれ漁船が夕日に照らされ風景の美しい名勝地でした。ガーナー森の名は、その小島が、ガーガーとうるさい鵞鳥(がちょう)が棲(す)んでいたのでついたとか、タンコブ(ガーナー)のようだからついたなどといわれています。また、ナハキハギの群生(ぐんせい)する最北の地として那覇市の天然記念物に指定されています。」

15-0413 ガーナー森

16-0413 ガーナー森

「ガーナー森(ムイ)那覇市指定文化財 名勝・天然記念物 指定 1974年(昭和49)年12月2日…昔の写真を見るとガーナー森は、国場川河口(漫湖、まんこ)の中にある小さな島でした。現在の国場川(こくばがわ)河口周辺は大半が埋められてしまい、ガーナー森も地続きになっています。かつて、奥武山(おうのやま)からガーナー森にかけての景色は、名勝地として有名でした。 この森にはナハキハギが群落をなして生育しています。ナハキハギは、アフリカ・オーストラリア・インド・東南アジア・太平洋諸島・中国大陸・台湾などに分布するマメ科植物です。沖縄県では、西表島、石垣島、沖縄島などの海岸に生育しています。沖縄島はナハキハギの北限地になっています。 尚敬(しょうけい)王の冊封副使(さっぽうふくし)の徐保光(じょほこう、1719年来琉)は、那覇港から国場川河口にかけての景色の良さを『漁舟夕照(りょうしゅうせきしょう)』とほめています。また、尚温(しょうおん)王の冊封副使李鼎元(りていげん、1800年来琉)も、2度奥武山に遊びガーナー森を『鶴頭山(かくとうさん)』と詠んだ詩を残しています。 ガーナーとは、『たんこぶ』のことです。形が似ていませんか。また、ガチョウもガーナーというようです。このガーナー森と真玉橋(まだんばし)についての話も残っています。この森は歴史的にも名勝として知られ、ナハキハギの群落のある大切な記念物です。 那覇市教育委員会 平成14年3月設置」

17-0413 ガーナー森

18-0413 ガーナー森入口

19-0413 ガーナー森参道

20-0413 ??

21-0413 ガーナー森御嶽神

22-0413 周辺拝所

23-0413 隣接する焼肉屋駐車場

24-0413 小禄高等学校のすぐ側

25-0413 鏡原保育園、小禄高等学校

参照(沖縄県立小禄高等学校 http://www.oroku-h.open.ed.jp/

参照(鏡原保育園❘沖縄県那覇市 http://www.ans.co.jp/u/kakinohana/kyohara/index.html

参照(障害児通所支援事業所一覧  那覇市 Naha City http://www.city.naha.okinawa.jp/kakuka/kodmomirai/ryoiku/

26-0413 周辺道路

那覇市内が一望できる憩いの場所!…「がじゃんびら公園」

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 「がじゃんびら公園」(那覇市金城1丁目)は、「国道331号線山下高架道」東側に隣接する、丘陵地帯にあります。近くには、「沖縄県立那覇西高等学校」「那覇市立垣花小学校」などがあります。公園入口は数カ所あり、階段を上って園内に入ります。公園西側の階段を上っていくと、「洞穴」がありました。鍾乳石が伸びている洞穴を見ていると、ネコが数匹、出入りしていました。園内には、幾何学的模様のある広場があり、広場の端に歩道橋があります。橋の上からの眺めは格別でした。那覇市内を見渡すことができ、那覇港方面も、よく見えます。広場わきに、「月のフェウス」の彫塑があり、近くに、「麻央とMIKIの樹」と書かれた小さな説明板と、ガジュマルの樹がありました。

 広場には、「オートサウンドシステム」が施され、足跡の上に立つと、美空ひばりの「花風の港」が流れます。歌碑を建立したのは、「石原エミ」さんです。

参照(石原エミのブログ http://emi88.blog.fc2.com/

参照(石原エミ 花風の港.wmv - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=LXMtJBFcjAs

03-0412 がじゃんびら公園方面

04-0407 公園利用者へのお願い

05-0407 洞穴

06-0407 洞穴

08-0407 洞穴の主

11-0407 歩道橋

12-0407 月のフェウス

14-0407 麻央とMIKIの樹

15-0407 歩道橋

16-0407 那覇港方面

20-0407 那覇港方面

23-0407 公園広場

24-0407 公園広場

25-0407 オートサウンドシステム

27-0407 花風の港

29-0407 花風の港、愛燦々

「オートサウンドセンサー…花風の港 愛燦々 作詞作曲 小椋 佳 唄 美空ひばり 二〇〇三年六月二十一日 建立 石原エミ」

30-0407 美空ひばり賛歌

「美空ひばり賛歌…ここは沖縄神の島 世界平和を祈る ひばりも今は天高く 世界平和を唄っている 世界平和を唄っている(作詞作曲 石原エミ)」

32-0407 歌碑建立者石原エミ

「歌碑建立者 石原エミ…太平洋戦争(一九四五年)終戦後、我が国唯一の住民を巻き込んだ地上戦が展開され、焦土と化した沖縄県で、戦後の復興のため懸命に立ち上がった多くの人々の心に、一筋の希望の光と生きる勇気と大きな夢を与え続けたのが日本の歌姫、美空ひばりさんの歌声でした。 平和の使者美空ひばりさんへの恩返しになればとの強い思いから、太平洋戦争の真珠湾攻撃の月日と同じ平成九年十二月八日、美空ひばりさんの一五〇〇曲余の詩歌の中で唯一沖縄県と関係があり、琉舞の花風をモチーフにしたとされる『花風の港』の詩歌を建立するとともに、歌碑の前に立つと美空ひばりさんの『花風の港』の歌声が流れるオートサウンドシステムを設置しました。 那覇市街が一望でき、風光明媚な『がじゃんびら公園』は、訪れる者の心を和ませ、市民のみなさまの憩いの場所になっております。 『がじゃんびら公園』に建立した歌碑を通して、沖縄県をはじめ、日本全国、そして海外の平和を願う多くの心が一つになり、世界の平和が築かれることを心から願っております。 三重城に登て(三重城に登って) 手さーじ持上れば(手ーさーじを振って愛しい人を見送れば) 早舟ぬ なれや(舟が余りにも早く) 一目ど 見ゆる(一目しか見ることが出来なかった) (作者不詳) 二〇〇七年五月二九日 石原 エミ」

33-0407 歩道橋

34-0407 石敢當

36-0407 園内散策路

37-0407 アマリリス

39-0407 アマリリス

40-0407 アイドリングストップ

 

乗り物コーナー、こいのぼり、壁面装飾!…沖縄子どもの国

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 沖縄市胡屋5丁目の「沖縄こどもの国」には、「ふるさと園」「乗り物コーナー」「バードウォッチングデッキ」「中央公園」「レストラン『アクア』」「パーラー・売店」などがあります。公園外の高台には、コザ市時代に建設された「展望台」があり、沖縄市内や近隣市町村などを一望することが出来ます。

 「胡屋配水池」タンク壁面は、「沖縄こどもの国」の動物のイラストが描かれていました。入口駐車場から、「沖縄こども未来ゾーン入口」に向かうと、入口左手壁面に、動物のイラストが鮮やかに描かれていました。「ワンダーミュージアムリニューアルオープン:平成26年4月19日(土)」と関係があるのでしょうか。園内には、多くの「こいのぼり」が、風に吹かれて泳いでいます。もうすぐ5月です。

参照(沖縄こどもの国  http://www.kodomo.city.okinawa.okinawa.jp/index.shtml

01-公園駐車場

02-0418 展望台

07-0418 胡屋配水池

09-0418 展望台

11-0418 園内

13-0418 園内

17-0418 沖縄こども未来ゾーン入口

19-0418 こいのぼり

20-0418 こいのぼり

21-0418 壁面装飾

22-0418 壁面装飾

23-0418 壁面装飾

24-0418 壁面装飾

26-0418 壁面装飾

28-0418 壁面装飾

30-0418 壁面装飾

31-0418 壁面装飾

33-0418 壁面装飾

34-0418 壁面装飾

35-0418 壁面装飾

36-0418 壁面装飾

37-0418 壁面装飾

38-0418 壁面装飾

39-0418 壁面装飾

40-0418 壁面装飾

41-0418 壁面装飾

42-0418 壁面装飾

43-0418 壁面装飾

46-0418 壁面装飾

48-0418 壁面装飾

52-0418

53-0418

54-0418

59-0418 ご来場ありがとうございます

都心のオアシス!福州園(春景色)

