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一面のテッポウユリ、展望台からの眺望…ユリ園

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 沖縄市市比屋根の「沖縄県総合運動公園」にある「ユリ園」を訪ねました。

 「ユリ園」では、「テッポウユリ」が咲き誇っていました。少し、ピークを過ぎた感じがしますが、園内いっぱい、真っ白のテッポウユリが咲いている光景は壮観です。あちこちで、ポーズをとり、写真撮影していました。園内には、「休憩所」につながる階段や「テッポウユリ」「わたしたちが植えました」などの説明板があります。

 「遠見台」から、「屋内運動場」「サイクルセンター」「郷土館」「多目的広場」「レクリエーションプール」「泡瀬干潟方面」「ユリ園内全景」などを見渡すことができます。「中学生」と思われる一団が、レクリエーションをしていました。

参照(沖縄県総合運動公園  Okinawa Comprehensive Athletic Park http://okinawa-kenso.com/

01-0502 ユリ園へ

03-0502 ユリ園へ

05-0502-1358-0ユリ園へ

07-0502 テッポウユリ

「テッポウユリ:特徴・栽培のポイント…花がラッパ型の鉄砲に似ていることからこの名が付きます。 南西諸島を中心とする原産で、温暖な気候を好みます。特に梅雨時の過湿に注意しましょう。高温乾燥も苦手なので、腐植土などを敷いて地温を低く保つように注意しましょう。求婚の上下2ヶ所から芽が出ます。上根で養分を吸収するので、元肥を施しておくと良いでしょう。2〜3年は植えたままでも構いません。球根や根を乾燥させるのは禁物。」

08-0502 休憩所

09-0502 ユリ園、遠見台

13-0502 ユリ園、遠見台

16-0502-1328-2 ユリ園

17-0502 てっぽうゆり園

19-0502 ユリ園、遠見台

21-0502 ユリ園

22-0502  ユリ園

23-0502 ユリ園

24-0502  ユリ園

25-0502 わたしたちが植えました

27-0502 ユリ園、遠見台

28-0502 遠見台

29-0502 テッポウユリ球根植付体験

30-0502 ユリ園

31-0502 遠見台周辺施設案内図

32-0502 ユリ園

34-0502 サイクルセンター

36-0502 レクリエーションプール

37-0502 中学生?

38-0502 泡瀬干潟方面

39-0502 泡瀬干潟方面

40-0502 ユリ園

44-0502 ユリ園

45-0502 ユリ園

46-0502 ハイ、ポーズ!

47-0502 テッポウユリ

48-0502 テッポウユリ

49-0502 テッポウユリ

50-0502 出入口階段へ

 5月3日は「憲法記念日」です。

「日本国憲法…日本国憲法(にほんこくけんぽう、にっぽんこくけんぽう)は、1947年(昭和22年)5月3日に施行された、日本の現行憲法である。 1945年(昭和20年)8月15日にポツダム宣言を受諾した日本政府は、そこに要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権尊重、「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことになった。そこで連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し[1]、その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後に施行された。 国民主権の原則に基づいて象徴天皇制を採り、個人の尊厳を基礎に基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、戦争の放棄と戦力の不保持という平和主義を定める。また国会・内閣・裁判所の三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つは、日本国憲法を特徴付ける三大要素と呼ばれることもある。」

引用(日本国憲法 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95

憲法記念日集会、改正に賛否熱く 「平和主義」が転換点…日本国憲法の施行から67年を迎えた3日、憲法記念日の集会が各地で開かれた。安倍首相は9条の解釈を変更して、集団的自衛権を行使できるようにすることを狙っており、その先には憲法改正を見据える。 戦争への反省から掲げた憲法の「平和主義」が転換点に立つ中で、各集会では改正の是非や自衛権の在り方をめぐり、改憲派と護憲派がそれぞれの主張をアピールした。 改憲派の「新しい憲法をつくる国民会議」は東京都内の大会で「時代に合わせて改正しないと国家が破綻する」と述べた。 護憲派の集会では、ジャーナリストらが「安倍政権は憲法を換骨奪胎して変えようとしている」と批判した。」

引用(憲法記念日集会、改正に賛否熱く  「平和主義」が転換点 - 47NEWS(よんななニュース) http://www.47news.jp/CN/201405/CN2014050301001162.html


那覇高校、ちびっこランド、曝書山房跡、城嶽、古波蔵嶽、二中健児の塔…那覇市「城岳公園」周辺

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 「曝書山房跡」は、沖縄学の父とされる伊波普猷の別荘跡です。「沖縄県立那覇高等学校」校門向かいの路地を、城岳公園方面に入った所にあります。「ちびっ子ランド」駐車場前の、「二中前自治会掲示板」の側です。普猷は、沖縄県立図書館長時代、持病の療養のため、伊波家の畑地に瓦葺き(曝書山房)を建て、晴耕雨読の日々を過ごしました。

01-0504 那覇高校

02-0504 那覇高校

参照(沖縄県立那覇高等学校 http://www.nahanishi-h.open.ed.jp/

03-0504 ちびっこランド

04-0504 ちびっこランド

05-0504 ちびっこランド

06-0504 ちびっこランド

07-0504 二中前自治会掲示板

08-0504 曝書山房跡

09-0504 曝書山房跡

「曝書山房跡(バクショサンボウアト)…沖縄学の父とされる伊波普猷(いはふゆう)の別荘跡。城岳(じょうがく)の西の麓(ふもと)にあり、かつては、濃い樹影に囲まれた静閑な別天地であった。 城岳を背にし、地域のウブガー(産井)を含む2,500坪の伊波家の畑地は、幼少の頃、昆虫や草花の採集に興じた所、と後に記している。 沖縄県立図書館長時代の1914年、持病の療養のため、地内に12坪ほどの瓦葺きを建て、晴耕雨読(せいこううどく)の日々を過ごした。屋内には、尚泰(しょうたい)王の第4子尚順(しょうじゅん)松山王子の筆による「曝書山房」の額字が掲げられていた。 この別荘は、比嘉春潮(ひがしゅんちょう)らも参加して沖縄研究の会が開かれた他、組合協会(キリスト教)運動の拠点ともなっていた。 しかし、この地も大正末期、伊波の上京後には人手に渡ったという。 設置 2014年月3月那覇市歴史博物館」

参照(伊波普猷 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%B3%A2%E6%99%AE%E7%8C%B7

 城岳公園は、那覇高校校門向かいの高台に位置し、「城嶽」「古波蔵嶽」「花壇」「遊具」などがあります。

10-0504 城岳公園

11-0504 城岳公園愛護会

12-0504 城岳公園

13-0504 城嶽、古波蔵嶽

14-0504 城嶽、古波蔵嶽

15-0504 城嶽、古波蔵嶽

16-0504 遊具

17-0504 東屋

18-0504 城嶽

19-0504 古波蔵嶽

20-0504 城嶽

「城嶽は樹木??往古よりの霊地にして六百年程前に寶船舟子達の建立する所で當地方住民の御守護海上安泰を祈願する拝所である 毎年旧三月六月九月作物豊饒の為旱魃之時は雨乞祈願を執行せる拝所なり 一九六二年三月十一日 旧二月六日」

 城岳公園の一角には、奥武山から移設された「二中健児の塔」があります。公園から、目の前に「那覇高校」が見え、「県庁」方面を見渡すこともできます。

21-0504 砂場

22-0504 城岳公園

23-0504 県庁方面

24-0504 二中健児の塔

25-0504 二中健児の塔

26-0504 建立の詞

「建立の詞…一九四五年第二次大戦の終末戦となった沖縄戦において沖縄県立第二中学校職員生徒は軍命により、或は鉄血勤皇隊として、北部の防衛に當り、或は通信隊に参加して首里以南の山河に馳駆し、其他防衛隊又は軍属として各地に勇戦奮闘中、表記の勇士はついに壮烈なる戦死を遂げられました。 茲に、母校及び其後継那覇高等学校職員生徒、同窓会員遺家族並びに一般有志相諮り、曽ってはスポーツに競った奥武山の此の塔を建立して以て英霊の至誠を追慕し、冥福を祈り永遠の世界平和を祈願するものであります。 一九五七年十二月二十九日 二中健児之塔建設期成会 会長 山城 篤男」

27-0504 移設に際して

「移設に際して…沖縄県立第二中学校、沖縄県立那覇高等学校の創立八十周年記念事業の一環として、二中健児の塔を一九九〇年十一月二十二日奥武山より城岳に移設しました。 城岳は、懐かしい母校を前に由緒ある地として、亡き師や友の安らかな永眠を願って選びました。 志半ばにして戦場に散った師友の面影を偲び、かけがえのない肉親を失われた御遺族の御心を思うとき、戦争さえなければという無念さが残ります。 この塔は、平和を希求して建立するものであります。 一九九〇年十一月二十二日 創立八十周年記念事業期成会 会長 瀬長 浩」

28-0504 那覇高校方面

29-0504 県庁方面

30-0504 公園からの眺望

31-0504 西側壕の入口

32-0504 西側壕内部

ゆっくり、四季の景観を楽しむ…福州園再訪!

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 5月4日、那覇市久米の「福州園」を再訪しました。「福州園」は、那覇商業高校に隣接した、「松山公園」の向かいにあります。「福州園大門」前には、玉を手にした獅子と、子獅子を手にした獅子があり、訪問者を迎えます。

01-0504 福州園大門

02-0504 福州園大門

03-0504 玉を手にした獅子

04-0504 子獅子を手にした獅子

参照(都心のオアシス!福州園(春景色) - 結〜つなぐ、ひらく、つむぐ〜 http://blog.goo.ne.jp/nrai5029knai/e/b404c493881e4d467fa3e41a3876297c

 5月5日、沖縄気象台が、「沖縄地方は梅雨入りしたと見られる」と、梅雨入り宣言をしました。

「梅雨の時期に関する沖縄地方気象情報 第1号平成26年5月5日11時00分 沖縄気象台発表(見出し) 沖縄地方は梅雨入りしたと見られます。(本文) 沖縄地方は、前線の影響で雨の降っている所が多くなっています。向こう一週間も、前線や湿った気流の影響で曇りや雨の日が多くなる見込みです。 このため、沖縄地方は5月5日ごろに梅雨入りしたと見られます。(参考事項) 平年の梅雨入り 5月9日ごろ 昨年の梅雨入り 5月10日ごろ(注意事項)・梅雨は季節現象であり、その入り明けは、平均的に5日間程度の「移り 変わり」の期間があります。・梅雨の時期に関する気象情報は、現在までの天候経過と1週間先までの 見通しをもとに発表する情報です。後日、春から夏にかけての実際の天 候経過を考慮した検討を行い、その結果、本情報で発表した期日が変更 となる場合があります。」

引用(気象庁  気象情報 http://www.jma.go.jp/jp/kishojoho/111_04_936_20140505015649.html

 大門を入ると、前面に「照壁」があり、壁の前面と上面に石刻装飾が施され、松の緑と見事にマッチしていました。前回は、春、夏の景色を中心に見たので、今回は、前半を急ぎ、秋、冬の景色をじっくり眺めました。「照壁」の右手に、「泰山木」の木があります。入口付近の木は蕾のままですが、「東冶堂」付近の木は、いくつか、白い大きな花をつけていました。

05-0504 照壁

「泰山木(タイザンボク)モクレン科…北米原産の常緑高木。葉は大きくて厚く光沢がある。初夏の頃、かおりがよく白くて大きな花を上向きにつける。」

08-0504 泰山木

11-0504 コイ、カメ

13-0504 保聖塔

14-0504 東冶堂

15-0504 松竹如酔亭

16-0504 定光塔(白塔)

18-0504 凌波廊

19-0504 迎春

23-0504 碧水

「どこかの研修員」なのでしょうか。外国人と、日本人ボランティアらしい一行と出会いました。思い思いに、風景を眺めたり、写真撮影をしたりしています。担当者が、ときどき声を掛けて、誘導していました。

24-0504 万寿橋

25-0504 知春亭

27-0504-1419-0桃紅

30-0504 冶亭

31-0504 李白像

32-0504 欧冶池

34-0504

37-0504 ウメ

40-0504

41-0504 湧泉亭

42-0504

44-0504 仙橋

47-0504 冶亭

48-0504 飛虹橋

49-0504 三山

 松山公園の駐車場から、福州園で出会った一行を乗せたバスが、出てきました。JICAのバスです。一行は、「JICAの研修員」だったのでしょうか。

50-0504 JICAバス

 

闘牛の里、石川多目的ドーム、石川高架橋、闘牛の「ワザ」…うるま市石川

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 うるま市石川は、県内初のドーム型闘牛場「石川多目的ドーム」を持つ「闘牛の里」として知られ、沖縄県闘牛組合連合会が主催する「全島闘牛大会」等、年間約20回の闘牛大会が開催され、「闘牛とエイサーのコラボレーション」や「龍神の宴」などのイベント会場としても使用されています。

01-121115 闘牛の里

02-121115 石川多目的ドーム

03-0414 うるま市

04-0321 1闘牛のメッカ

05-0302 石川多目的ドーム

06-0329

 石川高架橋の歩道には、タイル画で装飾された箇所があります。「押し」「もたしこみ」「腹取り」「割り」「向い突き」の闘牛の「ワザ」を表したものです。

07-0503 石川高架橋

08-0503 石川高架橋

09-0503 石川高架橋

10-0503 石川高架橋

11-0503 石川高架橋

12-0503 石川トンネル方面

「闘牛の『ワザ』…『ワザ』の種類は基本的には次の5手。腹取り以外は勝敗に直結することが少なく、複合、反復することによって相手を疲れさせ、動揺させ、敗走させることができる。他に『かつぎ上げ』や『打ち倒し』などの大技がある。」

