「ゆいレール首里駅」から「首里城」に向かう途中、鳥堀交差点を過ぎたあたり、左手に、丘陵『上の毛』があり、その入口に「国王頌徳碑」が建てられています。首里城から、『かたのはな』を通り、弁ケ嶽への道を石畳道にし、周辺に松樹を植え、参道を整備した国王尚清の徳を讃えたもので、「かたのはなの碑」ともいわれます。
参照(地域 旧首里 那覇市歴史博物館 http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/site_tax02/former-shuri-city)
01-1027 ゆいレール
02-1027 ゆいレール首里城
03-1027 国王頌徳碑
04-1027 国王頌徳碑
「国王頌徳碑(コクオウショウトクヒ)…『国王頌徳碑』は、琉球王国時代の1543年(嘉靖、かせい22)に建立された石碑である。碑文の内容は首里城から、古来より崇拝された弁ケ嶽(べんがだけ、後に久高島、くだかじま・斎場御嶽、セーファウタキの遙拝所として整備される。那覇市内の最高所。標高165m)への道を石畳道にし、周辺に松樹を植えるなど参道を整備した国王尚清(しょうせい)の徳を讃えたもので、表は平仮名文、裏は漢文で刻まれている。また首里城から東に延びる丘陵『上の毛(ウィーヌモー)』の東端部を『かたのはな』といい、この地先に建立されたため別名『かたのはなの碑』ともいう。 石碑が建立された一帯は『碑文の毛(ヒムンヌモー)』(後に『碑文の前(ヒムンヌメー)』)と呼ばれ、広場となっていたが、1935年(昭和10)に首里と那覇を結ぶ首里市営バスの発着場となった。 1945年(昭和20)の沖縄戦で石碑は破壊されたが、碑の一部が沖縄県立博物館に残されている。本碑は碑の一部や建立年の近い石碑を参考にし、石碑建立地に近接する現在地に新たに復元したものである。」
05-1027 首里城(歓会門へのルート)
06-1027 首里城(歓会門へのルート)
07-1027 継世門
「天界寺」は、琉球王国時代、円覚寺・天王寺とともに尚家の菩提寺、三ヵ寺の一つで、東隣には、「天界寺松尾」と呼ばれた松林がありました。一角には、天界寺の井戸(那覇市指定文化財)があります。
08-0422 天界寺跡
09-0422 天界寺跡
「天界寺跡(テンカイジアト)那覇市首里金城町1-2…琉球王国時代の臨済宗の寺院跡。 天界寺は、第一尚氏第六代国王尚泰久(しょうたいきゅう)が、景泰(けいたい)年間(1450〜56年)に創建したとされる。山号は妙高山(みょうこうざん)、開山は渓隠安灊禅師。 創建当初の伽藍(がらん)は、寝室(しんしつ)・方丈(ほうじょう)・東房(とうぼう)・西房(せいぼう)などで、尚徳王(しょうとくおう、第一尚氏第七代国王)代の1466年に大宝殿が建立され、また、成化己丑(せいかきちゅう、1469年)鐘銘(しょうめい)の梵鐘(ぼんしょう)も掛けられた。1576年、火災により焼失したが、順治(じゅんじ)から康煕(こうき)年間にかけて、堂宇(どうう)が建立され、再興された。天界寺松尾(ティンケージマーチュー)と呼ばれた東隣の松林を含む寺域は約1,080坪余であった。 再興後は、尚泰久王・尚徳王の位牌のほか、第二尚氏の未婚の王子・王妃が祀られ、円覚寺(えんかくじ)・天王寺(てんのうじ)とともに尚家の菩提寺(ぼだいじ、三ヵ寺、さんかでら)の一つとなった。国王の元服や即位の際には、三ヵ寺詣での慣わしがあった。 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後は、尚家の私寺となったが、後に払い下げられた。1913年(大正2)頃、跡地の北東隅に、首里(しゅり)・儀保(ぎぼ)・真壁(まかべ)の3人の大阿母志良礼(ウフアムシラリ、王府の高級神女)の神殿を統合した「三殿内(ミドゥンチ)」が置かれ、信仰を集めた。 天界寺松尾には、1886年(明治19)、首里小学校(後の首里第一尋常高等小学校)の校舎が建てられたが、1912年(明治45)に、校舎狭隘(きょうあい)のため首里城内へ移転した。跡地は採石場となり、さらに、1915年(大正4)には、大正天皇即位祝賀を記念して、沖縄県師範学校の記念運動場が開設された。 1945年(昭和20)の沖縄戦により、三殿内は消失し、天界寺の寺域跡は、住宅地となったが、1992年(平成4)の首里城復元に伴い整備され、道路及び首里城公園の一部(レストセンター・管理棟)となった。 なお、1697年に掘られたという天界寺の井戸(那覇市指定文化財)が、現在も残されている。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」