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 那覇市久米の「福州園」は、中国福州市と那覇市との友好締結10周年と那覇市市制70周年の記念事業として造られたもので(1992年完成)、福州の名勝「干山・ 烏山・屏山」「白塔・烏 塔」「閠江」などをイメージし、池や築山、滝、植栽や彫刻などが、遠近法を用いて、巧みに配置されています。都心のオアシスとして、見る人の心を癒してくれます(入場無料)。那覇商業高校に隣接した、「松山公園」の向かいにあります。

参照(福州市 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B7%9E%E5%B8%82

「福州園…福州園中国福州市と那覇市との友好締結10周年と那覇市市制70周年の記念事業として造られたもので、面積8,500平方メートルで1992年9月に完成した。かつて琉球の大交易時代、沖縄の文化に大きな影響を与えた中国の建築様式で、福州の名勝をイメージした「千山、烏山、屏山」「白塔・烏塔」「閠江」などを配置しており、雄大な自然を描写した池や築山、滝、植栽や彫刻などが訪れる人々に、しばし都心にあることを忘れさせる景観を呈しています。那覇市役所(公園管理課)」

01-0412 福州園大門

02-0412

03-0412

04-0412 福州園利用者の心得

05-0412 福州園大門

06-0412 福州園の建設について

「福州園の建設について…福州園は、那覇市制70周年記念並びに那覇市と中国福州市の友好都市締結10周年記念事業として建設いたしました。 建設に当たっては、福州市産の資材を使用し、福州市が工事の基本設計、木造・石造物の加工及び技術指導を行いました。 福州園を、那覇市と福州市の友好の証として、後世に伝えたいと思います。平成4年9月3日 那覇市長 親泊康晴」

07-0412 相思泉

08-0412

09-0412 凌波廊

10-0412 凌波廊

11-0412 碧水

12-0412 鳳凰

13-0412 亀

14-0412 迎春

15-0412 鶴

16-0412 獅子

17-0412

18-0412 知春亭

19-0412 万寿橋

20-0412

21-0412 万寿橋

22-0412 万寿橋、知春亭

23-0412 知春亭

24-0412 ね(鼠)

25-0412 うし(牛)

26-0412 とら(虎)・う(兎)

27-0412 たつ(竜)

28-0412 み(蛇)

29-0412 うま(馬)

30-0412 ひつじ(羊)

31-0412 さる(猿)・とり(鶏)

32-0412 いぬ(犬)

33-0412 い(猪)

34-0412 万寿橋

戦没者の冥福を祈り、世界の恒久平和を希求!…「一中健児の塔」

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 那覇市首里金城町にある「社団法人養秀同窓会」敷地には、養秀同窓会館、一中健児之塔、戦没者刻銘碑、養秀植物苑、弓道場などがあり、「慰霊の日(6月23日)」には、首里高校職員生徒が、式場の設営・式の進行などを分担し、「一中健児之塔の慰霊祭」が行われます。弓道場では、弓道部生徒の部活動が行われています。

01-0407 一中健児之塔、養秀会館

02-0407 参拝者・会員・関係者は

「一中健児之塔 一中学徒隊資料展示室 養秀文庫 …参拝者・会員・関係者は御自由にお入り下さい。その他の方は、事務局へお問い合わせ下さい。 養秀開館 社団法人養秀同窓会」

参照(社団法人・養秀同窓会公式サイト・一中健児之塔 http://www.youshu.com/icchu_kenjinotou.php

参照(沖縄県立首里高等学校公式サイト http://www.shuri-h.open.ed.jp/

03-0407 一中健児之塔案内板

04-0407 一中健児之塔案内板

「一中健児之塔…第二次世界大戦の最中、昭和二十年三月二十七日、沖縄県立第一中学校(首里高等学校の前身)においては、米軍の砲爆撃下この地で異例・悲壮な卒業式が挙行され、第五学年生と第四学年生が同時に卒業し、ただちに第三学年生と共に鉄血勤皇隊が編成され、第五砲兵司令部に配属された。また、前年十一月から通信隊要員として教育訓練を受けていた第二学年生は、三月二十八日、少年特別志願兵として電信兵第三六連隊に入隊を命ぜられ、各無線中隊に配属された。 鉄血勤皇隊、通信隊の学徒兵は、郷土防衛の若い血潮を燃やしつつ、陣地構築、通信、伝令、弾薬・糧食の運搬、戦傷兵の輸送その他の任務に精魂を傾け、熾烈な砲爆撃下に決死敢闘、対戦車肉薄攻撃、挺身斬込みに参加し、終始軍の一員としてその責務を遂行した。 非戦闘員であるべき学業半ばの年端もゆかぬ二百有余の学徒兵は、いまだかたい蕾のまま散華した。 先の戦争では、教職員、学徒兵を含め、八百有余の同窓の方々が戦没された。まことに痛恨のきわみである。 昭和十五年の沖縄県立第一中学校創立六十周年記念事業として養秀寮が建設されたゆかりのこの地に、一中健児之塔を建立し、志むなしく斃れた一中健児を追慕し、謹んで御冥福を祈り、世界の恒久平和を希求する。 社団法人 養秀同窓会」

05-0407 養秀会館

06-0407 養秀同窓会

「養秀同窓会開館敷地内には、一中健児之塔、戦没者刻銘碑、鉄血勤皇隊防空壕などの史跡と、『養秀植物苑』があり、現在、使節整備などの工事を進めています。 構内での参観、散策の際は、足元に気をつけて、事故のないよう、ご注意願います。 社団法人養秀同窓会」

07-0407 一中健児之塔

08-0407 一中健児之塔

09-0407 供養地蔵

10-0407 供養地蔵

11-0407 沖縄縣立第一中学校沖縄戦戦没者刻銘碑

「沖縄縣立第一中学校 鐵血勤皇隊 通信隊 学徒兵並職員 沖縄戦戦没者…沖縄縣立第一中学校は昭和二十年(一九四五年)沖縄戦に際し軍命により 藤野憲夫校長以下職員生徒一同が 一中鐵血勤皇隊の一隊を結成し 二年生は軍の通信隊要員として動員され 終始軍と行動を共にし 年若い一年生も戦火に巻き込まれ その多数が尊い生命を学業半ばに散らしたことは痛恨の極みである 養秀同窓会は 國学創建二百年 沖縄縣立第一中学校 首里高等学校創立百二十周年記念事業として 戦没者の氏名を刻印し 御霊を慰め かかる事が再び起きない様に 永遠の平和を祈念する」

12-0407 一中健児之像

13-0407 養秀の杜・植物苑

14-0407 養秀の杜・植物苑

15-0407 養秀の杜・植物苑

16-0407 養秀の杜・植物苑

17-0407 養秀の杜・植物苑

18-0407 養秀の杜・植物苑

19-0407 これから先は

「これから先は、霊域として整備を始めました。 木の苗を植えたり木々の剪定をしています。 先日はハブも捕獲されました。社団法人養秀同窓会」

20-0407 弓道場

21-0407 弓道場

22-0407 弓道場

23-0407 弓道場

24-0407 弓道場

25-0407 弓道場

参照(鉄血勤皇師範隊として…「沖縄師範健児の塔」 - 結〜つなぐ、ひらく、つむぐ〜 http://blog.goo.ne.jp/nrai5029knai/e/d775d527892a2350ec8c580f07baeb17


大角座、首里支庁跡、龍潭…首里地域の史跡・旧跡

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 那覇市首里赤田交差点にある「大角座」は、県道82号線に4本の道が交叉する六叉路の交差点で、方言の「大きな顎」から名付けられた(「大角座」は当て字)といわれています。王国時代、大角座は、首里から与那原、弁ケ嶽方面に向かう三叉路であり、近くには、「東御廻」などに出かけた際の「坂迎」の場所「赤田御待所」がありました。

01-0421 大角座

02-0421 大角座

03-0421 大角座

04-0421 大角座

05-0421 大角座

06-0421 大角座

「大角座(ウフカクジャー)…この地の交差点の通称名称。道が大きくカーブした形状を、大きく張った顎(あご、方言でカクジ)にみたて、『大きな顎(ウフカクジャー)と名付けられたというが、詳細は不明。『大角座(おおかくざ)』はその当て字。 王国時代、大角座は、首里(しゅり)から与那原(よなばる)、弁ケ嶽(べんがだけ)方面に向かう道が分かれる三叉路(さんさろ)であった。大角座からわずかな所に『赤田御待所(あかたウマチドゥクル)』があり、『東御廻(アガリウマーイ)』など遠方に出かけた際の『坂迎(サカンケー)』(迎接、げいせつ)の場所であった。 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)以降に、与那原方面の里道(りどう、現市道鳥堀南線)が開かれ、1933年(昭和8)頃、大角座から汀良(てら)・石嶺町(いしみねちょう)へ伸びる首里2号線(現市道鳥堀石嶺線)が開通した。 1945年(昭和20)の沖縄戦後、米軍により大角座周辺の道が開かれ、その後、県道82号線として整備された。現在、大角座の交差点は82号線に4本の道が交叉する六叉路(ろくさろ)の交差点となっている。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