13-0503 押し

14-0503 押し

「押し…正面から渾身の力を込めて直線的に相手を押すこと。押しだけで勝負が決まることは希であり、体勢を崩した後続く腹取りでの決着が多い。」

15-0503 もたしこみ

16-0503 もたしこみ

「もたしこみ(もたせこみ)…相手に体重をかけるワザ。相手の押し込みや掛けを避けるため防御目的にやることが多い。しかし中にはこれを積極的に仕掛け相手を疲れさせる頭脳プレイをする牛もいる。」

17-0503 腹取り

18-0503 腹取り

「腹取り…勝敗に直結する決定力を持ったワザ。頑強な牛は多少のケガで闘いを止めることはないが腹部だけは別。腹部に危害を加えられそうになると一白散に逃げ出すのが普通。このワザを得意とするのは敏捷で体全体にバネがあり瞬発力豊かなタイプで、花形牛となることが多い。」

19-0503 割り

20-0503 割り

「割り、突き…」…相手の眉間めがけて角を打ち込むこと。体重が乗った強烈なワザが決まった場合はかなりの威力となり、間をおかずに相手を敗走させることが出来る。「ワリ牛は逆にワラれると弱い」の例が多く、数が減っている。ワザに移る前の有効な一撃として、ほとんどの牛が併用する。」

21-0503 向い突き

22-0503 向い突き

23-0503 かけ

24-0503かけ

「かけ…1.角を掛けて、2.相手の首をまげる 角を掛けて相手の首をまげること。もっともよく出るワザだ。相手の首が90度近くも回転し天井を向いたままになることもある。」

引用(『闘牛ハンドブック』 http://uruma-ru.jp/history/pdf/togyu.pdf

参照(闘牛大会日程 平成25年度石川多目的ドーム - うるま市 http://www.city.uruma.lg.jp/6/5170.html

25-0503 石川岳方面

26-0503 石川トンネル方面

27-0503 石川トンネル方面歩道

ゆらゆら、ぶらんこ、おおがたゆうぐであそぶ!…真嘉比中央公園

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 那覇市字真嘉比、ユニオン真嘉比店に隣接した場所、真嘉比中央公園内に、「真嘉比村」の説明板が設置されています。それにより、かつて、この地域は真嘉比村と呼ばれ、首里と那覇を結ぶ真嘉比道があったこと、周辺の丘陵には、多くの墓があり、幽霊話の舞台となったことなどがわかります。一帯は、区画整理事業により、急激に都市化が進行しています。

01-0504 真嘉比中央公園

02-0504 真嘉比村

03-0504 真嘉比村

04-0504 真嘉比村

「真嘉比村(マカビムラ)…琉球王国時代、現在の真嘉比(まかび)・古島(ふるじま)地域は、真和志間切(まわしまぎり)真嘉比村と呼ばれ、小字(こあざ)真嘉比原(ばる、現)真嘉比自治会館周辺一帯に集落が形成されていました。 1879年の琉球処分(沖縄県設置)の後、真和志間切真嘉比村は1908年真和志村(そん)字真嘉比となり、1920年には字真嘉比の北東地域が字古島として分離しました。 古島を含むかつての真嘉比村は、首里・那覇に隣接する純農村地帯で、サトウキビや真嘉比川周辺の真嘉比川原(マカンジャーラ)の田芋(たいも)は特に有名でした。また、首里(儀保村、ぎぼむら)から那覇(崇元寺、そうげんじ)に至る真嘉比道(マカンミチ)と呼ばれる道が通っており、一部には石畳が敷かれていました。この道は、首里の人々が人目を避けて那覇の辻(つじ、遊郭、ゆうかく)に行くために通ったり、末吉(すえよし)・西原(にしはら)村辺りの人々が那覇の市(マチ)に荷を運ぶために利用しました。真嘉比道周辺の丘陵には数多くの墓が建立されており、幽霊話の舞台ともなりました。 沖縄戦の後、1957年に那覇市と真和志市(当時)が合併した際、那覇市字真嘉比、那覇市字古島の行政区域が誕生しました。2000年頃までは真嘉比地域でも集落の形態や真嘉比道、周辺の丘陵・墓などもかつての姿を残していましたが、土地区画整理事業が進展し、見違えるほど整備された街が誕生しました。」

参照(地域 旧真和志  那覇市歴史博物館 http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/site_tax02/former-mawashi

05-0504 整備計画図

 真嘉比中央公園は、広々とした緑の芝生を敷き詰めた中に、「ゆらゆら」「ぶらんこ」「じゃんぐるじむ」「ひねりうんてい」「おおがたゆうぐ」「のぼりぼう」「自然浴さんぽ路」「腹筋ベンチ」などの遊具や運動用具がたくさんあります。  

 園内には、ウォーキングやジョギングをしている人、グランドゴルフをしている人、腹筋・背筋のばしなどの運動をしている人、子どもと一緒に遊んでいる人、子どもたちの遊ぶ様子を見守っている人など、いろいろな光景が見られました。

06-0504 あそぶ

07-0504 あそぶ

08-0504 あそぶ

09-0504 あそぶ

10-0504 あそぶ

11-0504 あそぶ

12-0504 あそぶ

13-0504 じゃんぐるじむ

14-0504 ぶらんこ

16-0504 ゆらゆら

17-0504 ゆらゆら

18-0504 おおがたゆうぐ

19-0504 おおがたゆうぐ

20-0504 おおがたゆうぐ

21-0504 おおがたゆうぐ

22-0504 おおがたゆうぐ

23-0504 見守る

 公園は、「ゆいレール市立病院前駅」から歩いて15分ほどの所にあり、広々としたスペースがあり、よく整備され、きれいです。ベンチでくつろぐこともできます。近くには、「那覇市立真嘉比小学校・真嘉比幼稚園」「那覇市立松島中学校」などがあります。

24-0504 サンダンカ

「サンダンカ アカネ科…常緑低木(じょうりょくていぼく)で、花穂(かすい)は半球状(はんきゅうじょう)。江戸時代(えどじだい)に渡来(とらい)した熱帯性花木(ねったいせいかぼく)です。」

25-0504 あれナ〜ニ?

26-0504 イヌマキ

イワサキクサゼミ、ゲットウ、イジュ、クチナシ…初夏の野山

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イワサキクサゼミ、ゲットウ、イジュ、クチナシ…初夏の野山

「イワサキクサゼミ」は、ゴールデンウィークの頃、鳴きはじめます。それに合わせて、この時期、南城市知念、「レキオエナジー」付近に通っています。今年は、5月3日に、2匹観察しました。今日は2度目です。13時30分頃、5、6箇所から「ジー…ジー…」という鳴き声が聞こえ、ときどき、「チッチッチッチッ」と、誘い泣きも聞こえました。15分位で、10匹ほど、姿を見かけました。

01-0508 クサゼミ観察地

02-0503 イワサキクサゼミ

03-0508 抜け殻

05-0508 イワサキクサゼミ

06-0508 イワサキクサゼミ

08-0508 イワサキクサゼミ

10-0508 イワサキクサゼミ

12-0508 イワサキクサゼミ

13-0508 イワサキクサゼミ

16-0508 イワサキクサゼミ

17-0508 観察地周辺

20-0508 観察地周辺

 所用で、うるま市石川山城付近を通りました。ここは、2週間ほど前から、道路沿いの「イジュ」が、白い花をつけ始めた所ですが、今日は、だいぶ咲いていました。「イジュ」の花が咲くと、梅雨が近いと言われますが、今年は、「5月5日ごろに梅雨入りしたと見られる」と、沖縄気象台が、すでに梅雨入り宣言をしています。「イジュ」の近くで、「ゲットウ」「クチナシ」も花をつけていました。

「ゲットウ(月桃)はショウガ科ハナミョウガ属(アルピニア属)の多年草。…地下茎は横に這い、あちこちから地上に偽茎を立てる。偽茎は高さ2mほどになり、先端の方に互生するように大きな葉をつける。葉は楕円形で緑、やや硬くてつやがある。5月-6月に偽茎の先端から穂状花序を出す。花序はやや垂れ下がり、赤い縁取りの入った白い苞に包まれた蕾が並び、その先が開くとそこから突き出すように大きな白い花を咲かせる。花弁は厚みがあり、蝋細工のような手触り。唇弁は黄色で、中央に赤い縞模様がある。9月-10月に赤い実を結ぶ。」

引用(ゲットウ – Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%A6

21-0508 ゲットウ(うるま市石川)

23-0508 ゲットウ(うるま市石川)

25-0508 ゲットウ(うるま市石川)

26-0508 ゲットウ(うるま市石川)

参照(イジュ http://www.ffpri-kys.affrc.go.jp/tatuta/jumoku/kmt126.htm

29-0508 イジュ(うるま市石川)

30-0508 イジュ(うるま市石川)

31-0508 イジュ(うるま市石川)

33-0508 イジュ(うるま市石川)

34-0508 イジュ(うるま市石川)

「クチナシ(梔子、巵子、支子、学名: Gardenia jasminoides)は、アカネ科クチナシ属の常緑低木である。野生では森林の低木として自生するが、むしろ園芸用として栽培されることが多い。果実が漢方薬の原料(山梔子)となることをはじめ、様々な利用がある。果実が熟しても割れないため、「口無し」という和名の由来となっている説もある。他にはクチナワナシ(クチナワ=ヘビ、ナシ=果実のなる木、つまりヘビくらいしか食べない果実をつける木という意味)からクチナシに変化したという説もある。」

引用(クチナシ - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%8A%E3%82%B7

 

35-0508 クチナシ(うるま市石川)

36-0508 クチナシ(うるま市石川)

40-0508 クチナシ(うるま市石川)

 

こどもの遊具、高齢者の運動用具がいっぱい…真嘉比中央公園

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 那覇市字真嘉比の「真嘉比中央公園」には、広々とした園内に、散策路、運動広場などがあり、こども用の遊具や高齢者向けの運動用具があります。各遊具や運動用具の側には、「対象年齢、遊ぶ上での注意や用具の使い方など」を記した説明板があります。

01-0504 真嘉比中央公園

02-0507 おおがたゆうぐ

04-0507 おおがたゆうぐ

「おおがたゆうぐ…たったまま すべらない。おりぐちで あそばない。むりにあたまを いれない。あそんでいる そばにいかない。とびおりない。この遊具は6-12歳用です。3歳から6歳の幼児には大人が必ず付き添って下さい。(説明板)」

05-0507 ぶらんこ

07-0507 ゆらゆら

「ゆらゆら…てをはなさない。うえにたたない。ひとりですわってのる。じゅんばんをまもる。とびおりない。この遊具は6-12歳用です。3歳から6歳の幼児には大人が必ず付き添って下さい。」

10-0507 のぼりぼう

「のぼりぼう…うえにだれかいたら したにいかない。ランドセルやカバンは おいてあそぶ。ゆうぐに ひもをまきつけない。うえのよこぼうに つかまらない。ひとりずつ のぼる。この遊具は6-12歳用です。(説明板)」

12-0507 じゃんぐるじむ

「じゃんぐるじむ…とびおりない。ランドセルやカバンは おいてあそぶ。ゆうぐに ひもをまきつけない。あそんでいる そばにいかない。とびのったり しない。この遊具は3-12歳用です。3歳から6歳の幼児には大人が必ず付き添って下さい。(説明板)」

13-0507 ひねりうんてい

「ひねりうんてい…ええにのらない。ランドセルやカバンは おいてあそぶ。ゆうぐに ひもをまきつけない。あそんでいる そばにいかない。ぬれているときは あそばない。この遊具は6-12歳用です。(説明板)」

14-0507 ぶらさがり

15-0507 ぶらさがり

16-0507 ぶらさがり

「ぶらさがり…この器具の使用は高齢者に優先にてお願いします。軽く手をのばして届くバーに手をかけます。バーを両手で握り、足裏を地面につけたままゆっくりぶら下がるように膝を曲げ、背中を伸ばします。(説明板)」

17-0507 腹筋ベンチ

19-0507 背のばしベンチ

20-0507 背のばしベンチ

「背のばしベンチ…この器具の使用は高齢者に優先にてお願いします。深く腰を掛け、背もたれに寄りかかるよう曲面に沿ってゆっくりと背と肩をつけます。次に、胸を広げ身体を伸ばしゆっくり上体を起こします。同様に立ったままで、サポーター部に寄りかかり曲面に沿わせます。次に、ゆっくりと背と肩をつけ胸を広げて身体を伸ばしましょう。背のばしの後は、左右のストレッチも行いましょう。(説明板)」

22-0507 わき腹のばし

23-0507 わき腹のばし

「わき腹のばし…この器具の使用は高齢者に優先にてお願いします。シートに座り、両手でパイプ上部の黄色を持ちます。両手をそろえたまま、パイプに沿って身体を左右に傾け身体を伸ばす。シートに座り、正面を向いたまま、上の黄色と横の黄色を持ちます。次に上の手を横側へ近づけるようにバランスをとりながら身体を傾けます。手をかえて、反対側へも同じように身体を傾けます。(説明板)」