10-0422 旧天界寺の井戸
「旧天界寺の井戸(きゅうてんかいじのいど)…那覇市指定文化財、史跡。天界寺は、尚泰久王の時代(1454〜60年)に建立された寺院です。このあたりの地盤は、琉球石灰岩の分厚い層が広がっているため、なかなか地下水を掘り当てることはできませんでした。『球陽』によれば、1697年に天界寺の僧侶であった了道が蔡応瑞(さいおうずい)(久米村の学者)に頼んで、場所を選び、井戸を掘ったところ、ようやく願いがかなって地下水を掘り当てることができたそうです。この井戸水は、水質も良く、日照りにもかれることがなかったため、寺院だけでなく、付近の住民にも利用されました。井戸の内部はほぼフラスコ状になっており、岩盤を垂直に掘り下げながら、下へ向かって幅を広げ、水面の付近ではほぼ球形になっています。井戸口に接して、滑車を下げるための柱の跡があり、左右の石垣の上には、屋根をかけるための角柱形の石が残されています。 那覇市教育委員会」
11-0422 旧天界寺の井戸
「識名盛命」は、琉球王国時代の政治家・和文学者で、琉球最古の擬古文「思出草」を著し、三司官時代には「おもろさうし」や「混効験集」の実質的な編さん責任者となった人です。
12-0422 識名盛命旧宅跡
13-0422 識名盛命旧宅跡
14-0422 識名盛命旧宅跡
「識名盛命旧宅跡(シキナセイメイキュウタクアト)那覇市首里寒川町1-24…琉球王国時代の政治家・和文学者、識名盛命の旧宅跡。識名は、毛国鼎中城按司護佐丸(もうこくていなかぐすくあんじごさまる)を始祖とする豊見城殿内(とみぐすくドゥンチ)の分家、伊野波(いのは)殿内七世盛紀(せいき)の三男で、長兄は頓智(とんち)話で有名な伊野波親方盛平(ウェーカタせいへい、モーイ親方)である。 識名は1651年生まれ、中国名は毛起龍(もうきりゅう)という。当初、父親の「伊野波」姓であったが、後に真和志間切(まわしまぎり、現那覇市)の総地頭となり「識名」姓を名乗った。 1666年、首里王府に出仕し、1702年51歳の時、王府の最高職三司官(さんしかん)となり10年在職した。この間、1688年、進貢正使として中国、1699年、年頭使者として鹿児島に赴いた。鹿児島滞在中の随筆や和歌をまとめた『思出草(おもいでぐさ)』は琉球最古の擬古文として有名である。 三司官時代には『おもろさうし』(1710年)や『混効験集(こんごうけんしゅう)』(1711年)の実質的な編さん責任者となった。1715年死去、享年65才。 識名家は、後に子孫が国頭間切(現国頭村)の総地頭となり、「国頭(くにがみ)」姓を名乗っている。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」
「寒水川芝居」は、沖縄県設置(琉球処分)により職を失った首里士族達が始めましたが、那覇・首里間の電車開通にともない、敷地が削り取られ、幕を閉じています。芝居小屋跡は、首里演芸場ともいわれました。
15-0422 寒水川芝居跡
16-0422 寒水川芝居跡
17-0422 寒水川芝居跡
「寒水川芝居跡(スンガーシバイアト)那覇市首里寒川町2-14…首里寒水川村(しゅりスンガーむら、現首里寒川町)に建てられた芝居小屋跡。首里演芸場(しゅりエンジバ)ともいう。 1892年(明治25)頃、沖縄県設置(琉球処分)によって職を失った首里士族達によって設けられた。敷地の広さや構造など詳細は不明。 当初は、首里人士(じんし)と那覇から引き抜いた役者で興業を行っていたが、後に新垣一派(あらかきいっぱ、座長新垣松含、あらかきしょうがん)が入り好評を博し、興業時には路地(ろじ)に店も立ち賑わったという。また、歌劇「泊阿嘉(トゥマイアーカー)」の作者我弥古弥栄(がねこやえい、1881〜1943年)は、寒水川村で生まれ、8歳の時に寒水川芝居に入り、小間使いをしながら芸の道を覚えたといわれる。 1914年(大正3)、那覇(なは)・首里間の電車開通(1933年廃業)にともない、敷地の一部が削り取られ、寒水川芝居は幕を閉じた。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」