 沖縄県立芸術大学の第二キャンバス入口に、旧首里の行政を担った役所跡「首里支庁跡」があります。琉球王国時代、王都として栄えた首里の役所は、沖縄県設置(琉球処分)後、何度かの変遷を経て、現在は、首里久場川町にあります。

07-0421 県立芸大通り

08-0421 沖縄県立芸術大学

09-0421 沖縄県立芸術大学周辺案内図

参照(トップページ  沖縄県立芸術大学_jp- http://www.okigei.ac.jp/

10-0421 第二キャンバス

11-0421 第二キャンバス

12-0421 第二キャンバス

13-0421 第二キャンバス

14-0421 首里支庁跡

15-0421 首里支庁跡

16-0421 首里支庁跡

「首里支庁跡(シュリシチョウアト)…旧首里の行政を担った役所跡。 琉球王国時代、王都として栄えた首里は、真和志平等(まわしぬひら)、南風平等(はえぬひら)、西平等(にしぬひら)の『首里三平等(しゅりみひら)』と呼ばれる3つの行政区域の総称で、それぞれの平等に役所が置かれていた。 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)により、王家の別邸であった大美御殿(ウフミウドゥン、現首里高校敷地の一部)に首里の仮役所が置かれ、三平等の役所は廃止された。1886年(明治19)頃、首里役所は、円覚寺(えんかくじ)の隣接地(現在地)に移転した。 1896年(明治29)、首里と那覇(なは)に区制がしかれ、1921年(大正10)5月20日、那覇区とともに、沖縄県で初めて市制が施行された。 この間、県庁所在地として政治・経済的に発展した那覇に対し、王国解体後、人口流出が続いた首里では、区域拡張が図られ、隣接する西原間切(にしはらまぎり、現西原町)から平良(たいら)・石嶺(いしみね)・末吉村(すえよしむら)などを編入した。その後も、首里城など王国時代の建造物の国宝指定や、郷土博物館・市立図書館の設置など、首里市は、文教都市としての発展を図り、昭和10年代には、役所名も首里支庁と改めた。しかし、沖縄戦において、首里城地下に日本軍の司令部壕が置かれたため、壊滅的な被害を被った。 沖縄戦後の首里市の復興は、1945年(昭和20)12月14日の首里建設先発隊の派遣に始まり、翌年市役所も再開された(現首里中学校隣接地)。1950年(昭和25)年2月、市役所は中城御殿(ナカグスクウドゥン)跡地南西隅に移転、1954年(昭和29)9月には、那覇市との合併により那覇市に編入され、市役所は、那覇市役所首里支所となった。1966年(昭和41)に首里支所は首里当蔵町(とうのくらちょう、現首里公民館隣接地)へ移転し、2010年(平成22)12月、首里久場川町(くばがわちょう)へ移転した。 戦前の首里支庁跡地は、1950年に開学した琉球大学の体育館敷地となり、琉球大学移転後、1986年(昭和61)に開学した沖縄県立芸術大学附属図書館の敷地となった。 なお、那覇市との合併後、首里の名を残そうと、元の首里地域の町は、首里を冠した住所表示となった。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

17-0421 県立芸大通り

18-0421 県立芸大通りの食事処

 「龍潭」のほとりに、「祝第17回こいのぼり大会 主催 首里文化祭実行委員会」の横幕があり、池の上にロープを張り、「こいのぼり」がセットされていました。すぐ近くに「城西小学校・城西幼稚園」があります。こいのぼりは、幼稚園児が創ったものと思われますが……。

参照(那覇市立城西小学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/jouse-es/

19-0421 龍潭-こいのぼり大会

20-0421 龍潭-こいのぼり大会

21-0421 龍潭-こいのぼり大会

22-0421 龍潭-こいのぼり大会

23-0421 龍潭-こいのぼり大会

24-0421 龍潭-こいのぼり大会

25-0309 城西小学校

馬勝負・馬揃い…「平良真地跡」、宝口の芭蕉紙…「紙漉き所跡」

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 「平良真地跡」は、「大名児童館」「大名公民館」近くにある、かつての馬場跡です。琉球王国時代には、松並木(約300m)の間で、「馬勝負」「馬揃い」が行われ、馬場のほぼ中央には、国王が見物する「御桟敷」があり、東端には、馬を水浴びさせる「馬浴せ小堀」がありました。琉球処分後は、首里城に置かれた沖縄神社の例祭日に奉納競馬が行われ、飾り立てた馬200頭余りが、守礼門側の記念運動場から、平良真地まで行進し、多くの見物客が訪れました。

01-0303 大名児童館

02-0422 大名児童館

参照(大名小学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/oona-es/

03-0422 大名町公民館

04-0422 大名界隈歴史マップ

05-0421 平良真地跡

06-0422 平良真地跡

07-0421 平良真地跡

08-0422 平良真地跡

09-0422 平良真地跡

「平良真地跡(テーラマージアト) 平良真地遺跡 那覇市首里大名町1丁目…馬の調教及び競馬場跡。 琉球・沖縄における競馬は、『馬勝負(ンマスーブ)』・『馬揃い(ンマスリー)』といい、前後の足を同時に、左右同時に繰り出すのを特徴とした(『側対歩(アシクマスン)』)。また、馬具の華やかさ、乗り手の凛々しさなどが勝負の対象となった。 平良真地は、『平良馬追い(テーランマイー)』ともいい、識名真地(シキナマージ、馬場)とともに琉球王国の二大馬場であった。1695年、首里(しゅり)の北、西原間切平良村(にしはらまぎりたいらむら、現那覇市首里平良町)の西に地を定め、設置された。長さは約300mにも及ぶ直線で、幅は約15mあったという。馬場のほぼ中央には、国王が競馬を見物する『御桟敷(ウサンシチ)』があり、東端には、馬を水浴びさせる『馬浴せ小堀(ンマミシクムイ)』があった。また、馬場の両側は松並木であった。 平良真地は、1897年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)以降は、ほとんど使われなくなったが、1924年(大正13)、首里城に沖縄神社が置かれて以来、10月20日の神社例祭日に奉納競馬が行われた。この日は、沖縄本島中・南部から馬愛好家が守礼門(しゅれいもん)側の記念運動場(現首里城レストランセンター一帯)に集まり、色とりどりの馬具で飾り立てた馬に、勇ましい若者が乗り、200頭余りが2列に並んで、平良真地まで行進した。その行列は、例祭の一大イベントで、壮観であったという。また、馬場では、午前10時頃から午後4時頃まで競馬が行われ、多くの見物客が訪れたという。 1941年(昭和16)の日米開戦の影響により、平良真地での競馬は中止となり、周囲の松も、陣地構築のため切り倒され、馬場は掘り起こされて畑となった。沖縄戦後、一帯は住宅地となったが、幅広く、まっすぐに延びた道路が、往事の姿をとどめている。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

10-0422 平良真地跡

11-0422 平良真地跡

 かつて、宝口には紙漉所があり、百田紙の製作が行われていました。現在は、首里儀保町の「蕉紙菴」で、安慶名清氏が芭蕉紙・琉球紙の魅力を伝えています。

参照(琉球紙とは  琉球紙の世界 〜新しい可能性と歴史〜 http://ryukyu-shi.com/concept/index.html

12-1119 宝口樋川へ

13-0421 紙漉所跡

14-0421 紙漉所跡

15-0421 紙漉所跡

16-0421 紙漉所跡

「紙漉き所跡(カミスキジョアト)…琉球王国時代から昭和初期にかけての紙漉所跡。宝口(たからぐち)の紙漉所ともいう。 琉球における紙漉の技術は、大見武憑武(おおみたけひょうぶ)が1686年鹿児島へ赴き造紙法を修業。帰国後の1695年に首里金城(しゅりかなぐすく)村に宅地を賜り、杉原紙(すいばらがみ)・百田紙(ももたがみ)を漉いたのに始まる(金城の紙漉所)。1717年祖慶清寄(そけいせいき)・比嘉乗昌(ひがじょうしょう)らが芭蕉紙(ばしょうし)を始めて作り、翌年王府の援助を受け首里山川(やまがわ)村に一宅を設けて紙漉所とした(山川の紙漉所)。以来、カジノキ・糸芭蕉(いとばしょう)・青雁皮(あおがんぴ)を原料に、色半紙・広紙・奉書紙・百田紙・藁紙なども作られた。 宝口の紙漉所は、1840年首里儀保(ぎぼ)村の一角『宝口』に家屋を建てて製紙区域とし、製造が途絶えていた百田紙の製作を行わせたのに始まる。これにより宝口では百田紙、山川では芭蕉紙が作られたとされる。 紙漉は王府の役所『紙座(かみざ)』の管理のもと行われたが、1879年(明治12)の琉球処分の後も、この一帯では民間の手で紙漉が続けられた。 設置 2007年2月 那覇市市民文化部歴史博物館」