26-0507 お腹ひねり

27-0507 ふみ台わたり

29-0507 自然浴さんぽ路

30-0507 自然浴さんぽ路

33-0507 グランドゴルフ

34-0507 グランドゴルフ

35-0507 ベンチ

 真嘉比中央公園の近くには、「那覇市立真嘉比幼稚園」「那覇市立真嘉比小学校」「那覇市立松島中学校」などがあります。

参照(那覇市立松島中学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/matsu-jh/

参照(那覇市立真嘉比小学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/makab-es/

36-0507 松島中学校

39-0507 真嘉比幼稚園

41-0507 花壇、飼育小屋

42-0507 真嘉比小学校

44-0507 真嘉比小学校おもろ門

49-0507 おもろ門花壇

50-0507 おもろ門花壇

薩摩藩在番奉行所跡、島尻郡役所跡、若狭町村学校所跡、若狭町大通り跡…旧那覇市の史跡・旧跡

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 旧那覇市の史跡・旧跡、「薩摩藩在番奉行所跡」「島尻郡役所跡」「若狭町村学校所跡」「若狭町大通り跡」「仲毛芝居跡」を訪ねました。

 那覇港フェリーターミナル近く、那覇那覇市西1丁目「琉球光和ビル」前右手に、「薩摩藩在番奉行所跡」があります。

01-0510 薩摩藩在番奉行所跡

02-0510 薩摩藩在番奉行所跡

03-0510 薩摩藩在番奉行所跡

「薩摩藩在番奉行所(さつまはんざいはんぶぎょうしょ)跡…在藩仮屋(ざいはんかいや)、大仮屋(ウフカイヤ)ともいう。1609年の島津侵入の後、薩摩藩が出先機関として1628年に設置した。以来1872年までの250年間、琉球支配の拠点となっていた。在藩奉行や附約(つけやく)など約250人が常勤し、薩琉間の公務の処理や貿易の管理にあたった。1872年の琉球藩設置後、外務省、ついで内務省出張所となり、1879年沖縄県設置(廃藩置県)で仮県庁、1881年から県庁となって1920年に泉崎(現在地)へ移転するまで県政の中心となっていた。 奉行所の前は「道(みち)ぬ美(チュ)らさや仮屋(カイヤ)ぬ前(メー)」と唄われ、那覇四町の(なはよまち)の大綱引もこの通りで行われた。掲げた「那覇綱引図」の中央が奉行所で、見物する役人が描かれている。 設置 1996年3月 那覇市文化局歴史資料室」

 那覇市松山、「沖縄銀行若松支店」前に、「島尻郡役所跡」があります。

04-0510 島尻郡役所跡

05-0510 島尻郡役所跡

06-0510 島尻郡役所跡

07-0510 島尻郡役所跡

「島尻郡役所跡(シマジリグンヤクショアト)…1896年(明治29)に設置された島尻郡の行政を管轄した役所跡。1879年(明治12)の沖縄県設置の翌年、島尻地方15間切(まぎり)の行政事務を監督・指導するため東風平(こちんだ)間切番所内に島尻役所が置かれた。 島尻役所は1886年(明治19)に那覇(なは)区東町(ひがしまち)の那覇区役所内に併設されて後、1896年(明治29)に施行された2区5郡制(那覇・首里区、島尻・中頭・国頭・宮古・八重山郡)により島尻郡役所と改称し、15間切の他に久米島(くめじま)、伊平屋(いへや)諸島など本島周辺離島わもその管轄とした。 1912年(明治45)に郡役所を若狭町(わかさまち、現那覇市若狭)に新築・移転。行政事務や郡道工事等の他に、島尻郡内で徴兵された青年達の合同結婚式を行うなど、那覇での拠点となった。 1926年(大正15)6月郡制廃止に伴い、島尻郡役所は廃され、庁舎も解体・撤去さ島尻・中頭・国頭・宮古・八重山郡れた。 1934年(昭和9)島尻郡役所跡に開洋会館(かいようかいかん)が建てられ、海外移民の渡航相談や宿泊所となっていたが、1944年(昭和19)の10・10空襲で消失した。 設置 2002年4月」

08-0510 島尻郡役所跡

 那覇市松山、「まつやま保育園」前に、「若狭町村学校所跡」があります。

09-0510 若狭町村学校所跡

10-0510 若狭町村学校所跡

11-0510 若狭町村学校所跡

「若狭町村学校所跡(ワカサマチムラガッコウジョアト) 那覇市松山1-30-14…首里王府時代の若狭町村の学校所および役所跡。創建年は不明だが、1830〜40年頃とされる。 村学校所は、士族子弟の初〜中級の教育機関で、首里・那覇等の各村ごとに建てられた。総数は首里14、那覇6、泊1の計21校となっていた。士族の子弟は7〜8才で入学し、14〜15才の間、勉強した。教科は、三字経(さんじきょう)の読み書きから、二十四孝(にじゅうしこう)、小学(しょうがく)、四書(ししょ)へと進んだ。廃藩時の同校には教師(講談師匠、こうだんししょう)1人、生徒82名がいた。各村学校は役所も兼ねており、中取(なかどり)1人、筆者(ひっしゃ)2人がいた。 王府末期、異国船渡来に際しては、異国人に対し、泊村や若狭町村の学校所が、泊公館、那覇公館として対応窓口となった。特に那覇公館(若狭町村学校所)は、ペリー等と王府高官との諸交渉が行われた現場で、琉米条約(りゅうべいじょうやく)の他、琉仏(りゅうふつ)・琉蘭(りゅうらん)条約が締結された。 なお、現在同地に祀られている夷堂(えびすどう)は、戦後の区画整理で近くから移したものである。 設置 1997年5月」

12-0510 若狭町村学校所跡夷堂

13-0510 顕彰

「顕彰…この敷地はかつて琉球王国時代、学校と役所があり若狭町村(まちむら)繁栄の場となった地であります。 昭和42年7月27日、旧若狭町民の皆様のご芳志により、保育所建設のため本市に寄贈されました。」

14-0510 まつやま保育園

15-0510 まつやま保育園

16-0510 まつやま保育園

17-0510 若狭町大通り跡

18-0510 若狭町大通り跡

「若狭町大通り跡(ワカサマチオオドオリアト)…この石垣は、沖縄戦(1944-45年)までこの地にあった那覇地方裁判所の石垣と同じ位置にあり、この前面に戦前の若狭町大通りがありました。 戦後、区画整理により大通りの位置は変わりましたが、その後も石垣の位置は変わらず、裁判所跡地の久米郵便局でも利用されていたため、松山公園の整備にあたり、沖縄戦により壊滅した那覇市の旧地形をしのぶ貴重な資料として、現地に一部を復元しました。 平成23年2月 那覇市」

 那覇市東町、「西武門病院前」に、「仲毛芝居跡」があります。「泉崎」交差点より歩いて1分ほどの、国道58号線に面した所です。

19-0510 仲毛芝居跡

20-0510 仲毛芝居跡

21-0510 仲毛芝居跡

22-0510 仲毛芝居跡

「仲毛芝居跡(ナカモーシバイアト)…沖縄で最初の常設芝居小屋跡。仲毛演芸場(ナカモーエンジバ)ともいう。 「仲毛」とは、この一帯に広がっていた久茂地川(くもじがわ)の中州のこと。1884年(明治17)頃、第百五十二国立銀行副頭取の松田通信(まつだみちのぶ)氏によって埋め立てられ、埋立地の地名ともなった。 沖縄の古典芸能を代表する「組踊(くみおどり)」(冠船踊、かんせんおどり)は、かつては首里(しゅり)士族の子弟によって踊られ、中国からの冊封使節(さっぽうしせつ)歓待の宴に供された。1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)により、職を失った冠船踊経験者の一部は、那覇(なは)に出て、思案橋(しあんばし)のたもとや久米孔子廟(くめこうしびょう)前といった空地に、叺(なます、藁筵、わらむしろ)で囲っただけの小屋で踊りを見せ(カマジー芝居)、木戸賃を取って生活の糧にしたという。仲毛芝居も当初は、カマジー小屋で、三間四方の板敷き舞台があったという。 最後の冠船踊奉行を務めた小禄按司朝睦(おろくあじちょうぼく)の子朝亮(ちょうりょう)は、カマジー小屋や冠船踊出演者の現状を憂い、1891年(明治24)頃、県の認可を取り、仲毛芝居小屋を瓦葺(ぶ)きの本建築に改め、仲毛演芸場とした。敷地は200坪余りで、落成式には組踊が披露され、喝采(かっさい)を博したという。また、踊りだけではなく、狂言(チョウギン)や歌劇なども創作され、一般民衆の人気を得た。 仲毛芝居が本建築になった頃、辻遊郭(つじゆうかく)の端道(はたみち)に本演芸場(ふんえんじば、後の『下の芝居(シチャヌシバイ)』、沖縄座、おきなわざ)、新演芸場(シンエンジバ、壬申座、ジンシンザ、後の『上の芝居(ウィーヌシバイ)』、球陽座、きゅうようざ)、さらに中座(なかざ)ができ、芝居興行は辻一帯が中心となった。仲毛演芸場は空きが続き、明治30年代には廃止されたという。 仲毛一帯はその後、久茂地川の水運を利用した材木店が建ち並んだが、沖縄戦後の区画整理により、道路・商業地となった。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

23-0510 仲毛芝居跡


「若狭小学校」児童の標語・絵画、「雪の崎跡」

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 「那覇市立若狭小学校」通用門の塀に、「ありがとう!相手を思う大切な気持ち」「『手伝いましょうか』その優しさが心に響く思いやり」「声かけよう やさしい言葉 わたしから」「薬物は 心と体の死への一歩」「この地球はあなたのゴミばこなのですか?」「赤信号 渡った先に 事故が待つ」「空き缶を ゴミ箱めがけて ナイスシュー」「美ら島をみんなで守ろう ポイ捨てなし!」「一度だけ 甘い気持ちが落とし穴」「早く帰ろう 家族の笑顔が待っているよ」などの「標語」や「絵画」が掲げられていました。

参照(那覇市立若狭小学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/wakas-es/

 小学校に隣接した「若狭海浜公園」の一角には、「雪の崎跡」の説明板があり、一帯は、「拝所」になっていました。

01-0511 若狭小学校

02-0511 若狭小学校

03-0511 若狭小学校児童の作品

04-0511 若狭小学校児童の作品

05-0511 若狭小学校児童の作品

06-0511 若狭小学校児童の作品

07-0511 若狭小学校児童の作品

08-0511 若狭小学校児童の作品

09-0511 若狭小学校

10-0511 若狭小学校1年生の作品

11-0511 若狭小学校2年生の作品

12-0511 若狭小学校3年生の作品

13-0511 若狭小学校5年生の作品

14-0511 若狭小学校6年生の作品

15-0511 若狭小学校

16-0511 若狭小学校

17-0511若狭海浜公園

18-0511若狭海浜公園

19-0511 雪の崎跡

20-0511 雪の崎跡

21-0511 雪の崎跡

22-0511 雪の崎跡

「雪の崎跡(ユーチヌサチアト)…那覇市の北西部にあった岬の名称。中国からの冊封使の記録には「雪崎山(せっきざん)」と見える(李鼎元、りていげん、『使琉球記、しりゅうきゅうき』)。 『雪の崎(ユーチヌサチ)』は、若狭町(わかさまち)の中央北側に広がっていた『上の毛(ウィーヌモー)』と呼ばれる高さ20m程の岩礁台地の突端。その下部が波の浸食により削られ、方言で『ユーチ』と呼ばれる斧(よき、小型な斧、斧は方言で『ウーン』という)の形に似ていることから、『ユーチヌサチ』と呼ばれ、『ユーチ』の音から『雪』の字が充てられた。 『上の毛』は古くから拝所として利用され、崖下には大きな洞穴があったという。また『上の毛』の東側は墓地地帯で、さらに『アカチラ原(バル)』と呼ばれる海岸沙汀地(さていち)が広がっていた。西側には、耳切坊主(ミミチリボージ)で有名な黒金座主(くろがねざす)の寺とされる護道院(ごどういん)があった。 沖縄戦後も『上の毛』はその姿をとどめていたが、1951年3月に米軍の立ち入り禁止区域から辻(つじ)・若狭町が開放されたことによる区画整理事業の実施、さらに泊港南岸地域の埋め立て(現前島3丁目・若狭3丁目一帯)により削り取られ、その岩石は埋め立て工事に使用された。1959年9月、残っていた『雪の崎』の岩礁は、ダイナマイト爆破により取り除かれ、『上の毛』跡地には若狭小学校(1957年開校)が新設され、周辺に住宅地・公園用地が整備された。現在、爆破により残った岩の一部が公園用地に取り込まれ、周辺住民の拝所として利用されている。 設置 2012年4月 那覇市歴史博物館」 

23-0511 雪の崎跡

24-0511 雪の崎跡

25-0511 雪の崎跡

26-0511 拝所

23-0511 祠

28-0511 美女留、弥勒神、土帝君

29-0511

 

30-0511

カテーラムイ旧海軍壕、フェーメーシチャグイ家のフール、報徳碑…那覇市小禄「田原公園」

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 那覇市小禄、小禄市営住宅に隣接して、「田原公園」があります。ゆいレール「小禄駅」に近く、各種大型店が近くにあり、日常生活に便利な地域です。広々とした公園は、緑に包まれ、ゆっくりくつろぐことができます。沖縄の南部地域は、ほとんどがそうですが、ここでも、沖縄戦で、悲惨な出来事がありました。公園の外側、「那覇市小禄学校給食センター」の向かいあたりに、「カテーラムイ旧海軍壕」入口の説明板があります。

 説明板をじっくり読み、さらに回ると、反対側の隅に、「フェーメーシチャグイ家のフール」がありました。その道向かいには、沖縄戦で殉職した村長夫妻の「報徳碑」がありました。「田原公園」の近くには、サイコロの形をしたトイレのある「小禄でいご公園」があり、「那覇市立小禄小学校」も近くにあります。

参照(那覇市立小禄小学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/oroku-es/

 

01-0512 小禄でいご公園

 

02-0512 田原公園

 

03-0512 田原公園

 

04-0512 田原公園

 

05-0512 田原公園

 

06-0512 田原公園

 

07-0512 田原公園

 

08-0512 田原公園

 

09-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

10-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

11-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

12-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

13-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

14-0512 カテーラムイ旧海軍壕

「カテーラムイ(寿山、ことぶきやま)旧海軍壕…海軍航空隊巌(いわを)部隊の本部陣地壕。日本軍は、この地を寿山と称した。小禄飛行場防衛のため、小禄(おろく)・豊見城(とみぐすく)一帯では、海軍少将大田実(おおたみのる)司令官の指揮下に連合陸戦部隊が編成され、多くの陣地壕が掘られた。その一つが本壕で、1944年8月から12月にかけて住民も動員して突貫工事で完成した。総延長は約350mで、その中に司令室・兵員室・暗号室などが設けられた。 1945年6月4日、米軍は飛行場のある字鏡水(かがみず)に上陸、戦闘が始まった。6月7日、米軍はここカテーラムイ一帯に激しい攻撃を加え、数日で制圧した。壕内には最大1,000人余の避難民・住民がいた。南部への撤退、避難民、戦死者数ともに不明であるが、8月段階でも約50人が壕内に留まっていたという。 設置 1995年6月 那覇市文化局歴史資料室」

 

15-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

16-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

17-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

18-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

19-0512 カテーラムイ旧海軍壕

 

20-0512 カテーラムイ旧海軍壕

参照(忘れられない、二十世紀の爪あと…旧海軍司令部壕 http://blog.goo.ne.jp/nrai5029knai/e/2f52a44f32000d52070f1dc00106636a

 

21-0512 那覇市小禄学校給食センター

 

22-0512 フェーメーシチャグイ家のフール

 

23-0512 フェーメーシチャグイ家のフール

「フェーメーシチャグイ家のフール…このフールは、字田原のフェーメーシチャグイ家(屋号)にあったものです。フールとは、豚小屋と便所を兼ねた施設で、前にトーシヌミーという穴があり、そこで用便を済ませます。さらにその前に、しゃがんで体が隠れる位の石垣がありました。豚がいる場所は、約3分の1ほどに石づくりのアーチ屋根があり、床はトーシヌミーと接続する方へ向かってゆるやかな勾配がつけられ、石敷きになっています。また、そこには、餌を入れる器を漆喰で固定していた跡がわかります。 このフールの石積みの技法は、かなり凝ったものになっており、明治時代の終わりごろから大正時代の初めごろにつくられたものではないかと考えられています。」

 

24-0512 フェーメーシチャグイ家のフール

 

25-0512 報徳碑

 

26-0512 報徳碑

 

27-0512 報徳碑

 

28-0512 アカナー森/ジマーラ川

 

29-0512

天妃宮跡、天妃幼稚園、天妃小学校、上山中学校、米国民政府跡、程順則生家跡…那覇市久米

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 那覇市久米1丁目に、「那覇市立天妃幼稚園」「那覇市立天妃小学校」「那覇市立上山中学校」が隣接して建っています。狭い敷地を有効利用して建てられたため、「天妃幼稚園」は「天妃小学校」校庭の地下にあり、不思議な感じがします。「天妃幼稚園」に隣接して、「上天妃宮跡の石門」説明板があり、由来が記されています。

参照(那覇市立天妃幼稚園 http://www.nahaken-okn.ed.jp/tenpi-kg/

参照(那覇市立天妃小学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/tenpi-es/

参照(那覇市立上山中学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/uenoy-jh/

01-0413 上天妃宮跡の石門

02-0413 天妃宮跡

03-0413 上天妃宮跡の石門

04-0413 上天妃宮跡の石門

05-0413 上天妃宮跡の石門

「上天妃宮跡の石門(かみてんぴぐうあとのいしもん) 那覇市重要文化財・史跡 指定 1977(昭和52)年4月8日…10世紀半、中国福建省甫田県(ほてんけん)という所に媽祖(まそ)とあがめられた女性がいました。その死後、いつしか航海の安全を守ってくれる神として、中国南部の沿岸(えんがん)地方で広く信じられるようになり、明(みん)の皇帝(こうてい)は媽祖に『天妃(てんぴ)』という称号を贈ったのでした。中国と行き来する沖縄の船も天妃をまつり、出発する時や着いた時には、その地の天妃廟(宮)に詣(もう)でました。沖縄には、14世紀の終わりごろにやってきたという?人(びんじん)三十六姓(中国<福建省>の人々)とともに、天妃をまつる信仰も伝わったようです。那覇には、上天妃宮、下天妃宮(しもてんぴぐう)の二つがありましたが、現在残っているのは上天妃宮の石門だけです。上天妃宮が作られたのは、そこにかけられていた鐘(かね)に記された年号から、15世紀半ばごろと考えられます。石門に続く石垣は、布積みからあいかた積みが用いられるようになるころのものと考えられています。 那覇市教育委員会 平成12年10月 設置」

06-0413

07-0413

08-0413 天

09-0413 てんぴようちえん

 幼稚園の屋上は、小学校の校庭となっていました。なんと、小学校の校庭地下に、幼稚園が建てられていたのです。

10-0512 天妃小学校

 小学校の道路側塀には、児童の標語が掲げられていました。

11-0512 天妃小学校児童の標語

12-0512 天妃小学校児童の標語

13-0512 天妃小学校児童の標語

14-0512 天妃小学校児童の標語

15-0512 天妃小学校児童の標語

16-0413 上山中学校

17-0413 上山中学校

18-0413 上山中学校

 上山中学校正門前左手に、「米国民政府跡」の説明板が設置されています。米国軍政府は、読谷村字比謝で設立され、具志川村栄野比、玉城村親慶原、那覇市天妃の旧国民学校と移り、その後、民政府が設立され、琉球政府ビルができるまで、沖縄行政の中心であり、米国民政府移転後、跡地に、上山中学校が開校しています。

19-0512 米国民政府跡

20-0512 米国民政府跡

21-0512 米国民政府跡

「米国民政府跡(ベイコクミンセイフアト)…沖縄統治のための米国(べいこく)政府の出先機関であった『米国民政府』の庁舎跡。正式名称は、琉球列島米国民政府(United States Civil Administration Of The Ryukyu Islands)で、英語の頭文字をとって、ユスカー(USCAR)または民政府などと呼ばれてた。 1945年(昭和20)3月26日、米軍の慶良間(けらま)諸島上陸、4月1日の沖縄本島上陸により始まった沖縄戦では、米軍は軍政施行を宣言(ニミッツ布告)し、本島上陸後、読谷村(よみたんそん)字比謝(ひじゃ)に軍政府を設立した。軍政府は、戦闘期間中、避難民の収容、資料配付、収容所の管理・運営などを行った。 沖縄戦終結後、米軍政府は、具志川村栄野比(ぐしかわそんえのび、現うるま市栄野比)に置かれ、1946年(昭和21)10月、玉城村親慶原(たまぐすくそんおやけばる、現南城市玉城親慶原)へ移転した。1946年4月24日に石川市東恩納(いしかわしひがしおんな、現うるま市東恩納)で発足した沖縄民政府も、軍政府移転に伴い、近隣する佐敷村新里(さしきそんしんざと、現南城市佐敷新里)へ移転した。 1949年(昭和24)7月25日、沖縄民政府は、戦災を免れた旧上山(うえのやま)国民学校(元那覇尋常小学校)に移転したが、すぐに隣接する天妃(てんぴ)国民学校に移った。12月には米軍政府が旧上山国民学校に移転し、軍政府長官シーツ少将は、那覇市を沖縄の首都とすると発表した。 1950年(昭和25)12月15日、軍政府が廃止され、替わって民政府が設立された。軍政から民政への移行は、沖縄住民の協力を得て、沖縄の長期的統治を可能にするための処置といわれる。以後、この一帯は、1953年(昭和28)に竣工した琉球政府ビル(現沖縄県庁所在地)に、米国民政府、琉球政府(1952年4月1日発足)が移転するまで、沖縄行政の中心地となっていた。 なお、米国民政府移転後、跡地に上山中学校が開校し、現在に至っている。 設置 2014年3月那覇市歴史博物館」

22-0512 米国民政府跡

 上山中学校正門近く、「西武門」バス停前に、「程順則生家跡」があります。程順則は、中国から「六諭衍義」等を持ち帰り、薩摩藩を経て徳川吉宗に献上し、全国に普及した功労者であり、孔子廟境内に、「明倫堂」を創設し、久米村子弟の教育にあたったことでも知られています。

23-0512 程順則生家跡

24-0512 程順則生家跡

25-0512 程順則生家跡

26-0512 程順則生家跡

「程順則生家跡(テイジュンソクセイカアト)…琉球王国を代表する文人、程順則の生家跡。 程順則は、1663年久米村(クニンダ、現那覇市久米、なはしくめ)生まれ。程順則は中国名で、字は寵文(ちょうぶん)。父は程泰祚(ていたいそ)といい、首里士家(しゅりしか)の虞氏外間筑登之實房(ぐうじほかまチクドゥンじっぽう)の次男であったが、中国語の才能を買われ、22才の時、王府の命により、久米村に入籍し、長く途絶えていた程家の跡を継いだ。 順則は、1683年20才の時、勤学(きんがく)として初めて清(しん、中国)に留学し、4年間滞在した。その後も三度渡唐(ととう)しているが、1706年には、正議大夫(せいぎたいふ、進貢副使)として北京(ぺきん)へ赴いている。1719年には、紫金大夫(しきんたいふ、親方位、ウェーカタくらい)に登り、久米村総役(クニンダスーヤク、久米村の最高役職)に就いた。 この間、『十七史(じゅうしちし)』全1,592巻や中国の教訓書『六諭衍義』等を持ち帰った。『六諭衍義(りくゆえんぎ)』は薩摩藩を経て、八代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)に献上され、その後、庶民教科書として全国に普及した。また、孔子廟(こうしびょう)境内に、琉球で最初の学校の「明倫堂(めいりんどう)」を創設(1718年)し、久米村子弟の教育にあたった。 順則は、『雪堂雑爼(せつどうざっそ)』(1696年)・『雪堂燕遊草(せつどうえんゆうそう)』(1698年)といった漢詩集や、中国渡航の際の航海指南書である『指南広義(しなんこうぎ)』(1708年)などを著し、1719年来琉した冊封副使徐葆光(じょほこう)に、中山(ちゅうざん、琉球)第一の文人と賞された。 1728年、66歳の時に名護間切(なごまぎり、現名護市)の総地頭となり、名護親方と称した。高徳の人として知られ、後に名護聖人と称された。 1734年死去、享年72。墓は辻原(つじばら)にあったが、沖縄戦後の区画整理により、識名(しきな)霊園内に移転された。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

具志火立所跡、赤嶺駅、当間学校跡、沖縄地方気象台跡…旧小禄

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 那覇市具志の丘陵地に建つ、「ライオンズマンション具志」の前に、「具志火立所跡」があります。中国などへの船舶の帰航・来航を伝える、「烽火台」の跡です。一帯は、現在、街区として整備されています。

01-0511 具志火立所跡

02-0511 具志火立所跡

03-0511 具志火立所跡

04-0511 具志火立所跡

05-0511 具志火立所跡

「具志火立所跡(グシフィータティジョアト)…船舶の帰航・来航を伝える烽火(のろし)台跡。小高い丘にあったことから俗に『火立毛(ヒータティモー)』とも呼ばれた。 琉球王国時代、中国からの進貢船(しんこうせん)の帰航、冊封船(さっぽうせん)や異国船の来航をいち早く首里王府(首里城)へ伝えるため、1944年『烽火の制』が定められ、沖縄本島をはじめ、慶良間(けらま)・久米(くめ)島など周辺離島、宮古(みやこ)・八重山(やえやま)諸島の各島に烽火をあげる『火立竈(ヒータティガマ)』・『遠見番所』が設置された。火立所では付近の百姓が三交替で見張りを務め、貢船・冠船が見えると、一隻であれば一本、二隻であれば二本、異国船の来航であれば三本というように烽火をあげる規定となっていた。 具志村の火立所は、村の北西白城原(フィリグスクバル)小高い丘にあり、1690年までには整備された。慶良間諸島の烽火を受けると、同様に烽火をあげ首里へ知らせるとともに、早馬を出して、那覇の親見世(おやみせ、那覇の行政を司る役所)へ報告した。 1879年(明治12)の沖縄県設置により、具志村の火立所は廃され、周辺は畑になったが、大正期まで『火立竈』の遺構や備蓄の薪が残されていたという。 沖縄戦の後、周辺は米軍基地として接収され、1972年(昭和47)の日本復帰にともない航空自衛隊に継続使用されたが、1976年(昭和51)に一部区域が変換された。返還後一帯は区画整理により敷き直され、街区として整備された。 設置 2003年3月 那覇市市民文化部歴史資料室」

06-0511 具志火立所跡

07-0511 ゆいレール赤嶺駅

08-0511 ゆいレール赤嶺駅

09-0511 ゆいレール赤嶺駅

10-0511 ゆいレール赤嶺駅

11-0511 ゆいレール赤嶺駅

12-0511 ゆいレール赤嶺駅

13-0511 ゆいレール赤嶺駅

 「ゆいレール赤嶺駅」バス停付近に、かつて「当間学校」として知られていた「小禄尋常高等小学校」がありました。「当間学校跡地」には、「県営赤嶺市街地住宅」が建設されています。