17-0421 紙漉所跡

18-0421 紙漉所跡

19-0421芭蕉庵標識

20-0421

21-0421 宝口樋川へ

22-1119 宝口樋川

23-1119 芭蕉庵

「那覇バスターミナル」に隣接、「那覇大綱挽き」会場に近い駅…旭橋駅

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 「旭橋駅」は「那覇バスターミナル」に隣接し、ギネスブックにも登録されている、世界最大の「那覇大綱挽き」会場に近い駅です。駅のデザインは「読谷ティサージ」で、車内では、「海ぬちんぼーら」が流れています。コミカルな踊りの場面でよく使われる曲です。アートガラスは「那覇大綱挽き」、アートタイルは、イソギンチャクの中で生活している、かわいらしい海水魚「クマノミ」です。

01-0311 旭橋駅

02-0318 旭橋駅

03-0318 那覇大綱挽

04-0318 那覇大綱挽

05-0318 シーサー

06-0318 シーサー

07-0318 クマノミ

参照(沖縄都市モノレール株式会社「ゆいレール」 オンライン美術館 http://www.yui-rail.co.jp/gallery/sound.html

参照(那覇大綱挽 http://www.naha-otsunahiki.org/

08-0311 駅構内広告

09-0311 旭橋駅周辺観光案内図

10-0311 旭橋駅周辺観光案内図

11-0311 旭橋駅周辺観光案内図

12-0311 旭橋駅周辺観光案内図

13-0422 旭橋駅

 「那覇バスターミナル」は、沖縄本島・那覇の交通の要所です。第二次世界大戦前は、沖縄県営鉄道与那原線、海陸連絡線の起点「那覇駅」がありましたが、沖縄戦で破壊され、現在、駅があったことを示すものは残っていません。戦前からある構造物は、バスターミナル構内にある「仲島の大石(なかしまのうふいし)」と呼ばれる、琉球石灰岩の大きな岩です。

14-0318 那覇バスターミナル

15-0318 那覇バスターミナル

16-0318 サンシャイン通り

17-0422 仲島の大石

18-0422 仲島の大石

19-0422 仲島の大石

20-0422 仲島の大石

21-0422 仲島の大石周辺整備工事記

22-0422 仲島の大石

23-0422 仲島の大石

24-0422 仲島の大石

「仲島の大石(なかしまのウフイシ) 沖縄県指定史跡、天然記念物 昭和33年3月14日指定…高さ約6m、中央部の周囲は約25mの琉球石灰岩で、岩の下の方は波に浸食されてくぼんだ「ノッチ」と呼ばれる跡があり、昔このあたりが海岸であったことを示している。久米村の人々は『文筆峰(ぶんぴつほう)』とも呼び、村の風水(フンシー)にかかる縁起のよい大石として珍重していた。 また、この付近に仲島の遊郭があり多くの遊人が訪れ賑わっていた。歌人として有名な『よしや(吉屋チルー)』も、この遊郭で短くはかない生涯を終えたと伝えられている。1908年(明治41)には仲島の遊郭は辻に合併移転し、大正初年までにはこの付近は埋め立てられ現在に至っている。 平成2年3月 沖縄県教育委員会 那覇市教育委員会」

「佐藤惣之助の陶碑」、「虎瀬山公園」…琉球王国時代の「虎山松涛」

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 那覇市首里赤平町の北にある「虎瀬山」は、標高130mの琉球石灰岩の丘陵です。虎頭山、虎山とも呼ばれました。遠くに海を見渡せる景勝の地で、琉球王国時代は、「虎瀬ヌ御殿」と呼ばれる別邸があり、「首里八景」の一つとして「虎山松涛」と謳われました。

 現在は、頂上一帯が、「虎瀬公園」として整備されています。公園内にある「佐藤惣之助の陶碑」は、当初、琉球大学敷地内(現首里城)に設置されましたが、首里城復元にともない、虎瀬山公園内に移設されたものです。「虎瀬山公園」高台からは、那覇市内や首里城などを見渡すことができます。公園に隣接して、「赤平保育所」「沖縄青少年研修センター」などがあり、保育所では、「こいのぼり」が掲げられていました。

01-0424 虎瀬公園

02-0424 虎瀬公園

03-0424 虎瀬公園管理事務所

04-0424 虎瀬公園

05-0424 虎瀬公園

06-0424 虎瀬公園

07-0424 虎瀬公園管理事務所

08-0424 虎瀬公園

09-0424 惣之助陶碑

10-0424 惣之助陶碑表

11-0413 惣之助の詩

「宵夏(佐藤惣之助) しづかさよ、空しさよ/この首里の都の宵のいろを/誰に見せよう、眺めさせよう/まつ毛に明星のともし灯をつけて/青い檳榔樹の扇をもたし/唐の若い詩人にでも歩いてもらはう/ひろい王城の中門の通りを/水々しい蛍を裾にひいて/その夏服を百合の花のやうに/この空気に点じいだし/さて、空しい空しい/読めばすぐ消えてしまふやうな/五言絶句を書いて貰はう」

参照(佐藤惣之助 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%83%A3%E4%B9%8B%E5%8A%A9

参照(宵夏 佐藤惣之助 http://www.midnightpress.co.jp/poem/2009/06/post_94.html

12-0424 惣之助陶碑裏

13-0424 惣之助陶碑裏

14-0424 惣之助陶碑裏

「詩人佐藤惣之助は神奈川県川崎市の出身で大正十一年南島各地を巡遊の後琉球諸島風物詩集を著し異色ある作品として詩壇に名聲を博したまたしばしば随筆により南島の風物を紹介するなどこの地に愛情をいだくことほとんど郷土に対する以上のものがあったが昭和十七年五月十五日不帰の客となった 沖縄に親愛の情を寄せる川崎市民は惣之助の記念としてまた一つには沖縄と川崎とを結ぶ友情の絆としてこの詩碑を沖縄の人々に贈も特にこれを陶碑として浜田庄司氏に嘱し壺屋の窯で製作したのは氏が同じ川崎市の出身でありかつはつとに沖縄陶芸の眞價を認めその傳統の維持と紹介に尽力されてきた縁による昭和丗年五月十五日 古江亮仁誌す」

15-0424 虎瀬公園

16-0424 虎瀬公園

17-0424 虎瀬山案内板

18-0424 虎瀬山案内板

「虎瀬山(トゥラジヤマ)…首里城の北北東、首里赤平(しゅりあかひら)町の北沿いに延びる標高130mの琉球石灰岩の丘陵。頂上の岩石が虎の頭に見えたことから虎頭山(トゥラジヤマ)、虎山(トゥラヤマ)とも表記され、遠くに海を見渡せる景勝の地として知られる。 琉球王国時代、松の生い茂る虎瀬山には『虎瀬ヌ御殿(トゥラジヌウドゥン)』と呼ばれる小規模な別邸(創建年不明)が造られ、王家の遊覧地となっていた。虎瀬山の景勝は『首里八景(しゅりはっけい)』の一つとして『虎山松涛(こざんしょうとう)』と謳(うた)われ、『松』・『月』を歌題に虎瀬山を謳った詩歌が多く残された。 廃藩置県(1879年)の後、『虎瀬ヌ御殿』は廃され、沖縄戦(1945年)で虎瀬山の松林も消失した。戦後丘陵の東側及び周縁部は削られ宅地化されたが、1982年(昭和57)に頂上一帯が整備され『虎瀬公園(とらせこうえん)』となった。 園内に建てられている歌人佐藤惣之助(さとうそうのすけ)の歌碑は、1959年(昭和34)琉球大学敷地内(現首里城)に設置されたが、首里城復元にともない1992年(平成4)この地に移設された。」