14-0511 当間学校跡

15-0511 当間学校跡

16-0511 当間学校跡

17-0511 当間学校跡

「当間学校跡(トウマガッコウアト)…この地に建てられた学校跡。正式名称は、小禄(おろく)尋常高等小学校。 小禄間切(まぎり、旧小禄村、現那覇市小禄地域)の小学校は、1880年(明治13)3月、小禄間切番所内(現那覇市字小禄)に置かれたのに始まる。1891年(明治24)頃、小禄間切赤嶺村(あかみねむら、現在地)と当間村の境に新築移転し、小禄尋常小学校と称した。当時は、4学年制で、習字や算術の授業が主であった。 1894年(明治27)の日清(にっしん)戦争勝利後、児童の就学数も次第に増え、小禄間切でも、1902年(明治35)、金城村(かなぐすくむら)に新たに学校を設置し、東部(とうぶ)小禄尋常小学校と称し、もとからの学校を西部(せいぶ)小禄尋常小学校と称した。翌年、西部小禄尋常小学校に高等科が設置され、小禄尋常高等小学校とした。これらの学校は、その所在地から金城学校、当間学校と称された。 1923年(大正12)、小禄尋常高等小学校が、校舎狭隘(きょうあい)として改築され、赤レンガ造りの2階建て校舎2棟が建設された。沖縄県で初めてのレンガ校舎で、『レンガ造りの当間学校』として有名になった。 学校周辺は、那覇と糸満(いとまん)を結ぶ糸満街道(1908年開通、現国道331号及び県道231号線)が通り、隣接地には、「当間の機織(はたおり)学校」と称された島尻(しまじり)女子工業徒弟(とてい)学校(1903年開校)や、小禄村役場(字小禄から1923年移転)が置かれ、昭和戦前期は、小禄村の中心地域であった。 1945年(昭和20年)の沖縄戦により、当間学校は消失し、一帯は、米軍基地(那覇空軍・海軍補助施設)となった。1980年(昭和55)から基地が返還され、小禄金城土地区画整理事業により、小禄地区の新しい街が創られた。当間学校跡地には、1986年(昭和61)に県営赤嶺市街地住宅が建設された。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」

18-0511 当間学校跡

 鏡水交差点付近、「陸上自衛隊駐屯地」前に、「沖縄地方気象台跡」があります。松尾山に設置された「県立那覇測候所」が火災で焼失し、鏡水で再出発した跡です。

19-0512 沖縄地方気象台跡

20-0512 沖縄地方気象台跡

21-0512 沖縄地方気象台跡

22-0512 沖縄地方気象台跡

23-0512 沖縄地方気象台跡

24-0512 沖縄地方気象台跡

「沖縄地方気象台跡(オキナワチホウキショウダイアト)…1927年(昭和2)この他に建てられた気象台跡。 沖縄の気象観測は、1890年(明治23)那覇(なは)の松尾山(現那覇市松山公園付近)に、沖縄県立那覇二等測候所が設置されたことに始まる。同年7月1日より1日6会の観測が実施されたが、当所、那覇の人々は測候所の看板を見て、『那覇(人)を測る所』と思い、皆驚き逃げ帰ったという。1900年(明治33)那覇一等測候所に昇格し、1日24回の定時観測を行った(1917年県立那覇測候所と改称)。1924年(大正 13)5月失火により全焼したため。東京の国立中央気象台は測候所の国営化を要望し、同年国立中央気象台付属沖縄測候所として再出発した。敷地は小禄(おろく)村鏡水名座原(カガンジナーザバル、通称ガジャンビラ高台)に約2,500坪の土地を買い上げ、1927年(昭和2)4月庁舎及び無線塔2基の施設が完成した。無線塔の鉄塔は高さ約90mで沖縄一の威容を誇った。(1932年中央気象台沖縄支台、1939年福岡管区沖縄気象台と改称)。 1945年(昭和20)沖縄戦で施設は全壊、跡地は米軍基地となり、現在陸上自衛隊駐屯地となっている。また、戦後の気象観測は琉球軍政府のもと、1950年(昭和25)琉球気象局が置かれ、日本復帰後は沖縄気象台として、天久前原(現那覇市天久)で観測を行っていたが、1987年(昭和62)現在地の那覇市樋川の合同庁舎に移った。 設置 2003年3月 那覇市市民文化部歴史資料室」

25-0512 沖縄地方気象台跡

真和志間切番所跡、ハンタガー、メーミチー、クシミチー、識名馬場跡

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 那覇市上間、「那覇上間郵便局」の駐車場入口左手に、「真和志間切番所跡」の説明板があります。ここに、琉球王国時代、12ヵ村を管轄する間切番所があり、村々の耕作状況や年貢収納などの監督・指導を行っていました。

01-0507 真和志間切番所跡

02-0507 真和志間切番所跡

03-0507 真和志間切番所跡

04-0507 那覇上間郵便局駐車場

05-0507 真和志間切番所跡

06-0507 真和志間切番所跡

07-0507 真和志間切番所跡

08-0507 真和志間切番所跡

09-0507 真和志間切番所跡

「真和志間切番所跡(マワシマギリバンジョアト)那覇市上間1ー7…琉球王国時代から1907年(明治40)にかけての行政単位である真和志間切の行政を管轄した番所(役場)跡。南風原(はえばる)・西原(にしはら)間切とともに首里王府の直轄領であった真和志間切は、当所那覇なども含む広大な間切であったが、那覇・久米村(くめむら)の独立、小禄(おろく)間切の分離設置などにより、王国時代は天久・識名・国場など12ヵ村(むら)をもって構成された。 間切番所は、上間(うえま)村に置かれ、地頭代(ジトゥデー)以下の間切役人が、村々の耕作状況や年貢収納などの監督・指導を行った。 1879年(明治12)の沖縄県設置後、1899年(明治32)の沖縄県間切吏員規定により番所は役場、間切役人は間切長・書記などと改称され、さらに1908年(明治41)の沖縄県及び島嶼町村制(おきなわけんおよびとうしょちょうそんせい)により、間切は町村となり、真和志間切は真和志村となった。 真和志間切番所は、その後も間切役場・村役場庁舎として使用されていたが、1926年(大正15)国場へ移転(現真和志支所敷地)、1957年(昭和32)那覇市との合併で那覇市真和志支所庁舎となった。 設置 2002年3月 那覇市市民文化部歴史資料室」

10-0507 那覇上間郵便局

11-0507 那覇上間郵便局

 繁多川地区は、琉球王国時代、金城橋から識名へ向かう道(真玉道)の途中でした。

参照(真珠道を歩く(2)…金城橋から識名へ! - 結〜つなぐ、ひらく、つむぐ〜 http://blog.goo.ne.jp/nrai5029knai/e/1e87c546af27a78b3e2e0f8357f51a89

12-0507 ハンタガー

13-0507 ハンタガー

14-0507 ハンタガー

「繁多川字指定文化財 ハンタガー(繁多川)…ハンタガーとは元々、ハンタ(端)にある井泉(せいせん)を意味したとされ、この呼び名に「繁多川」の字が当てられ地域の名称になったともいわれる。ハンタガーは、シチナンダヌカー(識名平の井泉)とも呼ばれ、地域の人々の飲料水や生活用水に利用されてきた。昔は旧暦の6月26日になると、メーミチー・素意の3つの井泉(せいせん)とも「カーヒラシー」(井泉浚い)が行われた。中の水を汲みだすと、エビや魚が取れ、子どもたちの楽しみの一つだったという。…平成20年3月31日 繁多川自治会」

15-0507 ハンタガー

16-0507 メーミチー

17-0507 メーミチー

18-0507 メーミチー

「繁多川字指定文化財 メーミチー(前道)…メーミチーは、尚真王(1477〜1526年在位)代に築かれた真珠道(まだまみち、石畳道)の一部であった。北はシチナンダビラ(識名坂)を経て首里へと続いている。主要な井泉(せいせん)がこの道沿いに多いこともあって、昔から繁多川の地域住民の生活に密着した道であるとともに、他地域の人々の往来も多い道であった。全長250m、道幅平均約3.3m 平成20年3月31日 繁多川自治会」

19-0507 クシミチー

20-0507 クシミチー

「繁多川字指定文化財 クシミチー(後道)…クシミチー(後道)は、メーミチー(前道)とともに、昔から繁多川の中心的な道であった。北はシチナンダビラ(識名坂)を登り切ったところでメーミチと分岐し、南は識名園方面へと到る。途中、ウマイーヌチビ(馬場の尾)と呼ばれる地点で、昔は尚家の馬場であったという道が分岐している。全長400m、道幅平均約4m 平成21年11月17日 繁多川自治会」

21-0507 さわやか通り

22-0507 識名馬場跡

23-0507 識名馬場跡

「繁多川字指定文化財 識名馬場跡(シチナウマイーあと)…王府時代(第二尚氏)、直轄(ちょっかつ)の三大馬場(ばば)の一つで最大の馬場であった。全長300メートルほどで幅は約30メートルあって、南北の両脇(りょうわき)は低い土手が積まれ、樹齢300年ほどの老松が、その土手に植えられていた。この尚家の馬場は、真喜屋親雲上(マージャペーチン)だけは許可なく使用することが出来た。昭和15年ごろまで、ウマヌイマージュ(馬乗真喜屋)の子孫(しそん)が近くに住んでいた。沖縄戦前の食糧増産奨励どきにこの馬場は開墾(かいこん)され、今や見る影もない。道幅平均約4m 平成21年11月17日 繁多川自治会」

アカチラ、那覇大阿母屋敷跡、円山号跡…旧那覇

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那覇市若狭、「夫婦橋」バス近く、浜松外科整形前に「アカチラ」の説明板があります。アカチラは、若狭町村の海岸砂汀地で、沖に、『夫婦瀬』(岩)があり、風光明媚な場所で、「浜下り」の場所でもありました。

01-0512 浜松外科整形

02-0512 アカチラ

03-0512 アカチラ

04-0512 アカチラ

「アカチラ…旧若狭町村の北東部の海岸砂汀地の名称。『アカツラ』・『明津浦』とも記す。名称は海岸付近の地名『アカチラバル』に由来する。 かつて若狭町村(現那覇市若狭)北東部の海岸は、東の『那覇潟原』(塩田:現潮渡橋一帯)から北の「雪の崎」(海岸に突き出た岩礁:現若狭小学校付近)に続く砂汀地で、歩いて渡れ、『アカチラ道』と称した。琉球王国時代には、首里の士族が人目をはばかり、ここを歩いて辻の遊郭に通ったという。 アカチラの沖には、『夫婦瀬』(岩)があり、風光明媚な場所と知られ、数々の詩や琉歌が詠まれた。また、那覇の婦女子の『浜下り』の場所でもあった。 戦後の都市計画により、1950年代に潟原を含む海岸一帯の埋立工事が行われ、住宅地へと姿を変えた。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

05-0512 夫婦瀬公園方面

06-0512 旧久茂地小学校

 那覇市久茂地、「久茂地小学校」は、生徒数減少により、2014年3月31日に廃校となり、前島小学校と統廃合し、前島小学校敷地に「那覇小学校」として開校されました。久茂地小学校裏の「カメラの森山専用駐車場」の一角に、「那覇大阿母屋敷跡」の説明板があります。

参照(那覇市立久茂地小学校 http://www.nahaken-okn.ed.jp/kumoj-es/

参照(「ありがとう久茂地小」校舎開放し大同窓会  沖縄タイムス+プラス_php http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=65893

07-0512 那覇大阿母屋敷跡

08-0512 那覇大阿母屋敷跡

09-0512 那覇大阿母屋敷跡

10-0512 那覇大阿母屋敷跡

11-0512 那覇大阿母屋敷跡

「那覇大阿母屋敷跡(ナハオオアムヤシキアト)…琉球王国の女神官の一人「那覇大阿母」の屋敷跡。広さは215坪。那覇大阿母は「浜(はま)の大阿母」ともいい、高級神女「真壁(まかべ)大阿母志良礼(しられ)」に属す。 嘉清(かせい)年間(1522〜1566年)、錢氏与那城親雲上直方(せんうじよなぐすくペーチンちょくほう)の娘真牛金(モウシガニ)は貞女との評判から、国王尚清(しょうせい)に召され、国王の子の養母となり、那覇士族の女性の頭(かしら)となった。この時、那覇大阿母に任じられたという(『女官御双紙、にょかんおそうし』)。 那覇大阿母は、代々那覇士族の婦女から選ばれ、楚辺(そべ)大阿母・泉崎(いずみざき)大阿母とともに那覇地域の祭祀を司(つかさど)った。また中国への進貢船(しんこうせん)出船の際は、両大阿母とともに三重城(みえぐすく)で、航海の無事を祈願した。 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後、那覇大阿母職は廃止され、屋敷地は1911年(明治44)久茂地(くもじ)尋常小学校創設に際し、学校用地に組入れられた。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

 国道58号線「泉崎」交差点近く、「琉球サンロイヤルホテル」前に、「円山号跡」の説明板があります。「円山号百貨店」として開店し、戦後の一時期は、「行政庁舎ビル」としても使用されていた建物跡です。

12-0512 サンロイヤルホテル

13-0512 円山号跡

14-0512 円山号跡

15-0512 円山号跡

「円山号跡(マルヤマゴウアト)…沖縄一のメインストリート『大門前(ウフジョーメー)通り』に面して建てられた百貨店跡。 店主は兵庫県出身の尾花仲次(オバナチュウジ)氏。尾花氏は1879年(明治12)生まれ。1912年(大正元)8月に来沖し、露天(ろてん)商人から始め、後に化粧品を中心とした雑貨卸問屋(おろしどんや)「円山号」を大門前通りに開店した。 尾花氏は商才に長けていたといわれ、さらに営業努力もあって、1935年(昭和10)10月、通りに面して、約150坪の敷地に鉄筋コンクリート造り3階建て(一部4階)の円山号百貨店を新築開店した。それまでの店は『円山号分店』として営業された。 百貨店としては山形屋(やまがたや、1930年開業)に次ぐ出店で、屋上からの展望と、おしゃれで真新しい百貨店に、那覇(なは)市民の人気が集まったが、1944年(昭和19)10月10日の10・10空襲で半壊した。 1949年(昭和24年)、アメリカ軍政府・沖縄民政府が、知念村(ちねんそん)から那覇へ移転してきたのを機に補修され、1950年(昭和25)5月に琉球軍政官府、さらに1952年(昭和27)に立法院が置かれるなど行政庁舎ビルとして使用された。 1953年(昭和28)から始められた一帯の区画整理後も建物は使用されたが、1966年(昭和41)9月に取り壊され、駐車場敷地となり、その後、ホテルが建てられた。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」

16-0512 円山号跡

伊波普猷生家跡地、東恩納寛惇生家跡、天使館跡、下天妃宮、那覇里主所…旧那覇

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 「那覇ショッピングセンター」の近く、那覇市西1丁目付近に、「伊波普猷生家跡地」があります。「伊波普猷生家跡地」から南へ5分ほど歩いた場所に、「東恩納寛惇生家跡」があります。「沖縄学の父」といわれる伊波普猷とともに、沖縄学の確立に大きな役割を果たした東恩納寛惇の生家跡が、こんなに近かったとは、意外でした。

01-0517 伊波普猷生家跡地

02-0510 伊波普猷生家跡地

03-0510 伊波普猷生家跡地

04-0510 伊波普猷生家跡地

05-0510 伊波普猷生家跡地

06-0510 伊波普猷生家跡地

「伊波普猷生家跡地(イハフユウセイカアトチ)…沖縄学の父と言われる伊波普猷の生家跡地。伊波は琉球処分を目前にした1876年、那覇の西村(にしむら)で生まれた。生家は那覇士族魚氏(ぎょうじ)の家系で、素封家(そほうか)として知られていた。 沖縄県立一中在学中の1895年、英語科廃止問題から起こったストライキ事件で首謀者の一人として退学処分。上京して浪人後、京都の三高(現京都大学)に入学。1903年には東京帝国大学(現東京大学)に進み、言語学を専攻した。 1906年、卒業して帰郷すると、沖縄に関する画期的な研究論文を次々発表し、沖縄人による沖縄研究の先陣を切った。 1910年、沖縄県立図書館の初代館長となり、資料の収集の他、各地で300回余りに及ぶ衛生に関する講演を行うなど、啓蒙運動にも精力的に取り組んだ。 1911年には諸論考をまとめて、沖縄研究の記念碑的著作となる『古琉球(こりゅうきゅう)』を出帆した。その後も真境名安興(まじきなあんこう)、東恩納寛惇(ひがしおんなかんじゅん)とともに沖縄学の確立に大きな役割を果たし続けた。 1925年、館長職を辞して上京。生涯をかけた『もろそうし』の研究に没頭し、多くの成果を遺した。 終戦間もない1947年8月13日、米軍占領下の故郷沖縄の将来を憂(うれ)いながら東京で病没した。享年72才。 伊波は、近代沖縄が生んだ第一級の研究者、啓蒙家であった。 設置 1997年8月 那覇市文化局歴史資料室」

 モノレール旭橋駅の西、「東町外科医院」近くに「東恩納寛惇生家跡」があります。「伊波普猷生家跡地」から南へ5分ほどの所です。

07-0517 東町外科医院

08-0517 東恩納寛惇生家跡

09-0517 東恩納寛惇生家跡

10-0517 東恩納寛惇生家跡

11-0517 東恩納寛惇生家跡

「東恩納寛惇生家跡(ひがおんなかんじゅんせいかあと)…沖縄研究者東恩納寛惇の生家跡。東恩納寛惇は1881年、当時の那覇東村に生まれた。東恩納家は那覇士族慎氏(しんうじ)である。 東恩納は、沖縄尋常中学校を経て、熊本の第五高等学校(現熊本大学)、ついで東京帝国大学史学科に進んだ。1908年卒業。その後も東京に留まり、1919年東京府立第一中学校の教諭、1929年には東京府立高等学校の教授となった。この間、1933年には東京府から派遣されて東南アジア・インドを歴訪、タイでは、日本人町の調査を行った。戦後は、1949年に拓殖大学の教授となった。 東恩納の沖縄研究は、大学在学中からで、『琉球新報』や各種雑誌等へ論文を発表している。主な著書に、『尚泰侯実録(しょうたいこうじつろく)』(1924)、『黎明期(れいめいき)の海外交通史』『泰ビルマ印度』(1941)など多数あり戦後も地名研究の名著『南島風土記』(1950)、『校注羽地仕置(こうちゅぅはねじしおき)』(1952)がある。 1963年に東京で死去、享年83才。60年余かけて収集された蔵書は、郷里沖縄に寄贈され、現在沖縄県立図書館に『東恩納文庫(ひがおんなぶんこ)』として収蔵されている。 なお、同生家跡は、王国時代は薩摩藩在藩奉行所(さつまはんざいはんぶぎょうしょ)の脇仮屋(ワチカイヤ)で、1900年から沖縄戦にかけては、並川金物店となっていた。」

 「天使館跡」の説明板は、「那覇市医師会館」前にあります。医師と天使ということで、てっきり白衣の天使(看護師)養成施設なのかと思っていたのですが、説明を読み、中国から派遣した冊封使(天使)の施設・宿舎跡だとわかりました。この近くには、「下天妃宮」や「那覇里主所」などもありました。

12-0510 那覇市医師会館

13-0413 天使館跡

14-0413 天使館跡

15-0413 天使館跡

16-0413 天使館跡

17-0413下天妃宮

18-0413 那覇里主所

「天使館跡(テンシカンアト)…琉球王国時代、中国が派遣した冊封使(さっぽうし、天使)のための施設・宿舎。一般に館屋(クヮンヤ)と称した。創建年代は不明だが、16世紀前半には確認される。冊封使の渡来は三山(さんざん)時代から1866年まで都合23回を数えた。正・副使以下400〜500人が夏から冬の約半年間滞在。崇元寺(そうげんじ)で故国王を弔(とむら)い(諭祭、ゆさい)、首里城で新国王を冊封した。国王一世一代の大行事であった。 冊封使滞在時の他は、通常その一部が砂糖座(さとうざ)として用いられ、砂糖の収納、薩摩藩(さつまはん)への送り出し、砂糖樽の製造が行われた。 沖縄県設置の後、1896年には那覇区役所(後に市役所)となり、1917年には新庁舎を建てていたが、沖縄戦の前哨(ぜんしょう)となる、1944年10月10日の大空襲で破壊された。

下天妃宮(シムヌティンピ)…航海安全の守護神、天妃(媽祖、まそ)を祀った廟(びょう)。現在石門のみ残る上天妃宮より先の永楽(えいらく)年間(1403〜24)の創建とされる。中国から渡来した?人(びんじん)三十六姓(せい)の請来(しょうらい)と考えられている。 廃藩後の1880年6月には、隣接する那覇里主所(なはさとぬしじょ)敷地ともども沖縄小学師範(しはん)学校(後に沖縄県立師範学校)が設置され、廟内の神像はすべて上天妃宮に移された。 1886年1月、師範学校が首里に移って後、那覇郵便局となっていた。

那覇里主所(ナハサトヌシジョ)…那覇四町(ユマチ)の行政および薩摩藩在藩奉行所(さつまはんざいはんぶぎょうしょ)との接渉(せっしょう)、唐船(とうせん)・楷船(かいせん)・旅役(たびやく)などの事務を下天妃宮管掌(かんしょう)した首里王府の役所跡。長官は那覇里主、下役には那覇大筆者(ウフひっしゃ)、脇筆者(ワチひっしゃ)がいる。 那覇里主は、古琉球期、親見世(おやみせ)の長たる御物城(おものぐすく)職とともに王国の対外窓口たる那覇の港、町の管理にあたっていた。近世期においても基本的役割は変わらなかったが、任職者は首里の上級士族に限定され、王府中枢(ちゅうすう)役人の出世コースの一職となった。 設置 1997年3月 那覇市文化局歴史資料室」

19-0413 天使館跡

20-0413 天使館跡

21-0413 天使館跡


安里橋跡、牧志長虹橋、仲島小堀跡…浮島だった那覇

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 モノレール牧志駅の北西、「崇元寺橋」近くに、「安里橋跡」があります。かつて、「浮島」だった那覇と安里を結ぶ橋が架けられ、「長虹堤」の起点となっていました。

01-0515 崇元寺橋

02-0515 崇元寺方面

03-0515 美栄橋方面

04-0515 安里橋跡

05-0515 安里橋跡

06-0515 安里橋跡

07-0515 安里橋跡

08-0515 安里橋跡

09-0515 安里橋跡

「安里橋跡(アサトバシアト)…安里川(あさとがわ)に架けられた橋跡。崇元寺(そうげんじ)が近くにあるため、崇元寺橋ともいう。当初の架橋年は不明だが、安里の対岸に浮かぶ『浮島(うきしま)』だった那覇(なは)と安里(崇元寺前)を結ぶ「長虹堤(ちょぅこうてい)」の起点となっていることから、1451年の長虹堤築造当時と考えられる。 もとより石橋であったが、1670年に水害で破損し木橋に架け替えた。しかし1677年に再び損壊したため、橋脚を高くし、新たに欄干(らんかん)を取り付けるなど橋の偉容(いよう)を誇ったという(『安里橋之碑文、あさとばしのひぶん』)。橋は三連アーチの石造橋で、長さは約72mであった。 崇元寺において中国からの使者『冊封使(さっぽうし)』が、先代国王を弔(とむら)う儀式である「諭祭(ゆさい)」を行う際には、国王が橋のたもとまで出向いて、冊封使を迎えたという。 1945年(昭和20)の沖縄戦の際、米軍の進攻を遅らせるため日本軍により爆破された。戦後になって再建されたが、元あった場所より50m程上流に架け替えられた。2004年(平成16)に架け替えられた橋(崇元寺橋)の欄干は、戦前の安里橋の欄干がモチーフになっている。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」

10-0515 崇元寺橋

11-0515 崇元寺橋

12-0517 安里川

13-0517 前島南公園

14-0517 牧志長虹橋

 琉球王国時代に、いくつかの島からなる那覇と首里の交通の便を図るため、安里崇元寺から久茂地にいたる海中道路(長虹堤)を築いたことに驚きました。長虹堤の築造が、その後の那覇発展の契機となりました。

15-0517 長虹の由来

「長虹の由来…那覇はむかし浮島ともいわれ、いくつかの島からできていて、王都である首里との交通は安里川をへだてていたために不便をきたしていた。 1451年、尚金福王は国相懐機に命じ、安里崇元寺から久茂地にいたる長虹堤と称する海中道路を築かせた。 長虹堤の築造によって、首里への往還が便利となって、那覇発展の契機となったのである。」

16-0517 牧志長虹橋

17-0517 牧志長虹橋

18-0517 牧志長虹橋

19-0517 美栄橋方面

 「仲島小堀跡」付近は、久茂地川が漫湖に合流する河口で、人工の溜め池(仲島小堀)が作られ、泉崎村から仲島遊郭への出入り口には、「仲島小矼」が架けられていました。

20-0514 仲島小堀跡

21-0514 仲島小堀跡

22-0514 仲島小堀跡

23-0514 仲島小堀跡

「仲島小堀跡(ナカシマグムイアト)  那覇市泉崎1-9…この地にあった人工の溜(た)め池跡。 かつてこの一帯は、久茂地川(くもじがわ)が漫湖(まんこ)に合流する河口で、土砂が堆積した中州は「仲島(なかしま)」と呼ばれ、その後の埋立により陸続きとなった地域である。 河口(かこう)の水が湾入(わんにゅう)していた所は、17世紀中頃、泉崎村(いずみざきむら)在住の唐人(とうじん)の薦めにより、火難封じの風水として、土俵をもって潮入口を塞ぎ、溜め池(小堀、クムイ)とした。小堀は王国時代から養魚場として使われ、後に泉崎村の管理地となり、池から上がる収入で小堀の浚渫費(しゅんせつひ)に充てたという(『南島風土記、なんとうふどき』)。 仲島小堀では、その後も鯉(こい)や鮒(ふな)が養殖されていたが、昭和初期には埋め立てられ、1937年(昭和12)埋立地に済生会(さいせいかい)病院が建設された。 一方、仲島には、1672年に「辻(つじ)」(現那覇市辻一帯)とともに遊郭(ゆうかく)が開かれた(仲島遊郭)。歌人として有名な遊女(ゆうじょ)「よしや」(吉屋チルー)は、この仲島で生涯を閉じたとされる。また、泉崎村から仲島遊郭へは小矼(こばし、仲島小矼)が架けられており、遊郭への出入り口であった。仲島遊郭は1908年(明治41)に辻遊郭に統合・廃止され、小矼も埋立・道路拡張により消失した。 遊郭廃止後、埋立により住宅地として発展した泉崎は、沖縄戦後の区画整理により、往時の街並みとは異なった住宅地となった。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」

湧田地蔵堂跡(開南小学校)、武徳殿跡(沖縄県議会敷地)、開南(開南バス停)

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 那覇市泉崎1丁目、那覇市役所に隣接した「開南小学校」の外塀、県警本部よりの角に、「湧田地蔵堂跡」の説明板があり、経緯が記されています。校門付近のデイゴの花が、開き始めました。