19-0424 眺望

20-0424 眺望

21-0424 眺望

22-0424 眺望

23-0424 眺望

24-0424 眺望

25-0424 眺望

26-0413 虎瀬公園

27-0413 虎瀬公園

28-0413 ユリ

29-0413 ユリ

30-0413 ユリ

31-0413 虎瀬公園

32-0413 虎瀬公園

33-0424 赤平保育所

34-0424 こいのぼり

35-0424 沖縄青少年研修センター

「校外学習」の生徒たち、「こいのぼり」…沖縄こどもの国

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 沖縄市の「沖縄こどもの国」に立ち寄ると、高校生の一行が、「校外学習」で、レクリエーションなどをしている様子が見えました。一般の客に混じって、バードウォッチングデッキで佇んでいる生徒たち、輪になって談笑している生徒たち、ボール遊びに興じている生徒たち……。ウィークデーの昼頃とあって、一般客や小さい子を連れた客はほとんどなく、「乗り物コーナー」は閑散としていました。

 連休を前に、園内の掲揚台では、こいのぼりが、風を受けて、元気に泳いでいる様子が見られました。連休期間中、いい天気になるといいのですが……。

 バス乗り場に、沖縄市の「中心市街地循環バス」が停まりました。駐車場には、「県立石川高等学校」の学校車がありました。高校生の一団は、「沖縄県立石川高等学校」の生徒たちなのでしょうか。そうだとすれば、連休前に、「校外学習」をしているのだろうと思います。

参照(沖縄こどもの国 - Okinawa Zoo & Museum http://www.kodomo.city.okinawa.okinawa.jp/index.shtml

参照(沖縄県立石川高等学校 http://www.ishikawa-h.open.ed.jp/

01-0425 沖縄こどもの国

02-0425 中心市街地循環バス

03-0425 駐車場

04-0425

05-0425 休憩所

06-0425 壁面装飾とこいのぼり

07-0425 壁面装飾とこいのぼり

08-0425 ワンダーミュージアム

09-0425 壁面装飾

10-0425 壁面装飾

11-0425 壁面装飾

12-0425 壁面装飾

13-0425 壁面装飾

14-0425 壁面装飾

15-0425 壁面装飾

16-0425 壁面装飾

17-0425 壁面装飾

18-0425 校外学習

19-0425 校外学習

20-0425 校外学習

21-0425 校外学習

22-0425 校外学習

23-0425 校外学習

24-0425 こいのぼり

25-0425 校外学習

26-0425 校外学習

27-0425 園内

28-0425 園内

29-0425 園内

30-0425 園内

31-0425 こいのぼり

32-0425 こいのぼり

スージグヮー週末美術館の「面シーサー」!…北中城村大城

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 北中城村大城の「大城公民館」付近は、シーサーや壷などの美術工芸品が、地域の中にとけ込み、落ち着いた、独特の雰囲気を醸し出しています。一角の壁面には、「第1回大城区スージグヮー週末美術館」の表示があり、制作された「面シーサー」が飾られていました。一つひとつのユニークな表情を眺めていると、楽しくなります。

01-0425 大城公民館

02-0425 大城公民館

03-0425 第1回大城区スージグヮー週末美術館

04-0425 第1回大城区スージグヮー週末美術館

05-0425

06-0425

09-0425

12-0425

14-0425

19-0425

22-0425

27-0425

28-0425

30-0425

34-0425

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39-0425

40-0425

デイゴ、「こいのぼり」、エイサーキャラクター、ブーテン

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 うるま市石川で、「デイゴ」(沖縄県の花)が咲いていました。真っ赤な花が、初夏の光景にふさわしいと思いました。青空をバックにすると、デイゴの花が一段と映えます。沖縄県の木は「リュウキュウマツ」、県の鳥は「ノグチゲラ」、県の魚は「タカサゴ(グルクン)」です。

01-0426 デイゴ

02-0426 デイゴ

03-0426 デイゴ

 道路わきの金網やロープに、小さな「こいのぼり」がいっぱい取り付けられ、風を受けて、泳いでいました。

04-0427 沖縄北

05-0427 沖縄北

06-0427 沖縄北

07-0427 沖縄北

 沖縄市立「北見小学校」の校舎と道路側堤の花壇は見事です。植栽で「北見小」を描いています。沖縄市の「エイサーキャラクター」、うるま市石川(旧石川市)のイメージキャラクター「舞天、ブーテン」も際だっています。

参照(沖縄市立 北美小学校 http://www02.bbc.city.okinawa.okinawa.jp/oki/school/spki/

08-0306 沖縄市

09-0306 沖縄市

10-0306 沖縄市

11-0306 うるま市石川

 那覇料金所を出た所に、「沖縄自動車道へ またんめんそーれ ハイウェイ日本最南端 那覇インターチェンジ」と記した案内板がありました。「那覇市」のイラストは「守礼門」です。

12-0427 那覇

13-0427 那覇

14-0427 ハイウェイ日本最南端

15-0427 ハイウェイ日本最南端

16-0414 那覇市


悠久の歴史を刻む「アガリヌカー」…大城・荻堂、歴史の散歩道

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 北中城村大城集落は、沖縄の伝統が色濃く残る集落で、ゆっくり散策すると、自然と共存して生きてきた地域の歴史が感じられ、心が癒される地域です。「アガリヌカー」周辺は、よく整備された花壇、壷・シーサーなどの美術工芸品が道ばたを飾っています。「カー」の水は豊富で、流水が池に注いでいます。池の側には、塑像で飾られた広場があり、周辺の花壇は花がいっぱいでした。「日本の歩きたくなる道五〇〇選散歩道」に選ばれた理由の一端を垣間見た思いがします。

01-0425 大城・荻堂 歴史の散歩道

「大城・荻堂 歴史の散歩道…大城・荻堂の両集落は周囲の自然環境と共存するような沖縄の伝統的集落形態をとどめ、中村家住宅や荻堂貝塚といった国指定の文化財を有し、中城城跡を中心とした県営中城公園とも隣接している。さらに集落内には民俗学的に価値のあるカー(井泉)や拝所等の文化財が数多く残されており、毎年旧暦の七月十七日には旗頭が集落内をねり歩く『旗すがし』や両集落の成り立ちと関連しているといわれる『兄弟棒』等の伝統的な行事が現在も行われている等、有形無形の文化財とともに歴史的形態を多く残している。」

02-0425 荻堂貝塚

「荻堂貝塚 国指定史跡 1972年(昭和47)5月15日…本貝塚は石灰岩丘陵の北縁崖下に形成されたもので、1904年(明治37)に鳥居龍蔵によって発見され、その後1919年(大正8)に発掘調査が行われている。そこで発見された土器は『荻堂式土器』と形式設定され、3000〜3500年前の沖縄貝塚時代を代表する貝塚である。」

03-0425 中村家住宅、中城城跡

「中村家住宅 国指定重要文化財(建造物)1972年(昭和47)5月15日指定…中村家住宅…は大城安里(ウフグシクアサト)と称し、地頭代(役職名)を勤めた家柄で現在の住宅は19世紀初期の建築と推定されており、母屋、アシャギ、高倉、納屋、畜舎等の屋敷構え全体をよく残し当時の上層農家の生活を知ることができる。」

04-0425 中城城跡

「中城城跡 国指定史跡1972年5月15日指定…このグスク(城)の正確な築城年代は不明であるが、15世紀の前半に首里王府に対抗していた勝連城主阿麻和利を牽制するため、護佐丸が国王の命により座喜味グスクから移って来たとされており、琉球王国の王権が安定していく過程で重要な役割を果たしたグスクである。グスクは丘陵の東崖縁を天然の要害とし、琉球石灰岩の石積みによって築かれており、当時最高の築城技術で整備された石造りの門や城壁などが現在もよく残っている。」

05-0425 アガリヌカー

06-0425 アガリヌカー

07-0425 アガリヌカー

08-0425 アガリヌカー

09-0425 アガリヌカー

「アガリヌカー(東井泉) 大城(おおぐすく)」…アガリヌカーの築造年代は詳らかでない。このカー(井泉)は大城集落の大半の住民が飲料水として戦後上水道が布設されるまで利用してきた。 大正14年(1925)カーの上にコンクリートでごみ除けの屋根が取りつけられたが、1959年と2001年に改築された。 戦前は、旧元日の早朝子どもたちがカーの水をワカミジ(若水)として汲んできた。この水をヒヌカン(火の神)や仏壇などに供えて新しい年の家運隆昌と家族の健康を祈った。 戦前は旧正月2日、現在は正月3日に字の役員・有志が水の恵みに感謝してハチウビー(初御水)の祈願をしている。 北中城村」