01-0514 開南小学校

02-0514 左手は開南小学校、前方は県警本部

03-0514 湧田地蔵堂跡

04-0514 湧田地蔵堂跡

05-0514 湧田地蔵堂跡

06-0514 湧田地蔵堂跡

07-0514 湧田地蔵堂跡

08-0514 湧田地蔵堂跡

09-0514 デイゴ

10-0514 デイゴ

「湧田地蔵堂跡(ワクタジゾウドウアト)…地蔵菩薩(ぼさつ)を安置したお堂跡。 地蔵菩薩は、地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人間(にんげん)・天上(てんじょう)の六道(ろくどう)の輪廻(りんね)に苦しむ人々を救う仏とされ、日本では平安時代以降、六道の巷(ちまた)を住処(すみか)とする地蔵と、境(さかい)を守る道祖神(どうそしん)が習合(しゅぅごう)し、道々の境界に地蔵が祀(まつ)られるようになった。 湧田地蔵堂は、真言宗(しんごんしゅう)の僧日秀上人(にっしょうしょうにん、1503〜1577年)が、1538年泉崎村(いずみざきむら)の南に位置する湧田村(わくたむら)に建立した。堂は赤瓦屋根の中央に擬宝珠(ぎぼし)を載せた八畳程度の平屋で、中央に石柱が立ち、石柱上部は六角の厨子(ずし)の形であった。厨子の中に上人手彫りの木像が安置され、厨子には「欽奉(きんぽう) 六道能化(ろくどうのうげ)地蔵菩薩 現世安穏(げんせあんのん) 後生善所(ごしょうぜんしょ) 大明嘉靖(だいみんかせい)十七年戊戌三春晦日(ぼじゅつさんしゅんみそか) 敬白(けいはく)」の文字が刻まれた。 泉崎・湧田村では地蔵菩薩を村の守護仏として、旧暦の1日・15日、9月9日、10月の「竈まわり(カママーイ)」等に拝んだとされるが、普段は鬼ごっこや陣取りなどをする子どもたちの遊び場であったという。 日秀上人建立の地蔵堂は、湧田の他に、那覇(なは)地蔵堂(東村、ひがしむら・西村、にしむらの境)と若狭町(わかさまち)地蔵堂があったが、1944年(昭和19)の10・10空襲やその後の沖縄戦により破壊された。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

 沖縄県議会敷地花壇の一角に、「武徳殿跡」の説明板が設置されています。

11-0519 沖縄県議会

 

12-0519 沖縄県議会敷地内花壇

13-0519 沖縄県議会敷地内花壇

14-0519 武徳殿跡

15-0519 武徳殿跡

「武徳殿跡(ブトクデンアト)那覇市泉崎1-2-3 沖縄県議会事務敷地内…大日本武徳会(だいにほんぶとくかい)沖縄支部によって建てられた武道場跡。 大日本武徳会は、武道を奨励(しょうれい)し、武徳の涵養(かんよう)を目的に、1895年(明治28)4月、京都で設立された。各府県に支部を置き、警察組織を通じて、武道の普及と振興をを図った。 沖縄支部は、1933年(昭和8)12月に設立し、さらに、専用の演武場『武徳殿』の建設機運が高まると、支部役員・武道関係者・県下警察署が中心となり、寄付金を集め、建設資金とした。 建設地は、沖縄県庁構内警察練習所とされ、大城龍太郎(おおしろりゅうたろう)警察部技手の設計により、1938年(昭和13)6月に起工、翌年竣工した。敷地は約330坪、神明入母屋(しんみょういりもや)造りの瓦葺(かわらぶ)きで、鉄筋コンクリート造り地下1階、地上2階建てであった。竣工後の6月18・19日には、武徳会会長林銑十郎(はやしせんじゅうろう)大将以下関係者を招き、開殿式や柔剣道・空手の古式型模範演技が行われ、記念大会も開かれた。 武徳殿は武道大会や普及・指導の場所として、武道のメッカとされたが、戦時体制下では、軍需物資の保管庫に転用された。1944年(昭和19)の10月10日の10・10空襲や、その後の地上戦では、一部損壊しただけで戦災を免れ、米軍より『Increate Japanese Style』(不滅の和風建築)と称された。 米軍に接収された武徳殿は、1947年(昭和22)4月に将校クラブとして改修され、舞踏会も開かれた。1949年(昭和24)、沖縄民政府に譲渡され、行政庁舎として使用された。1959年(昭和34)からは、警察武道場となった。 1985年(昭和60)、沖縄県庁新庁舎の新築、それに伴う武徳殿の取り壊し計画が発表されると、保存運動も起きたが、1989年(平成元)9月に解体された。跡地は沖縄県議会敷地の一部となった。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」

16-0519 武徳殿跡

17-0519 武徳殿跡

18-0519 花壇

19-0519花壇

20-0519花壇

 開南バス停に、「開南」の説明板が設置されています。この一帯は、字樋川(行政区)でしたが、南極探検船「開南丸」に因んだ「私立開南中学校」の校名より、「開南」(通称地名)と呼ばれるようになったようです。

21-0504 開南バス停

22-0504 開南バス停

23-0504 市街地案内図

24-0504 開南

25-0504 開南

26-0504 開南

27-0504 開南

「開南(カイナン)…この地域一帯の通称地名。地名の由来は付近に建てられた学校名による。 かつて、この一帯は真和志間切与儀村(まわしまぎりよぎむら)の村外れで、墓が点在する場所であった。 大正期、付近に沖縄県立第二中学校(現那覇高校)、沖縄県庁、沖縄刑務所等が相次いで移設され、にわかに人口が増え始めた。このため、1928年(昭和3)与儀から樋川原(ひがわばる)・神里原(かんざとばる)が分離され、字樋川(あざひがわ)という行政区が誕生した。 1936年(昭和11)樋川の高台に、私立開南中学校(志喜屋孝信校長)が開校した。校名は、白瀬(しらせ)隊長率いる日本初の南極(なんきょく)探検隊(1911年)が乗り込んだ『開南丸(かいなんまる)』に因み、「日本の南を開く」の意図のもと命名された。 沖縄戦により、開南中学校は廃校となったが、開南中学校跡地に、1947年(昭和22)6月、開南初等学校が創設され、再び「開南」の校名が付けられた。 同年11月頃、この地から松尾(まつお)に向かう道途中に闇市(やみいち)が発生した。闇市取締のため、後に牧志(まきし、現牧志公設市場一帯)に市場が開設されたが、市場への買い物や品物運搬などで、一帯の交通量が激増した。バス路線開通後は「開南バス停」が設置され、特に島尻(しまじり)方面から市場や牧志への乗降所として賑わいを見せた。 開南小学校は1952年(昭和27)に泉崎(いずみざき)へ移転したものの、バス停を始め、付近の病院・商店等が『開南』の名を冠し、戦後この一帯の通称地名として定着した。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

行脚村跡(那覇市首里久場川)、新天地劇場跡(那覇市西)、西の海跡(那覇市西)

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 那覇市首里久場川2丁目、「タウンプラザかねひで首里久場川市場」「ローソン」近く、首里「りうぼう」に向かう手前の信号左側に、「行脚村跡」の説明板が設置されています。ニンブチャー、チョンダラーと呼ばれた人々の居住地跡だそうです。

01-0514那覇市首里久場川

02-0514 行脚村跡

03-0514 行脚村跡

04-0514 行脚村跡

「行脚村跡(アンニャムラアト) 那覇市首里久場川2-90-1地先…ニンブチャー(念仏者)、チョンダラー(京太郎)と呼ばれた人々の居住地跡。安仁屋村とも書く。 居住の由来は明らかではないが、18世紀初頭に作製された『首里古地図(しゅりこちず)』には、首里城の北東、久場川村(くばがわむら、現首里久場川町)の東端に『行脚屋敷(アンニャヤシチ)』とあり、1945年(昭和20)の沖縄戦に至るまで、ニンブチャーの頭(かしら、勢頭、シートゥ)一族が居住していたという。 ニンブチャーは、正月やお盆、また、法事がある家々を回って、祝い歌や念仏歌を唱え、時にはフトゥキ(仏)と称する人形を携え、人形芝居を演じる門付(かどつ)け芸を行った。葬儀の時には、ニンブチャーが呼ばれ、朝から鉦鼓(しょうこ)を打ち、葬列に加わって、墓前で念仏歌を唱えた。葬儀に僧侶を頼めない時は、ニンブチャーが代わりを務めたという。 ニンブチャーが唱える念仏歌や、チョンダラーの芸は、七月エイサーや組踊・歌劇などに取り入れられ、琉球・沖縄の芸能の発展に大きく寄与した。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

 那覇市西消防署通り、「西(北)」交差点前、左手に、「新天地劇場跡」の説明板が設置されています。当初は「若葉団」の専用劇場「那覇劇場」でしたが、常設映画館「新天地劇場」となり、その後、一帯の区画整理のため撤去されています。

 

05-0514 行脚村跡

06-0514那覇市西

07-0514那覇市西

08-0514 新天地劇場跡

09-0514 新天地劇場跡

10-0514 新天地劇場跡

11-0514 新天地劇場跡

「新天地劇場跡(シンテンチゲキジョウアト) 那覇市西1-12…那覇市上之蔵町(なはしうえのくらちょう)の石門(いしじょう)にあった劇場跡。1922年(大正11)建立で、最初の劇場主は奄美(あまみ)出身で眼科医の向井文忠(むかいぶんちゅう)氏。 那覇劇場は、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの二階建てで『石屋(イシヤー)』とも呼ばれ、瓦葺(かわらぶ)き屋根が軒を並べる那覇の街ではひときわ目立った建物だった。敷地は約190坪、収容人員は約1,500人であったという。 当初は『那覇劇場』という名で、新垣松含(あらかきしょぅがん)・多嘉良朝成(たからちょぅせい)・平良良勝(たいらりょうしょう)等が結成した『若葉団(わかばだん)』の専用劇場であったが、高台に建設されたこともあり、観客の入りがおもわしくなく、『若葉団』はまもなく解散。その後は『新天地劇場』という名の常設映画館として運営された。 1934年(昭和9)から1943年(昭和18)まで真境名由康(まじきなゆうこう)・鉢嶺喜次(はちみねきじ)・島袋光裕(しまぶくろこうゆう)等が結成した『珊瑚座(さんござ)』が専用劇場として使用し、「珊瑚座」の名称が定着した。 1944年(昭和19)10月10日の空襲で、劇場内部は被害を受け焼失したが、外部のコンクリート壁面は焼け残った。沖縄戦後もしばらく放置されたが、1953年(昭和28)から始められた一帯の区画整理のため撤去された。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

12-0514 新天地劇場跡

 那覇市西、県道43号線、「那覇ショッピングセンター」の道向かい、「エンゼルハイム西町」の前に、「西の海跡」の説明板が設置されています。三重城から、辻三文殊公園一帯は、「西の海」と呼ばれ、那覇の人々に親しまれた海辺でしたが、何度かの埋立と区画整理により、現在は、住宅地、倉庫街となっています。

13-0514 那覇ショッピングセンター

14-0514 県道43号線那覇港方面

15-0514 エンゼルハイム西町

16-0514 那覇ウェストイン

17-0514 エンゼルハイム西町

18-0514 西の海跡

19-0514 西の海跡

20-0514 西の海跡

「西の海跡(シヌウミアト) 那覇市西1-16地先…西村(にしむら、現那覇市西、なはしにし)の西の海のこと。童謡『アカナー』にも歌われており、那覇の人々に親しまれた海辺であった。 かつて、那覇港先の三重城(ミーグスク)から、塩の崎(スーヌサチ、現那覇市辻三文殊公園一帯)にかけては、U字形に湾入(わんにゅう)しており、『西の海』と呼ばれた。沿岸部は『下り(サガイ)』と呼ばれ、『牛町(うしまち)下り』・『嘉手川(かでかわ)下り』等の小字があった。1733年、那覇の人口増加に対応して、西の海の一部を埋め立てて、宅地にしたという(『球陽、きゅうよう』尚敬王21年条)。 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後、本格的に西の海の埋め立てが行われ、1882年(明治15)、『湯屋の前(ユーヤーヌメー)』と呼ばれる一帯約400坪が埋め立てられ、東本願寺(ひがしほんがんじ、現真教寺、しんきょうじ)が建立された。1888年(明治21)には、第百四十七銀行支店長田代静之助(たしろしずのすけ)により、三重城に伸びる突堤(とってい)付近約4,000坪の埋立が計画され、後にこの一帯は、西新町(にししんまち)1〜2丁目となった。 1908年(明治41)、沖縄県により埋立事業が開始されたが後の尚順(しょうじゅん、最期の琉球国王尚泰の四男)が引き継ぎ、1922年(大正11)に竣工した。一帯は、西新町3丁目となり、俗にミーガタ(新潟)と呼ばれ、1〜2丁目はフルガタ(古潟)と呼ばれた。島嶼、ミーガタはゴミ捨て場同然だったといわれるが、1915年(大正4)6月に大正劇場が新築された。同劇場では、1932年(昭和7)に玉城盛義(たまぐすくせいぎ)等が『真楽座(しんらくざ)』を結成し、新天地劇場の『珊瑚座(さんござ)』と人気を二分したという。 終戦後、同一帯は、さらなる埋立と区画整理により、住宅地の他、倉庫街となっている。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

21-0514 西の海跡

22-0514 西の海跡

具志川間切番所跡(うるま市具志川)、田場ガー(うるま市田場)、太田坂(うるま市大田)

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 うるま市具志川に、「具志川間切番所跡」の説明板が設置されています。琉球王府時代、具志川間切に設置されていた(現在の市役所に相当する)施設跡です。