10-0425 アガリヌカー

11-0425 アガリヌカー

12-0425 シーサー

13-0425 シーサー

14-0425 アガリヌカー

15-0425 アガリヌカー

16-0425 池

17-0425 池

18-0425 アガリヌカー周辺

19-0425 アガリヌカー周辺

20-0425 アガリヌカー周辺

21-0425 アガリヌカー周辺

22-0425 アガリヌカー周辺

23-0425 アガリヌカー周辺

24-0425 アガリヌカー周辺

25-0425 アガリヌカー周辺

26-0425 日本の歩きたくなる道五〇〇選散歩道

27-0425 大城公民館・多目的広場

28-0425 アガリヌカー周辺

 4月28日は、対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)発効(1952年)の日です。同条約により、日本が独立国として主権を回復した一方で、沖縄・奄美は日本から切り離され、米軍の施政権下に置かれました。サンフランシスコ平和条約と同日に発効した日米安保条約により、アメリカ軍の日本駐留が認められ、米軍基地の建設が本格化し、沖縄に基地が集中し、ますます強化されています。その後、本土復帰を果たしたものの、沖縄では、国内の基地の多くが集中し、基地に付随する問題が山積したままです。

参照(4月28日 対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)発効(1952年) - 公文書館通信 - 沖縄県公文書館 http://www.archives.pref.okinawa.jp/publication/2013/04/4281952.html

国王頌徳碑、天界寺跡、識名盛命旧宅跡、寒水川芝居跡…首里散策

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 「ゆいレール首里駅」から「首里城」に向かう途中、鳥堀交差点を過ぎたあたり、左手に、丘陵『上の毛』があり、その入口に「国王頌徳碑」が建てられています。首里城から、『かたのはな』を通り、弁ケ嶽への道を石畳道にし、周辺に松樹を植え、参道を整備した国王尚清の徳を讃えたもので、「かたのはなの碑」ともいわれます。

参照(地域 旧首里  那覇市歴史博物館 http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/site_tax02/former-shuri-city

01-1027 ゆいレール

02-1027 ゆいレール首里城

03-1027 国王頌徳碑

04-1027 国王頌徳碑

「国王頌徳碑(コクオウショウトクヒ)…『国王頌徳碑』は、琉球王国時代の1543年(嘉靖、かせい22)に建立された石碑である。碑文の内容は首里城から、古来より崇拝された弁ケ嶽(べんがだけ、後に久高島、くだかじま・斎場御嶽、セーファウタキの遙拝所として整備される。那覇市内の最高所。標高165m)への道を石畳道にし、周辺に松樹を植えるなど参道を整備した国王尚清(しょうせい)の徳を讃えたもので、表は平仮名文、裏は漢文で刻まれている。また首里城から東に延びる丘陵『上の毛(ウィーヌモー)』の東端部を『かたのはな』といい、この地先に建立されたため別名『かたのはなの碑』ともいう。 石碑が建立された一帯は『碑文の毛(ヒムンヌモー)』(後に『碑文の前(ヒムンヌメー)』)と呼ばれ、広場となっていたが、1935年(昭和10)に首里と那覇を結ぶ首里市営バスの発着場となった。 1945年(昭和20)の沖縄戦で石碑は破壊されたが、碑の一部が沖縄県立博物館に残されている。本碑は碑の一部や建立年の近い石碑を参考にし、石碑建立地に近接する現在地に新たに復元したものである。」

05-1027 首里城(歓会門へのルート)

06-1027 首里城(歓会門へのルート)

07-1027 継世門

「天界寺」は、琉球王国時代、円覚寺・天王寺とともに尚家の菩提寺、三ヵ寺の一つで、東隣には、「天界寺松尾」と呼ばれた松林がありました。一角には、天界寺の井戸(那覇市指定文化財)があります。

08-0422 天界寺跡

09-0422 天界寺跡

「天界寺跡(テンカイジアト)那覇市首里金城町1-2…琉球王国時代の臨済宗の寺院跡。 天界寺は、第一尚氏第六代国王尚泰久(しょうたいきゅう)が、景泰(けいたい)年間(1450〜56年)に創建したとされる。山号は妙高山(みょうこうざん)、開山は渓隠安灊禅師。 創建当初の伽藍(がらん)は、寝室(しんしつ)・方丈(ほうじょう)・東房(とうぼう)・西房(せいぼう)などで、尚徳王(しょうとくおう、第一尚氏第七代国王)代の1466年に大宝殿が建立され、また、成化己丑(せいかきちゅう、1469年)鐘銘(しょうめい)の梵鐘(ぼんしょう)も掛けられた。1576年、火災により焼失したが、順治(じゅんじ)から康煕(こうき)年間にかけて、堂宇(どうう)が建立され、再興された。天界寺松尾(ティンケージマーチュー)と呼ばれた東隣の松林を含む寺域は約1,080坪余であった。 再興後は、尚泰久王・尚徳王の位牌のほか、第二尚氏の未婚の王子・王妃が祀られ、円覚寺(えんかくじ)・天王寺(てんのうじ)とともに尚家の菩提寺(ぼだいじ、三ヵ寺、さんかでら)の一つとなった。国王の元服や即位の際には、三ヵ寺詣での慣わしがあった。 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後は、尚家の私寺となったが、後に払い下げられた。1913年(大正2)頃、跡地の北東隅に、首里(しゅり)・儀保(ぎぼ)・真壁(まかべ)の3人の大阿母志良礼(ウフアムシラリ、王府の高級神女)の神殿を統合した「三殿内(ミドゥンチ)」が置かれ、信仰を集めた。 天界寺松尾には、1886年(明治19)、首里小学校(後の首里第一尋常高等小学校)の校舎が建てられたが、1912年(明治45)に、校舎狭隘(きょうあい)のため首里城内へ移転した。跡地は採石場となり、さらに、1915年(大正4)には、大正天皇即位祝賀を記念して、沖縄県師範学校の記念運動場が開設された。 1945年(昭和20)の沖縄戦により、三殿内は消失し、天界寺の寺域跡は、住宅地となったが、1992年(平成4)の首里城復元に伴い整備され、道路及び首里城公園の一部(レストセンター・管理棟)となった。 なお、1697年に掘られたという天界寺の井戸(那覇市指定文化財)が、現在も残されている。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」

10-0422 旧天界寺の井戸

「旧天界寺の井戸(きゅうてんかいじのいど)…那覇市指定文化財、史跡。天界寺は、尚泰久王の時代(1454〜60年)に建立された寺院です。このあたりの地盤は、琉球石灰岩の分厚い層が広がっているため、なかなか地下水を掘り当てることはできませんでした。『球陽』によれば、1697年に天界寺の僧侶であった了道が蔡応瑞(さいおうずい)(久米村の学者)に頼んで、場所を選び、井戸を掘ったところ、ようやく願いがかなって地下水を掘り当てることができたそうです。この井戸水は、水質も良く、日照りにもかれることがなかったため、寺院だけでなく、付近の住民にも利用されました。井戸の内部はほぼフラスコ状になっており、岩盤を垂直に掘り下げながら、下へ向かって幅を広げ、水面の付近ではほぼ球形になっています。井戸口に接して、滑車を下げるための柱の跡があり、左右の石垣の上には、屋根をかけるための角柱形の石が残されています。 那覇市教育委員会」

11-0422 旧天界寺の井戸

「識名盛命」は、琉球王国時代の政治家・和文学者で、琉球最古の擬古文「思出草」を著し、三司官時代には「おもろさうし」や「混効験集」の実質的な編さん責任者となった人です。

12-0422 識名盛命旧宅跡

13-0422 識名盛命旧宅跡

14-0422 識名盛命旧宅跡

「識名盛命旧宅跡(シキナセイメイキュウタクアト)那覇市首里寒川町1-24…琉球王国時代の政治家・和文学者、識名盛命の旧宅跡。識名は、毛国鼎中城按司護佐丸(もうこくていなかぐすくあんじごさまる)を始祖とする豊見城殿内(とみぐすくドゥンチ)の分家、伊野波(いのは)殿内七世盛紀(せいき)の三男で、長兄は頓智(とんち)話で有名な伊野波親方盛平(ウェーカタせいへい、モーイ親方)である。 識名は1651年生まれ、中国名は毛起龍(もうきりゅう)という。当初、父親の「伊野波」姓であったが、後に真和志間切(まわしまぎり、現那覇市)の総地頭となり「識名」姓を名乗った。 1666年、首里王府に出仕し、1702年51歳の時、王府の最高職三司官(さんしかん)となり10年在職した。この間、1688年、進貢正使として中国、1699年、年頭使者として鹿児島に赴いた。鹿児島滞在中の随筆や和歌をまとめた『思出草(おもいでぐさ)』は琉球最古の擬古文として有名である。 三司官時代には『おもろさうし』(1710年)や『混効験集(こんごうけんしゅう)』(1711年)の実質的な編さん責任者となった。1715年死去、享年65才。 識名家は、後に子孫が国頭間切(現国頭村)の総地頭となり、「国頭(くにがみ)」姓を名乗っている。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」