01-0510 具志川間切番所跡

02-0510 具志川間切番所跡

03-0510 具志川間切番所跡

04-0510 具志川間切番所跡

05-0510 具志川間切番所跡

06-0510 具志川間切番所跡

07-0510 具志川間切番所跡

「具志川間切番所跡(グシチャーマジリバンジュあと)…間切番所(まぎりばんじょ)とは、琉球王府時代(りゅうきゅうおうふじだい)、各間切(かくまぎり、現在の市町村にあたる)に設置(せっち)されていた施設(しせつ)で、現在(げんざい)の市役所(しやくしょ)に相当(そうとう)します。地頭代(ジトゥデー、現在の市長)、総耕作当(コウサクアタイ)、夫地頭(ブジトゥ)、首里大屋子(シュイウフヤク)などの間切役人(まぎりやくにん)が仕事(しごと)をしていました。また、間切(まぎり)が疲弊(ひへい)したとき、その立(た)て直(なお)しのため、王府(おうふ)より臨時(りんじ)に派遣(はけん)される検者(けんじゃ)や下知役(げちやく)の詰所(つめしょ)も番所敷地内(ばんじょしきちない)に設置(せっち)されていたようです。番所(ばんじょ)の中(なか)では、税金(ぜいきん)を徴収(ちょうしゅう)したり、王府(おうふ)からの伝達(でんたつ)を住民(じゅうみん)に伝(つた)えること等(など)の他(ほか)、間切(まぎり)と間切(まぎり)の宿次(しゅくつぎ、文書などの伝達)も行(おこな)っていました。 具志川間切番所(ぐしかわまぎりばんじょ)の規模(きぼ)や建物(たてもの)の配置(はいち)などははっきりしません。また、琉球王府時代(りゅうきゅうおうふじだい)のいつ頃(ごろ)から設置(はいち)されていたのかもよく判(わか)っていません。しかし、明治(めいじ)14(1881)年(ねん)、当時(とうじ)の県令(けんれい、現在の知事)であった上杉茂憲(うえすぎ)が巡回(じゅんかい)したときの日誌(にっし)には、番所(ばんじょ)の門(もん)は東北(とうほく)に向(む)き、(番所の屋敷囲いは)フクギと松(まつ)が交互(こうご)に植(う)えられ、果(は)てしなく広(ひろ)がる青海原(あおうなばら)に面(めん)して(建物が建ち)、正面(しょぅめん)には平安座島(へんざじま)、宮城島(みやぎじま)、伊計島(いけいじま)の三島(さんとう)が見(み)える、と当時(とうじ)の様子(ようす)が書(か)かれています。 翌明治(よくめいじ)15(1882)年(ねん)3月1日(にち)、番所内(ばんじょない)に具志川小学校(ぐしかわしょうがっこう)が設立(せつりつ)されました。同校(どうこう)は具志川間切一円(ぐしかわまぎりいちえん)を校区(こうく)とし、教員(きょういん)1名(めい)、生徒(せいと)25名(めい)で始(はじ)まったと言(い)われています。後(のち)に下知役(げちやく)・検者詰所(けんじゃつめしょ)の改修(かいしゅう)を行(おこな)い教室(きょうしつ)とし、学校(がっこう)は番所(ばんじょ)から移(うつ)ったようです。翌年(よくとし)には、安慶名(あげな、安慶名より分離し、現在は平良川。兼原小学校所在地)に校舎(こうしゃ)が建築(けんちく)され、小学校(しょうがっこう)は再移転(さいいてん)します。 明治(めいじ)41(1908)年(ねん)特別町村制(とくべつちょうそんせい)が施行(しこう)され、具志川間切(ぐしかわまぎり)は具志川村(ぐしかわそん)となり、番所(ばんじょ)は具志川村役所(ぐしかわそんやくしょ)と名称替(めいしょうが)えされます。そして2年後(ねんご)の明治(めいじ)43(1910)年(ねん)、村役場(そんやくば、番所、ばんじよ)も、現在(げんざい)の市立図書館(しりつとしょかん)の地(ち)、平良川(たいらがわ)に移転(いてん)しました。 平成16年3月 具志川市教育委員会 ※文化財を大切にしましょう。」

 うるま市田場で、「田場ガー」の場所がわからず困っていると、「田場公民館」前を中学生が通りかかったので、「田場ガーの場所を知っていたら教えてもらいたいのだけど…」というと、「知っていますよ。この道を左に行き、大通りに出たら右方向にしばらく行き、ファミリーマートの前の道を左折すると、左手に見えます」と教えてくれました。具志川東中学校の男生徒でした。「ありがとう」と礼をいい、教えてもらった通りに進むと、「田場ガー」の説明板が見つかりました。カーへの降り口は2箇所あり、小雨のせいか、カーから近くの排水溝へ、勢いよく水があふれ出していました。カーの近くに、復元工事の経緯を記した石碑と歌碑が建てられていました。

参照(うるま市の文化財・市指定文化財 http://www.city.uruma.lg.jp/1/277.html

参照(うるま市立具志川小学校_jp- http://gushikawa-sho.edu.city.uruma.okinawa.jp/

参照(具志川東中学校_jp- http://guhigashi-chu.edu.city.uruma.okinawa.jp/

08-0518 田場公民館

09-0518 田場ガー

10-0518 田場ガー

11-0518 田場ガー

12-0518 田場ガー

「田場ガー うるま市指定文化財第33号「史跡」 指定月日:2005年(平成17年)2月16日…田場ガーは字田場の東側にあり、別名『ウブガー』とも呼ばれ、古くから地域で正月の若水、子供が生まれた時のカーウリー・産水、生活・農業用水等に利用されてきました。 造りとしては湧き口を囲んだ二つの池と水神を祭(まつ)った祠(ほこら)、池の水貯めをするマグサ、歩き道の石敷、二箇所の降り口、洗濯場等からなっております。石積みの技法は正面を相方積(あいかたづ)みでその上部を野面積(のづらづ)み、その左右を切石積(きりいしづ)みで造られています。平成11年に正面上部が一部崩壊しましたが、区民はじめ関係者の努力により平成16年に修復されました。現在も字行事として旧暦正月にカー拝みが行われております。」

13-0518 田場ガー

14-0518 田場ガー

15-0518 田場ガー

16-0518 田場ガー

17-0518 田場ガー

18-0518 田場ガー

19-0518 田場ガー

20-0518 田場ガー歌碑

21-0518 田場ガー歌碑

22-0518 田場泉井

「田場泉井(ガー)…『産ガー』とも呼ばれる。区民が、かつて、飲み水、生活用水として使用していた湧泉である。信仰面では、スディ水として、正月の若水、子供が生まれた時の産水、ウマチーや水ナディーの折に『カー拝』があった。現在でも行事の一部は実施している。 『カー』は、湧き口を囲んだ二つの池と水神の『ホコラ』、『マグサ』、『洗濯場(石)』、歩き道の『石敷』、『シッティ』からな、石積様式は、あいかた積、布積、土留めの上部には小石の野面積みも見られる。市内では最も優れた石造技術で施された『カー』の一つである。 平成十一年、田場泉井(ガー)の正面石積の崩壊にともない、この度、区民はじめ、内外関係者のご協力により『田場泉井(ガー)』の復元工事が完了した。生活用水が水道に変わった現在ではあるが区民の『命の泉』に対する思いを込めて、記念に歌碑を建立する。 平成十五年八月十七日 田場泉井(ガー)復元実行委員長 池宮弘 復元委員長 金城勝美 自治会長 屋比久美代子 揮壱 新垣義夫 歌碑寄贈 (有)中部大理石 『田場泉井ぬ水ぬ 水ゆいがやゆら 田場ぬみやらびぬ 生まり美らさ』」

 うるま市大田、「大田公民館」の近くに、「太田坂」があります。かつて、首里王府から各間切の伝達に利用された、歴史の道です。現在は、敷き詰めた小石の一部が残っており、石畳のイメージはありませんでした。

23-0522 太田坂

24-0522 太田坂

25-0522 太田坂

26-0522 太田坂

27-0522 太田坂

「太田坂(ウフタビラ)…字大田と字川田を通る坂道は、今から約200年ほど前にあかばんた掟(うっち)と玉城親雲上(たまぐすくペーチン)と上門小(いーじょうぐゎー)ビニーの三人の企画と設計で施工され、地元や近隣の住民や資材の協力を得て完成したと伝えられています。 幅員2〜3mで、全長約300mにおよび、琉球石灰岩(りゅうきゅうせっかいがん)を敷き詰めた石畳(いしだたみ)の道で、坂を登ると眺めの良い大田バンタがあります。また、字具志川に番所があった頃首里王府から各間切の伝達に利用された道で宿道として整備された歴史の道であります。」

28-0522 太田坂

29-0522 太田坂

30-0522 太田坂

31-0522 太田坂

32-0522 大田公民館

33-0522 慰霊碑

34-0522 慰霊碑

内兼久山跡(那覇市久米)、焚字炉、泊塩田之跡碑(那覇市前島)

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 那覇市久米、「日本基督教団那覇中央教会」向かいの角に、「内兼久山跡」の説明板が設置されています。琉球王府時代、松尾山から続く丘陵の一部、「内兼久山」があった所です。説明板により、この地域の移り変わりがわかります。

01-0514 日本基督教団那覇中央教会

参照(那覇中央教会 http://cats.dip.jp/

02-0514 内兼久山跡

03-0514 内兼久山跡

04-0514 内兼久山跡

05-0514 内兼久山跡

「内兼久山(ウチガネクヤマアト) 那覇市久米2-15-18…この地にあった小丘跡。寄上森(ヨリアゲムイ)ともいう。 内兼久山は、松尾山(マーチヤマ、現松山公園一帯)から南西に続く丘陵の一部で、久米村(クニンダ)の風水に係る丘であった。名称の由来は、砂地を表す『カニク』に通じ、『内浜の山』といわれる。 『沖縄志(おきなわし)』(伊地知貞馨、いじちさだか著、1877年刊)では、孔子廟(こうしびょう)の後方から南北に延びる内兼久山が描かれる。山の西側斜面に沿って久茂地(くもじ)川の支流が流れ込み、大正初期までは、小舟が航行していたという。この川の河口辺りは『港小(ンナトグヮー)』という地名が残り、浮島(うきしま)であった『那覇(なは)』に久米村が形成された頃、この地が港であったといわれる。 山の中央付近には内金宮嶽(ウチガネクウタキ)、東側には、アーチ型の石門がある内金宮(ウチガネク)の2つの拝所があった。内金宮は、万歴(ばんれき)年間(1573〜1619年)、日本から渡来した重温(じゅうおん)が、弁財天(べんざいてん)を祀るため、宮を建てたという。1687年に宮殿の改修が行われ、弁財天女神が祀られた。また、1708年には、内金宮建立の由来が記された『寄上森内金宮碑文』が建立された。 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)以降は、山の南側に、那覇キリスト教会や沖縄県の官舎が建てられた。昭和期に入り、西麓に日本勧業銀行のテニスコートが造られたが、1940年(昭和15)、テニスコートを含む約1,020坪の敷地に、沖縄県立沖縄図書館が新築移転した。 現在の内兼久山一帯は、1953年(昭和2)から始まった区画整理事業により、山は削られ、公園ができ、住宅が立ち並んでいる。 設置 2014年3月 那覇市歴史博物館」

06-0514 内兼久山跡

 那覇市前島、「那覇小学校」に隣接した「前島中公園」に、「焚字炉」「泊塩田之跡碑」があり、由来を記しています。

「惜字炉(せきじろ)とは、文字を敬って文字の書かれた不要となった紙を焼くための炉 。惜字亭、焚字炉(沖縄の方言で「フンジルー」)ともいう。別名として惜字塔、惜字楼、焚字庫、字庫、焚紙楼、文風塔、文峰塔、敬敬亭。台湾では多く聖蹟亭といい、客家地区では敬字亭と称す。」

引用(惜字炉 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9C%E5%AD%97%E7%82%89

07-0517 前島中公園

08-0517 前島中公園

09-0517 前島中公園

10-0517 前島中公園

11-0517 前島中公園

12-0517 泊塩田之跡碑、焚字炉

13-0517 泊塩田之跡碑、焚字炉

14-0517 焚字炉

15-0517 焚字炉

16-0517 焚字炉

17-0517 焚字炉

18-0517 焚字炉

「焚字炉…一八三八年(天保九年)尚育王の時代に冊封使林鴻年の勧めにより焚字炉が設けられた。沖縄の旧俗では文字を書いた紙片を大切にする様に適当な場所に焚字炉を設けて路傍の紙片はこれに入れて積もった時に焼いていた。 第二次大戦前迄前島小公園には東西に通ずる大通りに面して一基置かれていた。 この地域は製塩人口が多かったが先人達が儒学にも深い関心をもっていた精神を汲み次代を担う青少年に誇りと励みを与える趣旨で再建するものである。 平成四年四月吉日 建立者 財団法人泊先覚顕彰会 とまり会」

19-0517 泊塩田之跡碑

20-0517 泊塩田之跡碑、くつろいでいるネコ

21-0517 泊塩田之跡碑

22-0517 泊塩田之跡碑

23-0517 泊塩田之跡碑

「泊塩田之跡碑…三百有余年の沖縄製塩史日本復帰と共に終る 祖先の偉業を偲びこの碑を建立す 昭和四十七年五月十五日 泊製塩業者 真喜志康盛 浦崎唯治 屋良朝章の子孫 真喜志駿 知念正芳 前島青年代表 金城英隆 大城真吉 我那覇宗次 とまり会 会長 真栄田義見 副会長 又吉嘉栄 副会長 長嶺将真」

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