「寒水川芝居」は、沖縄県設置(琉球処分)により職を失った首里士族達が始めましたが、那覇・首里間の電車開通にともない、敷地が削り取られ、幕を閉じています。芝居小屋跡は、首里演芸場ともいわれました。

15-0422 寒水川芝居跡

16-0422 寒水川芝居跡

17-0422 寒水川芝居跡

「寒水川芝居跡(スンガーシバイアト)那覇市首里寒川町2-14…首里寒水川村(しゅりスンガーむら、現首里寒川町)に建てられた芝居小屋跡。首里演芸場(しゅりエンジバ)ともいう。 1892年(明治25)頃、沖縄県設置(琉球処分)によって職を失った首里士族達によって設けられた。敷地の広さや構造など詳細は不明。 当初は、首里人士(じんし)と那覇から引き抜いた役者で興業を行っていたが、後に新垣一派(あらかきいっぱ、座長新垣松含、あらかきしょうがん)が入り好評を博し、興業時には路地(ろじ)に店も立ち賑わったという。また、歌劇「泊阿嘉(トゥマイアーカー)」の作者我弥古弥栄(がねこやえい、1881〜1943年)は、寒水川村で生まれ、8歳の時に寒水川芝居に入り、小間使いをしながら芸の道を覚えたといわれる。 1914年(大正3)、那覇(なは)・首里間の電車開通(1933年廃業)にともない、敷地の一部が削り取られ、寒水川芝居は幕を閉じた。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

愛のシーサー、私たちは地球という惑星の子ども、泉崎村学校所跡碑、復帰記念碑…那覇市泉崎

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 那覇市泉崎の交差点付近には、「パレット久茂地」「沖縄県議会」「沖縄県庁」「沖縄県警察本部」「那覇市役所」などがあります。「那覇バスセンター」と「国際通り」を結ぶ地点にあたり、多くの観光客で賑わう場所です。

01-0417 パレット久茂地

02-0417国際通り方面

03-0417国際通り方面

04-0417 沖縄県庁

05-0417 県民広場

 沖縄県議会と那覇市役所の間には、「愛のシーサー」と泉が設置されている小さな公園があり、小鳥のさえずりが聞こえる中、回転テーブル上のシーサー3体が、ゆっくり回っていました。

06-0417 愛のシーサー

07-0417 愛のシーサー

「愛のシーサー…沖縄の県花デイゴと泉に遊ぶこの親子シーサーは 青少年健全育成活動ののシンボルとして 沖縄県をこよなく愛する多くの人々の誠意と浄財を集めて建立されました この像は、ここに集うすべての人に限りない愛と勇気を与えるとともに みんなが心を合わせて 未来を担う子供たちを心身ともに健やかに育てることを祈願し二十一世紀の世界に向けて永遠の平和と愛を発信し続けることを希求します 戦後五十年を迎えて 平成七年六月 『愛のシーサー』の会」

08-0417 愛のシーサー

09-0417 愛のシーサー

10-0417 愛のシーサー

11-0417 那覇市役所

参照(那覇市  いい暮らしより 楽しい暮らしを  那覇市 Naha City http://www.city.naha.okinawa.jp/

12-0417 都市景観資源

13-0417 都市景観資源

14-0417 シーサー

15-0417 シーサー

16-0417 那覇市民憲章

17-0417 あけもどろ健康づくり宣言

18-0417 生誕の像

 那覇市役所外、道路側には、「私たちは地球という惑星の子ども」という「ゴルバチョフ氏のメッセージ」がありました。

参照(講演会1 ミハイル・ゴルバチョフ氏、市長対談・講演会全記録 http://www.city.naha.okinawa.jp/hisyo/gol2/kouen1.htm

19-0417 私たちは地球という惑星の子ども

20-0417 ゴルバチョフ氏色紙のメッセージ

21-0417 ゴルバチョフ氏色紙のメッセージ訳

「ゴルバチョフ氏色紙のメッセージ訳…世界には困難な問題が多いが、みんなが協力してその問題を解決しなければならない。何故ならば、わたしたちはみんな同じ地球という惑星の子どもなのだから 2001年11月14日 ミハイル ゴルバチョフ」

22-0417 市役所花壇

23-0417 市役所花壇

24-0417 方位表示板、開南小学校前

 市役所に隣接している「開南小学校・開南幼稚園」には、「泉崎村学校所跡石碑」「泉崎村学校所跡碑」があり、那覇の教育発祥の地である泉崎村学校について記されていました。小学校では、「1年生をむかえる会(参観)、学校教育説明会」などがあり、校舎の一角から、児童が演奏する音が聞こえ、校内には、保護者の姿が見られました。

25-0417 開南小学校校門

26-0417 開南小学校校門

参照(開南小学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/kaina-es/

27-0417 泉崎村学校所跡石碑

28-0417 泉崎村学校所跡碑

29-0417 泉崎村学校所跡碑

「泉崎村学校所跡碑(むらがっこうじょあとひ)…那覇の教育の発祥(はっしょう)の地(ち)といわれる泉崎村学校は文政(ぶんせい)七年(一八二四年)に大湾親雲上(おおわんぺーちん)等の寄付(きふ)によって創設(そうせつ)された 学校名を『学道館(がくどうかん)』と命名(めいめい)し 久米村(くめむら)の儒者(じゅしゃ)を招(まね)いて教育が行われた 教師一人生徒百名余 いにしえの 子等も学べり声あげて 平成十一年十一月 寄贈 甲辰(こうしん)学校同窓会」

30-0417開南小学校花壇

31-0417 開南小学校

32-0417 開南小学校

33-0417 開南小学校

34-0417 道路花壇

35-0417 復帰記念碑

36-0417 復帰記念碑

「ふるさとは清らさ 広く青い海よ 黄金あやなす太陽よ もゆる真紅のデイゴよ ふるさとは盛名の泉 平和豊かに とわに栄えゆく ふるさとの夜明けを讃えん 昭和四十七年五月十五日 在伯沖縄協会建立」

参照(先人の思いかみしめ修復 ブラジル県人会の記念碑 - 琉球新報 - http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-191211-storytopic-251.html

沖縄県立農事試験場跡、メーデー、障害者福祉都市指定記念碑、散策、くつろぐ…那覇市与儀公園

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 那覇市寄宮の与儀公園周辺には、「那覇市警察署」「沖縄赤十字病院」「那覇市民会館」「那覇市立中央公民館」「沖縄県立図書館」「沖縄県立看護大学」「神原小学校」「神原中学校」など、多くの公共施設などが集中しています。

「那覇市民会館」側の「与儀バス停」には、「沖縄県立農事試験場跡」の案内板が設置されています。「沖縄県立農事試験場」は、沖縄県の気候に適した、甘蔗・稲・麦・煙草・藍・椰子・鬱金等の試作、砂糖製造に関する試験・研究等を行った農事施設でした。

 5月1日は労働者の祭典「メーデー」です。どんよりした天気の中、公園の広場で、メーデー沖縄県実行委員会による「第85回メーデー」集会が行われていました。

 園内には、ベンチで読書している人、散策する人、談笑している人、のんびりとくつろいでいる人、いろいろな姿が見られます。園内花壇の手入れも行き届いており、ほっと一息つくには最適な場所です。「山之口獏詩碑」「蒸気機関車D-51」「障害者福祉都市指定記念碑」なども設置されています。

02-0501 那覇市警察署

06-0501 沖縄県立農事試験場跡

07-0501 沖縄県立農事試験場跡

「沖縄県立農事試験場跡(オキナワケンリツノージシケンジョウアト)…沖縄県の気候に適した作物の栽培・試験・研究等を行った農事施設跡。 農事試験場は、1881年(明治14)5月、真和志間切古波蔵村(まわしまぎりこはぐらむら、現那覇市泉崎沖縄県庁付近)に約7,900坪余の敷地をもって設置された。当初の業務は、甘蔗(さとうきび)・稲(いね)・麦(むぎ)・煙草(たばこ)・藍(あい)・椰子(やし)・鬱金(うこん)等の試作と砂糖製造に関する試験で、特に製糖車(サーターグルマ)の鉄輪(てつりん)への改良や黒砂糖の品質改善に取り組んだ。 農事試験場は、1913年(大正2)に西原村我謝(にしはらそんがじゃ、現西原町我謝)の県立糖業(とうぎょう)試験場へ吸収・合併されたが、1919年(大正8)名護(なご)に再設置された(その後普天間へ移転)。糖業試験場からはさらに畜産(ちくさん)部(1921年)・園芸部(えんげいぶ、1926年)が分離し、蚕業(さんぎょう)試験場の設置(1928年)が行われた。 沖縄県は、1928年(昭和3)真和志村与儀(よぎ、現那覇市与儀:現在地一帯)に約105,000坪を購入し、糖業試験場那覇苗圃とした。1931年(昭和6)に糖業・農事の両試験場を再度合併し、与儀の那覇苗圃(びょうぼ)を農事試験場の本場とした。本場では主に甘蔗の品種改良・栽培の研究が行われた。 沖縄戦後の1946年(昭和21)7月与儀の試験場が再興され、甘藷(いも)を始め、花卉(かき)栽培、牛・豚・山羊等の増殖事業を展開したが、周辺地域の急激な都市化と研究施設の充実を図るため、首里崎山町(しゅりさきやまちょう)に約120,000坪の敷地を取得し、1961年(昭和36)10月移転した。試験場跡地は、病院・学校・公園など公共施設が建てられた。 設置 2014年4月3月 那覇市歴史博物館」

08-0501 メーデー

09-0501 メーデー

11-0501 メーデー

12-0501 恒久平和

13-0501 那覇市立中央図書図書館川沿い柵

14-0501 山之口獏碑

16-0501 山之口獏碑

参照(山之口獏 詩碑「座布団」を眺めながらくつろぐ…与儀公園 - 結〜つなぐ、ひらく、つむぐ〜 http://blog.goo.ne.jp/nrai5029knai/e/a101b8e5d2cccf4762b9d2f9a9481f57

19-0501 障害者福祉都市指定記念碑

20-0501 障害者福祉都市指定記念碑

22-0501 ハト

23-0501 D-51

24-0501 ガジュマル

27-0501 ガジュマルの木の下で

29-0501 散策

30-0501 くつろぐ

32-0501 くつろぐ

33-0501 くつろぐ

35-0501 ハト

36-0501 デイゴの木の下で

38-0501 デイゴ

39-0501 デイゴ

42-0501 整備中

那覇市歴史博物館、ハーリー、国場軽便鉄道橋脚跡、赤畑、熊本鎮台分営所跡…那覇市旧真和志

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 パレット久茂地4Fの「那覇市歴史博物館」で、企画展「那覇の史跡・旧跡」、特別展「ロイヤルカラーの黄色地衣裳/尚家の宝刀」をしていました。展示会場内は撮影不可なので、じっくり鑑賞しました。受付前のロビーには、「ハーリー」の模型がありました。ビデオコーナーもあります。

参照(地域 旧真和志  那覇市歴史博物館 http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/site_tax02/former-mawashi

01-0420 那覇市歴史博物館

02-0420 那覇市歴史博物館

03-0420 那覇市歴史博物館

04-0420 ハーリー

参照(那覇ハーリー那覇ナビ http://www.naha-navi.or.jp/nahahari.html

05-0420 「那覇」今漕ぎ手が乗り込み準備

06-0420 「泊」今まさに海にでて波を漕ぐ

07-0420 「久米」今漕ぎ手が乗り込み準備

08-0420 ビデオ

 国道507号線、那覇市国場のモスバーガー国場店向かいに、「那覇市旧真和志国場軽便鉄道橋脚跡」があります。説明板の準備がされていますが、説明がありませんでした。

09-0501 国場軽便鉄道橋脚跡

10-0501 国場軽便鉄道橋脚跡

11-0501 国場軽便鉄道橋脚跡

12-0501 国場軽便鉄道橋脚跡

13-0501 国場軽便鉄道橋脚跡

 県道222号線「大橋」バス停近く、県営大橋市街地前に、「赤畑」の案内板があります。

14-0501 那覇大橋方面

15-0501 赤畑

16-0501 古波蔵方面

17-0501 赤畑

18-0501 赤畑

「赤畑(アカバタキー)那覇市壺川2-10-6 県営大橋市街地…かつて漫湖に突き出ていた小丘の名称。この付近は赤畑原(あかばたきばる)といい、真和志村字壺川(まわしそんあざつぼがわ、現那覇市壺川)の小字地名であった。 丘の上には松が生えており、奥武山(おうのやま)・ガーナー森(ムイ)とともに漫湖の景観に趣を与えていたという(『南島風土記』)。また丘の中腹は墓が点在し、平地は、対岸の小禄村(おろくむら)の人々が耕すイ草(いぐさ)の畑であった(『那覇市史』2-7)。 沖縄戦後、急激な人口増加に対応するため、1957年(昭和32)真和志市(まわしし)は琉球政府に対し赤畑から南東側に広がる兼久原(がねくばる)地先一帯(現古蔵中学校に至る国道507号線より漫湖側)約55,000坪余の埋立申請を行った。真和志市との合併(1957年)により那覇市は1959年(昭和34)埋立を行い、工場用地・宅地として区画整理したが、現在、工業用地のほとんどが漫湖公園となっている。 一方、赤畑から北西側は、1959年(昭和34)にベニヤ板製造工場が建設され、漫湖にはベニヤ板用資材の丸太が大量に浮かんでいた。1978年(昭和53)ベニヤ工場の整理統合により、赤畑は削られ、一帯は埋立・区画整理により、住宅地となった。 なお、赤畑から小禄地域に架かる那覇大橋は、1970年(昭和45)7月に開通した。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」

19-0501 赤畑

20-0501 赤畑

21-0501 県営大橋市街地住宅

 国道330号線「楚辺」交差点から入ったところ、古蔵小学校に隣接した「ちびっこ公園内」に、「熊本鎮台分営所跡」がありました。案内板には、琉球処分後の経緯が記されています。

22-0501 ちびっこ公園

23-0501 ちびっこ公園

24-0501 熊本鎮台分営所跡

25-0501 熊本鎮台分営所跡

26-0501 熊本鎮台分営所跡

「熊本鎮台分営所跡(クマモトチンダイブンエイショアト)那覇市字古波蔵393 ちびっこ公園…日本陸軍熊本鎮台沖縄分遣隊(くまもとちんだいおきなわぶんたい)の駐屯地(ちゅうとんち)跡。 明治維新を成し遂げた新政府は、領土確定を図るため、日清(にっしん)両属体制をとる琉球国の処遇問題に着手し、1872年(明治5)琉球国を『琉球藩』として扱った。さらに、1875年(明治8)5月『藩内保護』の名目で熊本鎮台分遣隊の派遣を決定、真和志間切古波蔵村(まわしまぎりこはぐらむら)周辺の18,603坪余を駐屯地敷地とし、兵舎(へいしゃ)・練兵場(れんぺいじょう)等が設置された。 1879年(明治12)3月25日、処分官松田道之(まつだみちゆき)とともに分遣隊2個中隊400名余が那覇港に到着。同27日松田処分官が沖縄県設置、首里城明け渡し等の処分を断行し、31日分遣隊の一個中隊が首里城に入城した。翌年、陸軍は駐屯地を首里城と定め、古波蔵駐屯地は使用されなくなった。 日清戦争後の1896年(明治29)7月、分遣隊の沖縄派遣が終了したため、古波蔵駐屯跡地は農事(のうじ)試験場用地として使用された。1909年(明治42)真和志村(まわしそん)が敷地の払い下げを受けたが、1928年(昭和3)改めて約4,000坪余を陸軍へ提供し、在郷軍人の演習等に使用された。これ以降、付近住民は一帯を「兵隊屋(ヒータイヤー)」と呼んだ。 沖縄戦後、この一帯は米軍の貯油(ちょゆ)施設(ガソリンタンク)として使用されていたが、1972年(昭和47)沖縄の本土復帰とともに返還され、区画整理事業の実施(1971〜1991年)により、住宅地となった。一帯は現在でも『タンク跡』と呼ばれている。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

27-0501 ちびっこ公園

28-0501 古蔵幼稚園、古蔵小学校

参照(那覇市立古蔵小学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/kokur-es/

29-0501 花壇

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